それぞれの事情 1

その1


ランチ後のクラスに「その人」が現れたのは、私がカリフォルニア州立ロングビーチ大学の夏期集中コースを終え、授業料が安くしかもチャントした授業が行われ、加えて、なるべく多くの国からの様々な年代の人々が集まる所で学びたいと、探しにさがした結果、やっと見つけたサウスベイ・アダルト・スクールに在籍して3ヶ月になろうとする頃のことだった。

その時、私たちは与えられた20分という短い時間のなかで、先程まで意見を云い合っていた当日の「LA Times」の記事をもとに、誰も彼もが必死になって、エッセイを綴っていた。いつものことながら、シーンと静まりかえった教室の中、溜息に似た息づかいや字消しペンを振るカチャカチャ音が、時折、聞こえてくるだけだった。
そんな私たちが、場違いとも思えるベッキーの突然の大声にギクリとし、エッセイを書く手を止めると、一斉に顔をあげたのだ。
「あっらー! ピーター! 久しぶりねぇ、どうしてたの? 元気だったの? 大歓迎よ」。
 
音を立てないよう、そろりと教室のドアを開けたはずなのに、教室中の視線を浴びてしまったのは、細身で長身、初老の東洋人男性だ。糊は効いていないが真白なYシャツにゆったり目のジーンズ、そして白いスニーカー。手には、この学校内では一度も目にしたことが無い黒革製の手提げカバン、それに、これといった特徴のない金属フレームの眼鏡をかけている。

ピーターと呼ばれた東洋人は、一瞬、驚きと戸惑いの表情を見せたが、全員に向かって落ち着いた調子で挨拶をしながら、ゆっくりとベッキーに近づき片手を差し伸べると握手をし、登録用紙を手渡した。
そして穏やかな笑みをうかべて教室を見回すと、窓際の空席に向かい、そこに静かに腰を下ろした。

とんでもなく明るく賑やかなベッキーの声は、その間中も途切れることなく続いていた。
彼は1年ほど前まで自分のクラスに在籍していたこと、母国では農業の専門家だったこと、その頃の在籍者は残念ながら、今このクラスには一人もいないけれど、彼はクラスの最年長者で皆に尊敬されていたし、人気者でもあったこと。
「ネ! ピーター、そうよネ!!」と、一言も発していない彼に向かって念を押した後、「ピーターはとてもイイ人なので、きっとみんなも好きになるはずだわ」。そう云って、やっと私たちへのピーター紹介を締めくくった。
 
彼は、日本人の私が見たところでは、年齢は60代後半、きっと中国人、それも中国本土出身者のような気がした。
午前中のジムのクラスには50代後半から60代後半の、中東系男性数人とトルコ人女性一人、インド人の男性女性が一人ずつ、台湾人女性と韓国人女性がそれぞれ数人ずつ、カンボジア人女性も一人、彼らは毎日出席することは無いが、在籍している。
けれど、ほとんどが留学生のこの午後クラスでは、私がまずクラスの平均年齢を大幅に引き上げ、そして今日、ピーターが加わったことで、一挙に平均年齢は押し上げられたことになる。

その日の授業中、ピーターはちょっと嗄れた物静かな声で、文法的な質問に二言三言、それも簡潔で完璧な答えをし、授業終了と共に静かに教室をあとにした。

彼は週に三日ほどやって来た。
ピーターは、一見、物腰はとても柔らかい。しかしディベイトでは、理路整然と隙のない意見を、毅然と述べる。それも、彼と同じ意見側に立つメンバーはもとより、反対意見側のメンバーさせ、反論可能な箇所をメモするのを忘れて聞き惚れてしまうほど、静かな迫力に満ちた、なんだかソノ道の大家の御意見を拝聴している、といった塩梅になってしまうようなものなのだ。

彼の米語の発音は、お世辞にも良いとは云えないが、とにかく語彙の豊富なことには感心する他なく、その語彙も、学術書に登場するようなカタイ感じのものが多い。だから、私レベルの語学力では難解過ぎて、その単語のスペリングを勘でメモっておいて、あとで辞書を引いては、綴りから確かめることになる。
そして、あぁ、文脈は間違いなく理解できていた…とか、ありゃぁ、そんな意味だったの、凄い思い違いをして聴いていたじゃぁないか…とかは数知れず。
ピーター使用の単語を安易な単語に置き換えて関連づけ、その難解単語を、どうにか頭に叩き込もうとしたけれど、それらの幾つが自分のモノになっているかは、正直なところ、全く自信がない。

とにかく、くだけきった西海岸特有の表現、それも出身国の訛りを大いに引きずった米語が飛び交うクラスの中では、彼の語彙や表現は、かなり異質な匂いを発するものであったし、高度な文法力に裏打ちされていなければ、とうてい書けるはずのないソノ見事な文章も、クラスの中では別格の趣を漂わせていたのは確かだ。
私はある種の羨望と、どうしてピーターは、今更このESLクラスで学ぶ必要があるのだろうと首を傾げながら、彼に対するは好奇心は、日ごと止めどなく膨れ上がって行った。


このクラスは、担当教師ベッキーの、その明るくフレンドリーなキャラクター、つまり一言で云えば、典型的なカリフォルニアン気質と云われているものだが、それがそのまま乗り移ったかのような、なんともいえない雰囲気に充ち満ちていた。
しかし、私が転校のための校長面接を受けた後、事務サイドから、午前はジム・クラス、午後はベッキー・クラスに登録することを勧められソウしたものの、午後クラスでの初めの30分で、このクラスで学ぶことに完全なる自信喪失したことが、昨日のことのように想い出される。

ジム・クラスも、テキストを見た限りでは、私にとっては容易なレベルではなかったが、UCLAで「社会学」を修め、長年ブラジルの大学で社会学の教鞭を執っていた彼の話す内容は、私の興味の範疇だったし、卒論だけ残していたK大学での専攻内容に近いこともあったので、最初はかなり辛いが、頑張ればツイテイケル!と思った。が、ベッキー・クラスはソウではなかったのだ。

ベッキーの話し方には切れ目がなく、その話す内容も縦横無尽に目が回るような展開の仕方。おまけに早口。それにも増して目がテンになるどころか、身体も心もフリーズしちゃう、理解不能のジョーク頻発の、私にとってはまことに凄まじい授業だったのだ。

これでは、私はクラスのお客様になる、そう思った私は休憩時間に直ぐさま事務所に出向き、レベルダウンのクラスへの変更を申し出た。何事にも自主性を重んじるお国柄のせいか、問題なくそれにはOKが出た。
一応ご挨拶をと、その旨ベッキーに伝えると、「あら、誰だって最初はそうよ。1週間、いえ、2週間でいいからココに居てみれば? それでも無理だったら、それからクラス変更したって遅くはないでしょ? ネ、そうしなさいよ。あなたとはトシも近いし、話は合うと思うんだけど」。

そんなモンなのかなぁ…。
そういえば、語学を学ぶ時は、自分の現在のレベルよりも、少ーしだけ背伸びする位のトコロで頑張るのがイイ、その方が身に付く、そう、ソルボンヌ大学で学んだ我が30年来の大親友が語ったことがあったっけ…。

で、単純な私は、かなり後になって、ベッキーの言葉にコロッと騙されたことを知ることになるのだが、少しどころか、実はかなりの背伸びを必要とするクラスに、そのまま在籍することにしてしまった、という次第なのだ。
それに親友の云った、「でもさ、記号論を初年度に選択したのは間違いだったよ。モノには限度ってもんがやっぱりあった。見事、単位を落とすどころか、途中で挫折しちゃったもの」を、その時は完全に忘れてもいたのである。

まぁ、どちらにせよ、自分が何かをやりたい、そう強く願った瞬間には、もう周りの状況やなんやかやは全て見えなくなり、都合や具合の悪いこともケロリと忘れ、まずは、それに向かって跳んでしまう癖のある、私らしい選択だったのかもしれない。傍から見たら、それこそ危なっかしくて仕方がなくても、本人は危険さえも楽しみながら、異常ともいえる集中力を発揮して懸命にやってしまうのだもの。人様からは後ろ指を指され、笑われているのも気づかずにね…。

さて、本当に大変でしたが、1ヶ月も過ぎるとベッキーの喋りの呼吸や癖も飲み込めて来て、授業中の不必要な緊張感も薄らいで来た。それになんと云っても、そんなクラスに居続けられたのは、ベッキーの個性に加え、突拍子もない質問を堂々とする劣等生の私に、クラスメートたちが暖かく親切な態度で接してくれたことが、最大の理由であったと思う。

かなり経ってから、今でも連絡を取り合う仲良しの一人が云ったこと。
「凄かったよねェ、アンタの米語。恐ろしい日本語訛りだけでなく、プツリプツリの切れ切れ文章でさぁ。でもネ、感心してたんだよ、アンタの物怖じしない態度と質問の多さには…。普通はアアはいかない。それにアンタの意見は面白かったし、ドキッとされたりもした。あのさぁ、陰でなんて云われてたか知ってる? アイツは本当に日本人か?! 日本人はシャイなはずだ、意見なんて云わないはずだ、それもアンナ酷い米語で堂々と…ってさぁ。ButとBecauseのUfufuとも云っていた。ギャハッハッハハハ〜」。

そうですか、そうですか。私は怒ったりはしませんでした。そう云った彼女と一緒になって、腹を抱えて大笑いをしましたよ。だって、全くその通り!なんだもの。
しかし誰が云い始めたのかは聞き漏らしたが、「ButとBecauseのUfufu」とは、なんて上手いネーミングなんだろう。意見を云う時には、まずはYesなのかNoなのかをハッキリとさせ、その後にButかBecauseをつけて、易しい単語ばかりの、しかもプッツリ切れ切れの短い文章で繋いでは、云いたいことを自由に述べていた私。
凝った表現なんて思いもよらなかったし、もし間違ってソウしたいと思ったとしても、出来るはずなどなかったのですよ。恥ずかしいなんて、思う余裕さえなかったのですよ。
それに、私が心から恥ずかしくて嫌だなぁと思ってしまうのは、そんなことではないのだもの。ヘンなプライドをぶら下げて、分かった振りをしたり、知ったか振りをすること。それと、何にでも調子よく無責任に首を突っ込むこと、それも聞いてる方がムズムズしちゃう様な御上手な口調で…。何のことであれ誰のことであれ、今でもソウ思っていますが、どうなんでしょうかねェ?

さて話を戻すと、実は当時ベッキーのクラスは、例の、クラスが消滅するか否かの危機的状況、つまり週平均出席者15名ラインが危うかったのだそうだ。だから、自分の身分保障のために、必ず出席するはずの留学生である私の登録は、もっけの幸い、飛んで火に入る夏の虫、だったわけで、必死の引き留めが必要だったのは、まぁ無理もないことである。
そうとは知らぬ私は……。
しかし、結局のところベッキーとは、お互いにアケスケに物事を語り合える友人になれたのだから、人生ナニがドウ転ぶか分からないという、まことに幸せな方の一例なのだろう。


さて、ピーターが私たちのクラスに現れた頃、休み時間ともなると、私たちの教室には、何人もの女性が他のクラスから集まって来た。彼女たちのお目当ては、留学生のフェルナンド。
スパニッシュ・ギターの名手である彼は、肌や髪や目の色は、誇り高き先住民の血を色濃く漂わせているが、侵略者との血が上手い具合に混じり合うと、斯くの如き美しき風貌を生むものなのか! と感嘆するしかないほどの20代後半のコロンビア人だ。惜しむらくは、背がそれほど高くはないことだが、グッド・ルッキングとかハンサムとか、そういった在り来たりの言葉で形容するのが失礼なほどに、なんだか神々しい美しさを発散している。
本人は冗談好きでサッパリした気性の、いたって気持ちのイイ男だし、どこまで自分の魅力に気づいているのかは判らない。けれど、とにかく、彼と何気なく目が合ったりしただけで、ゾゾッと来ちゃうほどの、なんとも困った美しいヤツなのだ。

そのフェルナンドが休み時間には、腰まで届きそうな長さの、ゆったりと波打つ黒髪を振り乱しながら、激しく甘くそして哀しく、情感タップリとギターを奏でるのが常だから、それはもう、オトコに対して、余程の凝り固まった趣味の持ち主でない限り、女性陣にとっては、トイレに行くのを我慢する価値は充分にある、定例のイベントというものだ。

時には、彼のギター伴奏で、スペイン人の美人で秀才の新妻・シンシア、口は悪いが心優しいチリ人のロドリゴ、休暇の度に親戚の家に居候をしては、この学校で勉強しているという、歌の上手なケベックからのナンシー、それに、なぜか彼らと直ぐに仲良くなった私も加わり、大声で、「♪ボラーレ〜」とか「♪パラカンタラバンバ」とか「♪ガンタラメラ〜」などと唄ったりするのだから、その賑やかさ五月蠅さといったら、それはまぁ半端なものじゃない。

そんな私たちの騒ぎをモノともせず、いつもピーターは小さなノートを開いては、何かを読んだり書き込んだりしていた。でもその姿は、バリアーを張り巡らしてそこに存在しているというのではなく、あくまでも、ゆったりと自分の時間を過ごしているという風で、ガリ勉野郎といった嫌味な感じは全く漂ってはいない。
なんだか、知識としての言葉でしか知らなかった「大人・たいじん」、それが彼にはピッタリ当てはまる、そんな雰囲気なのである。

ピーターって、一体全体、どういう人? 何者? なんだかとっても謎めいている。気になってしょうがない。




その2


さて、私が気になって仕方のない存在、ピーターへの野次馬的興味は益々つのるが、話すきっかけがないまま日々が過ぎて行った。が、ある日のベッキー・クラスでのグループ作業で、とうとう彼と組むことになったのである。

作業の課題は、サバイバル米語を教えるのが基本方針である、この学校の授業に相応しいものだった。
それは、移民してまだ日の浅い赤字続きの一家族、その一家の家族構成と彼らの抱える諸事情が記された文章を読み、家計の決算表をチェックして、過去の収入と出費を考慮した上で、まずは、早期に累積赤字を無くせるような毎月の予算案を作成すること。そして、もし可能ならば、家族構成から推定される、近い将来の臨時出費に備えての蓄えをも捻り出せるよう、家族が納得するような説明を文章化して発表する、というものだ。

その為の参考資料として渡されたのは、実在する幾つかの銀行のパンフレットのコピーである。それには、口座開設に必要な書類や注意事項、普通預金口座や当座預金口座などの規約や口座管理手数料、預金口座における利率一覧表。また、複数口座の組み合わせや預金金額の多寡、特定期日における残高によって異なる各種手数料、各種料金の口座引き落とし契約によって発生する、サービス利率や手数料の割引率、振り込み金額によって異なる振り込み手数料やローン金利などが、事細かに書かれている。
それらを基に、二人で話し合いながら課題を行うわけである。

さて、机を向かい合わせにしてひっ付けて、ピーターと向き合った私がまずしたこと。それは、彼の両手を見ることだった。

なぜなら、ピーターに関して、どうしても引っかかってしまうことがあったからだ。
それはベッキーが、ピーターが母国では、農産物を実際に生産していたと思い込んでいるらしく、授業中に、彼に何度か農産物に関しての個人的な質問をしたことがある。だが、彼が答えるニュアンスから私が感じたのは、彼は農産物に関する深い専門知識はあるけれど、実際に農業を営んでいたのではないのでは…、というものだった。

もし誰かに、どこがどうで、なぜアンタはそう思ったのか? と訊かれても上手く説明はつかないのだが、彼が質問に答える時の「間」と云おうかなんと云おうか、そんな微妙な一瞬に、なんだか、とても奇妙なズレを感じてしまったのだから、仕方がない。
だから、ピーターがこの国にやって来て、どれ位になるのかは分からないけれど、もし彼が農業生産に直接従事していたのならば、彼の両手には、その歴史を物語るであろう、なにがしかの痕跡が残っているはず、そう考えたのである。

そして、私が間近で目にした彼の両手は、どう見ても長い年月、土と格闘してきたソレではなかった。加齢とカルフォルニアの強い陽射しによるものだろう、無数の茶色い斑点はあるが、節くれ立ったところの無い、スラリと伸びた十本の指。
本当に、ピーターって何者なんだろう?

その日、最初に課題を終えたのは私たちだった。
それはひとえに、ピーターの素速い判断と決定、その理由付けの明確さ、加えて信じられない速度で行う利息計算によった。私が、もたもたと数字と格闘する間もなく、全てが彼によって、ものの見事に成されてしまったわけだ。
しかし、その茫然自失状態のなかでも、私が見逃さなかったのは、やはり彼は中国人らしい、ということだった。なぜならば、彼の作業中のメモは、漢字によって行われていたからである。
他のグループが仕上げるまでの間、私たちはどちらからともなく、自然に雑談することになった。

私は何気ない話の途中で、思い切って彼に質問した。
「漢字を見て思ったのですが、ピーター、あなたは中国人ですか? 中国本土からいらしたのですか、それとも台湾ですか?」
こう今、日本語で書くと、あたかも丁寧な米語表現で私が尋ねたかのように見えるが、この日本語は、あくまでも私の彼に対する気持ちの表れであって、そんな高度の語学力はない私だから、当然、他のクラスメートと話す時と同じような言葉づかい、つまりタメ口だった。

ピーターは「中国本土だよ」と答えると、さりげなく、次のように付け加えた。
「それにしても君は、本土と台湾とを、明確に区別しているわけだね」。
一瞬、しまった、拙いことを云ってしまった、微妙な問題に触れてしまったなぁと思い、そっとピーターの様子を窺ったが、ピーターの目は、いつものように分厚いレンズの眼鏡の奥で、静かに笑っているだけだった。

「そうです、区別が必要だと思っています。それに以前、 Chineseかと質問された中の数人が、いいえ、私たちはTaiwanese であって Chineseではありません、と主張している場に遭遇しました。ですからそれ以来、私も明確に区別して訊ねるようにしています」。
そう正直に答えると、彼は相変わらず物静かな微笑みを浮かべながら、頷いた。
そして、「君はいつでもハッキリとモノを云う女性だねェ。前から気になっていたのだけれど、日本生まれの日本育ち? 両親は日本人?」と訊いたのだった。
 
その日はそれ以上の深い話は出来なかったが、その日のことがきっかけとなって、ピーターとは授業開始まえや休憩時間に、色々と話を交わすようになって来た。
そして、それに連れて、彼の正体はだんだんと判ってきたのだが、実は彼は、私が推測したように、やはり農民出身ではなかった。彼は、中国現代史の生き証人と云っても差し支えない人物だったのだ。
ピーターは、現在では中国の「十年の厄災」とも呼ばれる、1966年8月から吹き荒れた「文化大革命」によって、大きく人生を狂わされた一人だったのである。
 
「文化大革命」と聞いて、まず私の脳裏によみがえるのは、赤表紙の「毛沢東語録」。そして、手に手にそれを掲げ、一糸乱れぬ行進をする中国各地から集まった「紅衛兵」を名乗る少年少女達の姿と、三角帽をかぶされて大勢の人々の罵倒を浴びこづかれながら、町中を引きずり回される、「ブルジョワ反動思想の持ち主」とされた人達の映像である。
また、この「闘争」の意義を当時熱く論じた言論人達の名前や、その後の闘争の歴史的意味づけを巡って闘わされた様々な意見も、多少は説明できる程度には知っている。
そしてまた、高校時代の友人たちの中のたった一人の女友達、その彼女のかなり年の離れた恋人絡みの話も思い出す。絵描き志望だった友人の恋人は、当時話題の新進気鋭のバレエ・ダンサーだったが、彼は長いあいだ、「京劇」の舞踊技術を学びたいと熱望していた。あらゆるコネを使って、やっと決まった中国留学だったが、何か理解不能のことが起きているから危険だと周囲から忠告され、渡航直前に、泣く泣く断念せざるを得なかったのだ。

しかし、今、こうして私と話をしている、ピーターというアメリカン・ネームを名乗る男性が、あの「四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)打破」の対象とされた一人だというのは、誤解をおそれず云えば、なんだかとてもドラマティックな展開ではある。

ピーターが「文革」で糾弾され、「労働キャンプ」に9年間も収容されていたことを語り出したきっかけが、果たして何だったのか、今はもうはっきりとは思い出せないが、何かの話の流れで、まるで他人のことを話題にするかのように、突然、静かに話し出したことだけは覚えている。

彼は「文革」当時、とある大都市のお役人、農業政策の専門家だったのだ。政治的な実権強化のために、狙い撃ちの対象になった側に在っただけでなく、実姉がアメリカで暮らしていたことが、彼により暗い影を落とすことになった。スパイ容疑である。
弁護する時間も与えられぬまま、送り込まれた労働キャンプでの生活は、やはり大変過酷なものであったらしく、その多くは語られなかった。ただ生き延びることだけを考え、理不尽な洗脳と重労働に耐えたという。
しかし、「6年近く、家族と面会は出来なかったんだよ。安否の消息さえ、知ることはできなかった」。そう語った時のピーターの表情には、いつもの人を包み込むような暖かな柔らかさはなかった。

ピーターが思い描いていた日本人、それも日本女性のイメージから大きくかけ離れていたらしい私は、なんだか興味を持たれたようで、日本と中国との間に横たわる、過去の歴史に関する話などもするようになるまで、そうは時間がかからなかった。
そういった話題は当然込み入っているから、普通は話していても私の語学力ではおっつかないはずだったけれど、それは、不思議なくらい問題にならずに済んだ。漢字のお陰である。同じ漢字文化圏に生まれ育った有り難さを、実感したものだ。

アジア人とは、なるべくなら避けたい「過去の歴史問題」。なぜなら、コチラの意見を頭ごなしにヒステリックに非難、罵倒するだけでの人達がほとんどで、喧嘩っぱやい私がソノ気さえも失せるような、本当にバカバカしい、消耗するだけの時間が過ぎて行くことが多いからだ。
しかし、ピーターとの会話は全く違った。
拗くれた被害者意識の全く臭わない彼の歴史認識は、当時の世界情勢分析を基にあらゆる角度から掘り下げた、冷静で教養あふれる意見によって、はっきりと示された。
また彼は、広島・長崎は云うに及ばず、「国体」維持のために見捨てられ犠牲となった、日本で唯一の地上戦が行われた地・沖縄の悲劇と、独立国としての琉球の歴史に関しても、真摯に考えを語ってくれた。それを語る彼から伝わって来たのは、常に「勝者がつくる歴史」というものに対しての、心からの義憤と深い悲しみの念だった。
まぁ、国歌としての「君が代」の歴史的変遷のみならず、歌詞の意味さえも知らないらしい今時の日本の若いモンの前で、講義をして欲しいような内容だったわけだ。
あっ、話がズレてきましたね。

さて、ピーターはやっと労働キャンプを出られたものの、日々の生活に追われ、専門を生かす道には戻れなかったようだ。
アメリカに住む姉は、市民権を取得しアメリカ国民になり、紆余曲折はあったものの、彼女が保証人となり、ピーター一家をここロサンゼルスへと呼び寄せたのである。十数年前のことだという。

次の学期の途中から、ピーターは午前中に私の在籍していたジム・クラスに移って来た。
医者だったという彼の奥さんも、その後やって来るようになり、午後は二人して、同じ校内に開設されている「シチズンシップ・コース」を受講し始めた。つまり、彼らは「アメリカ市民権」を得るために、アメリカの歴史や建国精神などといった、市民権取得試験には必須の勉強を始めたわけである。

ドロドロとした権力欲に翻弄され、働き盛りにその能力を充分に発揮する機会を奪われ、捨てざるを得なかった母国・中華人民共和国。そしてこの国に逃れるようにやって来て、今や国籍を変える準備をしている。
私などが想像することさえおこがましい、波乱に満ちたピーターとその一家の歴史は、中国系移民一代目となるピーター夫妻から、また新たな家族史として、このアメリカで綴られ続けて行くのだろう。

その後の移転先の校舎では、彼の姿を目にすることは無かった。「シチズンシップ・コース」はそのまま元の場所で続いたから良かったが、バスの乗り継ぎが不便すぎる移転先の「 ESLコース」に通うのは無理なので断念したと、風の便りに聞いた。

一度、ショッピング・モール近くの、車の往来が一日中絶えることのない大通りのバス停に、一人佇むピーターを見かけたことがある。
運転免許を取得し、2,000ドルで購入したオンボロ愛車で通学途中の私は、反射的にクラクションを鳴らしたが、彼は気づくはずもなかった。彼の傍らにはショッピング・カートがあったから、買い物と散髪のために毎月必ず一度は行く、それが楽しみだ、と云っていたLAダウン・タウンの中華街へ、きっとバスで行く時だったのだろう。
住宅街を走っていたのなら、どうにかして停車して挨拶だけでも出来たのにと、とても残念だった。
 
今頃はきっと市民権を得ているだろうピーターを想い出す時、彼はいつも穏やかな笑みをたたえ、痩身を真っ白なワイシャツに包み、背筋を伸ばしてスックと立っている。




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