1月14日:別れ

☆「これでどうだぁ、文句はあるか」

さあ、これでどうだぁ、文句はあるか。

オヤジは云っていた。何度もなんども云っていた。
オレが死んだ時にはな、ジャズ・ソング流しての、呑めや歌えのパーティがいい。
抹香くせぇ、お涙頂戴、形式ばったもんは真っ平だ、いらねぇぜ。あんなもんは大嫌ぇ。

オヤジは云っていた。何度もなんども云っていた。
オレが死んだ時にはな、太平洋上、遥か雲の上からよ、オレの遺灰をまいてくれ。
じっとり暗い、墓石の下なんてのは真っ平だ、やめてくれよな。そんなところは大嫌ぇ。

だからさぁ、これでどうだぁ、文句があるか。この選曲、あの笑い声、酒の量。
わるいなオヤジ、金が足りない。チャーター機なんてさ、夢のまた夢、無理だった。
あんたの愛したあの海岸で、そっと投げ入れる一欠片の骨。そんなところで我慢しろ。

オヤジは云っていた。何度もなんども云っていた。
オレが憧れたのは満州馬賊。彼の地で果ててもの理想が鎧、守り札は死神の荒野の彷徨。
なんだよなんだぁ、スローガンの裏側。また、それら、欺瞞の末のお笑い地獄。

オヤジは云っていた。何度もなんども云っていた。
夢破れて後のボルネオの闇。急ごしらえの偽ムスリムは、アッラーへ祈るも、嘘八百だ。
神風は吹かず屁もひれず、軍刀を胸に抱き、一人洞窟の中で慟哭するは、飢餓ゆえの望郷。

だからなんだよ、文句はなんだぁ。彼の亡霊は、あてどなく漂う、風のクロニクル。

これでどうだぁ、文句はあるか。
あんたが絞りだした、体内からのその一滴。結果、今ここに存在する者の戸惑いと苛立ち。
そう、世間様には適応できず、時代に添い寝もできないままの、ヤクザな商売この夢想屋。

これでどうだぁ、文句はないだろ。
ある日この存在が消滅する時、秘やかに語られる、血の連続性という物語は終わるだろう。
さあ、これでどうだぁ、もう、文句はいうな。あんたの人生、まあまあじゃないか。


本名・茂周(しげちか) 愛称・もしゅう、もっちゃん、しげちゃん
明日が91歳の誕生日という、その前日未明、永眠する。



☆会葬者の方々への御挨拶

本日、父・茂周の密葬に際しまして、新年早々、それもこのような早朝に、わざわざ故人の為に、御会葬くださいまして、厚く御礼、申し上げます。
かえりみまして、父は、とんでもない生き方をした父は、生前中は皆様には御迷惑やらなんやらを、おかけしたこともあったかと存じます。
ここ数年は、年齢ゆえの様々な不調により、老人保健施設にお世話になっておりましたが、昨年11月30日に、隣接する病院に移ったばかりでございました。
そして、明日は誕生日というその前日未明に、永眠いたしました。
90年と364日、長生きしたなぁと思います。天寿と思うほかはございません。
父の生前の意志にそう形で、本日はこのように音楽、それも故人が好きだったナット・キング・コールの歌声を流して献花という、無宗教で行わせていただきました。
本日、皆様の御見送りを受けまして、故人は苦笑い、照れ笑いをしつつ、さぞかし満足している事と存じます。
簡単でございますが、お礼の挨拶にかえさせていただきます。
誠にありがとうございます。



☆(次の文章は、昨年、だす宛のない友人への手紙、という形を借りて、ちょっと書いてみたものです。それに、ほんの少しだけ手を入れました。)

「私の青空」

4月もまだ半ばというのに、ここのところ、梅雨寒のようなおかしな日々が続いています。アパートのベランダに出した、冬を無事に越したグリーン達も、なんだかとっても元気がない。
そちらはいかがですか?
そんな天気のせいにはしたくないのですが、ここ2、3日というもの、私は Bitchな気分に急に襲われます。凄く意地悪でとんでもなく嫌なオンナが、身体の奥底から沸き上がって来て、自分でもほとほと手を焼いています。ですから、遠方の親しい友人からのメールに返事を書いていても、どこか空回りしてしまうのです。なぜって、ふっと気を抜くと、突き放したような冷たい言葉で、嫌味なことを書きそうで、怖いからです。どうしちゃったんだろう、私?

そんななか、今日は高速バスに乗り東京湾を横断し、父に会いに行って来ました。こんな、私が私を大嫌い状態の時には、正直、会いには行きたくないのですが、どうしても病院に連れて行かなければならず、こういうことになったのです。
父は数年前から、千葉県の某老人保健施設に入所しています。その施設に隣接されて病院はあるのですが、ちょっと問題のありそうな症状があると、責任が取れないからと、離れた所にある大病院に、家族が連れて行くことになるわけです。
先々月に会った時は、私の名前が分かりました。でも先月には、私が自分の娘であることは分かっていましたが、名前はもう思い出さないようでした。介護員の方が、何度も何度も父に訊ねたのですが、ニコニコ笑いながら小さく幾度も頷くだけで、とうとう最後まで、私の名前を口には出しませんでした。きっともう、忘れちゃったのだと思います。

いつも行き帰りは、バックパックに他の荷物と一緒に詰め込んで家を出た、お気に入りの何枚かのCDの中から、その時の気分に合わせて取り出しては、窓の外の海を見ながら聴いています。でも、今日は違いました。何枚か持っては出たものの、どれもこれも聴く気にはなれませんでした。それは、ずーっと私のなかに、高田渡さんの歌声で、『私の青空』が鳴り響いていたからです。

1912年1月、つまり明治という時代の最後の年に、私の父は神奈川県の海の近くで誕生しました。家庭的には様々とあったものの、その時代の庶民には珍しく、旧制の名門中学から東京の大学に進学しました。大学生活はというと、旧制中学の時から始めた剣道一筋の毎日だったということです。
しかし、父の二人の姉達がそう望んだように、彼もまた、本当は声楽家になりたかったということです。
そんな彼の秘かな楽しみは、毎日の様に通う映画館と浅草オペラ、そして日劇レビューでした。映画はアメリカ映画、一辺倒。その理由は、アメリカの最新の歌が、いち早く聴けるのは映画だった、だからだそうです。何度もなんども同じ映画に、その映画の主題歌や挿入歌を、唄えるようになるまで通い詰めたそうです。
ですから、父の年代ではよくあるように、軍歌や日本の歌謡曲を好むということはありませんでした。かえって、嫌っていたほどです。
うっすらと私が憶えている、我が家にあった何枚もの78回転のレコードも、誰かが吹き込んだシャンソンやスタンダード・ジャズばかりでした。

出張先のボルネオで現地召集され、敗戦後2年以上も消息不明。やっと帰還した父が、父の母と私の母が身を寄せていた父の実姉の家の玄関に立った時、実の姉がその男が弟だとは判らなかったと話に聞きましたが、家族の誰もが判らずにいた、もしかしたら、父自身さえもはっきりとは気づかずに来たかもしれない、多分、少年期に芽生えたらしい彼の心の闇は、日本に帰国した途端、どんどんと面積を拡げて行ったようです。

結婚してもなかなか子供が出来ず、夫婦して病院巡りの末、やっと生まれたのが私だそうです。
しかし、そんな思いは、父は直ぐに忘れてしまったようです。なぜなら、私が保育園に行くようになったのは、家庭を、家族を省みない父に代わって、母が働きに出始めたからです。なんだか、いつもゴタゴタと小競り合いが絶えない家のなかで、私、いつの間にか、大人の顔色ばかりをうかがいながら、静かに一人遊びをする、空想好きな子供になって行きました。

そんな父が、自分だけ機嫌の良い時に、よく唄っていた幾つかの歌があります。
その中の1曲が、この『私の青空』です。
楽しそうにこの歌を一人唄う父に、何度、憎しみを覚えたか知れません。それは、父の唄う姿にだけではなく、この歌の歌詞にもです。今更、隠してもしかたのないことなので云ってしまいますが、二度、それは憎しみなんてものではなく、はっきりと殺意を覚えました。そのうちの一回は、実際に刃物を手に、父に刃向かう私がいました。

私が、高田渡さんの唄われる『私の青空』を初めて耳にした時に感じた驚きは、いくら言葉で説明しても、友人のあなたにも解ってもらえないかもしれない。想像さえ、してもらえないものかもしれません。
何かが、分かったのです。分かった気になったのです。なんかこう、この歌に対する胸のつかえが、すーっと消え去って行ったのです。
高田さんのこれは、ちっとも楽しそうじゃない。「我が家」になんて帰りたくなさそうだし、だいたい「我が家」が「恋し」そうじゃないんです。このまま「細道」をずっと歩き続けていられたら、どんなにいいものか、そんな風にも聴けてしまったのです。

父は、いつの頃からかは知るよしもありませんが、家に帰っても自分の居場所がないことを、はっきりと感じていたはずです。実際、そうだったのですから。
どんな思いで、父は、この歌を唄っていたのでしょう。今のように、会話が成り立たなくなる前に、酒でも飲ませ機嫌良くさせて、こっそりと訊いてみたかったと、今日は父の車椅子を押しながら、つくづく、そう思いました。
もうきっと、最期もそれほど遠くはないだろう父の、人生の「青空」って、一体、なんだったのだろう。

なんだか、読む方が暗い気分になりそうな話ですよね。でもこれが、父と私の『私の青空』です。






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