その1
ほとんどが幼児洗礼を受けたカトリック信者である中南米出身クラスメートの、女性に多かった名前、それは「マリア」である。
ファースト・ネームのマリアは勿論のこと、クリスチャン・ネームのマリアを、そのままミドル・ネームに使用してる場合も多く、信仰心熱い人は、クリスチャン・ネームを日常的に使っていたりすることが少なくないから、うっかり「マリアがさぁ…」なぁんて話は出来ない。話が入り組んでる時は尚更である。
だからそんな時には、「どこそこから来ているマリア」とか、「ファースト・ネーム+マリア」といった具合に、明確にマリアをきちんと区別することが、必要不可欠だった。
私が出会った何人ものマリアたち、そんななかの一人が、これから登場する、メキシカンのマリアである。
ある日、ジム・クラスの授業中に校長の秘書が現れ、校長が私を呼んでいる、と云う。
私、ナンカまずいことでもしたか? してないよなぁ…。思い当たることと云えば、せいぜいが、メキシカンの人たちに、後片づけはキチンとするようにと、通りすがりに目に付いた時には、云い続けていることぐらいだ。それだって、彼らに向かって怒鳴ったことなんかは、一回だってないぞ。ナンなんだぁ?
校長室のドアをノックした私に、校長はにこやかに、「お入りなさい。まぁ座ってコーヒーを飲みなさいよ」。
コーヒーに口を付けながらも、なんだか訳が分からず落ち着かない私に、彼女は、あなたも夏には帰国するというし、教師たちは、留学生が居なくなったら授業の全体計画が立てられなくなると今から困惑している、などと話したのち、こう、切り出した。
「土曜日にココで、ボランティアをする気はないかしら?」。
ボランティアって何のこと? そう云えばかなり以前に、近くの小学校で、折り紙を教えながら日本のことを話してくれないか、という話しをベッキーから持ちかけられたことがあったが、いつの間にか立ち消えになっていた。もしかしてソノこと?
校長の話が全く見えない私に、「実験的な試みとして、土曜日に ESLクラスを開講することになりました。ついては、そのクラスでボランティアで助手をして欲しい」。
それは、こういうことだった。
土曜日朝9時半から午後1時までのそのクラスは、米語を学びたくても午前や午後そして夜も、ウイークデーでは無理な人たちがいることを、想定してのもの。
たった1クラスでの出発だから、やって来る人たちの細かいレベル分けをするなんてことは、最初から問題外だ。
しかしその状況に、ことのほか頭を痛めたのが、そのクラスを担当することになった、私の元・担当教師ベッキーである。
予算がないから教師は一人、教室にやって来る人が何人になるのかは、当日にならなければ分からない。米語のレベルもまちまちだろう彼らに、どう一人で対処できるのか? そもそも、対処することなんて、実際のところ可能なのだろうか?
何事に対しても決して悪気はないが、かなりラフなところがある彼女にしては、かなり真面目に考え込んだらしい。そして導きだした答えというのが、「ボランティアの助手を付ければイイ、見つけよう」。
ベッキーのたっての要請は、会議に計られ検討された。結果、それぞれの教師が推薦人になって、ボランティア助手候補の名前を挙げようじゃないか、そういうことにまずは落ち着いたらしいのである。
で、この私に、なぜか白羽の矢が立った、という訳なのだ。
でもなんで? なんで、私なのさ!?
私の午前と午後のクラスを見渡したって、TOEFUL 700点近い人は何人かいる。それに、私などと比べるのも失礼な、綺麗な米語発音の人など、それこそ掃いて捨てるほどいるのだから。
自慢するわけではないが、私はクラス内で意見はハッキリ表明するし、解らないことは即座に素直に尋ねる。でも、決して、成績優秀者なんかではない。
ホント、どうして私になんか、白羽の矢が立ったのさぁ?
とまどう私に校長は、「ジムとフィリス、そしてベッキーも、あなたならやれると云っています。良い経験になると思いますよ」。
朝寝坊をして、バスタブにたっぷり張ったお湯にゆっくりと身を浸し、ブランチを取り、掃除をきっちりした後は、海辺の散歩や映画を観に行ったり、お気に入りの本屋を覗いたりと、気ままに気楽に過ごす土曜日。その土曜日が、中途半端に潰れるのは、正直ちょっと、いえ、かなり辛い。
しかし、お世話になりっぱなしの教師三人から、名前が挙がったとあっては、断わるのも、なんだかなぁの気分だし…、やってみるかぁ、ボランティア助手。
発音に関してはベッキーがいることだし、基本的な初心者文法ならば、バリバリ日本語訛の米語の私でも、どうにかなるに違いない。それに、なんといっても私の強い味方、全身駆使してのボディ・ランゲージがあるさ、とまぁいつもの通り、あくまでも積極的お気楽思考の私であった。
で、即答。1998年の春学期が始まって2週間ほど過ぎた頃のことである。
開講日は登録日でもあるので、授業開始時間の30分前には、ベッキーと二人して準備万端整え、教室に生徒が現れるのを待った。しかし、開始時間の9時半を15分以上過ぎても、ひとっこ一人現れない。
聞こえてくるのは、教室に接する小道を隔てた家で飼われている、車や人が通る度に物陰から猛然とダッシュして来ては吠えまくる犬の、相変わらずの小うるさい声だけだ。
土曜日の午前中に一体全体、何人がやって来るのだろう。だんだん不安になって来たらしいベッキーは、いつにも増して饒舌にジョークを云いながら、何種類か用意をしたテキスト代わりのコピーを、何度なんども教卓の上で並べ変えている。
彼女のジョークに、時々、それどういう意味? などと尋ねるのにも疲れ始めた頃、やっとスパニッシュを話す複数の女性の声が聞こえてきた。友人同士らしい三人連れだ。そのなかの一人、秋からは小学校だという男の子を連れていたのが、マリアだった。
結局11時頃までには、15、6人程が登録を済ませ、席に着いた。
数種類のコピーをそれぞれに渡し、どのコピーの米語なら理解できるかを尋ね、机を幾つか寄せて3つのグループに分けた。そして、それぞれが選んだコピーを基に、ベッキーは簡単な質問を始めた。
マリアは友人二人と一緒に、真ん中のグループに座っていた。しかし、彼女はベッキーの質問には、全くと云っていいほど、答えることは出来ない。
「もうちょっと復習しましょう。そうすれば、直ぐにあなたの友達と一緒のグループで、勉強できるようになるはずよ」。
そう、ベッキーは彼女が傷つかないように明るく云うと、三人いる超入門レベルに席を移動させた。が、しかし、ここでもマリアが加わると、全ての流れが止まってしまう始末。
一応、自己紹介程度は話せる。しかしいかんせん、これ(This) あれ(That)の区別も、単数複数もおぼつかない。ましてや現在形も過去形もゴチャゴチャ混ぜだ。頭を痛めたベッキーは、今日のところはマリア専属でやって欲しい、そう、私に伝えた。
悪く云えば、授業の流れを優先させたいベッキーが、助手という名の、教えることには全く素人の私に、体良くお荷物を、押しつけたことになる。
どうすりゃいいのさ!?
せっかくの土曜日に勉強しようと、わざわざ足を運んで来たマリア。その彼女が、教師でもない私のせいで、勉強する気をなくすのだけは、どうしても避けたい。スパニッシュで全て事足りるこの辺りで、子供を連れてまでも、米語を学ぼうとしているのだもの。
些細なことが原因で、勉強する気や何かに対するやる気を損なうことなど、それこそ簡単なことだ。
入学式の当日から、二言目には、東大東大と口にする教師と生徒ばかりの予備校のような高校で、男子320人・女子98人合計418名の、成績順位かろうじて二桁にはいた私が、ある時、ケツから3番目という成績を取ったことがある。
今にして思えば、躓きの原因はさほどのことではなかったと思えるのだが、それだからこそ、そのヘンの所は痛いほど、よぉーく解る。
今日のところは、マリアのレベルに合ったプリントも用意されて無いことだし、まずは彼女を知ることが大切だと思い、少し詳しいお互いの自己紹介ということにして、彼女の背景を少し探ることに決めた。
マリアは、夫と、今日連れて来ている男の子の他に、16歳になる少年もいる三人家族。メキシコシティからアメリカへ来て20年近く経つが、土日以外はほとんど毎日、白人家庭のメイド兼ベビー・シッターとして働いている。今まで、米語を勉強したことはないが、長い間、勉強したいと思っていた。家族全員、家の中ではスパニッシュを使っている。彼女の夫はアメリカに来てから、米語をこういう所で勉強したことはあるが、仕事に米語は必要ないので、もうとっくに勉強することは止めた。
彼女に警戒されないように気を使いながらの私の質問に、スパニッシュの混じる短いセンテンスで、つっかえつっかえ、マリアは一生懸命に答えてくれた。
しかし、こちらの質問内容を理解してもらい、ここまで話を聞き出すのは、正直、とても大変な作業だった。
お互いに伝えたいことがあり、相手の云いたいことを必死で解ろうとする時には、米語の時制などはめちゃくちゃでも、普通は、どうにか解り合えるものだ。
しかし悲しいかな、マリアはとにかく米語の語彙が少なすぎた。
私はといえば、スパニッシュは、せいぜい簡単な自己紹介や挨拶くらいで足踏み状態、数や暦の順番さえ、ハタと考えこんでしまう時がある、その程度の語学力である。
でも、もし完璧にスパニッシュが話せたとしても、このクラスでスパニッシュを使うのは、原則的に御法度にすると、ベッキーは決めていた。
やって来るのはスパニッシュ・スピーカー、それも大方はメキシカンに違いないと、彼女は踏んでいたからだ。今日もブラジル国籍の女性が一人登録したが、なんと彼女も母国語はスパニッシュで、ベッキーの予想は100%の正解率だったことになる。
マリアは私の問いかけがちょっと複雑になった時、質問の意味が解らないのか、あるいは答えの米単語が出てこないのかは定かではないが、目をギラギラと上目使いに紅潮した顔で、必死になってスパニッシュで何かを訴えて来た。
これは限界だと思い、手持ちの「英西・西英」辞書を彼女に手渡し、スパニッシュの単語を示して貰おうとしたが…、ショック!
彼女は目次のアルファベットはたどれるが、それが組み合わされた単語は、見つけることが出来ないのだ。つまりマリアは、スパニッシュを話すが、スパニッシュの読み書きは不自由らしいのだ。ほとんど、文盲?
登録用紙に米語で名前と住所を書いたのは、確かに、本人だった。私の目の前で書いたのだから、それは間違いない。そのことだけで、まさか、母国語の読み書きが不自由だとは想像もしなかった、私の完全なるミスだ。
マリアの子供は、ベッキーにスイッチを入れて貰った教室備え付けのPCで、英単語練習用ゲームを、一人静かにやって時間を潰している。彼に助けを求めようかという考えが、私の頭をふとよぎったが、それは止めた。それをしたら、マリアのお母さんとしての尊厳を、もしかしたら大いに損なう結果になるかもしれない、そう思ったからだ。
ともあれ、そんなこんなで、その日の授業は終了した。
後片付けをしながら「ありがとう。助かったわ」と云うベッキーに、ちょっと皮肉混じりに「楽しい体験に誘ってくれて、どうもありがとう。すごく感謝してる」とは云ったものの、マリアのことも含め、考え得る様々なことへの対応の仕方を、キチンと立てなくてはなるまい。
私は教えるプロではないのだから、今日のようなお任せ状態は困ること。何度も発音や短い会話でのチェックはやって欲しいこと。特にマリアには、当日渡しのプリントではなく、ある程度の流れが見えるものが事前に欲しいこと。そんな、幾つかのことをベッキーに伝えた。
ベッキーは、「分かった。でも、今日来たからといって、来週も来るとは限らないわよ。マリアがまたやって来たら、考えるわ」。
なんという、冷静な反応なのだろう。
しかし、出入りの目まぐるしいこうした学校で、教師を長い間やって来たベッキーだからこそ、そう、考えるのも仕方のないことなのかもしれない。それに、米語を教える対象として、ほとほと嫌気がさしているというメキシカンの、マリアもまた、その一人なのだから。
マリアは次回も、この教室にやって来るのかな?
その2
マリアは次の土曜日にも、やって来た。授業開始時間には遅れたけれど、また、子供連れで現れたのだ。
私は、なんだかとてもホッとしたけど、さぁて困った。今日も彼女のレベルに合った内容のプリントは、何一つ用意されてはいないのだ。それにベッキーの予想通り、現れなかった人が何人もいるが、今日から受講する人もまた同じ位いるという塩梅で、先週となんら変わりない状況である。
案の定、その日もまた、私はマリアの専属になった。
他の3グループと離れ、机を挟んで彼女と向かい合って座ると、マリアは下を向いたままボソッと「本がある」と云い、大切そうにバッグ取り出したのは、一冊の ESL用のテキストだった。
ほとんど書き込みやアンダーラインといったものが無いそれは、彼女の夫が持っていたもので、この「本」があれば、ここでの勉強に役立つと考え、持参したらしい。
しかし、完了形が後半を占めるソレを使うには、マリアは、かなりのことをマスターしてからでなければ無理なのは云うまでもないことだ。しかし、そのヘンのところが、どうも彼女には解ってはいないようだ。
これは「本」と云うよりは、「教科書」と呼んだ方が良いこと、そして、もう少し勉強が進んだら、この教科書を使うことをベッキーに相談してみましょうね、と云って、とても不満そうな表情を浮かべる彼女を、納得させた。
ウィークデー昼間のクラスでは、元々はレベル分けとしては0から6までの7段階に分けられているが、当時、午前中開講されているのは、0から1、2、3、4、5・6合併の6クラスであり、午後は3・4合併、5・6合併の5クラスとなっていた。
そして、それぞれのクラスにおける5日間の平均出席人数が15人を切れば、即そのクラスは消滅するか、他のクラスと合併して存続するかの、厳しい規約が常に課せられていたのである。
なぜなら、授業料として、月 250ドルを支払う留学生以外は無料の、原則的に地域住民の税金によって運営されている ESLなのだから、無駄な支出は認めるわけにはいかないという、もっともな方針に基づいてのことだった。
留学生としては、最後の4名の内の一人が私だが、この春学期が終了すると、この ESLには、アメリカ滞在の合法的根拠としての「I-20」や「I-20におけるD/S」 を提示して学ぶ者は、一人もいなくなる。つまり、アダルト・スクールにおける ESL設置、その本来の目的に戻るわけだ。
さて0レベル・クラスとは、母国語の読み書きさえ不充分な人たちを対象とするクラスであるが、その頃そのクラスの大勢を占めていたのは、ある国からの移住者たちだった。その国とは、学校の比較的近くにそのコミュニティがあるからだろうか、世界で最初にキリスト教を国教化したことで知られる、旧・ソ連邦で最も小さな国だったアルメニアである。そんな中に、それぞれの出身国は定かではないが、厳格なムスリムの服装に身を固めた熟年女性たちが加わっていた。
男女ほとんどの生徒が、洗いざらしのTシャツに、擦り切れそうなジーンズかジーンズをぶった切った半ズボン、それにスニーカーかサンダルといった姿。女性はスッピンか、せいぜいがマスカラ程度で、はっきりとした色合いの口紅をさしている人は珍しいほどだ。
そんな中でアルメニア人たちの服装は、男性はビシッとしたスーツかそれに準じた物、女性もスーツかワンピースを着込み、手の込んだ化粧をしている人が多い。また、顔と手先だけを出したムスリム女性の服装から時々チラリと覗くのは、なんとも高価そうな分厚い黄金色や宝石類だったりする。
毎日そんな服装や装飾品を目にしていた私は、一般的に云われるような、貧困と教育の関係性というものに、かなり鈍感になっていたのは事実だったと思う。
もしマリアがメキシコの貧しい家庭の出身でなかったら、10代でアメリカへやって来て今日までずっと、メイドやベビー・シッターとして働き続けているはずはないだろうし、母国語の読み書きが不自由なはずもないだろう。事実、彼女が小学校へ通ったことがあるのかどうかさえ、疑わしいのだから。
今日もまた、私の目の前には、文盲といっても差し支えない中年の女性が一人、不安そうに、そしてもの云いたげに座っているのだ。
気を取り直した私は、ルーズリーフ用紙を一枚取り出し、その真ん中に縦線を一本引いた。
そして、左上にはおかっぱ頭の私の似顔絵、右上にはキチンとセットされた髪のマリアの似顔絵を描いた。
左側には 「This is Ufufu」「My name is Ufufu」「Your name is Maria」、矢印を右斜め上に向け「That is Maria」。それに対応して右側には、「This is Maria」「My name is Maria」「Your name is Ufufu」「That is Ufufu」と書き、マリアに渡した。
そして立ったり座ったり、マリアから離れたりまた近づいたりしながら、身振り手振りを交えて、そこに書いたことを中心に何度何度も繰り返した。「This is」と「That is」の後に、机や椅子など身近にある物の単語を入れて、「a」を付けることも繰り返した。
つっかえながらも少しは米語が話せるマリアに、何故こんな単純なことをやって貰ったのかと云えば、彼女の米語には「距離感」「関係性」のようなものが、皆無に等しいと感じられたからだった。
まずは、ThisとThatの違いとis、ついでに、数えられる名詞のものが一つで、その単語の最初の音が子音の時には aがつくことを、キチンと捉えて欲しいとも思ったからである。
途中20分の休憩をしたあとは、もう一枚のルーズ・リーフ用紙に「Do」「Does」と書き、マリアの目の前に置くと、徹底的に、I / You とDo、 She / HeとDoesの使い方を、短い疑問文を作っては何度も繰り返して質問し、彼女がめちゃくちゃに使っているDoとDoesの違いを覚えて貰おうとした。
それだけで、アッという間にその日の終了時間がやって来てしまった。余りにも単純な基本だけなので、マリアが嫌気を起こさないかと心配だったけれど、彼女は飽きることもなく、必死に頑張った。
マリアは、自分の目の前に置いてあった、私が書いて渡した2枚のルーズリーフ用紙を、私の方に黙ってすべらせて来た。
私は今日のポイントを含んだ文章を幾つか書き込み、カラー・ボールペンで印をつけ、使用した名詞を思い出しながら、簡単な絵とともに米単語を書き添えた。
そして、「これはマリア、あなたのもの。来週、忘れずに持ってきてね」と、手渡した。
彼女はうなずきながら丁寧にそれを折ると、バックに仕舞った。
挨拶もそこそこに、子供の手を引いて急ぎ足で教室を出て行くマリアの後ろ姿を見た途端、私の首筋に、ツツーッと汗が一筋流れた。
そんな私にベッキーは、自分も進行状況や発音などを何度もチェックするから、できたらマリア専属でやって欲しい、と云い、そう云われた私は、なんだかソウすることが当たり前のように感じ、「そうするわ」と頷いたのだった。
今その時のことを思い出しても、どうしてあんなにも素直に引き受けてしまったのか、とても不思議だ。もしかすると、マリアの発するナニカに、一種、感応してしまっていたのかもしれない。
私はマリアを担当するにあたって、彼女専用のテキストは、どうしても必要だ、とベッキーに伝えた。
彼女は「ちょっと待ってて」と云うと、直ぐさま事務所へと消えたが、10分程して教室に戻ってきた彼女の手には、黄ばんではいるが、以前0レベルクラスで使用したらしいテキストが一冊あった。
そして彼女は、それを片手でヒラヒラさせながら、「事務所には内緒よ。これでも一応、学校の備品だからね。来週、あなたからマリアに渡して頂戴」と云うと、悪戯っぽくウインクをしたのだ。
その日のマリアとのやりとりで感じたのは、知りたい、分かりたい、という必死さのようなものだった。私の勘が狂ってなければ、彼女は来週もまた必ずやって来るだろう。
人間、過程は少々きつくても、分かりたかったのに分からなかったことが、徐々に自分のものになって来たのではと実感する時、その喜びは格別なはずだもの、楽しいはずだもの。とにかく、彼女のやる気を損なわないように、誇りを傷つけないように、辛抱強くやるしかないだろう。
こんな機会は、そう滅多には巡って来るもんじゃない。母国語の読み書きさえ不自由な人に、私の母国ではない言葉で、その母国語でない言葉をどこまで教えられるのか?
考えてても仕方がない、考えてても事は運ばないから、やりながら考えよう。私もマリアと一緒に、勉強するつもりでやって行こう。
マリア、私、やれるだけはやってみる。楽しくやろうネ、その方がお互いにとってイイ気がするんだけど…。
翌週の土曜日も子供連れで、またちょっと遅れたけれどマリアはやって来た。
三日目にして、またもや数人が脱落したが、新しい登録者たちもこれまたいて、クラス全体の人数はほとんど変わらない。ベッキーも私も、マリアレベルの人が増えるのを懸念していたが、それはなく、一冊だけ用意されたテキストは、無事マリアだけのものとなった。
イラストが豊富なテキストは、単語や状況が解りやすいし、ポイントも整理されているから、私にとってもその日一日の予定をたてやすい。
まずは先週の復習をと、会話や書き取りでチェックした。
マリアは時々 「a」を抜かしたり、大文字小文字をゴチャ混ぜに書いたりはしたけれど、先週の内容のほとんどを理解していた。それに、間違いを指摘された時の彼女の悔しそうな表情から察するに、マリアはかなり勝ち気であり、また米語を学びたいという思いは、やはり本物のように思われる。
問題はと云えば、一つは、授業中にメモを取るというようなことを、一切しないことだ。母国語であるスパニッシュが書けないのなら、ちょっとした印でもいいのだけれど、それさえもしない。まぁ、ノート一冊鉛筆一本、彼女は持って来てはいないのだから、そういうことにまで気がまわらないのは、当然のことだとは思う。
だから、マリアがその必要性に気づき、自分でノートなどを用意するまでは、私のものを何気なく提供することにした。
きっとメキシカンに、とんでもなく嫌な思いをしたことのある人は、私のことを、なんてお人好しなヤツだと笑うことだろう。それは哀しいかな、私にも分かる。
他人の物は、その他人が気づかぬ限り自分の物、というメキシカンが、学校内だけの出来事を考えても、少なくないのは事実なのだから。
私も一度、そんなことを経験してしまった。
それは、午後の教室に移動した後、「英英辞書」を午前のクラスに置き忘れたことに気づいて取りに行くと、私の名前が書いてあるにも関わらず、自分の物のように使われていたのだ。「それは私が忘れたもの」と云うと、無言で平然と、投げるように返してきた。
そりゃぁないだろう?! 知らぬ顔ならまだしも、たとえ名前は知らなくても、お互い校内で、何度も顔は合わせていたはずだ。挨拶くらいはしていたはずだ。
面食らったと同時に、まだまだ甘いなぁ私…と痛感した。
「私の常識」は「他国の人の常識」ではなく、特にメキシカンの人たちの常識とは程遠いことは、嫌というほど理解していたつもりだったけれど、まだまだそのヘンの詰めが甘かったわけだ。
それ以来、テキストや辞書などには、どの角度からも目につくように、ピンクのマーカーで大きく UFUFUと書いていた。それは、何かを防止するためというよりは、お互いに嫌な思いをしないための、最小限の自衛策。
そんなことがあっても、私は彼女を、「図々しいマリア」とは、どうしても思えないのだから、仕方がない。
もう一つの問題は、彼女が基礎的な教育さえ受けていないらしいことに、その原因がありそうだった。
例えばテキストに、「世界には七大陸あります」という文があっても、困ったことには、彼女には「大陸」の概念がない。ましてや、「太平洋」や「大西洋」、「半島」なんて単語が出てきても、何がなんだか分からないのだ。それは、世界地図を見せて説明するしかなかったが、どこまで解ってくれたかは、心もとない。
一番説明に困った単語、それは、なんと「city」だった。
「Hong Kong is a big city」 というテキストの文に、彼女が私に尋ねたのは、「香港とは何か?」。香港は地名(a place name)だよ、と答えながら、教室の片隅に貼られている世界地図の前に連れて行き、場所を確認させた。ついでに彼女の出身地、メキシコの首都 Mexico Cityを地図で探して貰った。
席に戻った彼女は納得いかない顔で、「変だ」と云う。彼女が何を変だと思ったのかが、私にはさっぱり解らず、色々と質問をした。その結果、やっとのことで判ったのは、地図上のHong Kongにはcityがなかった、だから、Hong Kongを「city」と云うのはおかしい、ということだった。そうかぁ……。
「教養は物事を考える入り口」、そう誰かが書いているのを目にしたことがあるけれど、疑問は物事を知る大事な入り口だと、その時つくづく思ったものだ。
大文字で始まるCityと小文字で始まるcityの違いを、文法的に説明することや、行政の区割りとしてのcityの説明は勿論必要なことだけど、今それをマリアにしても、彼女は余計に混乱するだけだろう。だから、それはちょっとパスした。
まず、Mexico City はメキシコ・シティという地名でマリアの国で特に大事な場所。アメリカで同じ様に大事な場所はWashington,D.C.だし、私の国日本では Tokyo だということを、地図を指し示して云い、こういう場所は capitalということを教えて、まずは逃げた。
そして、ここロサンゼルスのように大勢の人がいて、ショッピング・センターが幾つもあるような賑やかな場所が沢山ある所は、「city 」と呼ぶのだと説明した。
不十分ではあるけど、この際これ以上は踏み込めない。イメージして貰う他ないのだ。マリアに単語を説明する時には必須の「Picture Dictionary」にだって、「city」の項目にはそんな絵しか書かれていないのだもの。
実際、具体物として目に出来るものの単語は、実物や絵を示して結びつけることが出来るし、感覚や感情を表わす単語は、身振り手振り、それに表情で表現して伝えられる。でもこうした単語を説明するのは、ホントに難しい。
さて、初日に一緒に来た友人たちは、いつの間にか姿を消していたが、マリアは授業開始時間には毎回15分ほど遅れはしながらも、風邪気味で一度欠席しただけで、通い続けて来た。
ちょっと来ては来なくなり、その分また新しい顔に入れ替わるという繰り返しの、なんとも目まぐるしいクラスだったし、そのせいで授業の流れが滞ってしまうばかりのクラスだったけれど、マリアはだけは、着実に進歩して行ったのだ。
そして、学期も半ばのある日、マリアはバッグから、ノートとボールペンを取り出したのだ!
その瞬間、なんだか私、胸がキュンとして涙が出そうになりあわててしまった。
授業のポイントに気づいてメモをするということは、まだまだマリアには無理なことだけど、それだってもうすぐ、彼女なら出来るようになるだろう。
学ぶという緊張感が少しずつほぐれてくると、マリアは私相手に、ポツリポツリと雑談をするようにもなって来た。
そんな中で、彼女が何度も口にしたのは、仕事先の白人家庭での不満だった。
「ミセスはスパニッシュで話しかける。学校で勉強しているから米語で話して欲しい、そう何度も頼むのに…。きっと私の言葉が解らないのだ」。
そして、もう一つの大きな不満は、マリアの夫が、彼女が勉強することにイイ顔をしないことだった。
仕事先での話はともかく、彼女の夫のような態度は、メキシカン家庭では特別に珍しいことではないらしいことを、既に授業中のジムの話で私は知っていた。
「メキシカンは Macho-culture(男らしい文化というより、男性優位主義文化というニュアンスの方が強い)が過ぎる。ワイフの米語力が自分より優りそうになると、勉強するのを止めさせる男が多いんだよな。数え切れないほどの女性が、バカバカしくも同じ理由で僕のクラスから去っていった」。
こう、ジムは苦々しげに云うと、そのあとに、こう続けたものだ。「どうかな? 韓国や日本の男性は?」。
彼お得意の、皮肉たっぷりのニヤリとした表情で私を見たので、強烈にその話を覚えているのだ。
きっとマリアは土曜日ごとに、肩身の狭い思いをして子供を連れて家を出ているに違いない。そうまでしても学びたいと願う彼女の思いは、貴重なんてものじゃない、感動もんだ。
こんなにも真摯に学びたい心境なんて、学生身分を維持するために、学校とは名ばかりのソノ手の所に高額の授業料を支払い籍を置き、昼間から遊びまわっているのが目に付く若い日本人たちには、きっと分からないだろうなぁ…。
マリアは春学期を通いとおし、最後にはベッキーが、彼女はもうレベル1のクラスでも大丈夫、そう太鼓判を押すほどに、米語力はアップしていたのだ。
春学期土曜クラスの最終日。
「Ufufu、もう戻って来ないの? もう助けてくれないの?」。助けがなければ、もう勉強は続けられないかもしれないと不安そうに訴えるマリアに、「ベッキーは、私の代わりのお手伝いをまた連れてくると思う。それにもうマリアは大丈夫、グループの中に入って勉強が出来るはずだよ」と、私は云った。
でもそのマリアへの言葉の半分は、嘘と気休めなのを知りながらだったことになる。なぜならもうその時、この土曜クラスは、余程のことがない限り今学期限りの命だろう再開するのは難しいだろう、という事務レベル情報が、ベッキー経由で私の耳には入っていたからだ。
理由は簡単。1クラスで最低維持すべき人数には、ほとんど毎回達することが無かったからである。
そして結局、彼女が心待ちにしていたであろう次の夏学期は無論のこと、二度とこの土曜クラスは再開されることはなかったのだ。
私は、土曜クラスが再開されない場合もあることをマリアに伝え、別の場所で開かれている夜間クラスをリストアップして、彼女に渡そうかとも考えた。しかし、どの場所もバスの便は最悪だし、彼女が歩いて通うには余りにも遠すぎた。
それよりなにより、マリアにとっての最大の難関は、夜に家を空けなければならないことだろう。
まだ再開はないと最終決定が下されたわけではないのだし、ことさら不安を増すようなことは云うべきではないのではと思い、それを実行することは止めた。
私が、このまま勉強を続ければ、マリア、いつかはアダルト・スクールの「高校卒業資格取得(High school Diploma)コース」でだって学べるようになれるよ、と云うと、彼女は心もとなげに、ちょっと首をかしげながらも、本当に嬉しそうに微笑んだ。
そして私たちは、最後のさいごに「Bye! Adios!」と云いながら、何度もなんどもハグをしあった。
その後、サウス・ベイ地区のどのアダルト・スクールでも、 ESLコースは櫛の歯が欠けるようにクラス数が激減して行った。
ベッキーは今でも同じ地区内のアダルト・スクールで、 ESL夜間クラスの担当をしているが、新学期の登録日になると、もしかしてマリアが現れはしないかと、心待ちにしている自分に気づくそうである。
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