その1


8時45分から12時20分までの午前中の授業のなかで、たった一度だけある、20分間の休憩。
その休憩時間を知らせるチャイムが鳴るか鳴らないかのうちに、教室の中にいる私たちの耳に聞こえてくるのが、ザラザラとした雑音混じりの唄なし音楽だ。

「今日も時間に正確だなぁ」と呟きながら、毎度チラリと右手首の腕時計に目をやるのは、なにも教師のジムだけの儀式ではない。私たち学生も、意味なく腕時計をのぞきこんだりしながら、ふ〜うッと大きく息を吐き出すのだ。そして、テキストやノートを閉じたり、シャープペンシルのアタマをノックしながら芯を指先で押し戻したりと、なかなかに賑やかに忙しい。
やっとやっとの、休憩時間だ。

その音楽のヌシは、月曜日から金曜日までの毎日、この学校の休憩時間に合わせては、必ずやって来るケータリング・カーだ。だだっ広い駐車場にケータリング・カーが停まると同時に、その騒がしくも賑々しい音楽も、ピタリと止む。

改造したステーション・ワゴンの右片側と後部をはね開けると、その中はちょっとしたスーパーマーケットの食品売場のようである。
何種類ものポテトチップスの小袋やチョコレートなどのお菓子類はもとより、リンゴやバナナ、コーヒーが入ったポット、ティーバック用のお湯入りポット、コーラやジュースといったお馴染み飲料系のボトルや缶、10種類に近いドーナツ、ホットドッグや有名パン屋さんの特製サンドイッチ、ブリトーやタマリといったメキシコ系食品、それに紙箱入りの某中華料理チェーン店の焼きソバやチャーハン、韓国風海苔巻までもが揃っている。サラダを入れたパックだって、何種類もあるのだ。
つまり、この辺りの人々が気軽に普通に口にする、朝食や昼食のメニューと食後のデザート類までが、ほとんど揃っている、というわけである。

大部分の教師や学生、そして事務所の人たちも、休憩時間用のコーヒーやドーナツ、ランチ用のサンドイッチなどを、この時に手に入れる。
私たちは山と積まれたものの中から自分の選んだスナックや飲み物などを取り出したり、発砲スチロールのカップに、ポットからなみなみと注いだコーヒーなどを手にしたりして、車からちょっと離れた場所に立っているオジサンの所に行く。
オジサンと云っても、多分、私よりは何歳も若いはずだ。

運転手兼販売員のオジサンが、一人、てんてこ舞いなのは毎度のこと。
オジサンは驚異的な速さと正確さで暗算をし、お金を受け取り、お釣りを渡す。
計算に手間取る人が多いのが当たり前なことに、もうとっくの昔に慣れてしまっている私には、オジサンのその素速さは、まるでマジック・ショーの一場面のようにも見えてしまう。
レジを打たず、計算機も使わず、まして指を折っての勘定もせずに、あんなにも素速く正確な計算が出来る人が、この国には一体全体、何人ぐらい居るのだろうか? 

ある日、私の近くで順番を待っていた一人の教師が、「Hi!」の後に続けて云った。「なんていい日なんだ。そう思わないかい?」。つまり、日常的に口をついて出てくる挨拶を付け加えたわけだ。
でもオジサンは無反応。声をかけた当人は、無視されたのではと憮然としていたけど、オジサンは自分に云われたことさえ、気付かなかったに違いない。
なぜなら、目の前に無秩序に差し出される商品とお金の受け渡しで精一杯、集中力がちょっとでも途切れれば、そこがカオスと化すのは確実なのだもの。

黙々と仕事をこなすオジサンが、毎日何度も繰り返すのは、「20ドル紙幣は受け取れないよ」と「英語を使ってくれ」の、二つである。
20ドル札を受け取ったら釣り銭が足りなくなるし、スパニッシュで話しかけるのを許したら、それこそ収拾がつかなくなるのは目にみえているのだから、納得だ。

私たちの学校が、レドンドの浜辺にほど近い公立高校の、その校舎の一画を間借り状態から、廃校になった公立小学校へと全面移転した今では、ESL 全クラスを見渡したところ、学生の80%近くがスパニッシュが母国語の人たちになってしまっている。そして、そのうちの大半が、隣の国からやって来た人たちのようだ。勿論、彼らの身分は留学生ではなく、この ESL設置の、その本来の目的に合致する人たちであるから、授業料は、私たち留学生と違って、ただ。
幸か不幸か分からないが、私の午前中のクラスには、隣の国から来た人は、まだ、一人もいない。

彼らはとても明るい。やけに明るい。
そして、同国人とだけ、スパニッシュで話すのが大好きなようだ。
自分の後ろに、順番を待っている人がいようがいまいが、お互いに大声で声を掛け合っては、誰彼となく同国人の友人たちを割り込ませてあげる。
そして、飲み物や食べ物が、整然と綺麗に並べられたところから、無造作にモノを掴みだす。オジサン苦心の、美しくも秩序だった配列が、目の前で崩れて悲惨なことになったとしても、そんなことを全く気にする気配はない。きっと、自分たちだけの世界を、作り上げてしまっているのだろう。

私にぶつかったって、そのせいで熱いコーヒーが私にひっかかり、「アッチィッ!」(こういう一瞬の反応って、どうしても日本語になっちゃうんですよねェ、悲しいことにはさァ…。)と、私が悲鳴にちかい声をあげようが、お構いなし。
多分、自分たちの作りあげた世界にドップリとはまり込んでいて、気づかないのだろう。そう、私は思いたい。

その調子でオジサンの周りを取り囲んでは、順番も何も考え無しに、何人もが手に手に持ったものを差し出しては、スパニッシュで「これは幾らか? じゃぁこっちは?」なんてことが続くのだから、オジサンが「英語えいご! 英語を使ってくれよな!」と、ちょっぴり大声で怒ったように云うのも、無理はない。
それにもめげずにスパニッシュを使いまくるのだから、彼らの母国語に対する誇りの高さには、ほとほと感心するしかないようだ。
 
クラスメートの一人がある時、感にたえたようにボソッと、こう云った。
「あの人たちってホントに楽しいだろうね。毎日さぁ、友達に会いにここに来てるみたいだし、いつまでも同じレベルのクラスを出たり入ったりで、無理ってもんをしないよね。いいよねぇ、いいなぁ、あんな風にずーっと生き続けられたらなぁ」。
モグリのアルバイト、それも足もとを見られての時給5ドル程の稼ぎの大半を、CDに注ぎ込んでいる、このミュージシャン志望の留学生である彼の言葉は、皮肉ではなく、心底、羨ましそうに私には聞こえた。
時々、正直、ふっと私も、そう思う。




その2


事務所も含めた校舎は、ちょうど平行線を引いたように建てられた二棟で、それらは、一本の渡り廊下で繋がれている。そして、時々ちょっとした学内パーティなどにも利用する、小学校として使われていた時には屋内体育館だった一棟が、校舎とは少し離れてはいるが、二棟とちょうどコの字型を形作るように配置されている。
それが、私が通う移転後の学校である。

この三棟に囲まれた空間は、中央にそびえ立つ一本の巨大なプラタナス以外は、全面、いつも手入れの行き届いた芝生に覆われおり、そしてそれは、カルフォルニア特有の、すっぽ抜けた感じの高い青空と、サンサンと照りつける太陽の下、一年中、なんともいえない、心地よくも素敵な空間を作りだしているのだ。

そしてその空間の一画には、スチール製の大型ベンチが一つと、真ん中に日除け傘を立てた、大きさの異なる白く塗られたスチール製の丸テーブルが三つあり、それぞれのテーブルを取り囲んで、テーブルの大きさに見合った数のプラスティック製の白い椅子が置かれている。休憩には最適の場所だ。

さて、その休憩には最適な場所は、いつの間にか、スパニッシュ・スピーカー、それも隣の国から来た人たちの、占有場所のようになっている。
休憩時間には、ケータリング・カーで買い込んだばかりの様々なものが、一番大きなテーブルに所狭しとドーンと置かれ、それを中心に、ほとんどの椅子が一気にしかも雑然と集められた、そこは彼らの臨時パーティ会場と化すのである。

彼らのほとんどが、毎日は学校にはやって来ないからだろうか、情報交換やらなんやかや色々とあるのだろう、まあ本当に賑やかに、楽しそうにやっているのだ。
きっとあまりに楽しいからだろう、休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、目の前を担当教師が通り過ぎてもなんのその、その場に居続ける人も少なくない。そしてまた情報交換の不十分さにでも気づくのか、後半の授業に出ている友人に、声をかけに行く人までいる始末である。
 
ある日のこと、大半の生徒が隣の国から来た人たちで占められた、ベッキー担当クラスの黒板の上の壁に、こんな注意書きを書いた紙が貼られた。
「級友の発言には耳を傾けよう」
「英語を話そう」
そして、トドメのひとつは、
「授業中の友人との会話は教室の外で!」
何だ!? これは…一体全体なに??
私がとっさに思い出したのは、小学校時代の、きまって黒板の端っこに書かれていた、「今週の目標」である。日直の名前と共に書かれたそれは、ほとんど誰も気にしなかったし、毎週書き直されても、いつもいつも同じ様な言葉だった「今週の目標」。
それと比べても、ちょっと変だ。いやいや、比べることさえ、かなりおかしい。

休憩時間の小パーティの痕跡は、テーブルの上に残された、たくさんの空ボトルや缶、見るも無惨なほどに、ぎゅうぎゅうに食べ残しが詰め込まれた発砲スチロールのカップや紙パック、クチャっと丸められた無数の紙ナプキン、そしてあちこち勝手な向きにされたままの椅子によって、はっきりと残される。
「楽しそうな人たち」は、どうも「片づける」という行為が苦手な人たちでもあるらしい。

だから、午後の授業に出席する私たち留学生は、ランチをその場所でとろうとすると、まずは椅子を本来の場所に戻し、山のようにテーブルに残されたものを、ゴミ箱に捨て、テーブルの上をティッシュペーパーなどで拭いてから、ということになる。
しょうがないなぁ全くッ、と文句を云いながら片付けていても、毎日それが続くとなると、さすがに腹も立ってくるのは、仕方あるまい。
 
思いあまった私は、自分が大爆発をするまえにと、ある日、チャイムが鳴ると同時にその場に出向いた。そして、いつものように散らかしっぱなしのまま、そこを立ち去ろうとしていた彼らに向かって云った。初めから喧嘩腰ではマズイので、優しくゆっくり、でも、大声でハッキリと。
「ちょっと聞いてよ。あそこにゴミ箱があるの、知ってるのかしら?」
と、ゴミ箱を指さす私を、彼らはポカーンとした顔で一斉に見た。その表情からは、悪意などというものは微塵も感じられない。ただ、何をわけわかんないことを云ってるんだ?この人だれ?と、あっけにとられているように見えるだけだ。
そして、何人かは、私の指さした方をゆっくりと振り向くと、そこにゴミ箱というものが存在することを、初めて知ったかのように見つめたのち、何か重い物でも運ぶかのような足どりで、ゆっくりと捨てに行った。また何人かは、あんたの喋ったのはスパニッシュじゃないからわからん、とばかりにグチャッと丸めたものなどを残したまま、悠然と立ち去って行った。

QUE? 何、ナンなんだ!
怒る気にもならず、ただただ脱力感におそわれ、目眩のようなものまで感じてしまった私が、一人ポツンと、そこに取り残されただけだったのは、云うまでもない。

先入観や偏見を持たれて、私を見られるのは、日本に居る時だって、とっても嫌だ。辛いし、腹立たしいことこの上ない。誰だって、何処の国の人だって、きっとそれは同じだろうと思っている。
だからこそ、ここで生活しているなかで、否応なく、色々と耳にしたり目にしたりすることも、特別な人が、特殊な行為をやってるのだと、思い込ませようとして来た。
ある国の人の、理解不能のナンカ変だな? と思うことに度々遭遇しても、それは決して、ある国から来た人たちの特徴とは思わないようには、して来たつもりだ。
けれど、こんな風な「楽しそうな人たち」に対しては、ちょっと、そう思い続けるのは、もう、無理になって来ていたかもしれない、私。


さて、学校の裏手、かつての小学校の運動場は、そのまま駐車場になっている。校舎近くに障害者専用を確保した以外は、全く白線も何も引かれていない、だだっ広いただの広場である。
学生たちは、ほとんどここを利用するが、メインの通りに面した校舎の正面にはもう一つ、通りに向かって張られたフェンスに対して、白線できちんと区分けされた小さな駐車場がある。教師や事務所の人たちには、別に専用の駐車場が用意されているから、ここもまた学生が自由に利用できるわけだ。

しかし、この小さな方の駐車場のなかで、10台に満たない数ではあるが、常に白線区分を全く無視して停められた車がある。それらが、運転が下手で白線内に入れられなかったのではないことは、はっきりと読みとれるのだ。なぜなら、どうにかして白線の中に入れようと試みたが、そうなってしまったという、必死さや可愛らしさというものが、全く感じられないからである。
フェンスに平行するかのように、大胆かつ無秩序に、他の車の出入りに対する配慮というものも一切なく、ただそこに、車が「置いてある」のである。

いつの頃からか、私はその無秩序駐車が視界に入ってくると、説明のつかない気分の悪さを感じるようになっていた。イライラするのとは違う、ある種「不安感」といってもよい、そんな感じのものだ。
引かれた白線とその意味に、こんなにも無頓着でいられる人が当たり前なのか?
それが気になる方がどこかヘンなのか? なんだかとても落ち着かない、いやーな感覚だ。それをするのが全員がスパニッシュ・スピーカー、それも、隣の国から来た人たちだ。
 
ある日のこと、例によって数人の留学生と一緒に、ランチ前恒例のテーブル掃除をしていると、教師のベッキーが通りかかった。
「オッ、やってるね」と、笑い声をたてながら云う彼女に、つい私は愚痴った。
「どうしてこうなんだろうね、わかんない。それにさ、あの駐車の仕方、最悪!」。
彼女は明るく軽やかに、こう云った。
「そうなのよね。授業が終わった後の、私の教室のなかを覗いてごらんよ。机と椅子をキチンと整えてるのは、私。あ、ゴミも捨ててるなぁ。車はさ、後ろの駐車場に停めればいいじゃない、いつもガラガラなんだから。見るな見るな」。
私が大仰に肩をすくめながら云い返したのは、「ベッキー、もう一つ、新しい標語を書いて貼るべきだね。整理整頓、ゴミは自分で捨てましょう!」。

私のように、こういった細かいことが気になっていたら、今やこの学校の教師、ましてや、大半が隣の国から来た人たちで占められてしまったクラスの担当教師なんて、務まらないのかもしれない。
しっかし、私は、あの人達が残したものの後片付けなんて、いつまでもやってらんないよぉ! 真っ平御免! ベッキーのようには、笑ってなんかいられない。
この素敵な空間でのランチは心地よいのだけど、もう、それも止めるしかないんだろうか? いろんなことを、見ないようにしよう!気づかないようにしよう!
そして、私のクラスに、隣の国から来た人が、入って来ることがないよう、心から念じよう。


多分、彼らのこうした傍若無人ともいえる無秩序さに腹が立たなくなったら、私も、きっと隣の国から来た人たちのように、不法入国・不法滞在もなんのその、楽しく逞しく、生きていけるようになるのかもしれない。
しかし、一瞬でもそう思うことがまた、説明のつかない不安感を増幅させるのも、事実なのだ。
はぁ〜っ、と深いふかーい、ため息。





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