3月4日:春一番、吹きましたねぇ。

「春ですねぇ、木の芽時ですねぇ、うふふふ」と、ひとり呟いたからといって、世間様がよくおっしゃるところの、木の芽時特有のナニカがこのアタシの身に起きて、突如ごそごそ何処ぞから、久しぶりに這い出してきたってぇ分けじゃございませんので、そのヘンは御心配なく…、ですぅ。
アタシ「芸者・うふふッ」といたしましては、そろそろキチンとしないと、お座敷から声がかかんなくなっちゃう、御贔屓さんをなくしちゃう。
そういう理由でございます。

で、本格的には次回からになるのですが、過去にやっちまったぁ2年を超える「海外逃亡生活」、そのなかで出会った人々や起きた事柄なんかを、ポツリポツリと書いていきたいなぁ、なぁんて思っております。
今回はその助走、てぇほどにはシャチホコ張ったもんじゃぁないんですがね、どんな雰囲気のなかで送った日々だったのか、そのぅなんてぇんですかねぇ、そう、全体像というんですか、それがな〜んとなく解っていただけるかなぁと、『卒業論文』の「はじめに」、つまり序論ですね、それを貼り付けさせてもらいます。

えっ?何?? ちょっとぉ何よおぅ!分かんない!! そそ、そっ卒論って、姐さんのトシを考えりゃすぐ判る、そんな昔のモンを読まされてもなぁ!? はい、そうですね、そう思われるは当然ですよねぇ。
でもね、アタシぃ、2001年3月に、大学を卒業したんですよぉ、お恥ずかしい…。

ある日突然、この「突然」というのが、アタシってぇ人間のキーワードかも知れません。いっつも、何においても、突然、なんです。大学へ入り直そう、そう考えついちゃったのも、まさしく突然。

その昔の、大学中退してからのヤクザな商売のことを語るのは、またいつかということにしますが、そんなアタシの子供ン時からの趣味の一つが読書なんですよぅ。小説は勿論のこと、興味のあるものは手当たり次第に乱読の、シリメツ状態。
でも、そういう状態でもね、それが長年続くと、なんかこう、広がりっ放しの枝葉の中に、幹みたいなもんが見え隠れしてくるんですよねぇ、錯覚かもしンないけどさ。
そうなるともう、枝葉をキチンと刈り込んで、どんな幹なのかを見たくなる、知りたくなる。
で、オバカなアタシは、自分でも出来るだろう枝葉の刈り方から勉強したくなって、大学の通信課程にイイ歳して入学しちゃった、ッてぇわけなんです。
ヤクザな商売も長丁場の場合もあったりでしたから、自分のペースで単位を取っていけるこのシステムは、ほんと、アタシにとっては良かったですねぇ、挫折しないで済んだ。良すぎて、のんびりとし過ぎちゃいましたけどね。
専攻は哲学。ねぇ、バカでしょ? またまた金にならないものに、興味をもっちゃうとこがさぁ。

卒論だけ残しての海外逃亡生活。そのなかで、絞り込めきれなかった卒論テーマが、偶然ではありますが、明確になってきたんです。
話、少〜しは見えてきたでしょうか? 
ついでだから書いちゃいますね、卒論の題名と内容の概略をさ。お願い! そんなモン興味なんかねぇよ、なんて云わないでよぉ、ついで、ついで、ついでだからさぁ…。
題名は『異なる宗教間における相互理解 その可能性についての一考察』です。内容はですね、卒論の指導をして戴いた教授のお誘いで、卒業後に所属する某研究会の会誌に書いたものからの抜粋を貼り付けます。なので、文章、アタシにしちゃぁえらく余所行きで、ちょい、堅いですが、ご勘弁を。

(略)信仰する宗教の違いによる争いや対立は、私達人間の歴史における、否定できない暗い部分である。そして現在でも「宗教」は、政治的な駆け引きの場に見え隠れしたり、紛争やテロといった場面に公然と登場して来る。(略)果たして、異なる宗教間で相互に理解しあうことは可能なのだろうか。こうした疑問をもとに、三大宗教の基本的教えを概観し、キリスト教における他宗教理解を整理したうえで、ジョン・ヒックの「宗教多元主義」理論に他宗教理解の可能性を探ってみた。斬新さゆえに批判も多い彼の理論ではあるが、彼の提示する「The Real 」の概念に、他宗教理解のための多くの可能性を見出した。また、遠藤周作の作品(注:アタシ・うふふッ、主に彼の『深い河 ディープ・リバー』を分析しましたぁ。)から読みとれる「宗教多元主義」と、「世界宗教者平和会議」の理念および宣言書にふれ、異なる宗教間において相互に理解しあうには、まず個々の宗教内での「寛容の精神」に基づいた様々な検証と確認の必要性を痛感した。そのうえで「対話」に代表される地道な努力を続けることこそが、遠回りのようでも確実な、他宗教理解のための方法であると結論づけた。また、急速に発達するインターネットの世界を有効利用することは、特定の宗教をもたない人々をも巻き込んでの、宗教間理解を高めるための対話の可能性が考えられる。どのようにこうした場を創り出すかが、特定の宗教に属する属さないに関わらず、私達人間の、今後の大きな課題であると思うのである。(略)

ふぅ〜っ。アタシ、自分でも溜息が出たからさ、「はじめに」を貼り付けるの今回、止〜めたっ。長いんだ、それ、結構。
あっ、そういえばさ、アタシって、「検番・薊」おとぅさんの後輩になったんじゃないかなあ?



3月7日:なんか、誤解がぁ…。

前回のコラムで、ちょいと誤解を招いたようで…。
「姐さん、卒論内容の今後の展開、楽しみにしてますよ」とか、「ちょっと専門すぎゃぁしませんか? その方面に興味は無いんで、読むのがだんだん辛くなるかもしれません」などと、こんなアタシのことを忘れもせずに、コラムの更新を待っていて下さった、ありがたい御贔屓筋からの感想をいただきました。
でもぉ、それ、違うんですよぅ。
誤解させちゃったのは、アタシの書き方が至らなかったせいです、ごめんなさいねぇ。

これからポツーリポツリズルズルと書いていこうと思っているのは、「海外逃亡生活」のなかで出会った人々や起きた事柄なんかなんですよ。
で、その生活、昼間はほとんどが、こういう雰囲気が多かったんですぅ、ということを、御贔屓さん方に分かっていただくには、卒論の「はじめに」を読んでいただくのが、手っ取り早い。そう考えて書き始めたんです。
けど、「なんで卒論なのさぁ?」という当然の疑問が、御贔屓さんから出るだろうなぁと思い、その辺りに触れちゃった、というわけなんです。そして止せばいいのに、ついでだからさぁと、卒論の題名や内容の概略なんかを書いてしまった…。それが、誤解を招いた原因です。 ほんと、申し訳ございませんでした。

今回は、前回、自分の溜息に気づいて貼りつけるのを止めた、その卒論の「はじめに」を貼りつけさせていただきます。
ちょっと長いんですけどが、読んでいただければ、アタシが、なぜそれほど「はじめに」にこだわってるのかが、なぁんとなく判っていただけるのじゃぁないかと…。
あッそれから、御贔屓筋からのご感想に、チョイとばかし個人的な諸事情がございまして、個別にお返事ができないんですぅ。誠に申し訳ございません。
でも、ありがたいなぁと心から感謝しながら、ちゃんと目は通させていただいておりますので、ご勘弁くださいませ。ご質問などには、コラム内で、おいおいキチンと触れさせていただきますネ。



 1997年の3月ももうほとんど終わりに近いその朝、授業開始前の教室は、その事件の話で溢れかえっていた。ロサンゼルス郡レドンドビーチの「サウスベイ・アダルト・スクール」の一室である。
 私は当時この学校のESL(第二言語としての英語)コースに、正規の留学生として在籍していた。公立の教育機関であるアダルト・スクールは、地区住民の生涯教育を担っており、絵画やダンス、料理といった趣味的なものから、コンピューターや外国語、そして高校卒業資格取得を目指すクラスまで、数え切れないほどの講座を低料金で住民に提供している。公立の小・中・高等学校などに間借りして、夜間あるいは週末だけ開いている所もあれば、独立した建物で午前・午後・夜間と色々な講座を提供する所まで、様々である。
 そうしたなか、必ずといってもよいほど設置されているのがESLコースだ。これは、新しくアメリカにやって来た米語を母国語としない18歳以上の人を対象とした、無料の米語学習クラスである。私の通学していた学校のこのコースでは、受講希望者には米国滞在資格の合法・非合法を問うことなく、受講許可がおりた。「なぜなら」と、校長はある時私達にこう言った。「ここはアメリカ合衆国です。私達の国に新しくやって来た人達にまず求められるのは、生活するため、生きるために欠かせない言葉なのです。教育行政の目的は移民行政とは違います」。
 そして、フルタイムのESLコースがある幾つかの学校では、入学許可証といえるI-20を発行し、留学生をも受け入れていた。1996年11月30日に移民法が改正されたが、改正日以前にそれを受けた者に関してはその有効期限までは、以前と同様、授業料を払いI-20を維持するために求められている出席時間を満たすことを条件に、在籍は許可されていた。つまり、様々な背景を背負って移民して来た人や、仕事上の理由で滞在している人の家族などに混じって、留学生が共に机を囲むのである。留学生以外の学生は、頻繁に出入りがあったが、当時全クラスで、20名以上の留学生が居たと思う。ある人達は、志望大学入学に必要なTOEFULの点数を満たすまでの身分確保だったり、込み入った事情ゆえの、合法的滞在のための学生ビザ保持者だったりした。だが多くは、語学留学目的で、それも、授業料の安さに魅力を感じ、他校から移って来た者がほとんどだった。勿論、ここを探し当てた私も、そんななかの一人であった。
 私がそこに在籍した約2年間に出会った級友達が、どこからやって来ていたかを、短期間で去って行った者も含め、世界地図片手にちょっと想いだしてみようと思う。アルゼンチン、コロンビア、チリ、ブラジル、ベネズエラ、ペルー、キューバ、グアテマラ、コスタリカ、トリニダード・ドバコ、ニカラグア、メキシコ、カナダ(ケベック)、アルジェリア、エジプト、エチオピア、ナイジェリア、南アフリカ、モロッコ、アフガニスタン、アラブ首長国連邦、イラク、イラン、トルコ、インド、パキスタン、バングラデシュ、インドネシア、タイ、ビルマ、ベトナム、カンボジア、韓国、中国本土、台湾、トンガ、イタリア、ギリシャ、スイス、スウェーデン、スペイン、チェコ、ドイツ、フランス、ロシア、そして日本。
 私のクラスの年齢層は20代前半から60代後半までと幅広く、多様な文化と個人的事情のもとに生み出される話題や意見は、常に新鮮で刺激的だった。しかし時にそれは、クラス中を巻き込む議論に発展する火種でもあった。それに加え、私達の最大の問題点は、やはり語学力だった。婉曲な表現力不足は、怖いほど直接的な言い回しでの、単刀直入な意見となる。それゆえ、ちょっとした行き違いが誤解になり、その誤解を溶こうと話し始めたことが、誤解の上塗りとなることも多かった。しかし私達の大部分は、出身国のアクセントを大いに引きずりながら、もてる限りの米語で、身振り手振り、絵や図を描いてまで、お互いを少しでも解りあおうと努力していたと思う。
 さて、その朝のざわめきは、担当教師がやって来ても、いっこうに収まらなかった。なぜなら私達は起き抜けに、テレビの余りにもショッキングな報道に接してしまったからだ。
 新興カルト集団のメンバーが、サンディエゴ郊外の住宅地で集団自殺を遂げたという。その「Heaven's Gate」と名乗る集団は、インターネットを有力な布教手段に信者を集めた。UFOを信奉し、より進化した人類になろうと、天国の王国を目指し、宇宙から彼らを迎えに来る宇宙船に乗っての旅立ちを願っていたという。テレビ画面には、綺麗に整えられた二段ベッドに整然と横たわるメンバー達が、何度も何度も映し出された。上半身を布らしきものに覆われた彼らの遺体の異様さをより一層際だたせていたのは、お揃いで履いている黒っぽいスニーカーだった。新品らしいそれには、某有名スポーツメーカーのマークが付いていた。
 私には、なんだか悪趣味のTVコマーシャルのように思えたその画像は、級友達にもかなりの衝撃を与えたようで、その謎解きがこの朝の話題の中心だった。突然、押し殺した笑い声が起こった。ブラジル人とアルゼンチン人のグループだ。彼らは全員カトリックだ。「君達は人の死を、どうして笑って話せるのか?」と鋭く言い放ったのは、一人のムスリムだ。すかさず彼らは言った、「何を言ってるの。テロリストの仲間なのに」。
 ムスリムの人達はここ数ヶ月、心ない言葉に苦々しくも、肩身の狭い思いをしていたと思う。それは、アダルト・スクールにおけるI-20不発行決定に関係していた。テロ行為を行なっていたイスラム原理主義者への資金援助の疑いで、ニューヨークで拘束された男がいた。手広く不動産業を営んでいた彼の合法滞在の根拠は、アダルト・スクールのI-20におけるD/S ( duration of status、ビザ取得時と同じ身分を維持する限りにおいて滞在を許可)だった。まず、世論に押されたニューヨーク州でI-20の見直しがはかられ、とうとう私達にも適用されることになってしまったという経緯がある。級友の中にも留学ビザは既に切れ、D/S身分の者もかなり居た。D/Sは、この国を一歩でも出れば消滅する。ビザ再取得の難しい人も多く、この学校のI-20が切れることは、身分維持のために学費の高い他校に移ることを意味した。そんな不満や苛立ちをイスラムの人達に向けて、大人げない態度で発散している人達が居た。いつもは物静かなモロッコ人の彼も、そんなメンバーでもある彼らの笑い声に、我慢がならなかったのだと思う。
 「テロリストの仲間」の一言に、他のムスリムからも「テロリストは、私の国の人間ではない」、「僕の国でもない」などと声があがる。ムスリムといっても一枚岩ではないことは、私にもよく解っている。顔と両手以外は常に黒一色で覆っているパキスタン人女性、またチャドルで髪を隠したインドネシア女性は、そうしてない同国女性を「ムスリムではない」と常々非難していた。スンニだ、シーアだ、との騒ぎもある。アフガニスタンからの初老の男性は、ムスリムであることは認めるが、決して他のムスリムとは議論しない。「あなた達の信じている教えが、テロリストを作りだし、世界中に輸出している。これは間違ってるだろうか?」と再び、カトリックの一人が言った。一瞬の沈黙。それを破ったのは担当教師のジムだった。彼は、全員参加の話し合いの時間にしようと提案した。
 ブラジルの大学で社会学を講義していたことのある彼は、私達に討論させることを好む。テーマは世界各国の風習やその日のニュース、戦争、差別、教育など様々で、彼の膨大なドキュメンタリー・ビデオのコレクションが大活躍する。彼の目的は、私達が当たり前と思っていることに疑問を抱かせ、その中に潜む抜きがたい先入観や偏見、差別観といったものに気づかせて、世界は多様であることを強く認識させることにあった、と私は理解している。そんな授業は問題提起の連続で、大討論会になることは珍しいことではなかったが、この日の雰囲気は今までとは違い、最初から殺気だっていた。
 彼はまず、私達が頻繁に口にしていた「カルト」の語源を示した。つまりCULTはラテン語のCULTUSとCOLEREからきていること、前者にはcare/adorationの、後者にはcultivateの意味が基本的にあることを頭に入れて、今日の事件のこと、自分の信仰などを、自由に話し合いなさい、と言った。そして、特定の宗教をもっていないと明言してる2名に、まず初めに何か話してもらわないか、と提案した。その2名とは、中国本土からやって来たクラスの最年長者の男性と私である。彼は文化大革命のおりに捕らえられ、10年近い労働収容所生活を送ったことがあると、私に語ったことがある。彼は、「私は無神論者であり、宗教は戦争や紛争の最大原因である」と言った。それに対して、カトリック側から出た意見は、「そう決めつけるのは間違いだ。なぜなら、昨年11月にはキューバのカストロ議長さえバチカンでローマ法王に会った。法王がキューバを訪問すれば、あの国は平和になる。私達の信仰が正しいことは再び証明されるだろう」というものだった。子供の頃はプロテスタント教会に行っていたというドイツ人は、「それは政治的背景を考えない一方的見方だ。あの会見は、政治の道具として両者が行き来しただけにすぎない。バチカンを盲信するな」と言い、インドでのヒンドゥとシクの対立にまで話が及んだ。当のヒンドゥはただ一言、「私達の教えは正しい」ときっぱりと言った。
 私はこのテーマに意見を言うのは、正直なところ、嫌だった。以前、「特定の宗教はもたない」と言った時、「ああ、なんて怖ろしい!」と言いつつ、目の前で十字を切られ、その後の意見をみな無視されたことがあるからだ。それに宗教がらみの話題の時に、ジムを含めGodという単語を疑問なく使って話されることに抵抗してきたが、その私の抵抗理由を未だきちんと納得させることが出来ないでいたのも、もうひとつの大きな理由だった。どうしようもない断絶感と苛立ちのなかで、私は言った。「日本でもカルト集団が無差別テロを起こしたことがあるし、他にも問題のある信仰集団があり、洗脳ということに興味が集まってたこともある」。そして最後にこう言ってしまった。「どの宗教でも最初はカルトと思われ、迫害されたのではないか」と。
 さあそれからは、「真なる教えゆえの迫害だ」「神の子だ」「啓示を受けた」「神の言葉だ」「永遠だ」「真なる教えはひとつだ」「仏陀の教えは哲学だ」等々、私の意見の意味などそっちのけの、騒然としたものになってしまった。私は宗教を侮辱したり、否定しているのではない。ただ、自分の信じるものだけが絶対で、真なるものだと、常日頃主張する人に、少しだけ立ち止まって考えて欲しかっただけだったのだ。
 今でも私は、その時の憎悪に満ちた暴言を投げ合っていた何人かの級友の顔を忘れることが出来ないでいる。その日以来、その時ほどの大議論は起きなかったが、テーマによっては宗教に触れざる得ないことも何度かあり、その度に、私の頭をかすめる言葉があった。それは「宗教多元論」という言葉で、幾年か前の夏期スクーリングでの間瀬教授の「哲学特殊(宗教哲学)」の講義で出会ったものだった。しかしその内容のエッセンスのようなものは、私の中に残っているのだが、悲しいかな、自分自身にさえ、きちんとした説明ができなかった。ジムや級友への説明など、なおさら不可能だ。悔しかった。
 帰国後、スクーリングでノートに書き留めたものや、参考書だったジョン・ヒックの著書を読み直した。そして、「宗教多元主義」を基に、異なる宗教間で相互に理解しあうことは可能かどうかを、学び考えたいと思った。 現代においては、宗教と政治の複雑な絡み合いは、局地的紛争を引き起こす大きな原因のひとつになり、様々に世界を突き動かす重要な要因として、考えざる得ないものである。ただひとつのものだけが正しいと信じ、一種の思考停止状態で、他を誹謗中傷、また排斥することが、どれほどの悲劇を生んでいるだろうか? その一点を考えただけでも、異なる宗教間での相互理解の意味は大きいと思う。
 しかしまずは、卒論としてこのテーマに取り組むことで、私のあのクラスでの出来事を、きちんとした形で、少しでも整理することができたらと願っている。


最後まで読んでくださって、本当にありがとう。
そういうこと、なんですぅ。
なお、国名のなかに、ミャンマーではなくビルマとありますが、それは今でも友人である女性が、アウン・サン・スー・チー女史の支持者でもあり、「私の母国はビルマである」と常々主張していたことに敬意を表し、あえて、ビルマと表記したものです。
さぁて、次回は、誰のことから書き始めようかなぁ?




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