夏のシベリアはほんの一瞬であるが陽は永い。ハバロフスクではこの時期夏時間を採用している為に、関西と同じ緯度にありながらプラス2時間の時差があって21時頃までも野外は明るい。
 改装中で外部を分厚いシートで包まれたハバロフスク駅を19時00分定時に音も無く出発したオケアン号はゆっくりと郊外に出て行く。大きなヤードを過ぎると昨日訪れたダァチャが点在する田舎の風景が続いた。列車が25分過ぎに加速を始めると床下のジェネレーターも唸りだし、車内に明るい電燈が点った。それまでは予備電源で、薄暗い豆球が通路と室内に点っていたのだ。
 1時間ほど走った所に鉄橋が架かっていて、両岸の詰所から武装した警備兵が通過する列車を監視していた。ここからは湿原に入り、沼地や小川そして白樺林の中をオケアン号は進んで行った。
 22時55分、列車は128`南下した街ヴャーゼムスカヤの広い駅構内に最初の停車をした。緑の銅板で葺かれたクリーム色のしゃれた駅舎は1960年の建物である。プラットホームの無い構内に近隣の人々が出て来て、乗客相手のマーケットを開いているのに圧倒された。食料素材から日用品まで何でも揃っていて結構安そうだ。冷やされたビール2本が50ルーブル(約220円)車内販売で買った同じビールが1本100ルーブルであったから大変お買い得だ。慌ただしい停車15分の後に再び乗客を乗せて走り出した頃に、辺りは夕暮れの帳が下りていった。
 食事は手持ちの弁当と通路のサモワールで沸いた湯を使って日本から持って来ていたカップ麺と箸で済ましていたのだが、6号車がレストランカーだったので探訪に出かけた。素晴らしく好感の持てる室内で、ボーイはオケアン(オーシャン=大洋)らしく水兵服の姿で接待していて、ロシア特有のラフな客達で賑わっていた。ビールを頼むと彼の口から「アサヒビール」と出たのに苦笑いして、私は「MILLER」という黄金色の銘柄を選んだ。旅は現地の飲み物が楽しみなのだ。
 寝台車の通路は人一人が通れるだけで広くは無い。1車両の端に車掌室とその脇に温度計と湯量計が付いたサモワールがある。1等寝台は二人用個室で窓際に花が飾られていて一見豪華な感じがするもテーブルは小さく手狭である。2等寝台は2段ベッドが向い合せで昼間は下のベッドがソファーとなる。こちらを二人で使用する方が室内は広くて使い勝手が良い。私は下段の端にケースを拡げて上段のベッドを使用した。レールの響きも少しは軟らかくなる。寝台車の両端に二ヶ所有るトイレはロシア流で兎に角広い。以前イリューシン86旅客機に乗った時にトイレの広さに驚いた事があってロシア人の体格から納得したのだが。そして車両間の移動通路の両脇には足元を照らすカンテラが設置してあるのには感心した。
サモワール 寝台車の通路 2等寝台4人用個室
連結通路 とても広いロシアのトイレ 1等寝台2人用個室
 午前0時丁度にグベロヴォで5分停車したのは列車の行違い交換駅で、下車する事は出来ない。ここから先175`の非電化区間は、シベリア鉄道全線電化が1929年に始まって以来73年を費やして、昨年2002年12月25日に最後の工事が完成したばかりだった。静かに走り出した列車で、私は上段のベッドの中でロシア民謡「ともしび」を唄いながら眠っていった。
 オケアン号は5時5分に夜明け前のウスリースク駅に滑り込んで15分停車した。列車の左側に機関庫があってDLやELが休んでいる。ここはハルピンを経由して北京に到る線路が延びている鉄道基地であった。大勢の鉄道員らしい客が降りて、住宅団地が沢山並ぶ大きな街だった。
 6時50分に再び眼が覚めると小雨けむる中レールと枕木が濡れていた。東側の丘陵と林を過ぎると開けた平野に出て西側にアムール湾が見え、その浜に沿って支線が伸びている。もう一本の別れた線路が大きくカーブして登り、オケアン号の上を越えて東に延びて日本人に馴染みの深いナホトカ港に向かって行った。
 7時5分に列車はプラットホームのあるウゴリナヤ駅に停車すると沢山の乗客が慌しく降りた。ナホトカ線の乗換駅で通勤電車の客で狭いホームは混雑している。短い2分停車ですぐ発車した。
 右にアムール湾を眺め、しゃれたロシア民家を車窓に、オケアン号は小雨の中ラストランニングする。やがて丘陵の間に市街地が近づくと、ビル群が小雨に霞んで目に入ってきた。14両編成の列車は右に左に蛇行しながらゆっくりとシベリア横断鉄道の終点ウラジオストクに進んで行く。
 8時00分、時計に合わせる様にしてオケアン号はウラジオストクのホームに停車した。乗客達は慌しく降りると、思い思いの目的地に散らばって行った。モスクワ寄りホームの中央に大理石で作られたキロポストが立っている。9288kmの金色の文字が輝いて見えた。その横には過ってシベリア鉄道で活躍したアメリカ製のEa型蒸気機関車が往事を偲ばせていた。
 ハバロフスク〜ウラジオストク間の766`を13時間で営業時速59`/時であるのは決して速くはないが、一旅の休息には快適な夜汽車であった。
2003年7月31日

BGM:ロシア民謡「ともしび」は さんのMIDI作品です