東人の出戻り浜生活諸国点描宮城県


宮城県


塩釜   塩釜港 【更新】(2006/04/14)
松島   松島 【新着】(2006/04/29)
  五大堂 【更新】(2006/06/07)
  文永紀年の供養塔 【新着】(2006/07/18)
  蕉翁松籟を聴く 【新着】(2006/08/06)
     
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塩釜港

 
 休日に石巻まで移動することがあり、少し早めに出かけて松島に立ち寄ることにした。
   
 仙台から仙石線に乗り換え、本塩釜で途中下車して塩釜港に向かった。


 塩釜から松島まではいくつかのコースの遊覧船が出ていたが、適当な時間の船のチケットを購入した。
 
 港には竜の形をした遊覧船などもあった。

 乗船する船は写真の遊覧船かと思っていたが、この船を経由して隣に停泊してあった水上バスのような小さな船(19トン)であった。

本塩釜駅の駅名由来

 
 現在の塩竈市の中央、一森山に鎮座する「奥州一之宮・塩竈神社」別宮の祭神「塩土老翁神(しおつちおじのかみ)」は、昔々、この地に住む人々に海水を煮て塩を得る方法を伝えたといわれ、塩竈の地名は、これに由来するといわれています
 海水を煮る器、鉄釜を「神の釜」として貴び、この町で唯一の砂浜だったといわれる「甫出(ほで)の浜」(現在の御釜神社周辺)にそれらを集め、共同製塩の場所としたのではないかと推察されています。
 そして、塩を得る釜が置かれていた場所という意味で「塩竃」の名前が生まれたのだという説が広く語られています。
 
 この地名の由来を受けて、大正15年(1926)4月14日、宮城電気鉄道(現在の仙石線)の西塩釜〜本塩釜間開通の時、駅が町の中心部に開業することとなり、駅名を本塩釜と名付けて開業しました。
 
 ◆参考資料◆
 ■塩竈氏商工観光課作成資料より
 
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松島

 
 塩釜港から遊覧船に乗り、松島の観光をした。
 
 松島は260余りの島から成るとのことで、文字通り松の生えた多くの島を見て回った。

仁王島
 
 約50分の遊覧コースの終着点の松島に着いた。 
 
 「松島」というのが島々のことかと思っていたが、到着地も松島町で紛らわしいと感じた。


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五大堂

 
 遊覧船の終着地の松島に、陸に接近した小島に五大堂というお堂があった。
 

五大堂縁起

 平安時代初期の807年、坂上田村麻呂がこの島に毘沙門堂を建て、828年、慈覚大師が瑞巌寺の前身、松島寺を建てて、ここに五大明王を祀り、五大堂と呼ぶようになった。
 
 現在の建物は1604年、伊達政宗が紀州(和歌山県)の名工鶴衛門家次に命じて建立した。方三間の宝形造で、四方に勾欄つきの縁を巡らし、正面に向拝をつける。内部に重厚な家形厨子を置き、五大明王を安置する。
 有名な蟇股の彫刻など、雄健な桃山建築として、国重要文化財に指定されている。
 
 五大堂のある島は、下が透けて見える「すかし橋」で陸とつながっている。 

五大堂「すかし橋」について

 
 五大堂は瑞巌寺守護のために五大明王が祀られている堂宇であり、島全体が声域とされている。
 すかし橋は江戸時代中頃の記録にすでに見られ早くから透かしの構造であったことが知られる。
 五大堂への参詣には身も心も乱れのないように却下を良く照顧して気を引き締めさせるための配慮と思われる。
 
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文永紀年の供養塔

 
 五大堂の入口辺りに、小さな石碑とその説明があった。
 

松島町指定文化財

文永紀年の供養塔

松島海岸一帯は、県内有数の板碑(近世以前に平板石等で造った供養塔)群が
形成された地域です。
この碑は、別の地より移動されたものですが、
文永10年(1273)の年号が刻まれています。
松島町には年号が記された板碑が40基ほど確認されていますが、
この中で最も古いもので宮城県内でも初期のものです。
材質は砂岩で大きさは地表部で
高さ101cm、幅78cm、厚さ19cmほどです。
碑文は風化により判読のできない部分はありますが、
碑面上部中央に、(梵字ア)と、その下部に
「文永十年大歳余酉七月十三日孝子敬白」と縦に刻まれています。
平成13年3月
松島町教育委員会
 
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蕉翁松籟を聴く

 
 松島の瑞巌寺門前の店先に、松尾芭蕉の人形が置いてあった。
   
 松尾芭蕉というと、老人のイメージがあるが、この人形は若い。

 芭蕉(1644〜1694)が みちのくに旅立ったのが1689年。45歳ほどの年齢であったはずである。
 

蕉翁松籟を聴く

 
 松尾芭蕉が漂泊の思いやまず、
 前途三千里の旅に出たのは、
 元禄2年(1689)の春である。
 東北をさす「みちのく」は「道
 の奥」であり、その奥深い国
 の細道をたどり、扶桑(日本)
 第一の風景をいわれる松島を
 目指す。芭蕉は寒さをしのぐ
 旅の用意に紙子(紙で作った
 衣服)を携えていたが、今
 時空を越えて宮城県一迫町の
 和紙をまとい、ここ瑞巌寺
 門前で一服している。
 
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