東人の出戻り浜生活諸国点描大分県


大分県


大分市   瀧廉太郎終焉之地 【新着】(2006/01/12)
  西洋医術発祥記念像 【新着】(2006/01/21)
  伊東ドン・マンショ像 【新着】(2006/02/03)
  大分城【更新】(2006/07/22)
     
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瀧廉太郎終焉之地

 
 大分の市内で、「史跡 瀧廉太郎終焉之地」という標識を見かけた。
 道路の中央分離帯のような所で、この標識と「瀧 廉太郎年譜」のみが認められた。
 

瀧 廉太郎年譜
 年 月 日  年齢 
明治12年8月24日  0才 東京都芝区南佐久馬町2丁目18番地に生まれる
明治19年5月  6才 神奈川県小学校に入学
明治19年9月  7才 富山県尋常師範学校附属小学校に転校
明治21年5月  8才 東京都麹町区小学校に転校
明治23年5月  10才 大分県尋常師範学校附属小学校に転校
明治27年4月  14才 直入郡高等小学校卒業
明治27年5月  14才 芝唱歌会に入学 傍英語、数学、国漢 学習
明治27年9月  15才 東京音楽学校に入学
明治29年12月  17才 学友会音楽会に初めてピアノ演奏
明治30年2月  17才 「砧」を作曲し、音楽雑誌66号に発表
明治30年3月  17才 「日本男子」の作曲を同誌67号に発表
明治30年7月  17才 「春の海」作曲 学友会誌5号に発表
明治30年8月  17才 「散歩」作曲を同誌72号に発表
明治30年12月  18才 「枯れ野の夕景」を同誌75号に発表
明治32年9月  20才 音楽学校教授嘱託
明治33年  20才 「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」作曲 入選
明治33年10月  21才 ピアノ独奏曲「メヌエット」発表
明治33年11月  21才 作曲集「四季」出版
明治34年3月  21才 中学唱歌 音楽学校より発表
明治34年4月6日  21才 ピアノ及び作曲研究のため、ドイツ留学を命ぜられ横浜港出航
明治34年5月17日  21才 中学唱歌露音楽会を上野音楽堂で開催
明治34年7月  21才 「鳩ポッポ」など幼稚園唱歌出版
明治34年10月1日  22才 ドイツ国立音楽学校に入学
明治34年12月  22才 感胃に罹り、大学病院に入院
明治35年10月17日  23才 横浜港帰省
明治35年11月末  23才 郷里大分に帰る
明治36年2月  23才 ピアノ独奏曲「憾」作曲
明治36年6月29日  23才 大分市稲荷の自宅で逝去

23年と10ヶ月たらずの短い生涯をとじたのである
 
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西洋医術発祥記念像

 
 瀧廉太郎終焉之地のある中央分離帯は遊歩公園と呼ばれ、大分城の方まで続き、途中にいくつかの像などが設置されていた。
 「西洋医術発祥記念像」もその一つであるが、このブロンズ像の表面も酸性雨で侵されていた。
 この西洋医術発祥記念像も治療(修復)が必要なことが痛々しい。

 日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシス・コザビエルが、国主大友宗鱗の招きによってこの地で布教したのは、1551年(天文20年)のことであった。
 それから僅か6年の1557年(弘治3年)には、この地に早くも日本最初の洋式病院が建ち、ポルトガルの青年医師アルメイダによって内科はもとより、日本最初の洋式外科手術が盛んに行われた。
 病院には外来のほか入院の設備もあって、1562年(永禄5年)には入院患者が百人を越えていた。更に病院に来ることのできない患者のために巡回診療もおこなわれていた。患者はこの新しい南蛮医術にあこがれ、はるばる京都や関東からさえ訪ねてきたと、当時の記録は報じておる。
 また、この病院に日本最初の医学校が併設され、若き日本人学生が西洋医学を学んだ。
 時は流れ世は移り、今この史実を知る人はきわめて希である。わが社は創業8周年記念事業として、日本芸術院会員彫塑家古賀忠雄先生に依嘱してこの記念像を作り、これを大分市民に贈る。
 像はアルメイダが、日本人助手と共に外科手術を始めようとしているところである。
昭和47年10月31日
株式会社マリーンパレス   
取締役社長 上田保
 
 
 株式会社マリーンパレスという私企業から寄贈された像のようであるが、マリーンパレスとは、猿で有名な高崎山の近くにある水族館で、現在は「海たまご」という名前になっている。
 愛媛に住んでいた頃、夏休みに別府温泉まで出かけたことがあったが、その時に立ち寄った水族館で、日本最初の回遊水槽を設置した水族館とのことであった。
 社長の上田保という人も、大分市長を歴任した人で、戦後の大分市復興を指導し、昭和27年に高崎山に猿公園を築いた人とのことであった。
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伊東ドン・マンショ像

 
 遊歩公園では、西洋医術発祥記念像と並んで、天正少年使節としてローマに渡った伊東ドン・マンショの像がある。

伊東ドン・マンショ像

 
 信長時代に来日した宣教師ヴァリニヤーノの勧めで、九州のキリシタン大名大友宗麟、有馬春信、大村純忠等は少年使節をローマ教皇に派遣することになり、宗麟は姪の子13歳の伊東マンショを正使とした。
 有馬大村は13歳の千々岩ミゲルを正使に、原マルチニヨ13歳と中浦ジョリアン14歳を副とした。
 伊東マンショは一行の主席正使であった。これが世にいう「天正遣欧少年使節」である。
 
 この少年使節一行は1582年2月20日(天正12年正月28日)、永遠の都ローマを目指して長崎の港を出帆し、雲煙万里の旅に出た。
 途中暴風雨、無風状態、海賊、疫病、船の故障等のあらゆる困難を克服して、ポルトガルの首都リスボンに上陸したのは、実に2年半後の1584年8月11日(天正12年7月6日)のことであった。
 その後ポルトガル、スペイン、イタリヤの各地で熱狂的歓迎を受け、ついに待望のローマ入りの日は来た。
 
 時は1585年3月23日、ローマにおる限りの高位貴顕の士によって編成された壮麗な大行列は、晴れの少年使節を中心に延々と続き。スイス祭衛兵に衛られ、ラッパや音楽の演奏、殷々と轟く3百発の祝砲の中をバチカン宮に向かって行進した。
 ローマは街も家々の窓も歓喜と好奇にに熱狂した市民で埋めつくされた。
 かくて少年使節は時のローマ教皇グレゴリウス13世に、日本の服装で拝謁した。
 この少年使節のニュースは忽ち全欧州に拡がり、日本少年の名をいやが上にも高からしめた。
 帰路は逆コースをとって、1590年7月27日(天正18年6月16日)実に出発以来8年後、懐かしい長崎に上陸したが、既に宗麟は3年前にこの世を去り、ただ待っていたのは秀吉の厳しい禁教令であった。
 
 その後の伊東マンショは神父として、ひそかに隠れキリシタン達に布教しながら清い生活を続け、慶長17年10月21日(1612年11月13日)43歳で病没した。
 
 小社は創業11周年記念として、日本彫塑界の権威北村西望先生に依嘱して、伊東マンショがローマ教皇に拝謁のためバチカン宮に参入する像を創り、これを大分市に贈る。
昭和50年10月31日
株式会社マリーンパレス   
社長 上田保 
    糸永崇幸
 
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大分城

 
 遊歩公園は大分県庁の前まで続き、道路を渡ると大分城の堀と石垣や櫓が見えてくる。
 大分城には天守閣は残っていない。
 城址の中には大分市文化会館が建てられている。




廊下橋

府内城あんない

 
 府内城は1597(慶長2)年、福原直高により築城が始められ2年後には一部が完成しましたが、直高の領地没収によって中断、これに代わった早川長年も1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に加担して取りつぶされました。次いで翌年、竹中重利が入封して築城工事を再開、石垣の築造には 熊本藩の加藤清正の援助を受けるなどして、1602(慶長7)年四重の天守閣がそびえる城郭が完成しました。続いて城下町の建設が始められ、やがて東西約1.1キロメートル、南北約1キロメートルにおよぶ、豊後最大の規模を誇る府内城下町が出来上がりました。
 荷揚城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかつての「荷落ろし」(交易地)の場所に 城地を定めました。荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたといわれています。
 今はその面影はほとんど失われていますが、府内城と府内城下町は内堀(現存)、中堀、外堀の三つの大きな堀をもち、北は海に接してまさに水城ともいえる城でした。また、その美しい姿から白雉城とも呼ばれています。
 城と城下町を完成させた竹中氏は、その後長崎奉行を兼務していた重義の時に、非違をとがめられて断絶しました。代わって1634(寛永11)年、壬生城(栃木県)から、日根野吉明が入封しましたが、あとつぎがなく、一代で断絶しました。次いで松平(大給)忠昭が1658(万治元)年に新藩主として入封、以来1871(明治4)の廃藩置県まで、二万余石の諸大名として10代にわたる藩主によって府内藩政が進められました。この間1743(寛保3)年城下におこった大火によって、天守閣を始め城の施設が多く焼失し以後天守閣は 再建されませんでした。
 1871(明治4)年11月大分県が成立、翌年城内に県庁が置かれて県政の中枢を担う場所となりました。1921(大正10)年には、新県庁舎が竣工しましたが、戦後1962(昭和37)年県庁舎の移転にともない、1966(昭和41)年には現在の大分市文化会館が完成しました。この年、1945(昭和20)年の米軍の大分空襲により焼失した五つの櫓も復元(鉄筋コンクリート製)され、往時の姿を取りもどしました。
 城跡は旧状をとどめる堀、土塀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定され、また城址公園として市民の憩いの場になっています。   
大分市教育委員会
 

「廊下橋(ろうかばし)」

 
 松栄神社の場所は、かつて山里丸と呼ばれた郭のあった所です。
 山里丸は、茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示す貴重な史跡です。 
 山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられていた渡り廊下が、この廊下橋です。
 山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年度に復元しました。
 
 復元に先立って、平成7年度に行った発掘調査の結果、「慶長期絵図」に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられていることも分かりました。
 復元に際しては、「慶長期絵図」「松栄神社所蔵絵図」等を参考にしました。
 廊下橋の規模は、長さ21.7m、幅員2.4m、橋脚高3.8m、建築部分の最高高さ4.6m、檜造り、壁はしっくい塗り、屋根は檜皮葺きとなっています。
 
 
 

 廊下橋で西丸とつながる山里丸の周りには、今は堀は無い。
 山里丸には、松栄神社が設けられている。

松栄神社沿革

 当神社は慶長末期、上州(現在群馬県)水沼村に松平家(徳川家康生家)の祭神近正八幡宮として創祀され、戦国時代混乱治世の神、疫病災厄鎮護の神として国内に名声高く国民の信仰顕著なりしため、享保14年(1729年)豊後府内藩主直参の宮として城内山里の邸この土地に祭祀され、寛政11年神託により松栄山(現県護国神社社地)に遷宮、松栄神社と称されたがその後、日田広瀬久兵衛の助言もあり、藩財政の確立成り、幕府の信頼も厚く国内の信仰いよいよ広まり明治18年住民の信望に応え、市内堀川町奉行所跡地に新宮建立遷宮す。
 更に明治33年現在地に復元し今日に至るが、その後幾多の災害や昭和20年の大戦災も奇跡的に免れ全市民の信仰益々厚く祭典も数日に渉り盛大に行われたが、終戦後世相の変遷により荒廃極に達したので、昭和43年全市民の協賛により明治百年記念改修が行われ面目を一新し、時恰も新産都進行の途上の市発展守護の神とし、市民のシンボルとなり、加えて疫病免除産業繁栄の神徳を祈る参拝者は日を追って増加しつつある。
 
府内藩記録資料より
昭和44年6月24日
荷揚校区全町代表総代  建之
 



人柱 お宮

 
 今からおよそ400年前、福原直高が、この地に荷揚城(現在の府内城)を築城する際、度重なる水害に工事が進まず人柱を立てることになりました。
 上野六坊に住む孝行娘のお宮が一家を救うために立ち、弁財天の木像を抱いて人柱となりました。
 その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに府内城の鎮守としてあがめられたと伝えられています。 
 手前の階段を下り、お堀にそって天守台の下にお宮を祀った祠があり、毎年3月18日に法要が行われています。               
大分市教育委員会
 



冠木門の礎石

 
 かつて西の丸と廊下橋の間には、冠木門(柱のうえに横木を渡した屋根のない門)があり、この石はその冠木門の礎石です。
 
 
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