東人の出戻り浜生活諸国点描高田


新潟県/上越市(高田)


高田城跡 【更新】(2005/01/18)
   
→諸国点描に戻る
  

高田城跡

   
 新潟県上越市の高田に出かけたことがあった。
 雪の高田の街を歩いき、高田城に行ってみた。
 
 城址にある城らしき建物は、三重櫓というものとのこと。
 
 この三重櫓は、文書や古絵図、発掘調査による資料をもとに平成5年に復元されたもので、中は展示室と展望室になっているらしいが、行った時には開いていなかった。
 


 さらに奥に入ると、本丸跡の説明板があったが、本丸の跡地は、今では上越教育大学附属中学の敷地になっていた。

本丸跡

 
 高田城は慶長19年(1614)、高田の菩提が原の地を主郭に徳川家康の6男松平忠輝が築城した78万石の大規模な近世城郭であった。
 本丸は内堀(薬研堀)と塁に囲まれ、現状では堀幅40〜50m、平均水深5m程あり、塁は高さ10m前後で総長約1.000m、石を用いず2ヶ所の内桝形門と1ヶ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁である。
 現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、この中に城主の御殿や多くの建物が存在していた。
 天守閣を造らず、塁上には南西隅の三重矢倉を「御三階」と呼んで城のシンボルとし、他に多門櫓2棟、矢倉台1ヶ所、御茶屋台1ヶ所などが設けられていた。
 この高田城も、寛文5年(1665)の高田地震、宝暦地震(1751)、善光寺地震(1847)及び享和2年(1802)の火災等にあい、その都度規模が縮小されたが、明治3年の火災によって再び焼失し、以後再建されなかった。
 高田城は、慶長19年から8家18代の城主が交代し257年間続いたが明治4年にその幕を閉じた。
 明治41年、第13師団入城の際に土塁の切りくずし等で城跡は変形したが、基本的な原形は保存されており、新潟県の史跡に指定されている。
 
→戻る