お嬢と執事の愉快な一日 前編


 夢を見ていた。
 まだ両親が健在で幸せだった頃の夢。
 春の陽気のように暖かいあの雰囲気。二度と戻らない家族。
 ――ああ、雨が降り出した。もうすぐ両親が事故で死んだことを知るだろう。
 その数日後には……そう、あの高層ビルに行くことになる。
「お迎えにあがりました、お嬢様」
 そう言って、あの馬鹿が拉致に来るんだ。


 あまりに悪夢に、宮越 桜(みやこし・さくら)はがばりと跳ね起きた。冷や汗が体中にまとわりつき、ひどく気分が悪い。
「うー、嫌な夢見た……」
 額の汗をぬぐいながら、先ほどの夢を思い返す。
 最初は良い夢だった。夢とはいえ久しぶりに死んだ両親に会えたのだから。
 しかし、問題は後半だ。
「……銀髪執事がマッハでチャリこぎ」
 夢のような話だし、出来ることなら夢にしたいが、あの日実際に起こったことだ。
 両親の葬式をすませ、喪服のままぼうっとしている桜の元に現れた一人の青年。銀髪に青い瞳の彼はタキシード姿で颯爽と現れると――事情説明もせず、桜をかっさらった。
 しかも非常識なことに、彼は小脇に桜を抱えて自転車の片手運転で連れ去ったのだ。付け加えるならばそのスピードは普通にこいでいる者より速かった。
 あの日の恐怖を桜は忘れない。自転車のはずなのに恐ろしいスピードで後ろに過ぎ去っていく景色を見送りながら、このままヤクザにでも売られるのかと切なく思ったものだ。
「あー、もー。なぁんでこんな夢見るかな!」
 もっとマシな夢を見ろ、わたしの頭。そうぼやきながらベッドから出ようとした時、カタリという妙な音を桜の耳はとらえた。
「?」
 不審に思いながら音が聞こえた後ろを見れば。
 カタカタカタカタカタカタ
 なぜか小刻みに動き続けるカレンダー。
 そう、ただの、なんの変哲もないはずの、桜好みの可愛らしい子犬の写真でいっぱいのカレンダー。
 それが、誰も手を触れていないのに動いている。
「な……なに?」
 あまりに異様と言えば異様なこの物音と出来事に、桜は警戒しながらもそのまま近寄ろうとそろりと一歩を踏み出した。
 その次の瞬間。
「お嬢様!!」
 大声と共に、なぜかカレンダーの後ろからにゅるりとばかりに飛び出してきた者がいた。
 さらりと揺れる銀髪に青の瞳、そしてその身を包む漆黒のタキシード。
 どこか狐のような印象を与えるその青年の顔は、無意味なほどに爽やかかつ、うさんくさかった。
 飛び出したときに出来たらしいタキシードに付いた小さなしわを、白手袋をはめた手でぴっぴっと丁寧に伸ばすと、びっくりして座り込んでしまった桜の前で、直立不動の姿勢をとる。
「おはようございます、お嬢様。そのようなところに座られて……どうなされたのですか?」
 わざとらしく首をひねる仕草に、桜の怒りが燃え上がる。
「……しーげーたーかーっ?」
「はい、なんでございましょう?」
「なんでございましょうじゃないわよ! いったいあなた、今どこから湧いて出たの?!」
 青年――宮越家執事・藤原 重隆(ふじわら・しげたか)は心外とばかりに元から細い目をさらに細めて見せた。
「これはまた、湧いて出たとは失礼な。私はボウフラではないのですよ? まあ……どこと言われれば、そこ、ですが」
 何か問題でも、とにこやかな表情で青年が指さしたのは、やはり子犬のカレンダーだった。
「大ありよ! 何か物理的に変だなー、とか思わないわけっ?」
「変……とおっしゃいますと?」
「あなたが出てきたそこは壁でしょ! どうやったらなんの仕掛けもない壁の向こう側から、こっちにこれるのよっ!」
 もちろん、壁には隙間などない。要するに、まさに『種も仕掛けもない』のである。
 だいいちここは桜の部屋なのだから『種』を仕掛けられても困る。
「おやおやお嬢様。人を指さしてはいけないと、幼い頃に習いはしませんでしたか?」
「ええい、そんなことききたいわけじゃないわよっ!」
「お嬢様はワガママですねえ」
 なんというか……話がどうにもつながらない。
 これが彼の素なのかそれともわざとなのかはわからない。
 だが、まともな物理法則を持たない彼と、まともな会話をしようというのが間違いだったのだと、桜は大きく肩を落とした。
 そんな心境を知ってか知らずか、重隆はこれまたにっこりとした微笑みで言った。
「お嬢様、さてはカルシウム不足ではありませんか? そんなに怒ると、体にもよろしくありませんよ?」
「……よけいなお世話よ」
 相手にすれば、するだけ自分の疲労が溜まるだけだと気づき、桜は話題を変えた。
「ところで重隆、こんな朝っぱらからなんの用?」
 その言葉に重隆はぽん、と手を打つ。
「ああ、忘れるところでした。お嬢様、玄関でご学友がお待ちですよ」
「――は?」
「ですから、ご学友が」
 思わず枕元に置いてあった携帯電話を手に取る。
 おそるおそる時刻を見れば、午前七時四十分……いつもなら、とうに家を出る時間だ。
「うっそぉ……!」
 携帯電話を持ったままガタガタ震える桜に重隆はとどめをさした。
「はっはっはっ。現実ですねえ」
「うわーん!」


「ああもう、今日は最悪よ」
 ぶつぶつとぼやきながら、桜は家路をたどっていた。
 まず朝はあの恐ろしい夢を見て寝坊し、自分はおろか友人を遅刻させるところだった。
 次に、あまりに急いでたから弁当を忘れた。
 それだけならまだしも、その弁当を届けにまたもや重隆がとんでもないスピードで自転車をこいでやってきたからたまらない。
 彼は土煙を巻き上げながら桜の前で急停車すると弁当を渡し、再びマッハで帰っていった。
「よりによって友達の前であんな姿見せるなんて」
 重隆を見て、驚きのあまり真っ白になってしまった友人の姿が思い出される。
「せめて、せめて普通のスピードで来てくれれば……!」
 だが、あのタキシード姿で自転車――しかもママチャリ――に乗ってる時点で十分目立っているかもしれない。
 そう考えると少し切なくなった。
「こう、なんというか……もっと物理法則に従って生きてもらいたいわよね」
 明らかにはちゃめちゃな存在であるあの執事は、桜にとって一番の謎である。
 あんな人間がいていいのか。むしろあれは人間なのか。
 とは言っても、次のように思ってしまうのも事実だった。
「……あいつがおとなしく物理法則に従うわけないか」
 すでに自分の思考は諦めの境地に達してしまっている。
 あの妙な生物が『藤原重隆』という存在だと認知してしまっているのだ。きっとそんな自分の思考回路も普通じゃなくなってきてるのだろう。
「あーあ、普通が懐かしい」
 両親が生きていれば、重隆という人間規格外と会うこともなかっただろう。
 そして――。
「宮越桜だな?」
「悪いが、俺たちと来てもらおうか」
 ……こんな風に誘拐にあうことだってなかっただろうに。


「ほら、はやくしろ」
 こういう時、抵抗することがなおさら危険だということを、祖父に引き取られたここ一年で何回か誘拐されかけて、桜は身をもって知っていた。
 何も言わずに黙っていれば、腕を両サイドからつかまれる。
「ずいぶんおとなしいな。……まあその方が都合も良い。さ、こっちだ」
 そのまま誘導され家とは違う方向に歩かされ始めた。人通りの少ない方へと着実に進む。
 左右に男が一人ずつ、サングラスで顔はよくわからないが目的はわかった。
 はーっ、と大きくため息を一つ。
「おじさん方、身代金目当て?」
 それまで黙っていた人質――多分怯えて口もきけないのだと思われていたのだろう――がずいぶんと横柄な口調で喋ったからか、誘拐犯Aはとまどったようだった。
「そ、そうだ。宮越グループになら、金なんて腐るほどあるだろう?」
「まあ、ねえ……」
 確かにそれは事実だ。
 宮越グループ……それは『揺りかごから墓場まで』というキャッチフレーズが作れるほどの多角経営を持つ大会社の名である。
 言葉通りベビーベッドも作ってるし、墓石も売っている。
 その宮越グループの頂点に立つ者こそ、宮越 十三郎(みやこし・じゅうざぶろう)……桜の祖父である。
 桜の父親は十三郎の一人息子だったが、周囲に結婚を反対され恋人と駆け落ち。そして生まれたのが桜ということらしい。
 もちろん金持ちの特権を活かし、息子夫婦の居場所などとっくに調べはついていたが、生来の性格が邪魔をしすぐに許すことが出来なかったという。
 だから桜は祖父の存在を知らず、坊ちゃん育ちでおっとりとした父と、幼い頃から貧乏でアネゴ肌な母とで、十六年間家族三人で幸せに暮らしていた。
 そんなこんなでもたついているうちに夫婦は事故で他界。そこでただ一人残った孫の桜を引き取るべく、祖父は重隆を派遣。そして夢の通りに事が運んだわけである。
「あれも一種の誘拐よね」
 事情もせずに力業で祖父の元に連れて行くなんて……あれを誘拐と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
 一人納得してうなずけば、右の男が腕をつかむ手に力を入れた。ぎりりと腕がきしむ。
「おい、ごちゃごちゃ喋るな」
 音を立てた腕が痛い。だが、痛そうな顔なんてしてやるもんかと桜は心に決めていた。
 意識して不敵な表情を表に出す。
「あらごめんなさい。でも……」
「でも?」
 いぶかしげな男の声に、桜は予感を感じて唇をにぃっとつり上げた。
「そろそろ、来ますよ?」
「なに?」
 とたん三人の背後で、ずがらしゃん! とバケツをひっくり返すような音がした。




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