お嬢と執事の愉快な一日 後編


 ――来た!
 おもわず会心の笑みを浮かべそうになる。見なくたって、桜にはそこに誰がいるかわかっていたからだ。
 無理矢理振り向かされて見たのは、予想通りゴミバケツを踏みぬいた銀髪執事藤原重隆の姿だった。
 いったいどこから飛び降りてきたのか、ゴミバケツはすでに原型がなかった。
 そしてゴミがかなり飛び散ったというのに、またもや物理法則を無視しそのタキシードには埃一つついていない。
 彼はゴミバケツを踏み抜いた足を引き抜くと、一歩足を進めて肩をすくめて見せた。
「まったく、困ったお嬢様ですねえ……こちらは家の真逆ですよ? 私に迷子の世話までしろとおっしゃるんですか」
「ふんだ。普段ろくに仕事をしないぐーたら執事にはちょうどいい仕事じゃないの?」
「また心外な。この仕事の出来る男にひどいおっしゃりようですねえ」
 相変わらずの狐顔を崩さず、重隆は無造作に三人に近寄ってきた。
 それに気づいた誘拐犯Bはポケットからナイフを取り出し桜に突きつける。
「……っておい、俺たちを無視して話してるんじゃねえよ。そこのタキシード、お嬢様が大切なら近寄るな!」
 ぴたりと重隆の足が止まる。
「それでいい。おとなしくしてりゃ危害は加えない」
「……ナイフですか」
「そうだ。お前が少しでも動けばお嬢様の顔に傷がつくぞ」
 誘拐犯Aの台詞に重隆は少し考え込むそぶりを見せる。
 そして実にあっけらかんと言い放った。
「――別にいいですよ?」
「へ?」
 あまりに予想外の言葉だったために、誘拐犯が耳を疑うとばかりに聞き返した。
「だって、顔に傷の一つや二つ、勲章です。くんしょー」
「こら重隆っ、勝手なこと言うな! この若さで嫁のもらい手がなくなったらどうしてくれるのよっ!」
 思わず人質という立場も忘れて怒る桜に、重隆はのんきに笑う。
「その時は私がお嫁にもらってさしあげますよ、だから心配なし!」
 その台詞に桜は声なき悲鳴を上げた。
 常識の通じない重隆の嫁になる……? 冗談じゃない。
「その方がよっぽど心配よーっ!」
 心底の叫びに重隆も不満げつぶやく。
「なんですか、失礼ですねえ。……ああ、それに誘拐犯さん?」
「あ?」
 思いついたように付け足された重隆の一言。その一言に誘拐犯たちが気づいた次の瞬間には、重隆の姿はゴミ箱付近でなく誘拐犯の目の前にあった。
「――油断大敵、ですよ?」
 すぐ側で冷徹に細められた瞳に誘拐犯が恐れおののく。
 こういう時の重隆は、桜でも怖い。
「なっ……お前どうやって……!?」
「しかもこれ……」
 銀色の狐が握り、誘拐犯たちの喉に突きつけているのはなんと包丁だった。
 いつの間に、どこから取り出したのかすら桜にはわからないが、家の台所でよく見かけたもののような気がする。
 この男はとうとう物理法則どころか空間すらねじ曲げたというのか。
「さっきも言いましたとおり、お嬢様の顔に傷がついても私は全然気にしないわけで……」
「お願いだから、ちょっとは気にしなさいっての」
「……おや? いつの間に」
 誘拐犯から逃げ出し、しっかりと自分の後ろという安全地帯に陣取る桜を、重隆はどこか残念そうに見た。
「あなたが包丁突きつけてくれたから、おじさんたちの腕がお留守になったのよ」
「うーん、それはざん……じゃなかった、お疲れ様です」
 こいつ、絶対『残念』と言おうとしたなと桜は確信する。
 つまらないという感情を前面に押し出す重隆に、桜はめまいを覚えた。
 いつも助けてもらっているので文句は言えないが……この男は、本当に自分の護衛の自覚があるのだろうかと疑いたくなる。
 そして本気で残念がっている重隆が、子どもの提案のように「そうだ」とつぶやいた。
 こういう声の時は十中八九とんでもないことだとわかってる桜としては、少し頭を抱えたくなる。
「ねえ重隆、もう帰ろう?」
「じゃあ、せっかくだからこうしましょうか」
「――無視かいっ」
 桜の放った裏拳つっこみをさりげなくよけつつ、「こう」と言うと同時に重隆は懐から何かの瓶――もちろん懐にはいるような大きさではない――を取り出す。
 そして器用にふたを開けると、中身を誘拐犯の頭からかけた。
「ぎゃっ、つめて!」
 中に入っていた液体は、独特の香りを発しながら誘拐犯をずぶぬれにした。
 その結果に満足したのか、重隆は包丁をどこかに放り投げる。
 包丁が無くなったのだからそのまま逃げればいいのだろうに、男たちは蛇ににらまれたカエルのように動けないようだった。
 あたりに立ちこめる香りに、桜は鼻を押さえる。
「この匂い……重隆、これお酒じゃないの。うわっ、くさ! アルコールくさ!」
「はい、お酒ですね。そして取り出したるは……」
 重隆の手に握られているものを見た瞬間、誘拐犯たちが真っ青になる。
 その様子がよほどおかしいのか、重隆のご機嫌ボルテージが一気に上がっていくのが桜には手に取るようにわかった。
「マッチ、ですね」
 ひいい、と誘拐犯が悲鳴を上げる。
 彼らは今、アルコールでずぶぬれ。これにマッチで火をつければ……。
 火だるまになること間違いなしである。
「花火みたいでさぞきれいでしょうね。それでは、点火――」
「す、すいませんでしたあ!!」
 重隆が喜々としてマッチに火をつける直前、やっと男たちの金縛りがとけたのか、酒の匂いをまき散らしながら一目散に逃走し、あっという間にお星様となった。
 それは実に数秒間の出来事であった。人間、やる気になれば出来るものである。
「……なんとまあ逃げ足の速い」
「逃げちゃったね、重隆」
 男たちが走り去った先を見つめ、重隆はちっと舌打ちをした。
「せっかくの人間花火が……おしいことをしました。まったく意気地のない」
 いや、意気地や根性でどうにかなる問題でもあるまい。
 縄で繋いでおくべきだったかなどと不穏な発言を続ける重隆に、桜はこいつに助けられるのは間違いかもしれないと思い始めていた。
「……とりあえず、帰ろっか」
 桜の言葉に重隆もしぶしぶと言った感じにうなずく。
 まるで遊び足りない子どものようだ。
「そうですね。もうおもちゃもないことですし」
「おもちゃ……」
「ああ、おもちゃといえば、帰ったら良いものを差し上げましょう。今日のおみやげです」
「おみやげねえ?」
 いったいどんなものなのやら。
 今までにも、もらったものはいくつかあるが、あんまり普通ではなかった。それがわかってるのに、自分はきっと受け取ってしまうんだろう。
 それでもまあいいかと思っている分だけ、自分はきっとこの男に毒されているのだ。
「きっと気に入りますよ」


 宮越グループビル、最上階――。
 堂々としたデスクと、それと対になる革張りの椅子。その椅子には一人の老人が、膝に猫をのせてくつろいでいた。
「ただいま戻りました、ご主人様」
「帰ったか、重隆。桜はどうだった?」
「わかりきってる答えを聞くのは、時間の無駄でございましょう?」 
 突然響いた声に動じることなく、老人はのんびりと尋ねる。それに対する青年の声はどこか皮肉気であった。
 だがそれを不満に思うこともないらしく、老人は「それもそうだ」と笑いとばす。
「またちゃちな誘拐犯だったのか?」
「包丁を突きつけたらおとなしくなりましたし、火をつけてやろうと思ったら逃げられました。案外意気地がありませんねえ」
「相変わらず無茶をする……お前の方がよほど誘拐犯のようだな」
 からからと笑う老人に、青年も小さな笑みを見せた。
「――ところで、桜はどうだ?」
 先ほどと似たような質問だったが、青年はその意味を口調から取り違えることなく読み取った。
「そうですね……」
 しばしの沈黙の後、青年はにんまりとそれは楽しそうに表情を崩した。
「相変わらず面白いですよ、彼女は。本当に飽きない……あなたと同じぐらいに」
「そうか、面白いか」
 面白い。青年流の最高級の賛辞を聞いて老人はほっとした。
 この青年は面白いことにしか興味を示さない。
 今現在執事をしているのも、老人の愛しい孫を誘拐犯から奪い返すのも、面白いからに他ならない。
 もし青年が孫から興味を失せたら……青年は姿を消すだろう。
 だが『興味』を持っている限り、少女にとっての最高の護衛になるはずだ。
「ああそうだ、さっきも少し仕掛けをしてきたんです。そろそろ来るんじゃないですかね?」
 何をと聞き返す前に、時計を見つめ、秒読みを開始する。
 三、二、一。
「しげたかーっっっ!!」
 バン! という景気のいい音とともに扉が開かれる。
 片手にパンダのぬいぐるみを持った少女は、怒りと闘志をみなぎらせて部屋に入ってきた。そんな孫の姿にさすがの老人も度肝を抜かれる。
 だがさすが青年と言うべきか、彼はいつもと同じエセ臭い笑顔で対応し始めた。
「おやお嬢様。いかがなされました?」
「いかがなされたじゃないわよ! なんなの、このパンダ!!」
 音を立てて机の上に置かれたパンダは、一見とても可愛らしい。
 表情だけでなく、ガーベラの花を持ったそのポーズも愛くるしかった。
「可愛いじゃないか。このパンダになにかあるのか?」
「おじいちゃん……これを見てもそう言ってられるかしら」
 どこかすさんだ笑顔をする孫にちょっとした恐怖を覚えつつ、老人は孫の行動を見つめた。
 少女はパンダを机の上にきっちり座らせると、おもむろにそのぬいぐるみの手をぎゅっとつかむ。
 途端。
《ギシャアアアアアアアアアアアッ!!》
「――っ!?」
 ……奇妙な鳴き声の後、パンダのぬいぐるみの口内に、牙が生えた。
 さっきの愛らしさはどこかに消失し、危険という言葉がぴったりの人相である。
「さ、桜……これはいったい?」
「重隆が改造したの! わたしだって、これを最初に見た時は可愛いと思ったわよ。でも、だからこそ、この仕掛けがいらないのよ!」
 むきーっと怒りをあらわにする少女を、青年はそれは嬉しそうに見つめている。よほど思った通りに事が運んだのだろう。
 それを見ながら、老人はふと思った。
 頑張れ孫! いつか彼に勝てる日まで。
 もしかしたら、一生来ないかもしれないけど、と――。

 そしてまた明日も、お嬢と執事の愉快な日々が続いてゆく。




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