趙文卓インタビュー..1999
インタビュー(1)
初めて映画を撮ったのは、92年10月。「方世玉」の悪役で映画に初出演したんだ。 僕は北京体育大学の2年生で、専攻は武術だった。
その日は面白い日だったね。僕は昼寝してたんだ。そしたら、同級生達が入ってきて
「香港から、役者を探しに来てるぞ」って。彼らは僕に、会いに行くよう言うんだ。 僕は何もわからなかったけど、行ってみたよ。とにかく眠くてね〜。 僕はがまんして腕を組んで、見てたんだ。

元奎は「そこの君、ちょっと来てやってみて」と言うので、僕は「Tong Bi」拳を 一通りやってみせたよ。
彼は即座に決めてこう言ったよ。 「今夜、食事をしながら契約の話をしよう。」その時から、僕はこの世界にいる。
競技者として、挑戦に直面しなくちゃいけない。No1になるか、競技者としてトライしないかどちらかだ。

最初は、いろいろあったよ。特に言葉がね。
(台本を開くジェスチャー)うわー、広東語だよ!そりゃ、台本は全部香港で作られてるからね。僕はそれを暗記したんだ。他の人が吹き替えてくれるなんて知らなかったよ。
僕は、彼ら(他のキャスト)の声の調子で判断してたよ。もし間があいたら、自分の番だと思ったんだ。
そしたら、NG!そういうケースが多かったね。監督は国語(北京語)があまりわからなくてね、コミュニケーション取るのは、ほんと大変だった。

インタビュー(2)
レポーター:あなたが香港に行ったとき、何が一番大変だったの?

卓:第一に、言葉だね。あとは、人々の考え方。僕は中国北部で育ったんだ。
人々はお互い、仲良くなることを好むんだ。北部で育った僕は、友人を作るのが 好きだし、親友が望むなら僕の人生を捧げることだってできるよ。 でも、香港では大きく違ってた。南部(香港など)の人々には、これを理解するのは難しいんだ。
最初、香港に行ったとき、僕はたくさんの時間を費やしたよ。その後、少しづつ環境に適応していくことができたけどね。

レ:辛かった?

卓:それはもちろん。最も傷ついたのは、誤解からくる多くのストレスだね。
黄飛鴻(4)では、間際になって俳優がWang Zhe Zhi Fengから変わったんだ。 自分に尋ねたよ。
僕が20歳より若くて、19歳だったら断ってただろう。Shi San Yiを含め、俳優たちは皆30代だった。
それ以前に多くの(黄飛鴻についての)エピソードが作られてたから、それを打ち破るのは難しかった。
多くの友人や、先生達が進めてくれたから、ついに僕は決めたんだ。 もう、なんとストレスが大きかったことか。僕は子供っぽく見えるといけないから、 笑うことすらできなかったよ。どうしたら師匠らしく見せられるかとか。
新人だったし。いろんなことがわからなくてね、自分の部屋に戻ると泣いてたんだ。

レ:あきらめることは考えなかった?

卓:うん、考えたよ。この映画が終わったらやめようと思ってたけど2か月後には、 続ける気になってた。
後に、それは難しい選択だと気付いたけど。

レ:あなたが香港へ行ったことについて、ご両親はなにか?

卓:いや、若いときに家を出たから、何も言わないよ。僕は、ハルピンで生まれ、18年間を過ごした。
18歳の時、北京体育大学へ行ったんだ。あれから10年、僕は競争の世界にいるよ。

レ:香港に行ったとき、どんな夢を持ってたの?

卓:いや、何も。僕は武術チャンピオンだったし、名誉や地位なんて重要じゃなかった。
僕は人々から、拍手をもらい元気づけられていたよ。僕は満足だった。

レ:仕事は生活のすべてじゃないよね。あなたには、友人や恋愛、家族が必要ね。これからの時間で、あなたにとって一番いいバランスはどうなのかしら?

卓:今は、調子いいよ。仕事は僕の生活の多くを占めてる。時間がなかったよ。
でなければ、窓から飛び出してるね。いつも撮影が終わったら、両親と旅行に行くよ。北部の人々は家族をとても大切にするんだ。

インタビュー(3)
卓:たまにだけど、幸せな時や苦しい時、両親に電話する。一度こんなことがあった。
上海で「中華大丈夫」の撮影をしてたとき、僕は39度の熱が出たんだ。それが3度もあって、毎晩4時間も続いたんだ。これはたえられないと思い、
「父さん、ここへ来て助けてくれる?」と電話したんだ。
父は「大丈夫かい?何があったんだ?」と聞くので、
「何でもないよ、僕はたくさん荷物があるから、運ぶの手伝ってくれる?」って言ったんだ。
母は「私にも、来て欲しいの?」って聞くから、「いや、父さんが来てくれたら 大丈夫だよ。」って答えた。
次の日、父は上海に飛んできて「文卓、お前に何かあったのはわかったよ。お前は長いこと、映画を撮ってたからね。よっぽどのことがなきゃ、私たちを呼ばないだろう。」
僕は、その時動けなくて、ベッドに横たわっていた。チームのみんなは、 僕のベッドの周りにいたんだ。
かつて、僕の母は友人に「息子は成功したけど、辛そうだ」って言ってた。
そんな尊敬する両親に、僕が辛いことなんて伝えられるわけないよ。

香港に行った当初は、活力に満ちあふれてたよ。僕は自分のことについて 語った新聞記事を見て、すごく驚いたよ。それを見たとき「どうして?」って思った。こんなこと言ってないのに。僕は記者に電話したよ。
彼は「君が、北京語で話したから」って。僕は誤解されたみたいだ。こういうのどうしたらいい?
俳優としてある程度のことはやってきたけど、何年たっても完全には変われなかったな。

レ:競技者と役者とは、いろいろ違いがあるわね。合わせるには努力が必要ね。

卓:競技者は体力に気を使う。この世界で役者をやってくのは、あまりにも大変だ ね。
香港の武術は、世界で最も素晴らしいよ。なぜ、僕の修練のためにもいい場所であるところから、キャリアを始めなかったのかって?何かを得ると同時に、何かを失うだろう。何かを始めるには、いつもそれはついてまわる。 他よりいいものを得なければいけない、でなきゃ同一線上に立てないから。

レ:香港での数年を残念に思ってる?

卓:うん、言葉はね。なぜ、僕がゆっくりしゃべるかというと、広東語が上手く話せなかったから。

レ:若い人たちに、なにかメッセージはあるかしら?

卓:何かに直面したときはいつも、自分をそれに合わせていくこと、自分に合わせてくれることを待ってちゃだめだ。

これは、1999年中国のテレビ局でのインタビュー映像の中で趙文卓本人が語った中国語を、CJに英訳してもらい、
再度私が和訳したものです。無断転載はしないでください。
元のインタビュー映像はこちらからダウンロードしてください。
(リアルプレイヤーが必要)→ 文武卓絶・趙文卓倶楽部


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