昼休みの時間に、Y新聞の函館地方版の記事を眺めていたら、ドンドンドン!と、インパクトの強い、見覚えのある活字が目に飛び込んできた。
『「赤い靴」少女像に募金を』
赤い靴・・・?
募金・・・?
その記事を整理すると、つまりこうだった。
「はこだて赤い靴の会」では、函館にゆかりのある童謡「赤い靴」(作詞:野口雨情、作曲:本居長世)のモデル「岩崎きみ」のブロンズ像を、函館出身でローマ在住の彫刻家「小寺真知子」氏へ制作依頼して、今年6月に函館西部地区の金森倉庫付近に建立する予定であり、その建立費用約1,500万円の募金協力を呼び掛けている。
童謡「赤い靴」についてはすでにエッセイ「赤い靴」として掲載しており、そちらをご覧いただければおおよその内容が理解されるものと思われるが、簡単におさらいだけ。
「赤い靴」のモデルとなった「岩崎きみ」は、1902年に静岡で生まれた。
3歳のときに、今でいう「バツイチ」の母親とともに北海道・函館へ上陸したが、長旅の疲れから、身体が衰弱しきっていた。
母親は、きみを函館で布教活動していたアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻へあずけ、倶知安の農場を目指すことになるが、これが母子の永遠の別れとなってしまう。
夫妻は、アメリカへ帰国することになり、きみを連れて東京へ向かう。
が、そのときすでに彼女は結核となっていた。
きみをアメリカへ連れて帰ることができなくなったので、夫妻は東京・麻布の鳥居坂教会の孤女院へきみを残し、そうして横浜から帰国した。
きみはその後、2年もの闘病生活をつづけ、その孤女院でひとり寂しく天国へ旅立つことになる。
1911年9月15日のことだという。
きみの母親は再婚し、札幌へ移住するが、その移住先で知り合った野口雨情に、函館でアメリカ人宣教師夫妻に娘をあずけたので、今ごろはおそらく横浜から船に乗ってアメリカへ渡り、幸せに暮らしているであろうことを話す。
雨情は、それを歌にした。
それが童謡「赤い靴」であった。
が、事実は前述のとおり。
歌とは全く違う、きみのたった9年間の悲しい人生だった。
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「赤い靴」にちなんだ像は、横浜・山下公園、東京・麻布十番、北海道・留寿都(るすつ)村と小樽、そして生まれた場所の静岡・日本平にそれぞれ建立されているが、今度は函館にも建立されることとなる。
小寺さんといえば、函館元町公園に建立されている「黒船」のペリー提督像を手掛けた彫刻家としても有名であり、制作される「きみちゃん像」が今から楽しみではあるが・・・。
が、問題は、まず募金額だと思う。
1, 500万円という金額が、この不況色濃い今現在、果たして集まるのだろうか。
また、確かに小寺さんの「きみちゃん像」は函館市の新たな宝物となるに違いないが、日本中に「きみちゃん」をモデルとした像が前述のとおりこれだけあるという事実をどう捉えたらいいのだろうか。
僕個人としては、確かにゆかりのある函館にもほしいことには異論がないものの、客観的に考えれば、横浜と東京だけで十分ではないかと思うし、一歩踏み込んでみても、横浜のみでいいのではないかとも思っている。
それに、よくよく考えれば、函館は彼女が母親から「見捨てられたマチ」でもあるのだから、いくらゆかりのあるマチとはいえ、彼女の心境を察すればかわいそうな気がするのは僕の考え過ぎだろうか。
そして、一番の心配ごとは、建立計画のある像のコメントをどう記すのだろうかということ。
『母親と永遠の別れとなったマチ』
とでも記すのだろうか。
「はこだて赤い靴の会」の皆さんの想いはたしかに理解できるのだが、おそらくそこまで考えているのだろうか・・・。
そういうふうに考えていくと、僕は募金箱に募金すべきなのか、ものすごいジレンマに陥っていることは間違いない。
★★★★★
彼女の像が建立されているひとつの東京・麻布十番では、毎年のように行事が催されており、かつ、世界の恵まれない子供たちのためのユニセフ募金が設置されているので、それなりの使命が果たされているようであり、その存在感はすごいと思う。
函館のそれもそのくらいの存在感があればと思うのだが、単なる観光都市での「赤い靴のきみちゃん像」になってしまう懸念もある。
個人的には、横浜の港からアメリカを望む彼女の像こそが、ロケーション的には一番マッチしているのではないだろうかと思えるし、「赤い靴」の歌詞から連想すれば、「ヨコハマの波止場から・・・」と歌われているので、やっぱり横浜が一番なんだろうなと思うんだけど、新潟のえこさん、どう思う?
今年の6月に、晴れて「赤い靴のきみちゃん像」が披露されたら、見にくるかい?
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