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群馬/高崎市


高崎城 【更新】(2005/04/01)
   
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高崎城

   群馬県の高崎駅の西側、現在の市役所や音楽センターなどのある地域に高崎城があった。
 
 堀や土塁および乾櫓などが残されている。
 
 乾櫓は北西(乾)にあった櫓とのことであるが、現在の位置は北東の角に位置するように設置されている。
 隣の東門と共に、ここに移築されたものとのこと。



 群馬県指定重要文化財
高崎城乾櫓

 
 高崎城の本丸は、烏川の畔りに近いところ(現在の日本たばこ産業倉庫、NTT別館付近)に土塁と堀をめぐらし、その四隅に、西側の土塁の中央に建てられた三層(三階建て)の櫓を取り囲むように四棟の隅櫓を配していた。その乾(北西)の角にあったのがこの櫓である。
 二層(二階建て)で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせ、腰屋根をめぐらした平入りの建物であり、梁間二間(12尺)桁行三間(18尺)の規模である。外壁は柱を塗り込めた大壁で、白漆喰で仕上げている。現状は、初層(一階)の西壁(当時とは方位は逆)中央(中の間)に土戸を引く戸口を設け、初層のこの壁以外の三面と二層の四面には、それぞれ太い堅格子をはめた窓を二カ所ずつあけている。ところが、明治6(1873)年に、城内に置かれた東京鎮台高崎分署(15連隊の前身)を撮影した写真では、初層の正面(東壁)右の間に戸口があり、左の間には同様な窓一カ所が認められる。妻飾りは狐格子で、破風板に慧漁をかけている。
 高崎城の築城は、慶長3(1598)年、井伊直正によって着手されるが、その後、藩主は目まぐるしく替わり、元和5(1619)年に安藤重信が入部して、元禄8(1695)年まで三代にわたって在城し、城と城下町の整備にあたっている。享保(1716〜1736)ころの著作という「高崎城大意」には、三代の重博が、平屋の土蔵の様でしかなかった乾櫓を二層の櫓に改築したとの記事があるが、これと様式的に見ても矛盾はなく、17世紀末の建築と推定されている。
 その後、東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられ納屋として利用されていたが、県重要文化財の指定にともなって、昭和54年この位置に移築復原された。初層の戸口の位置は納屋として使用されていた時期を踏襲しており、屋根瓦は当時の史料によって復原されたものである。両側の鉄砲狭間をあけた塗り込め塀は、修景のためのものである。

指定年月日 昭和49年9月6日
 
群馬県教育委員会
高崎市教育委員会
 
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