夕螺の読書ページへようこそっ!!
             2008年2月から読んだ本です。

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こちらに収められた作品は、以下の本たちです。
 

 「乳と卵」                           川上未映子
 「沼地のある森を抜けて」                 梨木香歩
 「どこから行っても遠い町」                 川上弘美
 「浮き草」                           角田光代
 「ネロリ」                            山本文緒
 「子どもとの暮らしと会話」                 銀色夏生
 「生物と無生物のあいだ」                 福岡伸一
 「銀色夏生の視点」                     銀色夏生
 「俳諧大要」                          正岡子規
 「怪しい来客簿」                       色川武大
 「いまにもうるおっていく陣地」               蜂飼耳
 「風花 kazahana」                      川上弘美
 「ゆるく巻くかたつむりの殻」                川上弘美
 「エイプリル」                         銀色夏生
 「八日目の蝉」                        角田光代
 「梅雨の晴れ間に」                     乃南アサ
 「青葉闇迷路 小豆色の日記」              恩田陸





乳と卵
                     「文藝春秋」2008年3月号
                           川上 未映子  著
2008年春の芥川賞作品です。
子供から見ると、親というものはその昔にさかのぼるほど霧の中に霞んでいく。親から聞いた昔の話をぼんやりとその景色として描いていく。
親は、自分の子供時代のように自分自身の昔にさかのぼると、やはり霧の中に霞んでいく。
葉子から見た草子への目。草子から見た葉子への目。お互いに心配をしながら、思いやりながらも時間の中で違うボートに乗っていく。

                       (江國香織「神様のボート」感想より)
別れてしまった夫(父親)を霧の中に捜し求めるような、この葉子と少女から思春期に向かう草子の母娘関係に見るような関係を巻子と緑子にも見ることができると思います。
夫と離婚をして下町らしいスナックに勤める巻子は小学6年生の思春期を迎えようとしている娘緑子と大阪に住んでいる。そんな二人が東京に住む「私」のところに遊びに来る。しかし遊びに来るといっても観光に来るわけではなく、巻子の豊胸手術という目的である。「私」は、東京駅に二人を迎えに行く。
「卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのがほんとうで、ならばなぜ子、という字がつくのか、っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけてるだけなのです。」
「乳と卵」(ちちとらん)は、緑子の日記のようなものからはじまる。
6年生といえば、もう胸も膨らみはじめ生理もやってくる。緑子の友達の中には膨らむ胸を自慢する女の子もいる。緑子自身もこの体の変化を感じつつ戸惑いをも感じる。そんな中母である巻子が豊胸手術に夢中になっている。なぜ母親が豊胸手術に夢中になるのか緑子は理解できない。江國さんの「神様のボート」もそうだったが、母親は母親なのだが、一人の「女」でもあるわけで、娘から見たこの母親に「女」を見る複雑さは大きいだろう。葉子と草子という母娘関係も巻子と緑子という母娘関係も、その互いの親子関係にもかかわらず母も娘も別々のボートに乗ってきりの中を進んでいるのである。
そんな中で、緑子は、日記を書くと同時に巻子と一切話をしなくなり、返事はノートに文字を書いて見せるだけ。東京に出てきても「私」への返事も文字に書くだけである。
このようにこの作品は、母親と娘の確執を表現したものと受け止める事ができるだろうが、ただそれを表現しただけだろうかといえば、またはその確執の根底にあるものが何かという点ではそう単純な作品ではないだろう。
緑子は、すでに生まれる前の母親のおなかの中にいるときから、女と性別が決まればすでに卵巣には卵子が存在してしまっている事に驚き愕然とする。少女から女になっていく自分を呪うようでもある。ここには性としての「女」が表現をされ、母親巻子は40歳を過ぎて肉体の美的衰えを感じて豊胸手術を考える。ここにも性としての「女」がある。「私」は生理となりその処置をするが、祖祖をしてしまった事を緑子に話し、「血は水で洗うもの。お湯では駄目だからよく覚えておくように」と話す。緑子はうなづく。ここの表現に読者は性としての「女」を感じ取るだろう。巻子と緑子の確執のようなものは、この性としての「女」の中にあるのではないか。思春期そして盛りを過ぎた40歳代へという体の変化。「私」の子を産めるかという事への思い。この作品にはこの性としての「女」がストレートに表現をされているのである。
この作品を男性読者が読んだら性の意識が(人それぞれにもよるだろうが)変わるほどに心うたれるだろう。
女性作家の作品には男女間の性を女性の視点から表現したものはたくさんあるだろうと思うし、読者はその描写に性を感じ取るだろう。
しかし女性の性は、この男女間の性に現れない本来の性があるのである。
巻子の離婚をした男は、緑子が生まれるのは「誰かの意図および作為であるわけがないのだし、孕むというのは人為ではないよ。」(378ページ上段)とわけのわからぬ言葉を残す。離婚をするなら「お前が育てろ」という意味だろうか?
子を生むということ。。。。。
それも女性だけの性である。
緑子の巻子への確執は、豊胸手術をするという巻子の「女」の部分への「何で?」というものであり、いつも金に困っているがスナックでは男相手に酒を飲むという「女」を売っているような巻子を見るからだろう。そして自分の体もだんだんと母親と同じ「女」になっていくという戸惑いでもあるだろう。このような意味では、この作品は女が生きることって何かというものを描きながら登場人物の三人の女を描いているのではないか。
ただ単に母娘間の確執を単純に描いたものではない。
作品中にはなぜ巻子が豊胸手術をしようと思うのかは出てこない。出てこないから巻子を読み方によっては「何を考えているのか?母親でしょ!」という批判的な見方で見てしまうかもしれない。そしてなぜ別れた男のところに行き、何を話しなんて答えられたのか、そしてなぜべろんべろんになって帰ってきたのか?そこもわからないから見方によっては馬鹿な女と見える。
しかし、もう少し深読みをするなら、巻子はすでの40歳を超えている。男相手に仕事をするとなれば、もう魅力は若い女にはかなわない。「せめて胸だけでも大きかったら。。。。」まさに巻子にとっては体が資本なのである。それは40歳を越えて生きていく事への不安でもあるのではないか?「私」から見ても、痩せてもう50歳にも見えてしまうという巻子。豊胸手術が現実的でないならば、昔の男に頼るしか。。。。。?
緑子は、その日記に巻子に感謝をし心配をもしている。でも、何で豊胸手術をするの?との想いが湧き出る。
「女」である事の暗い部分が緑子にも見えているのか?
巻子も駄目で馬鹿な女ではない。でも、暗い部分のほんとのことは緑子には言えないだろう。なぜ豊胸手術をするのかなんて。。。
巻子もつらいし緑子もつらいんだろう。。。。でもそのお互いのつらさがわかりすぎるほどお互いにわかってもどうする事も出来ない生きるという現実がそこにはあるわけで、そのつらさがどうすることもできないことが緑子の心をかき乱し、どうすればよいのかわからない中に「お母さん!」と泣き叫ぶ緑子がいる。
母娘の確執であると同時に互いに大切だと思ってもどうする事もできない現実に苛立ちというのかその苛立ちが互いに向けられてしまうというのか。。。。
うまく書けないのですが巻子の気持ちも緑子の気持ちもよくわかるわけでして。。。。。
3泊して巻子と緑子は大阪に帰っていく。
文体は、樋口一葉を思い起こすような「 」もほとんどなく「私」の一人称と緑子の日記だけで表現をされている。文章は粗削りの感じは否めないし、退屈さも感じるかもしれない。しかし、飾り立てた文章のいやらしさや作為というようなひねりもない。この作品には知性も文章上のひねくれた作為がないのである。それが樋口一葉を思い起こすような文体にそうだろう。もちろん川上さんに知性を感じないというのではなく、作品上に知性を感じさせない中に作品が生きてくるという意味ですが。

                       2008年2月19日 記

                              夕螺











沼地のある森を抜けて
                               新潮社
                    梨木 香歩  著
「こんなに酷い世の中に、新しい命が生まれること。
それが本当にいいことなのかどうか。」

                      (プロローグより引用)
このプロローグは、長女佳子が子を宿し、その佳子に三女時子がつぶやく言葉である。そして主人公である久美は生まれた。「こんな酷い世の中に、」「たとえそれが滅亡に至る道行きの途上であっても。」
久美は成長をし、今では母佳子が久美を産んだそんな母と同じ年頃になっていた。
そんなある日、叔母時子が心臓発作でなくなる。母佳子と時子の間には加世子叔母がおり、葬式の一切を滞りなく行った。時子は一人暮らしでマンションに住んでいた。葬式も終わり遺品の整理も行われるが、そこに家宝と呼ばれる「ぬか床」が出てくる。どうも因縁のあるような加世子の話し。
「代々の女たちに毎日毎晩かしずかれ」た(13ページ)ぬか床。
物語は、先に引用した重苦しいようなプロローグの言葉からはなれて久美と加世子のどこか真面目だがおかしみのある会話の中にぬか床の不思議が語られていく。
久美は、あなたは長女の長女なんだからとか、時子のマンションもあなたが住めばいいとぬか床から逃げるような加世子に言いくるめられてぬか床の世話をするようになった。
ある日ぬか床に卵が湧き出て、ヒビが入ったと思ったら一人の幽霊のような透き通った少年が現れる。久美の同級生フリオが訪ねてくるが、フリオはその少年を見て光彦!と叫ぶ。光彦は死んでしまったフリオの幼なじみである。
そのうちにカッサンドラという不気味な女も現れる。現実なのか幻なのかわからないような久美の幼いころの悪い思い出が。。。。美しい母であろう・・・
どうも糠床から湧き出る者は、初めて認識された(フリオが光彦と認識したというような)人物となるようである。
久美はカッサンドラが現れてから体調を崩す。一方、母佳子や叔母時子の心臓麻痺という突然死を重ね合わせていく。カッサンドラが現れると同時にぬか床の酵素バランスも崩れていくようで、久美は昔ながらに辛子粉を入れる。カッサンドラは消える。
このようにこの物語は一つのぬか床の話からはじまるが、ここから久美のぬか床がどのようなものなのかの追求が始まる。その時叔母時子の同僚でもあった酵素を研究しているある意味男を捨てた?ような風野に出会う。久美と風野によるぬか床の不思議が明らかになっていく。
同時にこの作品には、並行して不思議な「シマの話」が出てくる。
この「シマの話」は、人の世の話しではないファンタジーな世界である。
この「シマの話し」は、久美の先祖の地でもありぬか床のあった沼地のある島とリンクしていく。
ファンタジーの世界は美しくも寂しく悲しい。だいぶ前に読んだ「裏庭」に現れるファンタジーの世界を思い出します。梨木さんのファンタジーの世界。。。。
「シマの話し」には、「僕」という少年が現れる。同じ「僕」がたくさんいる。なぜなら「僕」は一夜のうちに分裂して現れた「僕」だから。この世界は、ぬか床から湧き出る光彦でもあり、ぬか床の故郷である島の沼地のある村人でもある。
この作品は、このような物語を長編として語られているが、それ以上のものは直には語らない。
物語のストーリー性にもひきつけられ、これだけでも素敵な作品といってよいでしょう。そして最後に心の中に沸き起こる暖かさを感じざるを得ない中にこの作品の奥深さがあるのではないか。
しかし、この最後に感じる暖かさが何なのか、ファンタジーの世界は何を暗示しているのか、ぬか床から現れた人たちと自分たち「人間」との関係は?、そして梨木さんご自身の心の中は。。。と、いろいろと考えてしまうのですが、解釈を含めて難しい作品だと思います。
その中でヒントととなるものはあると思います。
「こんなに酷い世の中に、新しい命が生まれること。
それが本当にいいことなのかどうか。」

このプロローグにある「こんなに酷(むご)い世の中」とは、どのように解釈をしたらよいのだろ?
自然の摂理は、小さな生き物は植物を食い、その小さな生き物を小動物が食い、小動物はより大きな動物に食われるといったように、考えてみれば酷いものである。そして生きるものすべては死を迎えるというところに酷さもある。その死は肉体を土に返して植物の栄養ともなっていく。
しかし、この「酷い」という認識は、知的にも心というものをも進化させてきた人間だけが持つものなのである。死を避けて少しでも生き延びていくという本能は、動物すべてが持つものだろうが、平穏に生きているあいだにも死の怖さを認識するのは人間だけだろう。だから人間の持つ知性や心というものがまた一面として酷さかもしれない。
その中に不老不死の理想を描いたり、死後の世界や輪廻転生という宗教も作り出した。それらは本来、自分の命をいとおしみすべての命の尊さを認識する役割をしたのだろうが、そういう死を見つめる事の出来る人間が作り出した社会というものが、戦争という道を捨てきれずに殺し合い、日常の社会の営み自体も弱肉強食から抜けだせない。この社会という自ら作り出した人間独特な発達した「群」にも酷さが存在をしているということだろう。
自然全体そしてその自然の中に生きる人間自身が作り出す社会。それが「世の中」という広い意味での世界だろう。
この「世の中」という言葉を言い換えれば、先に読んだ梨木さんの作品名である「ぐるりのこと」という言葉ともなる。
「ぐるりのこと」。。。
それは自然の摂理でもあり、人間の社会が作り出す時には酷い世の中というものだろう。
この新潮文庫版の梨木さんのエッセイ「ぐるりのこと」の「解説」に
「『沼地のある森を抜けて』誕生前夜の思索の日々ともいえる本書『ぐるりのこと』は、さらに、梨木さんの物語の背景に近づく手がかりを与えてくれた。」 
                              (216ページ)
とあります。
この「酷い世の中」そしてそれは「ぐるりのこと」。先に引用したプロローグの言葉に続いて「ぐるりのこと」88ページの次の言葉が続くような気がします。
「母性的なものに縁遠かった人間であっても、場合によって、人はーー男性も女性もーー意識的にでも、行きずりにでも、母性を振舞う事は出来る。そして時にそれは人を救う。
たとえそれが滅亡に至る道行きの途上であっても。」
自分という個の周りにはたくさんの人という個がいて、それが集まり社会というものを作り出している。その社会は人間が動物である事から群とよんでもよいものだろう。
この個と社会は切り離せないものであると同時に、個に対して対立するものとして社会は現れる。
生物は、細胞分裂のような形で生命や子孫を維持するものがあり、植物もその発達した形態なのかもしれない。一方では、オスとメスとが結びついた有性生殖を繰り返す中に子孫を残すものがある。
個の生命を維持し、個を残すという意味では、細胞分裂のような形態が一番よいのかもしれない。ファンタジーな「シマの話し」に出てくる「僕」は、一夜にしてもう一人の「僕」を分裂させる。同じ「僕」を。人は不老不死を願い今やクローンを夢見る。個というものの無限な継続を。それが人間の世に現れたのがぬか床から現れる人々とその村なのだろう。「僕」が「僕」として分裂をする社会は安定をしている。「シマの話」のシマは安定をし、ぬか床の人々の村も安定をしている。ここには厳密な意味での個はないだろう。「僕」は、「僕」であって名前も必要ない。。。。
しかし、有性生殖は、二人の違った人間の結びつきの中での子孫であり、「僕」は「僕」ではない、「わたし」は「わたし」ではない一人の人間を産む。常に違う人間が個として現れながら社会は形成をされる。さまざまな事しての人間が作り出す社会だからそれは安定をしない。「酷い世の中」にも社会はなりえる。個は個と対立をする。
「シマの話し」の「僕」は、ふと思う。。。。
「もう一人の僕は何をしているか」と。
ここに安定性は崩れるだろう。細胞分裂をしたクローンのような」僕」もやはり違う意識を持つ「僕」ということになる。「僕」に名を与えられる。
ぬか床の人々の娘が島から出て行って人間と有性生殖をした。。。。ぬか床を持って。ここに島の安定は崩れていく。
ぬか床を久美と風野が森を抜けて沼地に返(帰)す。
「シマの話」は終わり、ぬか床の人々も消える。ここに寂しさと悲しみがある。それは個が個として存在していけないことを目の当たりとして見つめる事であり、安定しない社会、時にはそれが酷くて滅びの道行きの途上にあるという社会に個が存在していかなければならないというさみしさと悲しみであろうか。
しかし、梨木さんは書く。。。。
「この境界の向こうは異世界だ。こんなふうに圧倒的に迫ってきたら、自衛本能でこちら側に萎縮してしまう。私はぼんやり考えている。それを乗り越えて、意識的に自分を開く訓練について。」(「ぐるりのこと」34ページ)
たとえ酷くて滅亡の途上にあるような社会にでも、自分を開く訓練をと。
作家梨木香歩にとっては、「沼地のある森を抜けて」という物語を書き上げる事だったのだろうし、この物語で読者に語ろううとしたものは。。。。
「シマの話し」やぬか床の人々の消滅は、寂しく悲しいものだが、人間の社会に生きざるを得ない事は仕方ない事。その社会に生きる事は社会に自分を開く事なのである。
「生まれておいで(中略)輝く、生命よ」(エピローグより)
すべて引用することはしないほうがいいと思います。
久美は、祝福されて生まれてきた命。母や父とはまったく違った個として孤独にこの世に生まれてきた命。
「母性的なものに縁遠かった人間であっても、場合によって、人はーー男性も女性もーー意識的にでも、行きずりにでも、母性を振舞う事は出来る。そして時にそれは人を救う。
たとえそれが滅亡に至る道行きの途上であっても。」

命の流れの中に身をおき、その個である自分を自分として生きていく事。
命の流れの中に、最も美しくてなくてはならないもの、それは母性なのでしょう。
ぬか床の糠を沼地に返した久美と風野は愛し合う。祝福されて新たな命が孤独な人間として生まれてくるでしょう。こんな美しいラブシーンが他の作品にあったかな?
孤独なそれぞれの個と個は結び合えるもの。命は引き継がれるもの。引き継がれて生まれた個は、また違う個と結び合えるもの。新たな命を祝福する母性という本能。
何も男女のことだけではない。人と人とは結び合えるものが本来あるものなのである。愛と母性。。。。
社会は歴史的に見れば少しづつ進化していく。たとえ酷さや滅亡の危険を増殖させながらとしても。その進化の原動力は、愛と母性。。。。
そしてこの愛と母性を心の問題とするだけではなくて、社会は人が作り出したのだから、愛や母性を形として社会システム化できないわけがない。
是非この作品をお読みになるときは「ぐるりのこと」もお読みになることを僕からもお勧めします。

                          2008年3月18日 記

                                夕螺









どこから行っても遠い町
               新潮社文芸誌「yom yom」2008年3月号
                   川上 弘美  著
「どうして女は、というか、おれの知っている女たちは、事を決めたがるのだろう。
いつも、おれは不思議に思っていた。」

主人公の高之がつぶやくような言葉にこの作品ははじまる。
高之は、千秋と結婚をし、千夏という一人娘を持つ。純子という不倫相手がいる。「おれの知っている女たち」の登場人物である。そしてもう一人、高之が中学生のころに近くに住んでいた魚屋の奥さんである「春田のおばさん」の事が織り込まれていく。
男が茶の湯の釜ならば、女は瞬間湯沸かし器に見えるかもしれない。
煮えきれないのが男なら、女はすぐに「事を決めたがる」ように見えるかもしれない。
男は懐手をして悩みながらも時の流れに身を任せるのなら、女はもどかしさに裸足でも駆けて行くような瞬発性があるのかもしれない。
高之は、生活の安定がない中に家を買うという千秋に「決めたがる」女を見る。娘千夏の中に、高之は千秋を愛しているのかと「決めたがる」女を見る。順子は夫をだまし続ける事が出来ないからと離婚をすると言い出し「決めたがる」女をそこに見る。
春田のおばさんを思い出す。いつもは長靴姿のオバサンが着飾って男の元に逃げていく姿を、もどかしそうに駆けるのに邪魔な突っ掛けを脱いで裸足で駆けていく姿に「決めたがる」女を思い出す。相手の男の煮え切らない顔。。。
高之は茶の湯の釜のように煮え切らないままに懐手をしながら「決めたがる」女の中に時を過ごす。
しかし、こんな高之に対して、千秋も別れようとは言わないし、千夏は高之が継いだ実家の今では流行らない活版印刷を教えてという。順子は離婚をしても高之に結婚は求めずに恨みもしない。春田のおばさんは、逃げてたぶん幸せなうちに心臓病で死んだのかもしれない。
高之は煮え切らないままに生きているが「おれの知っている女たち」にうらまれもせずにここにいる。
これもまた不思議な事なのである。
茶の湯のかのように煮えきらずに懐手をして生きているようで、実はそんな自分のために千秋は家を持てなく、順子は自分が引き金になって離婚をした。時間の流れは止められないもので、何かしらの結果がでてしまうのである。そしてこんな自分を誰も罰せはしない。。。
高之は駄目な男なのだろうか?
どこから行っても遠い町。。。。
ある意味、男女間の普遍的な違いなのかもしれない。互いが遠い町なのだが、時の流れの中に自然に形作られる関係。
高之はたしかに駄目な男なのかもしれないが、そんな駄目な男に恨みを言ったり罰しようなどとしない女たち。
この男女間の関係は、「ニシノユキヒコの恋と冒険」に見るニシノユキヒコとその周りの女たちとの関係にも見られると思う。
もしかしたら、千秋にも順子にも高之への恨みや罰しようとする意思はないのかもしれない。どうしようもない男。。。。。あまりにも自然体の?
この男女間は、男にしても女にしても互いに互いが遠い町なのだが、同じ時間の流れに生きていく。
高之は思う。
誰もおれを罰してくれないなら「おれが、おれを罰する事しかない」と。
これがどのような顛末を高之のもとに起こるのかはわからない。
ニシノユキヒコのように墓も入れずに。。。。?
あるいは、「真鶴」の主人公の「京」の夫の「礼」のように失踪をするのか、「光って見えるもの、あれは。」の「大鳥さん」のように馬を見て逃げたくなったからと逃げてドロップアウトをするのか。
高之という男の描き方に川上さんらしい視点がありますし、それは、この間の一連の作品の中で男の姿を常に見つめる川上さんがいるということでしょう。駄目な男かもしれないが、どこか味のある男たち。。。。。そしてその周りの女たちもある意味煮えきれないのかもしれない。

                                2008年3月19日 記

                                       夕螺








浮き草
                   新潮社「yom yom」2008年3月号
                    角田 光代  著
yom yomの前号「こうもり」の続編です。
「こうもり」での槙仁のマンションから消えて1ヵ月後、売れない舞台女優希麻子はテレビドラマのエキストラの仕事を通じた飲み会で林久信と出会う。
そして槙仁との出会いと同じように飲みつぶれて気が付いたら久信のマンションに寝ていた。
久信は、苦労しながらも売れてきたイラストレーターである。
希麻子はそんな久信に本気で恋をする。
しかし、この希麻子の恋はどこに惹かれての恋なのだろうか?希麻子は、今まで関係を持ってきた男とは違うものを久信に見る。それは「成功」した男の魅力?
希麻子にはこの「成功」というものが夢としてはあったが目の前には見えないものである。年に数回黒田という男が主宰する小劇場の舞台に女優として立つ場はあったが、生活はスナックでのバイトやほとんど金にならないテレビのエキストラという生活。希麻子の濃いは、久信という「男としての魅力」ではなく、「成功」への恋であるように思われる。だから久信の「成功」に結婚という形において会社のスタッフという自身の成功を見る。希麻子は必死に久信に働きかける。
「こうもり」での槙仁は、希麻子を「未来を感じない女」と見えた。久信にとっては、希麻子はどんな女に見えたのだろう。
久信は事務所に「有能」な女性を入れる。希麻子はここでも「成功」はしなかった。
「こうもり」で、槙仁は希麻子を見て思う。
「希麻子のいう成功がどんなものかはよくわからないが、(中略)実現するときというのは、不思議なくらい他人が気にならない。(中略)あとはもう、自分しかいない。(中略)」(yom yom2007年11月号53ページから)
「浮き草」においても希麻子は同じ失敗を繰り返す。「優秀」な女性スタッフの悪口を久信に吹き込んで自分を守ろうとした。
久信がその師の言葉として希麻子に言った「すげえって思った、その気持ちの強さだけがこれからの君を引っ張っていく力なんだぞ」(yom yom2008年3月号398ページ)という言葉を希麻子は理解できなかった。だから希麻子には久信がこの師の言葉に涙した意味がわからない。
久信と別れた希麻子は自身を「浮き草」という。
このように見ると、希麻子という女は馬鹿な女だと見えるようである。
しかし、空想的とも言えるような「成功」の夢ではあっても、自分の年齢面やその実力のなさがわかっていても「成功」を夢見る希麻子は憎めない女である。
そして浮き草は浮き草なりに、現実世界に埋没していった槙仁や、成功したにもかかわらず孤独のうちにいる久信よりも希麻子には強さがあるのかもしれない。
「40近いこの女の身軽さはすごい、久信の言っていた『すげえ』とは異なるが」 ((399ページ)
希麻子は自分を慰めるように思う。
希麻子は昼飯を何にするかと考える。
久信のイラストの看板に背を向けて「よし、昼はステーキだな、」と。。。。
もしかしたら、こんな希麻子を見て槙仁や久信も結婚は考えないが、どこかその自由さにうらやましさを感じていたのかもしれない。だから槙仁も久信も自分から分かれようとはいわない。久信は希麻子に職を紹介するし。

                         2008年3月27日 記

                                   夕螺









ネロリ
                   新潮社「yom yom」2008年3月号
                     山本 文緒  著
姉志保子と弟日出男は古い一軒家に住んでいる。
書き出しを読むと若い姉弟のような会話に感じるが、すでの志保子は50になろうとし、日出男は40になろうとしていた。
そこにふらりとやってくる二十歳になろうとしているココア・・・心温
作品は、志保子の言葉を借りて進み、同時にココアから見た姉弟とのかかわりと日出男との恋?を語るという形で進んでいく。
日出男は、幼いころから体の調子が悪く、就職も出来ない状態であり、母親の死後は姉の志保子が結婚もせずに面倒を見ている。父親は日出男が母親のおなかの中にいたころに離婚をしている。
ココアは、「ふとしたことから」病院で日出男と知り合い、同棲している男からは暴力を受けていた。逃げ込むというわけでもないが、姉弟の家にぶらっとやって来、日出男との奇妙な恋愛関係になる。
「ネロリ」。。。。
何の事だかわからないうちに作品は進んでいくが、志保子に恋をする須賀が志保子にプレゼントしたいかがわしいようなアロマオイルである。催淫性があるという。。。。
志保子は小さな出版社に勤めるが、かわいがってくれた(微妙な男女関係も)社長の引退と共に退職をせざるを得なくなる。退職金はあるが先の生活に戸惑いを覚える。一方では須賀から求婚をされるが。。。。
この作品は失敗作なのだろうか?
どうも全体的にまとまりがない。
「ネロリのせいだ」(189ページ)と、日出男は言う。
しかしこの表題ともなっているアロマオイル「ネロリ」の催淫性がどのような役割を持っているんだろ?「ネロリ」をプレゼントした須賀は、人のよさそうな男であり、どうも意図的に催淫性のあるアロマオイルを贈るような男でもなさそうである。
ラストのココアの実家での祖父とのやり取りと一連の話し(この結末は作品上決定的な結末なので書かないほうがいいと思います)は、どのような意味があるんだろ?ココアが日出男と出会うのは単純な「ふとしたことから」ではない。
ココアはラストで思う。
「人生がきらきらしないように、明日に期待しないように生きている彼らに、いつか、なくてはならない期待の星になるために。心を温める名前のあたしが。」
この言葉自体は、19歳の若いココアがこれまで志保子や日出男と係わり合い日出男に恋をする中での素敵な未来を見つめる言葉である。しかし、このココアのさわやかな言葉は、「ネロリ」というものが出てこなかったらそのままに受け取れるし、ラストのココアと祖父との一件がなければやはりそのままに受け取れる言葉であり、作品の読後感もそのままに受け止められる。
ココアのさわやかなラストの言葉と、「ネロイ」や祖父とのやり取りが、どうもちぐはぐに感じられるのである。これが「この作品は失敗作なのだろうか?」「全体的にまとまりがない」と言う僕の印象を引き起こしているのではないかと思う。
僕は、ココアのさわやかな言葉と「ネロリ」の関係性を見てしまいなんともいえぬ怖さというものを感じた。怖さといったものなのか。。。薄気味悪さというのか。。。
どうもさわやかな読後感は受けないのである。
人の持つさわやかさの裏側にあるもっとドロッとしたものの方がかえって相対的に浮き上がっている作品ではないかと思うのである。
少し作品上の表現は違うかもしれないし、飛躍しすぎかなと思うが、乃南アサさんの「団欒」を読み終わった読後感に近い怖さや薄気味悪さに近い感覚かもしれない。
こういう僕の感じたものがこの作品の主題ならば、この作品は失敗作ではないかもしれないが。。。。
なんだか不思議な作品でありました。
僕に読み違いがるのか。。。。この感想は正直言って自信がありません。
ご批判を。。。。

                        2008年3月28日 記

                                   夕螺







子どもとの暮らしと会話
                             角川文庫
                  銀色 夏生  著
「子供といえども
 それぞれの人格を持つ人間だ
 ふたりの子どもとひとりの親が
 もみあいながら過ごす日々
 いっときも同じ今はない
 平凡な日常の中を
 『生きる』ということの
 驚きとやわらかな輝き
 愛となみだと笑いの三重奏」

                (背表紙より引用)
「頭の芯がしびれるほどひっぱたくぞっ!!」
頭の中で、子供の頃のお袋の怒鳴り声が響いてくる。あまり言う事を聞かない子どもだったから。屁理屈も多かったし。。。。
ほんとに頭の芯がしびれるようにひっぱたかれた。。。ううう(笑)
かあちゃんは怖かった。。。。。。
子どもも小学生の3,4年生ともなると、親としてはかわいい、かわいいというだけでは育てられなくなる。特に中学生ともなれば、半分大人になっているわけで一人の人間として向かい合わなければならなくなる。もちろんこの頃は頭の芯がしびれるほどひっぱたくわけにも行かなくなる。体力的に負けるし。。。ハハハ
中学や高校頃は一番難しいし、小さい頃の悪戯のように簡単にかたづけられる問題の段階ではなくなる。しかし、頭の中はまだ子どもの部分が大きくて、言っても伝わらない事が多くて親としても一番言葉を選ぶ時期である。かと言って、親も人の子。。。。そうは聖人君子のようには行かない。子育てを扱った教科書的な本のようにはいかない。親とて爆発はする。。。。
しかし、親も大人の部分の子どもに頼もしさを持つ。この頃の子どもの言葉に心が見えたとき、親は涙する。
そうこうしているうちに子は巣立っていくのである。。。。。
夏生さんの作品に、日記エッセイ「つれづれノート」シリーズ(角川文庫)があります。
1990年からほぼ毎年続いた日記で、第14巻2005年4月の記事まで続きました。この15年間に、夏生さんは結婚をし、離婚再婚もありましたがお二人のお子さん、長女「かんちゃん」と長男「さくちゃん」(このお子さんたちの呼び方は、本作品では「カーカー」となっていますしその時々に変わったりもしますが、「つれづれノート」ファンとしてなじんでいるのは「かんちゃん」「さくちゃん」という呼び方かなと思いますので以下これを使います)の子育てもその中心にありました。
「つれづれノート」が終わったあとの作品には、「つれづれノート」その後というのか、「つれづれノート」外伝?ともいえるような、「つれづれノート」に登場したお友達が登場したり、「つれづれノート」のさまざまな記事のテーマを発展させたような作品が続きました。一番新しい作品でも、テレビに出てくるスターたちの似顔絵と寸評の本「テレビの中で光るもの」もそうでした。そして今回の作品は、お子さんたちとの日常が描かれる作品となりました。
去年発行の「ばらとおむつ」では、脳梗塞で倒れたお母さん「しげちゃん」を中心にその介護にかかわる兄「せっせ」が登場しました。この作品も「つれづれノート」の番外編という感じでした。
このように、夏生さんは詩人ですが、その日常の生活を描いた「つれづれノート」も代表作であり、その中でもお子さんたちとの日常の様子はたくさんのファンの心をつかんでいます。
14年。。。その年年に読まれた方は、ご自分の子育てとダブらせたり、親戚や友達と子育て論議をするように身近なものと感じ、子育ての後輩は一つの子育ての参考とされたり、子育ての先輩は苦言もあったでしょう。男の僕としても、うんうん。。。。とうなりながら読ませていただきました。また、詩集を読むにしても「つれづれノート」と平行して読むと詩の中身がより実感できるようにも感じました。
14年。。。。「かんちゃん」や「さくちゃん」が生まれて今に至るまでに子育ての柱(夏生さんの子育ての考え方や対処)は変わらないまでも、やはりお子さんたちの成長に伴いそこにひとりのお母さんという夏生さんが泣き笑いをしながら現れています。それは、「かんちゃん」が難しいお年頃になるに連れて母としての夏生さんにも違った側面も見えてきたのかもしれません。それはやはり楽しくかわいいという子育てから将来の子離れや親離れも意識したお子さんたちとの大人同士の関係が少しづつ出てきていると思います。
こういう事は、子育てをしていればだれでもが経験をする事ですが、母親銀色夏生の心の中をこんなに素直に出した中に今回の作品の主題があるのではないかと思います。
夏生さんの事ですから、僕のお袋のように頭の芯がしびれるようにぶっ飛ばすといった子育と同じではないのですが、そこには「かあちゃん 銀色夏生」がいますね。
夏生かあちゃんは、教科書的な教訓のようなものは絶対に書きません。
お子さんと、時には子供同士のように、時には母親として「かんちゃん」と本気で喧嘩をします。その中に自分ではどうする事も出来ないものを発見します。それは半分大人になった「かんちゃん」の大人の部分への干渉はできないということでしょう。もちろん力になれるところは夏生さんは手助けをしますが、それ以上のことは大人の部分である「かんちゃん」自身が決めていかなくてはいけない。もちろん助言はしますが。また、「かんちゃん」のまだ子どもの部分を夏生さんは見つめているのでしょう。そこには愛情を注ぎます。しかし大人の意識と子供の意識が交差する「かんちゃん」にも自分自身ではどうしようもない心の動きがあるのでしょう。
母娘喧嘩もこの時期は当たり前でしょうね。
当たり前の事ですが、一方では、家族として楽しく過ごします。
「かんちゃん」がウケを狙って男友達が踏みつけてしまった食べ物を食ってしまうということがありましたが、夏生さんも花火の音が聞こえたからと風呂場から庭に裸で飛び出してくる(笑)
さまざまな楽しい事がたくさん書かれていますが、すっと心の中の感性を口に出したり行動に出すという、それもユーモア的に、そういう感覚。互いの個を出してぶつかる事の楽しさの理解。こういうものが喧嘩をしながらも楽しく過ごすという銀色夏生家の雰囲気が特徴的でしょう。これは、夏生さんとお母さんの「しげちゃん」との間にもありますし、兄「せっせ」との関係にも見えます。この独特なものを見ないとこの作品の楽しさは半減するのではないでしょうか。くそ真面目に読むと苦言を呈したくなる(笑)わかるのですが、涙の中にユーモアがというような視点は忘れずに読まなくてはならないでしょう。そういう感性が僕も好きなのだと思います。
その意味では角川の本の紹介ページ
「ああいう人間に 生まれてきちゃったんだよ 世の中に」
という言葉があります。
この言葉は本文中64ページに「さくちゃん」が「かんちゃん」を評していった言葉ですが、「かんちゃん」がスーパーの中でカエルの被り物をして歩いているところを偶然夏生さんと「さくちゃん」が見たときに言葉。天真爛漫な「かんちゃん」とどんよりとしながらも上のような「さくちゃん」のコメント。しみじみと夏生さんも。。。。ハハハ
まぁ、夏生さんに何も気苦労というものがまったくないというわけではけっしてないのでしょうし、いろいろあるのが人生ですが、それをある意味個のような作品に書くということ自体がご自分の今を客観視できるのではないでしょうか?それは、ユーモアというものに置き換えると「人生はおもしろい」という言葉になると思います。
「さくちゃん」は、上の言葉のように時々哲学めいたような言葉を発します。夏生さんとのぶつかりは、まだその年齢からしてそうはないのでしょうが「かんちゃん」との姉弟喧嘩はすごいですね。いつもお姉ちゃんにいじめられたり意地悪されたり。。。。(笑)
でもやはり姉弟は姉弟。なかされたりしても哲学めいた言葉を発しながら気持ちの入れ替えは早いようです。
「さくちゃん」が寝ているとき、ズボンの中に手を入れるというのがありましたが、「かんちゃん」も小さいころに同じようにして寝ていた。その頃の夏生さんは、それを見て父「ムーちゃん」の遺伝子と書いていましたが、父親の違う「さくちゃん」も同じとなれば、それは夏生さんの遺伝子ですよね。。。。(笑)まぁ、このような癖はともかくとしても、「かんちゃん」「さくちゃん」へと、夏生さんの性格は伝わっていますね。「かんちゃん」が「つれづれノート」での夏生さんの血だとすれば、「さくちゃん」はもしかしたら詩人の感性の血かもしれません。それはもちろんおばあちゃん「しげちゃん」の血でもあります。。。。
血、血と書くと、生まれながら備わった性格という事が強調されてしまいますが、人を評する言葉には「生まれ育った環境」といいますね。人は生まれながらのものと、育てられた環境によってそして子どもながらも受け取っていくものによって性格は決まっていきますね。夏生さんが「しげちゃん」から受け取ったもの、それは兄「せっせ」も同じものでしょうし、それが「かんちゃん」や「さくちゃん」にも。その親子関係は体の中の遺伝子だけではなく、育つ環境という遺伝子もあるお分けです。「しげちゃん」は、お嫁に来たときに、宮崎の自然を見てこの中に育つ子どもは詩人になるというようなことを言ったと記憶してます。そして子どもたちは「本の山」によじ登りながら育った。。。。「かんちゃん」や「さくちゃん」は、夏生さんが作ってきた環境に生きてその血とともに受け継いだのでしょう。
このような銀色夏生の家族に、夏生さんご自身も常に家族から受け取っているものがあり、それが
「子供といえども
 それぞれの人格を持つ人間だ
 ふたりの子どもとひとりの親が
 もみあいながら過ごす日々
 いっときも同じ今はない
 平凡な日常の中を
 『生きる』ということの
 驚きとやわらかな輝き
 愛となみだと笑いの三重奏」

という言葉に表されているのでしょう。常に夏生さんご自身もお子さんたちから何かを受け取りながら、与えながら平凡な日常の中に互いに生きているのでしょうね。
表紙のイラストは、前に大きくお二人のお子さんが笑い、後ろに小さく夏生さんが寝癖の頭にパジャマ姿で「うん?」というような顔で振り向いている。ハハハ・・・・いつも{うん?」というような新鮮な芽でお子さんたちや世の中を眺めていらっしゃるのかもしれませんし、このイラストはおもしろいです。
これは、僕たち読者もそれぞれに家族を持ちどんよりしたり悲しんだり怒ったりといろいろあると思うのですが、家族が暮らしていくということを考える事のできる作品が「つれづれノート」シリーズであり、今回の作品でもあると思うのです。そして何よりも夏生さんの生き方に何かしらのヒントがあるのではないでしょうか?
うれしいお知らせが「あとがき」にありました。
「つれづれノート」が復活です!!
来春?は、「つれづれノート15」!!
日付が大切とのことですが、夏生さんがどのようなお考えなのかははっきりとわからないのですが、一ついえる事は、このような日記形式の作品では、心の動きが変わることもありますし、その心の動きがどのくらいの時間の経過や環境の変化によって変わったかは大切だと僕も思います。そうしないと夏生さんの事を「気まぐれ」とか、「気分の差が激しい」などという変な誤解が生じます。読者は夏生さんの一年という時間を1週間なり2,3日という時間の流れで読んでしまうのですから。。。。
「つれづれノート」復活!夏生さんに感謝いたします。








生物と無生物のあいだ
                            講談社現代新書
                  福岡 伸一  著
講談社の雑誌「本」2005年7月号および2006年3月号から2007年6月号に連載され、2007年5月に発行されました。
この著書に出会う前、梨木香歩さんの「ぐるりにこと」「沼地のある森を抜けて」というエッセイと物語を続けて読んだのですが、人間という生命体は、素粒子という微細な世界から無限とも思われるような宇宙の広がりに中に存在しているわけで、それらすべてがぐるりのこととなります。もちろん人間の認知範囲は狭いもので、この素粒子や宇宙というぐるりの中に山や川などのような自然と同じ生命体として存在している生物の中に認知できる範囲で日常があるわけでしてそれがぐるりのこととなります。しかし人間はその声明の発達の中に心というものも発達させたわけでして、その心の動きから社会を形成し高度に発達した社会そのものも個としてはぐるりのこととなりました。その中において個は、孤独にその生命を維持しようとしています。この孤独にというのは、個に存在する心は個にしか属さないということです。同時にこの孤独は、生命の繁殖においては単細胞分裂のような繁殖が基本にあるということで、個は同じ個を残そうとします。しかし、生命の進化の中に有性繁殖がはじまりました。孤独同士の個が互いに結び合い子孫を残そうとしました。ここには本来孤独であるはずの個が結びつくやはり孤独な個に出会うわけです。生命体は進化をして人間の心に愛というものを形作りました。そしてそれは受精という互いの持つDNAの結びつきでもあります。基本は孤独な個でありますが、その中に心の働きとしての愛に結びつき、生命体としてはDNAに結び付けられながら子孫は生きていく。個は孤独であると同時に結び付けられていく。孤独という部分ではぐるりのことは、時にはむごい世界に生きなければならないが、同時にに人間だけが愛に結び付けられる可能性を持っている。
こんなことを考えると、人間というものは、素粒子の世界から宇宙という広がりの中にあるある一点でしかない地球という自然の中に存在し、その地球の自然の中においてもある一点である生命に存在し、その生命という中においてもその進化の頂点というある一点に存在するする事の不思議を思います。
そんなときに、この本が本屋さんの棚で目にとまりました。
新書という本は、それぞれの学問の中においての一線に立つ方の著書で、その専門の学問を世間一般の読者にわかりやすく説明をすると共に興味を抱かせる本ではないかと思いますし、その大衆性においてという範囲ですが読者に考えさせる本でもあります。このような意味において、狭いかもしれませんが啓蒙書という性格を持っています。しかし啓蒙という人の心に問いかける著書のはずがその人の心を忘れたような読後感がある本も時にはあるのかと思います。
その意味では、この本は、やさしく生命とは何かを読者に示すと同時に下手な啓蒙はなく読者の心に問いかけるものがあります。その問いかけに読者は考えさせら自分で考える中に福岡さんの生き方や考えを学びとります。科学というと心とはまったく無関係な世界を取り扱うようですが、その中に人の心を感じさせてくれるものがあります。それは文学性というものかもしれません。時には文系という人よりも理系の人のほうがその冷静な分析力から客観性からすばらしい文章が出てくることがあるのではないでしょうか。本来文系といわれる哲学や社会科学、文学や法律などさまざまな分野においてもそれを専門の学問と位置づけるならば、それは科学でなければならないし、冷静な分析と客観性から読者に問いかけられるべきです。その分野での学問的な意味においての大衆相手の軽薄な啓蒙書ではないはずです。
と、なんだか前置きが長くなりましたが、読んでいていろいろと考えさせられたり、関連させて読むことが出来る本という意味でも素敵な本だと思います。
生命科学に立ち入った感想やDNAの構造など、その専門的なものへの感想というものは当然書けないわけでして、DNAというのはこういうものかというものなど知識は知識として勉強をさせていただきます。
この本の本題は、「生命とは何か?」にあります。この命題は、福岡さんが大学に入ってからずっと考えていらしたものだそうです。僕たちも日常ぐるりのことを見回して、ありを見れば生物、石を見れば無生物となんとなくわかりきったように思っています。しかし「生命とは何か?」という根本的なものを明示するとなると専門家でも難しいようです。生物と無生物のあいだの境界線がどこにあるのでしょうか?
福岡さんは書きます。
「『生命とは何か?』それは自己複製を行うシステムである。20世紀の生命科学が到達した一つの答えがこれだった。」(4ページ)
「自己複製を行うシステム」なんか素人にもわかりきった言葉ですね。ありは子孫を残して息ありという生物は存在していくが、そこにある石は割れたらそのままでいつか砂のようになり消滅するかもしれない。わかりきったことではないかと思うわけです。ところが科学者は、このような素人が目に見て当たり前のことでは清まされない。「自己複製するシステム」という自己複製するものがなぜかが解明されなければこの結論は出せないわけです。その解明のための生命科学が「20世紀の」という言葉にあるように難しいものであったということです。
この本では、まさにこの20世紀を通じて生命とは何かを見つめる科学者の姿が描かれています。もちろんそれは、「生命とは何か」というテーマで研究されたわけではなく、生命科学の中の細分化された一つ一つばらばらな研究や、関連科学の研究成果と結びつきながら改めて生命とは何かと問うた時に出せれる答えです。
その歴史を福岡さんは科学の知識をわかりやすく説明しながら到達過程を描いていきます。しかし、その科学を発達させるには、科学者の研究態度というのでしょうか、科学的方法と実験設備の発達に依拠している事も合わせて書いています。野口英世の話はおもしろいですね。日本では、僕の子ども時代もそうでしたが、貧しい農家に生まれながらもえらい先生になったという自伝がたくさん教え込まれました。しかし、アメリカでの評価となるとそうではない。野口英世には、顕微鏡の精度というような当時の限界をあるとしながらもその研究方法をあんがい批判をされているようで、日本人のイメージとは違うものがありました。福岡さんは、正しい結論を導くための研究方法と科学者の態度を書いています。科学事態の発展は、科学機器の発展と科学者自身の研究方法や態度の発展でもあったのかと理解できます。
そして科学者も人の子。
大学や学会という人の世に生きているわけでして、ノーベル賞という最高位を目指して競争をしています。科学者は寝ずに研究をする。研究自体のおもしろさと同時に、いち早く研究成果を人より先に発表をしたいと。
科学や科学者の研究方法と態度、そして人の部分としての功名心や競争。この辺が「生命とは何か」を導き出す歴史としてもスリリングな文章に打たれます。
しかし、多くの科学者は地道さゆえにスポットライトを受けることがないままに亡くなってもいる。すばらしい研究成果であるにもかかわらずに、人に利用されるだけど終わってしまう科学者。福岡さんは、こんな科学者に鎮魂の温かい言葉をかけているようでした。また、サーファーがDNA研究を飛躍させる実験装置を作ったなどという科学の世界の偶然さも描いています。脚光を浴びる科学者の裏に一生黒子として働く研究者の誇り高き人々も。
このようなさまざまな出来事が描かれている文章に福岡さんの心が見える思いです。
それがほんと、スリリングなのです。もしかしたら推理小説ファンもうなるかもしれませんよ(言いすぎかな)
このように20世紀の歴史の中で生命とは「自己復元を行うシステムである」という結論があられたわけですが、この結論から今の世の中で研究をされている福岡さんが、何を新たに付け加えようとしているのか。
ここがまたこの本の考えさせられるところです。たしかに「生命とは自己復元を行うシステムではあるが、福岡さんはエピローグに書きます。
 「生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。」(284ページ)
自己復元は、細胞は常にエントロピーの法則で壊されるが、食べるという行為によって新たな細胞が復元される。このことによって総体は自己復元をされるということでしょう。だから自分という人間は、まぁ老化していくということに向かうにしろ自己復元の中で常に細胞は入れ替わり、一時も同じ自分ではない。これが時間軸上に一方向に向かっていくということでしょう。この時間軸上に織り込まれたものは二度と解くことが出来ないとも。不可逆性とも。
生命は自然の法則の中に。人間はその中の一点でしかないのでしょう。
そしてぐるりのこと。
人は外界から切り離せない個であるという事は、ぐるりのこととの融和が自然の姿なのでしょうね。人は社会的には不幸な歴史を持つ。しかし時間軸の不逆性から常に世代という細胞を新たにしながら融和の方向に流れるしかない。エントロピーって、こういうことかな。。。。それは一つの終末だけど、それは不幸な歴史の終末かも。自然に忠実に時間軸を流れていきたい。

                2008年4月13日 記

                         夕螺











銀色夏生の視点
                            幻冬舎「Papyrus」連載
                 銀色 夏生  著

幻冬舎の雑誌「Papyrus」に1年間にわたり連載された「銀色夏生の視点」も今回で最終回です。
こちらのブログでも発売のたびに感想的なものを書いてきましたが、ブログという性質上カテゴリーを作らないと各記事のまとまりが付かなくなりますので、まずは第1回からの観想的なものをまずこちらに転載をします(各感想は、文字の大きさなどが違うので読みにくいと思いますが。。。)。そして最終回の感想と全体の感想を書きたいと思います。

第1回「銀色夏生 外へでる」
連載にあたっての?それとも8月発売予定の北海道旅行記の本(本文中に書かれています)の?打ち合わせの後に、papyrus編集者の「パピさん」と幻冬舎の編集者「菊池さん」から夏生さんへ質問をしてもらうという形での対談形式となっています。
角川文庫より「おしゃべり本シリーズ」として会話をそのまま本にしたシリーズの本がありますが、この本のような形で「おしゃべり」が載せられています。
「銀色夏生 外へでる」。。。
この「外へでる」というタイトルに思い当たるのが、新潮社文庫から7月1日に発行された
文庫版「月夜にひろった氷」の前書きのような詩。
「ポケットの中で 星が揺れたので」という書き出しに続く言葉。こちらでは「表へ でた」という言葉で書かれていますが、また夏生さんのポケットの中で星が揺れはじめたのかもしれません。
夏生さん、テンション高いです。。。
というのか、夏生さんの初期の本は河出書房新社から発行されましたが、去年にこの初期の本のうち「無辺世界」が新潮社文庫から文庫化され、夏生さんの詩人(作家)生活の20年の区切りを感じたのですが、そして今回また「月夜にひろった氷」が文庫化されました。それ以前には「つれづれノート」シリーズが終わりましたし、夏生さんの内面の中に何かの変化を感じていました。この変化が「外へでる」だったりするのかもしれません。
それとも夏生さんの中にあるもうひとつの面外まで始めているのかもしれません。
それがあいつぐ出版と同時に、連載というものをほとんどやってこなかった中でこのような形で連載が始められたり、ファンとのかかわりの積極性として現れているのかもしれません。
ファンから見るとこのように「変化」として見えるのですが、夏生さんの中では、ごく自然な中での興味のあるものを追求するという夏生さんらしさからのものであるようです。時々「おこもり」をしてしまう夏生さんですが、今積極的に人との交わり、その人が持つ心の面白さを見ようとされているのではないかと思います。それはまたご自身の心との会話でしょうね。そしてそれはプロデュース的な夏生さんの側面であるようです。(そういえば、2004年には丘紫真離さんという当時中学生ぐらいの方の「黄色い卵は誰のもの?」という本の推薦をしていますが、これもプロデュース的なもの?)
話は進んでいって、サイン会へと。。。
これもファンという「人」の心と夏生さんの心のふれあいのような「祈りを込めるような」夏生さんらしい形になるのでしょうか?
僕のようなぐうたらのファンは、興味のあることを追求していく、それも「すごい、速さだから」(「月夜にひろった氷」149ページより引用)追いかけていくのにたいへん。。。(笑)
息切れしないように必死についていきます!!(^。。^!)

第二回「野外観察」
連載第二回目「野外観察」は、本格的なエッセイです。
新逗子駅で待ち合わせをしたお友達「ユウコちゃん」と詩集
「Go Go Heavnの勇気」に出てくる「カネミツ」に会いに行きます。20年ぶりの再会。。。38歳の「カネミツ」
東京に戻った夏生さんは、おしゃべり本
「ものをつくるということ」に出てくる音楽プロデゥーサー「キーちゃん」こと木ア賢治さんとも会います。
こんな昔からの仲間との再会を通じたエッセイ。
まだゆっくりと読んでいませんが、「個人を超えたものがすき」という章にぐっと来ました。
「一人の人間がいて・・・(中略)・・・・個人情報には、まったく興味がない」
「その人が持っている世界観・・・・」
人と人とがひきつけられる中でのあるひとつの大切な形を語っていらっしゃいます。
9月に出版される辛口エッセイにも触れていらっしゃいます。

8月10日のサイン会に集まったファンからの質問は、次号10月27日発売に掲載されるようです。

じっくり読めるエッセイです。また読み終わりましたら感想を書きます。

(追記)
さっきは時間がなかったので書けなかったのですが、ちょっとPapyrusの中身でも宣伝(笑)
ブログを検索していると、あんがい小林聡美さんのファンにお会いします。
巻頭特集は小林さんと加瀬亮さん(僕は知らない・・・けど)の対談のようです。
僕個人としては、阿佐ヶ谷スパイダース(劇団)の「イヌの日」を観にいったのですが、そんな意味でも長塚圭史さんのインタビューも楽しみです。
このPapyrusとは、どのような位置づけの雑誌なんだろ?
人とは。。。?というような感じなのかな?

第三回「祈りをこめたサイン会」
8月10日、幻冬舎主催の銀色夏生サイン会のレポートです。
整理券の裏に「何か質問がありましたら書いてください」という夏生さんの呼びかけにファンは思いを込めた質問を書きました!その質問に夏生さんが答えています。
やはり日記エッセイ「つれづれノート」に関する質問が多かったのかな?どのような位置づけで夏雄さんが「つれづれノート」を書いてきたかというものがありました。また、今後「つれづれノート15」はあるのかという質問に完全否定はありませんでした!!その前に「ばらとおむつ」のような形の書きたいものというものを大切にしたいという夏生さんです。「ばらとおむつ」にも少し触れていた「珊瑚の島で千鳥足」は、原稿がたまったら出版されそうです。さて夏生さんのお兄さんである「せっせ」は南の島に母「しげちゃん」と移住するのでしょうか?楽しみです。
さて、サイン会に参加した夕螺でありますが。。。。
ううう。。。。
握手はもっと力強く握っておけばよかった。。。ハハハ
「男性の方は一割弱。(中略)握手に力がなかった人や握手を求めなかった男性は、(奥さんのためという)そういう代理だったのかなぁ。」と。(涙)
ハハハ・・・・・僕は僕のために行ったのに!
シャイな夕螺を理解してください。。。。(笑)
僕の質問の答えがなかったと妻と娘に言ったら、
「お父さん、あなたは期待しすぎよ〜」と。。。。(涙)と情けない(笑)
ううう。。。。。
まだゆっくり読んでいないのですが、もう一度読み返し、夏生さんの握手の感触を思い出しながらサイン会の夕べを今一度感動したく思います!!

第四回「インタビュー」
8月に行われた幻冬舎の記念行事そして
「流氷にのりました へなちょこ探検隊2」の出版記念もかねたサイン会のとき、整理券の裏に夏生さんへの質問を書く欄が有り、インタビューを希望する場合は書き添えてくださいとありました。
第四回「インタビュー」の記事は、そのときに希望を出した方々の中から抽選で選ばれた方8人のうちの4人の方のインタビューが掲載されていました。
(ちなみに僕もサイン会へ行きましたが、口下手の僕としてはインタビューに立候補する勇気がなくて。。。ううう・・・・・・後悔しながら読みました。)
でも、皆さん緊張されていたようです。
前回第三回の予告で次はインタビューの報告とありましたので、てっきり夏生さんと皆さんが車座になってお話をし合うのかなと思っていたのですが、お一人30分という時間に一人一人づつお会いしてインタビューを行うという形でした。今回は女性ファンばかりでした。
ううう。。。。ん、緊張しますよねぇ。
ホテルの1室で小さなテーブルを挟んでのインタビュー・・・・
皆さんと夏生さんとのツーショットのお写真もありますが、皆さんうれしそうなお顔でした。
インタビューの中身は、誌やこぶたシリーズについて、つれづれノートについて、サイン会のときのことなど、皆さんきちんとお話しをしていらっしゃいましたので、ファンに話をするという意味においても夏生さんのお話しはおもしろいと思いました。

次回もまた残りの4人の方のインタビューが掲載されるようです。
また、今回はページ数の関係ですべてのインタビューの中身を掲載できなかったとして、来年夏の初めに出版予定の本に全文掲載されるようです。そういえば、この来年夏に出る本には、整理券での「質問」にもお答えすると以前書いてありました。この点でもこの本が楽しみです。
初夏出版の本といえば、ファンなら「つれづれノート」シリーズですよねぇ。。。。
でも、このような形でも初夏に夏生さんの本が出るという情報はうれしいものです!!
出来れば。。。。「ばらとおむつ」のような形の本もと思うのですが・・・欲張りでしょうか?(笑)

第五回「インタビュー(続き)」
夏生さんの連載「銀色夏生の視点」も第五回目です。前号の予告によりますと、昨年8月に行われたサイン会で募集された夏生さんへのファンによるインタビューの報告第2回目(続き)となっていると思います。
あと、今回のPapyrusの特集記事は、「鬼束ちひろ 私はまだ死んではいない 」ということです。
鬼束さんファンでもあり銀色夏生さんファンでもある方から掲示板でお知らせをいただいたのですが、この特集に鬼束さんと銀色夏生さんの対談も載せられているとのことです。
鬼束さんの
公式サイトからのリンクにも、今号のPapyrusが紹介され、「鬼束さんが詩を書くきっかけとなったという憧れの作家銀色夏生さんとの夢の対談も実現しました。」とあります。
こちらの対談も楽しみです!!

これから買いに行きます!!

買って来ました。そして読みました。
4人の女性ファンからのインタビューでした。
最後に、「インタビューを終えて」という夏生さんのあとがきがありましたが、その中で、たくさんの本を出してきて読者がいることは意識していたけど、「ファンとか読者というと、あまり実態が感じられず、まるで暗闇にボールを投げるような気持ちでいました。」とお書きになっていました。作家というのは孤独なのかもしれません。(ブログというのも作家でいえば発行部数のようなアクセス数に実態は感じられないものです・・・ハハハ。。。。だから孤独です)一人一人に時間をかけたサイン会やインタビューという形の中でファンや読者という夏生さんの投げたボールを受け取ってくれる生きた人間としての読者やファンという実態をおつかみになったのかもしれませんね。
「私が本の中に注いできた思いは、ちゃんと通じていた。」「あ、じゃあもう、いいね。そうするね。ここのところはきにしなくていいね、」「私はこれからも書き続けます。」
ボールをたくさん投げてください。。。。。
「銀色夏生×鬼束ちひろ」
2ページと短いものでしたが、中身がぐっと詰まったようなお話。
劣等感を持っていることは、逆に言えば相手のよいところが見えるということ。だから自分の劣等感が見える。その中で対人関係が少なくなる事も。でも、これも「自分にとって必要なモノと不必要なモノがわかってるから」
夏生さんも鬼束さんも自分をしっかり持っているのでしょうねぇ。。。。
鬼束さんも夏生さんの作品を全部読んでいるようです。。。。。

第六回「外にいながらにしてこもる」
最終回は、幻冬舎の菊池さん(「へなちょこ探検隊」に同行して夏生さんとはいいコンビの味を出しています)との対談の形で進みます。同時にそれは、今回の連載1年を振り返ってのお話しから始まります。
はじめは夏生さんと菊池さんのお話からはじまったサイン会でしたが、それは、ファンとしてもかけがえのない一瞬の時間をいただきました。もちろんそれは、幻冬舎の企画という面もありましたし、夏生さんのファンの前に出たいという思いがリンクした事と思いますが、何よりも夏生さんを見つめ続けたファンの思いが通じたのだと思います。もちろんそのファンの一人として僕も居てサイン会は一生の思い出となりました。夏生さんもファンによるインタビューに感謝をされている事と思いますし、ファンを代表して夏生さんにインタビューをしていただいた方にファンも感謝している事と思います。
それは、編集者と長く活躍されていた菊池さんの、他の作家にはない作家とファンの関係が夏生さんには見えたという言葉にあります。僕もそれを強く感じています。
「へなちょこ探検隊」ではなくて「へなちょこ体験隊」というお話しもありましたが、「何を言っても大丈夫」なのは、タレントみたいな人ではないですよ♪それは夏生さんを見つめるファンでしょう。。。。ハハハ
確かに素人はその限界がありますが、夏生さんを一番知っているのはファンです。。。。
これからも常にファンを見つめて欲しいです。。。。
でも、それを一番知っているのは夏生さんであり菊池さんでしょうね♪
プロとして本を作る事とファンとのつながりは違いますが、ファンは見つめていますよぅ。。。。
何かテーマがあったらPapyrusに書くことのこと!!
これからもPapyrusから目が話せませんなぁ。。。。
そして今回の連載は早うちちに本という形になるそう。。。。楽しみにしています!!
「銀色夏生の視点」は、それぞれにテーマが違うように感じましたが、「つれづれノート」に出てくる方とのふれあいやファンとのふれあいと、今の夏生さんの心を感じました。その意味で、僕個人という一ファンとしてはかけがえのない連載でした。そして連載を通じながら夏生さんにお会いして一言お話ができた事も。。。。。

一年間、ありがとうございました。


                        2008年4月29日 記

                         夕螺







俳諧大要
                         岩波文庫集録
                  正岡 子規  著

時々子規の「俳諧大要」をペラペラ開きながら読み、そのつど感想をブログ内に「俳句考」として書いてきました。
まとまらないし解釈が妥当かは自信がないので巣が、「感想」としてと同時に「俳句ってなんだろ?」と考えながらの感想です。
これまで書いてきた感想の転載ですから箇条書き風になっています。

俳句のことを考えながら正岡子規でもと本棚を探していたら、「俳諧大要」という本が目についた。
もう15年以上昔に読んだ本です。
俳句とは?といったものを初心者に解説した本であり、同時に過去の俳句を紹介をして子規の味わい方のようなものの解説があります。
近代の俳句も子規から始まるとはいえ、子規亡き後は弟子たちの間にもいろいろな考え方も出て来て、今はさまざまな枝葉のような発展があるのだろうと思いますが、子規がどのように書いているかをあらためて読むのもおもしろいと思います。
俳句を文学(詩)に高めるための力強い文体に圧倒されます。
今読んでいる本に平行しながらぺらっと読み返したいと思います。

芭蕉の「古池や。。。。」の句を静寂とか解釈すが、芭蕉はただ、かえるが池にボチャンと飛び込んだというのを詠んだのだと。
漱石と子規とのあいだに、俳句はスケッチだという言葉がたしか出ていたと思うのですが、その自然などを見つめる目が大切ということだろうか?
「俳諧大要」は、初心者に向けて書かれていますが、初心者はまずこのスケッチをたくさんしろということかもしれない。
俳句には17文字とか季語を入れるとかいくつかの決まりがあるわけですが、子規は初心者に対してすごく寛大であり、字数。。。。18文字でもいいんじゃない。「雑」季語が要れられないならそれも。。。とか、まずは見つめる目を養うということを教えているのかもしれません。
かえって俳句のお師匠さんを気取る方への批判も。
決まりごとに縛られるより自由に目を肥やす。それがだんだんと決まりごとを守れるような俳句に進歩していきますよ♪。。。そんな子規の笑顔が見えるような著書です。
オリジナリティーな自由な心の中から出てくる言葉。。。。

東京は天気がはっきりせず薄ら寒さも感じます。
5月や10月、一年間のあいだに過ごしやすい季節というのは2ヶ月ほどかもしれません。まぁ、夏は好きですが。。。。
でも、過ごしやすいというのは人間から感じる自然です。もしかしたら人間だけではなくてすべての生物にもいえるのかもしれません。自然は、生物に対して厳しさを持つというのが基本かもしれません。生物は自然に順応することで生き延びている。
そうならば、一生物である僕も順応するしかない。もちろん順応しているから生きているわけですが、気持ちの中にある「嫌な季節・天気」というものにも心として順応しなくてはいけないのかなということです。
まぁ、嫌なものは嫌なのですが、自然を見つめる事でどうにか順応できるのではないかと思います。幸いに日本にはきれいな自然の移りゆきがありますし、それを心で感じ取ろうとする俳句というものがある。ううう。。。。ん、俳句かぁ・・・・

前回の俳句考1では、俳句はスケッチのようにそのままを詠むということかと書きましたが、俳句はこのように四季の自然を用いる事が基本で、その意味においてのスケッチといえるかもしれない。
しかし子規は、俳句に表現されるものは自然の景物に限るものではないと。「季以外の雑財」を取り入れて読むべきだと。そしてこの両者が並ぶ事により句の狭さがなくなると。
では、この「雑題」が何かを考えると、四季の自然以外ということから人の営みということだろう。それは農耕をはじめに四季折々の習慣などかもしれない。
自然に対する人間(人工)は、なんとなく見方によっては対立的にも見ることができるが、子規はこの両方がないと駄目だと。それは言うに及ばず人の感情が入るということではないか?
この意味においての人間の姿のスケッチでもあるということではないか?
ここに俳句の複雑さと面白みがあるのだろう。
子規は、このような意味での俳句を(人間の感情が入るにしても?)難しく詠めば高尚な句であると勘違いをしてはならないといっているようである。そうではなく「平凡なる句はなかなかに貴し」という。
その意味では
朝顔に釣瓶取られてもらひ水
という有名な句は、スケッチ的でありわかりやすく平凡さもある。
しかし子規は書く
「このもらひ水といふ趣向俗極まりて蛇足なり」と。。。。。
人の行いが現れているし、朝顔という自然の貴さも出ているが、これは俳句とは呼べないとも。厳しいですなぁ。。。。
もっと自然な形の中に心を表せということでしょうか?。。。。うううう
難しいですなぁ。。。。

第6章では、就学第二期に入ります。
「利根のある学生俳句をものすること5千首」
このぐらい詠めれば第二期に入れと。
利根。。。賢く機転が利くというような意味だそうです。「学生」については先のほうにも出てきましたが難しいです。
普通の人でも少しは学問のある者でも1万首詠めば第二期に入ってもよいだろうと。
この少しは学問がある者というのが難しいですなぁ。
明治の時代のインテリは、漢文や古事に詳しくといった教養を連想しますし、さらさらと毛筆で達筆な手紙をきちんと書けるとか。俳句にもこのような教養が出てくるようです。現代でも俳句の世界ではこの教養のあるないに俳句の深みが決まってくるのでしょうか?
仮にこれを伝統的な俳句とするならば、現代的インテリジェンスや教養、あるいは現代人の持つ機転のある頭のやわらかさから来る俳句もあるはずですね。季語も変化してきているようです。明治の子規の句も現代俳句、今の俳人の句も現代俳句なのでしょう。。。。
まぁ、どちらにしてもよりすぐれた頭脳や少しは学問のある普通の人でもない僕としてはたじろぎますなぁ。。。。
しかし、ここで書いている子規の言葉は、最後の第三期に上り詰める志、プロとはいわないまでも俳句雑誌などで名が通るような、俳人になることを目的にしているのかもしれません。これに対して学問はないが少しでも俳句を楽しみたいといういわば素人がいてもいいわけです。「俳諧大要」で言えば修学第1期にとどまる素人が大勢いることもまた俳句の世界を広げるわけです。でも、ただの大衆受けをするようなだけの俳句の世界ができてもとは思うが。。。
うん。。。1匹狼の自己満足?
こういう俳句もあっていいのかも(笑)
でも、学問はないから大層なことは書けないが、それでも正直に素直に書くこと。俳句でも読書感想文でも。

新聞の俳句欄を時々開いて入選した句を読ませてもらいます。
しかし、その句がどのような意味を持つのかがよくわからない。難しい漢字は読めないしその意味となるとなおわからん。
子規は書きます。
「天然を研究して深きものが熟慮したる句を示すとも、諸学の人はその句の美を感ぜざるべし。けだし彼は天然の上にかかる美の分子あることを知らざればなり。」
(66ページ)
優れた句を読み、その表現される世界を感じ取れないという事は、結局は優れた句は素人には作れないという事なのかもしれない。
子規は例句をあげながらその句は何を歌っているのかを書いている。たしかに子規の書く解釈を読むとその句の意味することがよくわかる。
たくさんの句を詠む事、読む事は、一緒だという事でしょうね。それには、さまざまな事物に心向けて勉強しなければならないということでしょうし、感じ取る心が必要なのでしょうね。
たった17文字ですが、それを文学に高めようとした子規ですが、初心者には優しさがありますが、17文字とはいえ奥深いものだぞと教えているのでしょうね。
でも、俳句の中の言葉は、その時代により現代人では理解できない時代性がある。現代人からすれば明治も遠い時代です。それ以上に明治の前ははるか遠くに過ぎた時代。現代語にも今の時代としての心に響く言葉があるはず。でも、子規の時代から離れた奇抜さだけの句は。。。。
今の時代の言葉で花鳥風月を。。。。それには、決まりという制約を受けながらもそこに真の自由のおもしろさがあるのかもしれない。

「俳諧大要」読了。
その他のものは後日時間があったら読み返したいと思います。


                       2008年5月3日 記

                                夕螺







怪しい来客簿
                            文春文庫
                   色川 武大  著
川上弘美さんが好きな作家という事で、前々から読んでみようかと思っていました。
背表紙を読んだら「連作短編」とあります。しかし、読み終わると「短編」の物語というよりも戦中戦後を生きた色川さんの人生を振り返ったエッセイではないかと感じました。
初めて読む作家ですの、この作品を色川さんご自身のことかどうかを知る必要があり、ウィキーぺでリア「色川武大」の略歴を読ませていただきました。
その略歴とこの作品に書かれる出来事は、重なり合いますので、この作品は色川さんご自身の生きてきた中での出来事がそのままに描かれていると見て間違いはないと思います。
色川さんは、1929(昭和4)年生まれで、僕の親の世代となります。少年期を第二次世界大戦の中に生きました。そして青年期に終戦を迎えます。
ちょうどその年齢から出征することもなく、感受性の一番高い年齢の目で日本の国内を見てきたのだと思います。
小学校の頃から学校になじむことが出来ず、中学校では友人と文芸誌を出し、それが見つかり非国民とも呼ばれ無期停学(95ページ)に。
戦中戦後を「大人」の目で見てきた方々は、さまざまな見方で戦争をとらえて生きてきたでしょう。そしてそこには「大人」としてのさまざまなイデオロギーもあり、回想する中身も違ってくるでしょう。しかし色川少年は、「少年」として戦争が目の前にあったわけで、僕の世代や今の若い世代の方々が今の社会の中でそのあるがままの条件の中で育っていくのと同じように色川少年は、戦中という社会があるがままの社会としてあったはずです。ですから戦中に経験した事は、その時代の社会の日常であったはずで、そこに少年としての喜怒哀楽があり、学校があり家庭があったわけです。そこにはイデオロギーというものよりも一人の少年という「人」がいたわけです。その少年が大人の社会を見、学校の先生と教育を見、意味もわからず非国民として停学になるわけです。
この作品は、そういう少年が見たままにうつる自分のぐるりのことをそのままに描いたし、戦後の行き方もその少年期を通して摂取したものを土台に生きたのではないかと思います。そしてこの作品が発表された70年代の色川さんも、少年期・青年期に見たものをそのままにイデオロギーなしに生きた事実を描いたのだと思います。
その意味では、色川さんは、小学生の頃に学校になじめないというものと同じ生き方を一生貫いたような生き方をされたのではないかと思います。
それは、インテリ層に見るある一つの形としての「個人主義」に通じるものがあり、社会や組織という自分を縛るものを批判をし否定をするという生き方であり、それはある一つのイデオロギーというものを精神的な縛りとしてとらえて否定をする生き方に通じていたのかもしれません。この作品が発表された70年代はこういう考え方が一つの哲学のようなものとしてあったと思います。「個人主義」は、いろいろな考え方があるかと思いますが、明治の時代の本来の意味での個人主義として漱石に見え、漱石とは違う若い人々がいたと思います。それは大正期にもあったでしょうし、戦中は消えうせたようでも戦後に流れを取り戻し、それは、自由という言葉に代表されてヒッピーなどというものも産み、知識人としては先に書いたような脱社会・脱イデオロギーという考え方も出て、80年代や90年代の会社には縛られたくないというアルバイターやフリーターのような働き方が流行り、その流れは脈々と続いているのだと思います。
色川さんもしばらくは定職にも付かず、あるときは賭博で生きる。麻雀人生は有名です。定職も個人の自由がきく出版社であり、その後は作家として生きています。
この作品から感じるものは以上のような事なのかと思います。
「怪しい」人々として描かれる人はさまざまで、お笑いの芸人もあればボクサーや相撲取りも出てくる。同じ出版社の同僚や学校の先生も出てくる。それぞれに味のある人物として表現をされていますが、共通する人物像は、どうもその世界になじめなかったり、成功しなかった人々というものである。そういう人々を暖かい目で包む色川さんがそこにいるのではないでしょうか?それぞれの人物は努力もして成功しようとするのはもちろんですが、どこかもう一つその世界になじめない。それを色川さんは愛してやまない。ある意味社会からはずれたところに流されていくようにも感じます。積極的ではなくとも個人が出てしまうような個性の悲哀。そこに色川さん自身の生き方が鏡のように映し出されているのかもしれません。
社会の中で個性を出すという個人主義は、社会が流れている中に時には抗しなければならず、それは個人主義の自負でもあると同時に社会への恐れともなるわけです。
それは知識人に多いものです。
それは政治的見解などという大げさなものではなく、自由な働き方というフリターのような人生に不安を持つとか、年功序列的な窓際族は辞めろ、能力に応じた金をよこせ、自由な働き方を叫んだ今の若い人々の社会的不安や恐れなのです。
「怪しい来客簿」の「怪しい」とは何かを見ると、この不安や恐れではないかと思います。
中学生の少年色川さんは、東京の空襲に恐れますが、それはあまり描かない。
空襲で焼け出された人々が焼け残った色川邸に非難をしてくる。「怪しい来客たち」なのである。その中に洟をたらした薄気味の悪い老婆もいた。焼け残った人々を助ける事に長けてはいるが。あるとき色川少年はその老婆が寝ている顔を踏みつけてしまう。鼻を踏んだグニュっとした感触をいつまでも忘れない。それが恐れともつながる。戦後その老婆はまだ生きていた。どうやって生き延びたのだろうか、そして今はどうやって生きているのかと。「空襲のあと」(9ページから)
「怪しい来客簿」は、この小品にあります。
そしてそれは、色川さんが、老婆の鼻を踏みつけた感触が心の中にいつまでも残っていると同じように、それは社会の流れの中にどう生きていくかという不安を常に感じている事を現しているのだと思います。
またしばらくして他の代表作も読んでみたいと思います。

                       2008年5月9日 記

                         夕螺








いまにもうるおっていく陣地
                                  紫陽社
                   蜂飼 耳  著
蜂飼さんの著書ははじめて読みました。
1999年に発行された詩集です。
人は自然の中に生まれ生きる。その生まれてきたままの肉体はまさに自然のままであり、自然な五感を持ち食い排泄をし眠り、生命を維持する。この中に自分を常に感じて生きている。これは他の動物たちとまったく同じだろうし、その意味においては自然そのままで生きているのである。「二足歩行が 移動する」(15ページなど)
しかし、人はその進化の中に心を持った。それは自然のままの生命体としての肉体に宿るわけだが、心は肉体の感覚を越えた自我を持ち肉体的な感覚の外に特有な自分を持つ。
肉体の感覚という自分と心に芽生える自我とは時には遊離をしてしまうのである。ここに自然の営みと心の働きという中での行動としての人工的な営みが、時には対立をし、遊離をしていく。心の働きと行動とが人だけが持つという意味において人工的なのである。法・倫理・秩序、憎しみ・悲しみ・喜びそして愛。。。。
この自然の営みと人工の営みの分離がこの詩集には強く感じ取れる。「魂の飛び去った女」(16ページ)
分離をしているから自然の営みとしての肉体の感覚と心が一致したとき、それは心が解き放たれたときに喜びになり、解放となる。
表題作(詩)「いまにもうるおっていく陣地」は、廃屋に「私」が入っていくが、家というものやその中に住んでいた人々のすべての心の営みが詰まっていたものであるが、その家が廃屋になり、水道水が湧き水であったというまさに人工的な営みが自然の営みに昇華されていく安らぎを感じ、「私」の他にいる「彼女」は、まさに「私」という自然の営みの中に居る肉体に対しての「私」の心ではないか?縛られた心が「落ちていく」のではないか?または、その逆かもしれないが、この詩からは静寂の中の安らぎを感じ取れるだろう。人は肉体と心が一体となったときにこの安らぎを感じ取れるだろう。
しかし、肉体から離れた心は、その自由さにおいてさまざまな自然の営みのうちに宿る事が出来る。
「アサガオ」「高行くや」は、もしかしたらこのことかもしれない。しかしその心で見つめるが肉体から離れた心は、不確かであり不安でもある。
肉体と心の分離は、男女間の愛にも現れるだろう。
愛というよりも、肉体的な快楽としての自然な営みと、愛という、心の人特有の一体感。ここにおける分離の寂しさは、「タコ」「染色体」に現れているのかもしれない。または、「らじお・たいそう」における「栗の花の匂い」「射精」そして男の動きの肉体的な動きとしての形式的なラジオ体操。。。。ここにおいて著者の男性性に対する独特な感情が現れているのだと思う。しかし、それは、著者自身の女性性としての肉体と心の分離としての鏡である。
肉体から離れた心は、生命の感覚のないところにおいて孤独である。
この詩集のすばらしさは、日常において以上の事柄が描かれる点にある。どの詩をとっても心は日常にあり、肉体は日常にある。大げさな拡大する風景に著者はいない。日常に現れる肉体と心の分離なのでしょう。
詩は、ある象徴を表現し、理解できないところがある。そのわからないところに拘泥する必要はない。感覚である。感覚で受け止めないで意味づけはナンセンスだろう。著者しかわからない意味づけがあるだろうが、意味のわからない中にも感覚は共有されるだろう。
詩は、リズムがある。
「ものたちの あいだ ゆるゆると固まり
 かたちをとった とってしまった
 二足歩行が 移動する」

           (15ページ)
この言葉の羅列のようなリズムと「二足歩行」「倭人」などという現代からかけ離れたような言葉に物語性の深さを感じるだろう。

                             2008年5月25日 記

                         夕螺







風花 kazahana
                              集英社
                    川上 弘美  著
2008年4月発行の長編です。
集英社のホームページに編集者の作品紹介がある。
その中に「川上弘美さん初の『結婚小説』」とありました。
この結婚小説」と意味では、「夜の公園」(2006年7月発行)も結婚小説と呼べるものだろう。また「真鶴」(2007年1月発行))も結婚生活の中での夫婦間のやり取りが少ないが、夫婦関係が表現されているものと見てもいいのではないか。「光ってみえるもの、あれは」(2005年9月発行)では、愛子さんと大鳥さんという別れた夫婦関係も出てくるが、主人公は高校生の翠(みどり)である。
こうして見ると毎年1篇の長編小説が発表されているのですが、「光ってみえるもの、あれは」は、翠という高校生の見た目からの自分を取り巻く人々を描くわけですが、愛子、大鳥という両親の関係も子である翠を通して描かれる中に夫婦関係の一面を見ることができます。この意味ではこの作品は「結婚小説」ではないのでしょうが、夫婦というものに視点が合いつつある作品かと感じます。そして「夜の公園」では、はっきりした形で夫婦の生活の場が描かれます。しかしこの作品においては、リリ、幸男という夫婦は互いに不倫(幸男はリリの親友春名と、リリは若い暁などと)という形においてのすれ違いが描かれ、そのすれ違いがどこから出てしまうのかは、リリ自身もわからないままに、「おかえり」の声を使い分けていたのに夫が気づかないことに好きでないと思うという表現に心の動きとしてのリリがいます。
「真鶴」では、夫「礼」は失踪をして影のようにしか出てきませんが、主人公「京」の夫への思いや結婚生活を思い起こしての心の中が多く表現されていると思います。その意味では「夜の公園」のリリに比べて幻想的ではあるが夫婦を描くという意味ではよりはっきりしたものが「京」の中において見えるのではないかと思います。
そして「風花」においては、主人公の「のゆり」は夫の卓哉との関係を迷いながらも見つめようとし、それは具体的な生活の中に描かれます。
このように毎年発表される1篇の長編という流れの中に川上さんの結婚観の流れがあり、またはいろいろな視点で見つめる川上さんの目があるのかもしれません。
このように、「結婚小説」という視点で川上さんの作品を読もうとするなら、「夜の公園」「真鶴」そして「風花」とお読みになることをおすすめいたします。
「さっき、こわかった。手に持っている小さな手鏡が何の予告もなくぱりんと割れてしまったみたいに、こわかった。」(11ページ)
「のゆり」は、従兄妹である真人と新幹線で温泉に行く。
結婚後ほとんど出かけなかったのゆりは新幹線の改札機の通り方がわからずに戸惑ってしまった。そんなのゆりは、何に怖さを感じたのか。
ここからこの作品ははじまります。
夫卓哉は、同じ会社の後輩である里美と不倫関係にあり、ある日匿名の電話がありその間系を知らされる。その夜のゆりは卓哉に
「ただ、どうしていいのかわからなくて、かといって腹に溜めておくほどの決意もつかず、ともかく報告したのである。」(12ページ)
普通「とめおく」は留め置くとして「留」の字を使うが、のゆりは「溜」の「とめ」である。よく溜飲を飲むとか溜飲が下がるいうが、この溜である。たぶん、のゆりは卓哉に対して不満な気持ちも起こらずに卓哉の不倫に怖さだけを感じたのではないか。それが「報告」という言葉になる。同時に、不満さもなく、怒りや悲しみも出ないのゆり。こういうのゆり自身にこそのゆりは怖さを感じたのでしょう。
卓哉の不倫に怒りや悲しみもおこらないで「報告」するのゆり。
そんなのゆりが日常の中において悲しみや怒り、特に悲しみを抱いていく様子を表現したものがこの作品の主題ではないか。それは、のゆりの「卓哉の妻のゆり」から「一人の女性としてののゆり」への変化であり、そして「一人の女性であるのゆり」を取り戻したときに大きな悲しみにのゆりは気づくのである。
「夜の公園」のリリにしても、「真鶴」の京にしても、夫の不倫に対して自らも不倫をする。もちろんそのリリや京の不倫は、夫への報復的なものではなくて極自然な夫婦間の破綻から来る女性性の流れであり、愛情の向くべきところへと自然である。そんな女性の主人公に対してのゆりは、従兄妹といっても少し危ないような関係の真人や医療事務の学校で知り合った若い男とも不倫関係には陥らない。のゆりの気持ちは卓哉にあるのである。それは愛情であり、卓也との経済関係支配にあるのではない。だからこそその悲しみの深さにのゆりは気づくのである。
「わたしはいったい、どう、したいんだろう。のゆりはぼんやりと思う。」
(40ページ)
卓哉にはもう一人の不倫相手がいた。
毎日のように無言電話をかけてきたが、ある日始めて電話に応対する。「別れてください」と。
のゆりは、「はあ」とあいまいに答える。混乱しながらも「きれいな声」だと思い、やっと無言電話をやめられたのねとよかったじゃないと思う。
毎日の家事をこなすのゆり。。。
こういうのゆりが描かれていくのだが、女性の読者としてこのようなのゆりがどのように写るだろうか。
のゆりの従兄妹真人も不倫をしていたが、妻からは追い出される。のゆりにはこういうことができない。読者の中には、感情をあらわにして怒り夫を問い詰めて時には追い出して反省をさせるといった強い妻を応援しないだろうか?その意味でのゆりという女性はどうなんだろう。
しかし女性のほんとうの強さは、泣き叫んで問い詰めてというよりも静かに戸惑いながらも自分を見つめる女性のほうが強さが在るのではないか。
僕としてはそういうのゆりの強さをこの作品から感じるのである。泣き叫び問い詰めるのではなく悲しみを感じるという強さでもある。
この強さは、「夜の公園」のリリや、「真鶴」の京にも共通する。
卓哉は叫ぶように
「なぜのゆりはそんなに落ちつきはらってるんだ」といい、「のゆりには、プライドは、ないのか」とも。(172ページ)
のゆりには悲しみと戸惑いしかない。卓哉への愛情しかない。
だから「みっともないことなんだな、他人と共にやってゆこうと努力することって。」(173ページ)と思いつつ卓哉への愛を自分に問い直す。のゆりの中にあるものが卓哉への愛と悲しみという面では、この自分自身を見つめる中でしか答えは返ってこないし、それに応える卓哉を見つめなおすしかないのであろう。
のゆりはアパートを借りて別居をするが、ある晩、卓哉が火事にあい火傷をしてのゆりのアパートに来る。
卓哉は「怖かった」という。
冒頭にあるのゆりの「こわかった」とは違う。しかし違うが、卓哉の「怖かった」は、火事が怖かったではなく、のゆりが近くにいなくて怖かったであろう。
「結婚しなければよかったのに、わたしたち」「結婚しなければ、もっとちゃんと好きになれたのに」(259ページ)と、のゆりは思う。
卓哉は結婚生活を続けたいと思う。のゆりは結婚しなければもっと好きになっていたかもと思う。ここに結婚生活というものへの川上さんの考え方が出ているだろうし、結婚生活という形の中での愛情とは何かが見えるのかもしれない。
のゆりは「別れよう、わたしたち」(282ページ)と口に出して言う。。。。
ラストはある意味さわやかである。
仕事のできる、「お給料の高い」、かっこいい卓哉はそこにはいない。おろおろと戸惑い悲しむのゆりはいない。かと言って卓哉ものゆりも「好きだ」という気持ちは持つ。卓哉は泣きながらキャリーバックを引きずり、やはり泣くのゆりの後についてくる。
やはりのゆりは強いのです。
泣き叫び怒り狂って別れるという形を作らなかったのゆり。ちゃんと愛情だけは大切にしたのゆり。結婚生活ではできなかった「この人の前でちゃんと正式に泣いたことがあったっけ」とのゆりは思う。この涙は、のゆり自身の姿であり妻ののゆりではない本来ののゆり。「おなか、すいちゃった」「ラーメンでも食べて帰ろ」
そんなのゆりを卓哉は見つめる。
ちょっと事情は違うし、卓哉ものゆりも若くて子もないが、このふたりの関係は「光ってみえるもの、あれは」の愛子さんと大島さんのような関係になるのかなとも思う。
このラストは、読者に複雑な涙を流させるでしょう。。。。
それは、のゆりと、もしかしたら卓哉とも同じ涙だと思います。
難しいけど、すばらしい作品でした。

                  2008年6月24日 記

                         夕螺






ゆるく巻くかたつむりの殻
                    新潮社「yom yom」2008年7月号
                   川上 弘美  著

ホームページだったか?ブログだったか?
なぜ僕は死を恐れるのかを書いたことがある。何が恐ろしいって、死への苦もあるが夕螺という自我がこのよからなくなって無になってしまうことである。僕という意識が僕から離れていってしまう事。。。。これは恐ろしいことではないかな。
今回の川上さんの作品は、そんな僕に問いかけるような作品でした。
漱石は書いています。人は喜劇を演じると。しかし悲劇は死であると。
陽とは、どう死と向き合うのか。。。。そんな事を考える事ができる小品でした。
もちろん「人」といってもその人によってこの社会の中に残すものが違う。死に方によっても違うのかもしれない。川上さんが描く一人の女性は、人生を思い出しても平凡な女性である。
思いだしてもそうは特別な思い出、楽しかったこと、幸せだったことはあまりない女性。その女性のラストがどうなのか、それはお楽しみという事で。。。。川上さんの初期の作品が好きな方は「うん、うん」とうなるでしょう。。。。。
「私」は、「こわい」と思う。
この怖いという言葉の中に何があるんだろ?
人は生まれてしまったらいつか死ぬという死刑判決を受けてこの世に生を受けたようなものであり、一番先に書いた僕の死への恐怖を常に感じつつ生き、一方ではそれを忘れたかのように漱石風に書くなら喜劇を演じながら生きる。でも主人公の女性は、そうは考えずに生きたのかな?「かたつむりの殻」のような部屋で新婚を送り、人の死と向き合いながら生きていった「私」。でも、特別な私ではなくても限られた人の心には「私」は生き続ける。。。。。
その中に「私」は生き続けるのである。
人の生や死には区別はないのかもしれない。
魚屋の3階にちんまりと作られたかたつむりの殻ような部屋に幸せを感じた私なのだから。。。。その幸せと残された人々に差はないのである。人の死に特別はない。。。。。僕もそうは恐れなくてもいいのかもしれない。こうして今生きている僕があるのだから。
こんなことを感じられる小品でした。

(追記)
最後に「私」の名前が出てきます。
春田真紀という一人の女。。。。
夕螺は夕螺として何某かの本名そのままにブログ世界で生きております。。。。うううう・・・・・ハハハハ

                                                                               2008年7月16日 記
                                        夕螺







エイプリル
                          角川文庫
                  銀色 夏生  著
「より深くより強く
 静けさが僕らを支配する
 星に尋ねた抒情詩集」

        (背表紙より引用)
角川のホームページでの内容紹介には、
「君が探していたものはなんだったんだろう 僕でないことだけは ようやくわかったけど」 男性視点のロマンティックで哲学的な恋愛詩集。
と、「恋愛小説」とあります。
恋愛感情も抒情詩としてありますが、今回の詩集は、「恋愛詩」という範囲にとどめる詩集ではないのかもしれません。もちろん恋愛の詩なのですが、そこいる男女はそうは親しくない。夏生さんの詩集には時々あるのですがあるグループ・仲間の中にいる二人の恋愛とも見えます。激しい恋の心を描かずにもっと秘めた恋なのかもしれません。そしてその恋は恋愛感情を越えた人間同士の心の深まりに高められたようなものに感じます。その意味において
「より深くより強く
 静けさが僕らを支配する」

という事になると思います。
それは、「恋愛詩集」を超えた日常を生きる二人の人間同士の「抒情詩」という事になるのでしょうか。
しかしその恋はそれだけに本物といえる。
僕は夏生さんの写真詩集を読むときに時々感じるのですが、いくつかの詩が一つの事柄を描き、それが集まった詩集全体として一つの世界が展開されると。
今回の詩集でも、初めのページの「星の道」から12ページ「水のループ」までは同じ一つの詩ではないかと思えます。そして142ページの「せつない色味」から最後の「聞こえた」までにぐっと高まっていく。
この最初と最後の詩の集まりの中に今回の詩集の心が現れているのではないかと思います。もちろん中間のページの詩そのものにも二人の関係をイメージした中に「男性の視点」があるわけですが。
たしかに表題にもなっている詩「エイプリル」は別れの詩です。これは失恋の中で永久に別れましょうという詩ではないことを感じます。なんと表現をしたら良いのか。。。。恋人としては別れましょう。しかし互いの人間同士としてはお互いにわかりあえているからその意味では別れではない。
「恋人同士のように毎日会いたいという気持ちではないよね。
その意味では僕たちは別れたんだ。
というのか、
僕たちはそういう関係にはもともとなかったのかもしれない。
たぶん1年後に会ったとしても
やぁ!と、まるで毎日会っているように挨拶するだろう。
お互いの気持ちやどんな平凡な生活をしているか
僕にはわかっているから
恋の心がなくなるのは寂しいけど
それが僕たちの別れなのかもしれない
でも、こうして僕は毎日生活している
君も同じだよね
時々は思い出すんだ。。。そして
フフフ・・・・と笑ってしまう
また不器用に生活しているんだろうね」
なんか、こんな二人の関係を思い描いてしまう詩集ではないでしょうか?
「大人同士の恋」といっては月並みですが、互いに考え方や生き方に共感を持ち、時にはその考え方に尊敬を持ち、お互いの弱さを知りつつ毎日を過ごしていく。ここに今回の詩集の温かみがあるんじゃないかな?
今回の詩集については、先に幻冬舎より出版された「銀色夏生の視点」(リンクは同社の雑誌「Papyrus」に連載されていたものへの感想)で次のように語っています。
「それを「銀色ナイフ」−夕螺 注)書き終えた今、すごく詩を書きたくなったんだよね。そして書けてるんだよ。前からずっとイメージしてた男の人の視点の詩。(中略)すごく自分の心の中のピュアな部分、繊細なものを・・・・・。」(72ページ)
「来年の初夏に出す予定の詩集(「エイプリル」)は男性の視点で、その人はエンジニアで、知的で、弱っちい、素敵な人。弱虫のくせに旅好きで、自分の欠点も直視できる、ような人。(中略)その人の素敵さを思ったときに私の心の中に喚起される架空の人が主人公。」(128ページ下段から)
この夏生さんの言葉の中に「男性視点の詩集」の中身があるのではないでしょうか?
知的で、弱っちい、素敵な人。
それに対して
「彼女が
 なんでもないことのように
 別れをきりだしたんだ」
 (152ページ)
という女性。
なんか、強い女性がそこにいるようです。男は初めて自分から別れを言う。
なんとなく二人の心がぐっと感じられるように思います。
このように先にも書きましたが、「恋の詩」である事からの悲しみと同時に、生きている二人の心の通じ合いという中に悲しみだけではない温かさがイメージされた男性の心が見えます。
「銀色夏生の視点」をすでにお読みになった方は「うん?」と思われると思うのですが、このイメージされた男性像は、銀色夏生さんご自身でもありますね。多くの詩には、哲学的なものがたくさんあります。それが男性の視点という詩にも現れています。ここに夏生さんの哲学的なものの表現があります。しかし詩集は恋の詩であり、心の通じ合いの詩です。
この詩集は、「月夜に拾った氷」の載せられた「人生の山」という詩的エッセイに書かれた
「私はあなたじゃないから、あなたの悲しみはわからない。
それはとても、大きなもの?
それはとても、深いもの?」

という言葉にさかのぼり、詩「やさしい春を想う」や詩集「やがて今も忘れ去られる」にもさかのぼるのではないでしょうか?
素敵な詩集でした。





八日目の蝉
                         中央公論新社
                   角田 光代  著
2005年11月から2006年7月までに読売新聞夕刊に連載された新聞小説です。
角田さんは、新聞小説は初めてかな?
というのもどうも焦点が合わないような作品ではないかと感じたのです。もちろん角田さんの文章力は発揮されていますし、ひきつけられて読み進む事ができるのですが、このひきこまれて読み続けられるという意味において新聞小説としては成功しているのですが、一つの作品として完成された本という形での作品としては、何を主張されているのかの焦点が合わなくなるということです。
この作品は、赤ん坊を連れ去るという犯罪にはじまります。そしてその逃走と結末の中の主人公希和子と、連れ去られ希和子に薫と名づけられた女性が語るという構成になっています。このような犯罪という中において人間を描くという意味においてはサスペンス調です。これが新聞小説としては読者をひきつけるものとなるでしょう。赤ん坊の連れ去り事件というのは、もう20年以上昔だったか?実際に社会を騒がした事件がありますし、逃走先の半宗教団体も「娘を返して!」と叫ぶ親が実際にテレビにも出ていた事件?も記憶にあります。このような実際に記憶に残る題材にもかかわらず、その社会的な意味を掘り下げて問うものもありません。単なる題材としてあるだけのような印象をぬぐえません。この意味において優れたサスペンス(サスペンスのおもしろさはいろいろとあると思いますが)ではない。
では、角田さんの常に追い求め書き続けてきた「擬似家族」といったものの表現としてはどうか?
希和子は、実の子の様に薫を愛し育てる。愛した男の子供ということも当然あるが、その愛情に偽りはない。薫の両親はどうか?そこに薫を愛する両親がいるのかといえばいないというほかはない。その意味では血はつながらなくても希和子と薫は親子らしい家族なのである。また、宗教団体には母子が集まりその団体生活の中に共同生活がある。いろいろと社会の中でひどい仕打ちを受けた母親が逃げ込むように団体生活をしている。この集団の中に擬似家族的なものが見えるのかもしれない。また、希和子は逃走中にたくさんの人々に助けられる。子供というのは両親が家族として育てることが基本だが、実は多くの人々のいる中での家族なのである。時にはその周りの人々の愛情は家族にも負けないようにも見えるときがある。
これらの表現されたものがこの作品の主題となるのだろうか?
しかし、これらの「擬似家族」的なものは、サスペンス長という作品の流れに色が薄くなっているのではないだろうか?
先に焦点が合わないと書いたが、サスペンス調ではありながらもサスペンスとしては物足りなく、同時に角田さん独特な主題がこのサスペンス調という中に色が薄くなってしまっているという事である。
角田さんの作品には、社会の片隅にひっそりと暮らす人々が出てくる。時には小さな犯罪もあるが、その人々がその社会の片隅でうごめくように時には人間の本能をむき出しにして「生きる」姿が描かれます。そして家族の愛情というものをある意味題材としてその中に「擬似家族」の人間のふれあいや時にはその破綻を描きます。その意味において角田さんの文章力は生きていました。他にサスペンス調の作品があるかどうかはわかりませんが、今回の作品のように社会を騒がせるような犯罪を題材としたところに作品の焦点が合わなくなってしまったのではと僕は感じました。
でも、ラストは素敵ですね。。。。。
蝉は地中に何年も住み成虫として地上に出て来たら7日で死んでしまうという。
夏も終り残暑も緩む頃、夜の公園に1匹の蝉の鳴き声が聞こえる事がある。もう息の絶え絶えのように生き残った蝉、八日目の蝉は鳴きます。その蝉は他の蝉より長く生きてしまった。八日目の蝉は悲しみと寂しさの中にただ1匹生きているのだろうか?それとも長く生きて他の蝉には見ることのできなかった世界を見ることができたうれしさがあるのだろうか?どちらにしても八日目の蝉ははかない。。。。
希和子と薫は。。。。はかない中にも八日目の蝉の幸せを互いに気づかないままに感じ取ったであろう。
このラストのすばらしさ。。。。
この作品を短編として大きな犯罪から切り離して描いたならと思う。






梅雨の晴れ間に
                 新潮社「yom yom」2008年7月号
                  乃南 アサ  著
小品です。
それぞれに暗い過去を背負い、刑務所の中で出会った芭子(はこ)と綾香の二人の女性。
前科という過去におびえながら二人で世間から隠れるように生きる二人。
一度犯罪を犯してその罪を償ったとしても、世間という世界に生きる限りその償い、というよりも刑罰自体は続く。
ある日綾香が町内の福引で大阪旅行を当てた。
質素な生活をしていた二人にとっては出所後の初めての旅行となった。夜行バスに乗り込む二人。大阪のテーマパークで遊ぶ二人。芭子は久しぶりにはしゃぐように遊ぶ。こうして世間の中で生きていることの喜び。自分たちに前科がることをしばし忘れるような、梅雨の晴れ間のような時間。
しかし。。。
一度も来たこともない街である大阪においても。。。。世間は狭いのである。
綾香の高校時代の友人である男にばったりと会う。
梅雨の晴れ間はそうは長く続かない。
男は綾香に、故郷には帰るなと忠告をする。
しかし、人は前科というような過去を持たなくとも何かしらの過去を引きずって今の時間を生きている。男も故郷に帰りにくい事情を持つ。そして客に突き飛ばされるような今を生きている。
人はすべてさまざまな形で過去を引きずり今を生きているが、そうは毎日を生き生きと楽しく生きていることはない。
しばしの梅雨の晴れ間の空を見上げて、一瞬頭の中を真っ白にしてニコッとするのかもしれない。それが人生なのかもしれない。
綾香は翌朝元気に芭子を起こす。そんな元気な綾香も昨晩はうなされていた。。。。。
梅雨の晴れ間の光と空は美しい。







青葉闇迷路 小豆色の日記
                   新潮社「yom yom」08年7月号
                  恩田 陸  著
「俺」は純と同居をしている。
ある日純は叔母である小説家牧野出水の日記を「俺」に残し出て行ってしまう。この小品は、そんな「俺」がその小豆色の日記を読むことにより、自分の子供時代や純を思い出して語るという形の作品です。そして日記の舞台が不思議な地である「在森」の記述であり、その「在森」の不思議さを深めながら「俺」は語っていく。純は「在森」に行った。。。。
どことなく前々回の芥川賞「アサッテの人」に似ているような?
純や「在森」という不思議なものを語っていくという中に作品の面白さがあります。しかしその面白さの中に、この小品全体がある一つの事柄を象徴的に表しているのではないかと思います。それは性かな?「普通の」という言葉が不適切なのだろうか?男と女という性の違いはまさに「普通の」性として見られるが、今はさまざまな性があることが認められつつある時代でもあり、この「普通の」という言葉に揺らぎが出てきている。
叔母出水は、女性でありながらも小説は男として書いた。
純の体は両性である。
「俺」自身も子供のころには女の子として育てられた。
「在森」は、性転換ができるという伝説がある。
「俺」は、純に男同士の友情以上の感情を持っている。
「在森」には鬼が住んでいたという。ある日その「在森」に天から神が降りて来た。しかしその神は、あまりにも理不尽な振る舞いをして人間たちを抑圧をし、逆らう者を罰しへつらう者を高い身分においた。人間たちは混乱をした。そんな神を鬼たちが殺す。。。。
神という存在は、人間にとって絶対でもあり、その神が作った性は男女として存在することが「普通の」こととされるだろう。ここでジェンダがどうのという話まで飛躍するつもりはないが、人が社会を形成する中での性は大きな問題となる。それは男にも及び純のような中性的な人間は否定をされる。
出水は、純は。。。。
「在森」で何を感じ取ったのだろう?そして「在森」とは?
「俺」も行きたいと思うようになる。。。。
神に逆らってまでの平穏な心とは。。。。

(追記)
ううう。。。
「yom yom」3号からずっと「青葉闇迷路」として連載されていました。。。。
読んでなかった。
時間のあるときにさかのぼって読みたいと思います。
どじだった。。。。っていうのか、読む時間というのか。。。。