その1


前々回そして前回と、私がため息混じりに書いた内容にも通じる、隣の国から来た人たちに関するナンダカヘン話は、数限りなく耳にした。何だなんだぁまたかよぉ…という感じさえするほどだ。
そんな話の中には、彼らに対する偏見に基づいた話や作り話も、当然のごとくあるはずだし、どこまでが本当にあった事で、どこからが尾ひれの付いた噂なのか、判断するのはとっても難しい。
しかし、私が信用している親しい友人知人が、実際にナンダカヘンに遭遇したとなれば、これはもう、かなり話は違ってくる。
余りにあまりな話すぎて、呆れ返るまえに、笑ってしまうかもしれないが、それはそれで、隣の国から来た人たちの、ある共通する一面を象徴する話ではある。
そしてもし、読んでくださるあなたが、彼らはどうしてソウなのかを考え始めたら、それはもう、答えの見えない蟻地獄。そんな話を、これから幾つか書いてみようと思う。


ロサンゼルスで出会い、今も親しく連絡を取り合う日本人は何人かいるが、マキもそんな友人の一人である。
彼女は当時、TOEFULの点数には比較的厳しい、サウス・ベイ地区では名の知れたコミュニティ・カレッジで、経済学を専攻する学生だった。
このマキとは、移転前のアダルト・スクールの、駐車場脇にひっそりと設けられた喫煙場所で、突然声をかけられて以来の付き合いだ。
「あんた日本人なんだって? 東洋系なのは判るけど、いつ見ても、色んな国の人とお喋りしてるから、何処から来たんだろうって、なんだかずーっと気になっていたのね。気になってしょうがないからさ、あんたのクラスメートに訊いちゃったぁ。あ、日本語で話してイイかしら?」

このマキという女性、日本人らしからぬ変な日本人と、教師たちにまで云われてしまう、この私から見ても、かなり変わったところのある人だ。しかし、ハッキリとした理由は分からないが、初対面から、やけにウマが合うところがあった。
彼女、背はさほど高くはないが、抜群のプロポーション、それに誰がどこからどう見たって、かなりの美人である。
決して出しゃばることはないが、学校行事などでは率先して、リーダーシップを発揮する。それに、聞く人が聞いたら自慢話になりかねない個人的な背景や、どうでもイイ余計なことは、話の流れで余程のことがない限り、口にしない。しかし、何か意見があれば、誰に対しても気持ちのイイほど、ハッキリキッパリとモノを云う。気っ風が良くて、とにかく面倒見も良い。

と、まあ、自分のことは棚に上げ、嫌らしいほどオンナには点数が辛いと、悪評紛々の私でさえ、彼女の減点部分を探すのが一苦労というほどの、一口に云って、姉御肌のイイオンナ。
そんな彼女は、30歳目前にして、突如、アメリカ留学を決心した。前職は、ホステス、それもかなりの売れっ子ホステスだったようだ。

マキの出身高校は、日本に住む人なら、多分誰もが一度は耳にしたことがあるだろう、超難関有名お嬢様学校でしかも受験校。
彼女が云うには、そんな環境のなかで、様々な疑問に突き当たり、これは早めに社会に出よう、大人社会の裏表を早く知るべきだ、と大学進学を止めたという。
それが、どうしてホステス稼業に結びつくのかは、私にも詳細は解らないが、とにかく、ホステスになろうと、思い込んだ。

当然のごとく、手広く商売を営む両親は泣くは喚くは、マキの進学断念を諦めきれない担任教師は、卒業式後の謝恩会の席上でもまだ、「今からでも遅くはない。君の成績なら、系列の大学でよいのなら、どの学部でも君の行きたい所に、僕は責任を持って押し込められる。思い直せ、考えなおせ」と、それはまあ、凄まじい騒ぎだったとか。
しかし、日本一のホステスになる、という彼女の強い決心は揺らぐこともなく、高校の卒業式翌日には、セーラー服をボデコン・スーツに着替え、名の知れたバーのホステスとして働き始めた。

そして、10年以上、マキは「お水の世界」で生き抜いて来た。
しかしその結果はというと、吐血するほどに、重症の胃潰瘍を患うことになったのだ。
彼女は入院中のベッドの上で、来し方行く末に思いを馳せた。そして閃いたのは、日本脱出、アメリカへGo!

そんなマキを心配した彼女の母親は、ロサンゼルス在住の旧友に、こっそりと娘の連絡先を知らせ、時々でよいから娘の様子を見てくれるよう、頼んだらしい。
その母親の友人は、いくつかの著名な日系企業が点在し、日本人駐在員が多数居住している地域で、割烹料理屋を営んでいた。マキのアパートやカレッジからも、車を使えば、そう遠くはない場所である。

カレッジに合格後、母親の友人は、マキに店を手伝わないかと声をかけた。従業員が突然に休んだ時や宴会予約が入っている時に、ウチの店で小遣い稼ぎをしなさい、という訳である。
勿論いくら手伝いとはいえ、学生ビザの身分で、割烹料理屋で働き賃金やチップを受け取るのは、完全な違法行為だから、移民局にバレれば、それこそ、店ともども罰せられるのは確実だ。
しかし、多かれ少なかれ、同じようなことをやっている飲食店がほとんどで、魚心あればナントカでもあるらしい。ちなみに、飲食店に限らず、移民局の摘発を受けるのは、同業者の嫉妬によるタレコミによるものが、圧倒的に多いことは事実のようだ。
まあそんなわけで、マキにとっては、果てしなく安全圏に近い、チップだけでもかなりの稼ぎになる、不定期もぐりアルバイトではあった。


さて、その割烹料理屋では、ご多分にもれず、メキシカン男性が二人、厨房で下働きをしていた。
店の女将は、彼らが解ろうがわかるまいが、そんなことは一切お構いなしで、全て日本語で用事を云いつける。何十年にも渡る滞米生活だというこの女将、日本人相手の商売一筋のせいなのだろうか、全くと云っていいほどに、英語が使えない。そんな女将のおかげで、彼ら二人は、片言の日本語が話せた、という。
 
ある日、若い方の一人が、マキを厨房の隅にそっと手招きした。いぶかりながらも近づいた彼女に、
「マキ、君もこれを手に入れればいいよ。心配ないよ」
と云いながら、大事そうにジーンズのポケットから取り出し、彼女の目の前に突きだしたのは、なんと、「グリーン・カード」。アメリカに永住したい者にとっては、今や、手に入れるのが非常に困難な、それこそ憧れの的、高嶺の花である。

ソレを見た彼女、クラクラと目眩のようなものとともに、頭ン中が渦を巻いたのは、彼が予想もしなかったグリーン・カードを持っていたからではないし、続く、
「免許証は 100ドルから 150ドル位かな。グリーン・カードはちょっと高くて400ドルは払わないと駄目だよ。紹介するよ」
と云った、その彼の台詞にでもない。

ちょっと見には、本物に見えないこともない、その「グリーン・カード」だが、そこに貼られた写真が奇妙すぎた。正面を向き無帽ではあるが、ニッコリと歯を見せたソレは、どこかピクニックの最中にでも写したらしい、どう見ても素人カメラマンの手になる、スナップ写真だったからである。
いくらなんでも、そりゃぁ、ないぜ。

吹き出しそうになるのを必死でこらえ、丁寧にお断りした彼女に、年輩の方がその日の帰り際、わざわざ駐車場に追いかけて来て、こう云ったそうだ。
「あいつ、ひと儲けするつもりだったな。×××公園に行けば、簡単に買えるよ。あいつが云った程には、高くはないさ。紹介しようか。ただし紹介料は貰いたいな」。

それから程なく、若い方の一人が突然、姿を消した。
餃子作りに加え、豆腐の賽の目切りを得意としていた彼を、女将は、メキシカンにしては遅刻も少なく真面目に働くと、目をかけていたという。
女将は、心配した。
電話一本もかけること無く店に現れなくなったのは、何かとんでもないことに巻き込まれたのでは…、と気をもんだのである。
それは、店の客の車に起こった突然のトラブルを、いとも簡単に解決してしまう彼に関する噂が、大いに関係していたらしい。

それは、キーが無くてもチョコっとドコかをいじるだけでエンジンがかかった、日本車に妙に詳しい、「手慣れてるなぁ。まさか商売じゃないだろうな?」と云ったら、あのお喋り男が黙りこくった、ヘンだ怪しい。もしかして、日本車専門の部品窃盗団の一味か、などといった、半分は冗談だが、妙にリアリティのある噂話の数々ではあった。
事実、日本車は盗まれやすく、かなりの中古車でも、妙に窃盗団には人気があるらしい。ほとんどは、盗まれたその日のうちに、国境線を越えてしまうらしいが、盗まれた数週間後に、蝉の抜け殻のようになったボディだけが、とんでもない場所に放置されていたのが発見された、という話も多いのだ。
安くはない車輌保険料を考えると、ボディだけ見つかった日には、保険金はその分さっ引かれてしまうので、盗まれた本人は泣きっ面に蜂の、悲惨なことになる。

しかし、女将の心配は、杞憂に終わった。
姿が消えて二ヶ月程たった頃、何もなかったかのように、まるで昨日の続きのように、突然、彼は店に現れ、悪びれることもなく、また働き始めた。
女将が何度も事情を尋ねても、
「ちょっと向こうに用があった」
とだけ、笑みをたたえながら答え続けたそうだ。

何度こうして、向こうと此方を行き来しながら、生活してきたのだろう? そして、そんな危険な綱渡りのような生活を、いつまで続けて行くのだろうか? 
ふと、そんな風に真剣に考えてしまうのは、きっと私が、明日の生活にも困るメキシカンではないからだろう。彼らの大半は、いたって明るく逞しいのだから。
下働き、低賃金をいとわなければ、なんとか仕事にありつける、このカリフォルニア。貧しいメキシカン達にとっては、ほんの数歩で手が届く、夢のような国ではある。

そしてまた、元々この土地は、メキシカンのものだった。それを、グリンゴつまりヤンキーが、勝手に国境線を引いたのだ。我々がココに住むことは、なんら非合法なことではない。そう、声高に云い切ってアジる、過激な活動家もいるくらいだ。
しかしなぁ、それは難癖、言い逃れとしか思えないのは、それもまた、私が貧しいメキシカンじゃないからだろうか?

さて話をもどすと、再び店に姿をみせた彼にとって、今回のアメリカ入国は特別なものだった。
国境警備隊の目を盗んだり、怯えたり恐れたりする必要はなかったし、なけなしの金を、騙されることも多いという、コヨーテと呼ばれる密入国の斡旋・手引き屋へ、1セントたりとも払う必要もなかったのだ。
なぜなら、彼にとっては、生まれて初めての、合法的なアメリカ合衆国への入国だったからである。
彼が携えたメキシコ合衆国発行のパスポートは、まぎれもなく正真正銘「本物」のパスポートであり、堂々と胸をはっての国境越えであった。
が、しかし、今回もまた、アメリカで合法的に働くには必要不可欠の労働ビザを、彼は取得してはいない。




その2


『アメリカ合衆国に住みたいあなたへ 永住権取得までの道のり Q&A』。
そんな感じのタイトルのHOW-TO本が、もしあったとしたら、モデルケースの一つとして、きっと載るような過程を歩んで来た、一人の日本人男性がいる。
名前はナオト、私・「うふふッ」の実弟である。

彼は高校を卒業して一年半後、一張羅のスーツを着こみ、大勢の友人たちのヤケッパチのような歓声に送られて、単身、羽田空港から旅立った。
荷物は、愛用のギターとハーモニカ、そして、たった一個のスーツケースだけ。
所持金はといえば、彼が絵のデッサンを学びながら、様々な肉体労働で貯め込んだ金と、伯母から貰ったお餞別と親からの援助金。その親から受け取った援助の金も、私の大学入学時に支払ったのと全く同額で、それほど大した金額ではない。
懐が寂しいとは云えないけれど、知り合い一人コネもナニも無し、観光ビザでのアメリカ行きは、彼にとっては勿論、初めての日本脱出だった。
ベトナム戦争はまだ終結には至らず、日本では全国の大学の「全共闘」で、かつての華々しい闘いに陰りが見え始め、最期の時を自ら早めるかのように深く潜行していた何かが、表だって蠢きだしていた、そんな頃のことである。

ご多分にもれずこのナオト、当時はまだまだ名門校として名を馳せていた某都立高校在学中に、「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」のグループを学内に組織し、加えて「高校反戦委員会」のメンバーとしても、積極的に活動。
「建国の日」にはヘルメット姿で、「紀元節復活反対!」と自主登校するは、週末は、新宿西口広場の「フォークゲリラ」に参加したり、街頭デモに駆けつけたりと、それはもう、熱くて「赤い」忙しい日々を送っていた。

さて、そうした活動の延長線上に浮上したのが、「大学拒否宣言」なるもの。当然のごとく、彼はその考え方に共感を覚えた。
次々と、当時の言葉で云えば「ヒヨル」仲間を尻目に、彼は、大学を拒否することを、これまた当時の言葉を使うと、「カンテツ」してしまった。

彼は画家志望で、そんなクソ忙しい高校生活のさなかに、デッサンの勉強のため、美術学校に通い始めていた。高校の授業はフケルことがあっても、美術学校には必ず行くというほどの熱心さ。勿論卒業後も、その熱心さは変わらず、ニューヨークで本格的に絵を学びたい、という思いは募るばかりだった。

しかし、1ドル= 360円の時代である。今のようには、私費での留学情報など、10代の子供には、そう簡単に入手できるものではない。
そしてまた彼には、留学先への推薦状など、頼める人は誰一人いなかった。なぜなら、パレスチナゲリラによる、ハイジャックや空港での銃撃戦などが頻発した騒然とした時代でもあり、彼の活動歴、といっても警察にパクられたことはないのだが、公安にはバッチリとマークされ、写真まで撮られていたほどだったのだから、そのことが問題にならないはずはなかったのだ。

イライラと何時までも、思いわずらっていてもしょうがない、じゃぁ、とにかく行っちゃおうかなぁ、アメリカへ! と、お気楽向こう見ず単細胞姉弟の、さすが弟の面目躍如。
なぜかすんなりと下りた6ヶ月の観光ビザと、探し回って購入した安い片道航空券で、機上の人となったいう訳なのである。

しかしあの頃は、まだまだアメリカも、懐が深かったのだろう。今なら、観光ビザの人間が、帰りの航空券を所持していなければ、入国なんて、絶対に不可能だ。それに多分、日本を出国することさえ無理なはずだ。
で、無事出国した彼であったが、彼の乗った飛行機は、不思議なことに、まずロサンゼルス空港に到着した。
急ぐ旅でもないし、ついでだからちょっと観光でもと、空港の外へ一歩踏み出したことが、彼の人生を180度変えることになろうとは、彼自身、その時には、思いもよらないことだったに違いない。

カリフォルニアですよぉ、カリフォルニア〜!
一瞬にして、彼はカリフォルニアの空気に魅せられた。
せっかくだからチョット観光は、せっかくだからチョット滞在にと、ものの見事に変わったのだ。

空港近くの安ホテルに荷を解くと、地図を片手にバスを乗り継ぎ、市内観光も兼ねながらのアパート探し。いやぁ、右も左も全く判らない土地で、そしていくら英語が好きで得意だったとはいえ、所詮は高校英語である。しかし彼は、歩き、話し、住み易そうな所を探しまわった。
結局、彼が落ち着いた先は、ロサンゼルス・ダウンタウンの、元々はホテルだったという、骨董品のように古びた、家具付きの激安アパート。ほとんどの住人が、福祉で生計を立てているらしい日系・白人入り混じっての、貧乏老人専門アパートといってもイイ所だった。

今や世界に誇るほどに悪名高いLAダウンタウンだが、まだその頃は、夜遅く出歩いていても、ホールド・アップにあうことも少ない、まだまだ安全な所だったそうだ。とにかく、車を持たない人間にとっては、小回りも利くし、便利な場所ではあった。

授業料は少々高いが、評判が良かった ESL専門の学校に入学手続きを取ると、フルタイムで授業を受けた。そして、その実績を証明にして、観光ビザから留学ビザへと変更を済ませると、彼のLA生活は、本格的になって行ったのだ。
まず手始めのアルバイトは、語学学校の掲示板で見つけた。それは、公的サービスの一環で、一人暮らしの高齢者への、買い物時などのサポートをすることだった。
その対象になるような人は、彼の住むアパートには、それこそ何人も居たことになる。老人同士の嫉妬に巻き込まれたり、それはそれなりに色々と気をつかって大変だったそうだが、小遣いの足しにはなった。

勿論、日々の生活費を稼ぐのは、それとは別口だ。
彼は昼間は語学学校、学校が休みの週末や夜は、典型的なモグリのアルバイトとして今も健在の、レストランの皿洗いや雑用。果ては、日本人専門旅行会社の通訳兼観光ガイド、つまり夜の穴場に行きたいという日本人を、ストリップ・ショーなどに案内し、チップも稼ぐわけだが、とにかく数限りないアルバイトをこなし続けた。
なぜなら、親からの多額の援助など、望める家庭環境ではないことは、承知の上でのアメリカ行きだったからである。

半年ほど語学学校で学んだのち、各国からの留学生が多数在籍する、私立のビジネス・カレッジに入学した。
彼のなかでは、ニューヨークの美術大学へ進みたい気持ちはやまやまだったけれど、なんせ芸術系の学校は授業料が高額だ。どう算段しても、ひねり出せる状態ではなかった。
だから、暮らしにも慣れてきたロサンゼルスで、いくつかのモグリ・アルバイトで稼ぎながら、将来に予定する芸術系大学で認定可能な科目の単位を、そのカレッジで取得し、その後ニューヨークへ行こう、そう考えついたわけである。

しかし、LAの気候や出会う人々は、彼の気質に合った。電話無し、車無しの生活から足が洗えるようになると、行動範囲は当然広がり、それにつれて交際範囲も広がるのは必然だ。
知らず知らずのうちに、ニューヨークに行きたいという気持ちは薄れ、ロサンゼルスに永住したい、とまで思い始めるまでには、そう時間のかかることではなかったらしい。

友人の家のパーティで出会った、日本語のほとんど解らない日系3世と恋愛し、カレッジ卒業と同時に同棲した。
あとはもう、仕事も決め結婚へと、お定まりの成るようになっての道をまっしぐら。
アメリカ人との結婚で永住権申請は、外国人のグリンカード取得への、今も変わらぬ王道である。喉から手の出るほど、その一枚が欲しい外国人のために、偽装結婚ビジネスが姿を消したことはない。

さて彼は、生活費のための仕事を目まぐるしく変えながら、画家志望を宝飾品のデザイン・制作に切り替えて、個人教授を受け始めた。元々手先が器用だった彼には打って付けだったのか、徐々にではあるが、仕事の比重をそちらに置くようになり、やがて、それが本業になった。


ナオトたちは同棲生活から数えて10年余りで、念願の一戸建て住宅を手に入れた。
それは、LAダウンタウンの激安・ゴキブリ・アパートから始まった、彼の何カ所にも渡る賃貸アパート暮らしからの、やっとこさの解放だった。しかし、それ以上に彼にとって意味があったのは、築後20年以上の中古住宅、しかも30年の住宅ローンを抱えたとはいえ、何も分からずに一人で降り立った、このアメリカという国にキチンと根をおろし、生活を確実に送って来たということの、なによりの証であったことだ。

場所はロサンゼルス市内、夫婦二人の勤務先へも、それぞれ車で15分程の、古くからの住宅地である。
かつては、典型的な白人コミュニティーだったそうだが、その頃には、かなりの数の東洋系や、極少数ではあるが、チカーノつまりメキシコ系アメリカ人や黒人も住み着いていた。
小規模のアパートも何軒か建ち、住宅地としては、安全度 B地域ともお世辞にも云えない。けれど、頭金の捻出さえやっとの、貧乏な夫婦が購入する一軒目の家としては、まあまあの選択だったに違いない。
しかし、彼らの快適生活は2年もしないうちに崩れ去ることになる。
 
その辺りの一戸建て住宅の住人のほとんどは、その住宅の所有者だが、当然、賃貸の家もある。
彼らの隣の一軒はそういった賃貸物件で、彼らが住み始める前から、中国系らしいシンガポール人の三人家族が住んでいた。ごく普通に挨拶し合う良好な隣人関係は、その家族が引っ越すまで続いた。
さて、その後に越してきたのが、お隣の国出身の若い男女二人。
ある日気づくと、見たことのない3、4歳の男の子が一人、庭で遊んでいた。
きっと母国に置いて来た彼らの子供に違いない、生活が落ち着いたので呼び寄せたのだろう、そう、なんの疑いもなく、ナオトたちは思ったという。
 
その辺りでは、それぞれの住宅所有地をはっきりと分けるのは、2mには足りない高さの、針金で作られたフェンスが一般的だった。
小さな男の子を目にしてから、数週間後のある日のこと、彼らが帰宅して見たものは、なんと、全面、物干し場と化したフェンスだったのだ。
隣家との境のそのフェンスには、これでもかと云わんばかりに、隙間なくズラリと干された毛布や衣類などが、カリフォルニアの心地よい風に吹かれて、はためいていた。

隣家の住人に一言の断りもなく、連日のようにそれは続いたが、貧乏臭いから止めてくれとは、なかなか云い出せなかった、とナオトが云うのは、本当だろう。

深い眠りに就いていたはずの二人が、ベッドの上で飛び起きたのは、ある週末の夜のことだった。
お隣さんから押し寄せる、大音響のマリアッチと大勢の話し声笑い声。時計をみると深夜の2時過ぎだ。どうも隣家が窓を開けたので、爆発音のように、それら時間にそぐわない騒音が、彼らを直撃したらしい。

なかなか止みそうにない音楽と嬌声に、ナオトは業を煮やし、隣家の玄関のドアベルを鳴らした。家の中の盛り上がりのせいで誰の耳にも届かないのか、何度ベルを押しても、なんの返事もない。ベルを押しドアも叩き、彼が諦めかけた時、中からやっとドアは開かれた。
出てきたのは、これまで一度も見たことのない、若いメキシカン男性だった。
時間を考えてくれよと、それでも怒りを抑えて云ったナオトに、「ミスター悪かった、これから気をつけるよ」。
そう云ってドアを閉めた彼の「これから気を付ける」は、窓を閉めて、パーティを続けることだったようだ。
なぜならその晩、空が白むまで、賑わった雰囲気はずーっと彼らの寝室に届き続けていたからである。
 
隣家の住人の数は、ある時は十人近くに膨れ上がったり、またいつの間にか減ったりと、顔ぶれは微妙に変われど、事態の悪化は、とどまることがなかった。
ナオトたちの再三再四の申し入れにもかかわらず、毎日の様に大量の洗濯物などがフェンスに干され、パーティはというと、週末だけでなく、平日にも頻繁に行われるような有り様。ついには、とうとう室内から庭へと、パーティ会場が移ることも度々になった。

そんな塩梅だから、隣家の敷地内は、云わずもがなの無法地帯。
どこの家の住人も、心がけて綺麗に手入れしているのが、道路際から家へかけての敷地内の芝生だが、隣家ではとうの昔に芝生は雑草によって完全に駆逐され、その雑草も元気に伸び放題だ。大きなゴミバケツは、常に道路際に放り出しっぱなしなものだから、倒れたソレから転がり出たものが、あちこちに散らばるなんてのは朝飯前。
それはもう、周囲の住民が目を覆うほどの惨状だ。

ナオトたち夫婦だけでなく、近所の住人たちの度重なる通報で、遠く離れた場所に住む隣家の所有者が、やっとのことで現れた。が、時すでに、全てにおいて遅かった。

そんな状況のなか、ナオトたち夫婦は、購入してから4年に満たない家の前に、「FOR SALE」の看板を立てた。頭をいためながら住宅ローンの計算をし直し、やっと決心したことだったが、それも最早、あとでいくら後悔しても、遅すぎたようだ。

家を見にやって来る人は何組もいても、売買契約にはなかなか結びつかなかったそのあいだに、その、衝撃的な事件は起きた。
彼らの家から目と鼻の先と云ってもいい、通りを一本隔てたブロックに、長年住んでいたチカーノの一家、その一家の何番目の子供なのかは分からないが、ティーンエイジャーになったばかりの男の子が、真っ昼間、自宅玄関前で射殺された。
犯人は直ぐに捕まったが、その犯人もまた、チカーノの少年だった。ギャング団同士の小競り合いが原因の犯行だった、ということだ。

もう、こうなったら仕方がない、脱出は早い方がイイと、彼らは予定していた売値を、大幅に値下げした。
そして、やっと決まった買い手は、これまたチカーノ。母国の雰囲気がある場所の一戸建てを探していた、そう、嬉しそうに云ったそうだ。

こうして、カトリックゆえに子沢山の、隣の国から来た人たちの「コミュニティー」は、アチラコチラに、まるでジグソーパズルで、ピースをひとつひとつ確実に填め込んで行くような形で、ゆっくりと、しかし着実に形成され続けるのだ。
そしてまた、「ロサンゼルスというジズソーパズル」に、「彼らのコミュニティー」という名の、最後の1ピースが填め込まれたその瞬間、ロサンゼルスは、隣の国から来た人たちによって、覆い尽くされるのだろう。
そんな日がやって来るのも、そう遠くはないような気がするのは、私だけだろうか?
そして、そのロサンゼルスは、彼らのコミュニティーの多くがソウであるように、ゴミに溢れた、埃っぽいくすんだ色の、空気までもが、なぜか重苦しくも厚ぼったく感じられる、そんな街になってしまうのだろうか?

さて、ナオトたち夫婦が引っ越してから、もうとっくに十数年が経過したが、今やあの地域は、幾つかの観光ガイドブックによると、「危険度 D地区」とランク付けされている。
そんな荒みきった町で、かつての彼らの家と隣家を隔てた、連続する山形の先端を持つ高さ3mに近い板塀は、今もなお、その姿を残しているのだろうか? 
その板塀は、賑やかなマリアッチの調べと嬌声からは、逃れ切れるものではないことは承知の上だが、迷惑この上ない、貧乏くさい物干し場状態だけでも何とかしたいと、ナオトがコツコツと一人、日曜大工で作り上げたものである。





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