| 夕螺の読書ページへようこそっ!! 2007年8月から2008年1月までに読んだ本です。 直接こちらにお入りになった方は、検索した本を下にスクロールして探すか、「読書ページ」トップ(フレームページとなっております)へお入りください。 こちらに収められた作品は、以下の本たちです。 「流氷にのりました へなちょこ探検隊2」 銀色夏生 「アサッテの人」 諏訪哲史 「戀文・戀日記」(恋文・恋日記) 内田百 「急降下するエレベーター」 川上弘美 「濡れたおんなの慕情 川上弘美 「ニシノユキヒコの恋と冒険」 川上弘美 「銀色ナイフ」 銀色夏生 「ふたつの季節」 藤堂志津子 「ソリチュード」 山本文緒 「疲れすぎて眠れぬ夜のために」 内田樹 「女性の品格」 坂東眞理子 「川上弘美読本」 青土社「ユリイカ」 編 「貝殻のある飾り窓」 川上弘美 「東京日記2 ほかに踊りを知らない。」 川上弘美 「現代日本の小説」 尾崎真理子 「テレビの中で光るもの」 銀色夏生 「こうもり」 角田光代 「江國香織とっておき作品集」 マガジンハウス 編 |
| 流氷にのりました へなちょこ探検隊2 |
| 幻冬舎文庫 |
| 銀色 夏生 著 |
| 「さいはての地で人生を考える、・・・・・はずでした。」 (帯から引用) 夏生さんは、6年前の作品「へなちょこ探検隊 屋久島に行ってきました」を読み返しているうちに幻冬舎の編集者菊池さんとの楽しい旅を思い出したようです。 そして。。。酷寒の北海道。。。「しみじみして、よさそう・・・・」と、菊池さんとメールを交換しながら北海道行きが決定。 菊池さんはベテランの作家付けの編集者らしく、夏生さんの要望を聞きながらささっと旅行の手配をします。へなちょこ探検隊再結成(笑) 出版の世界がどのようなものかはわかりませんが、こうして出版社の編集者は作家の取材旅行の手配までするのでしょうか?多分、菊池さんにとってはお仕事のひとつなのでしょう。しかしそこは夏生さん!「つれづれノート」に出てくる角川の「菅原君」のようなそのキャラクターを見つけては作品に登場させますが、菊池さんを編集者としてみないで旅の友としてしまうように見えます。 幻冬舎の雑誌「Papyrus」ではじまった夏生さんの連載「銀色夏生の視点」第一回の対談(おしゃべり本のような)でも菊池さんが同席していますが、その中でサイン会までお話を進めたりしています。夏生さんも信頼する編集者なのかもしれません。「へなちょこ2」も菊池さんの編集者としての姿が見えるのではないでしょうか? 時にはささっと夏生さんの為にいろろいろと動き、あるときには励ましたり、話を聞いたり、そしてはきはきとある部分では自分の意見も言う。夏生さんもそんな中で自由に動き、時にはわがままなようなくじけたようなことももらすし、ぐいっと菊池さんを引っ張っても行きいく。 旅というものを通じての人との関係にその関係の違いも出るのでしょうが、「へなちょこ」の2冊は、やはり一人の作家とその担当の編集者との旅の様子が見えてくるように思います。家族ではもちろんない、友人とも違う。なんか不思議な関係の見えるお二人のたびです。 でも、夏生さんと菊池さんの会話にはなんとなくアジがある。 お二方の個性でしょうが、やはり作家と編集者との人間関係の中のアジというのか、プロのアジですね。作家による多くの旅行記が発表されていると思いますが、それは、一人旅であったり二人旅であったりしますし、旅の目的もさまざまでしょう。「へなちょこ」シリーズ2冊を読むにあたっては、作家と編集者との旅です。このような視点での旅行記は他にあるかな? 旅行記の中身にも作家によりさまざまだと思いますが、夏生さんの旅は「遊ぶ心」。 でも、一人ベッドに入ったときは、お子さんたちからも離れて「さいはての地で人生を考える」ことかな?菊池さんも40歳を過ぎたこととか?(笑) それでもお二人は北海道旅行を楽しみます。 「つれづれノート」では、娘さんの「かんちゃん」が小さい頃に長期の海外旅行にも出かけていましたが、その後の旅は質素です。ある意味僕たち一般人が家族旅行にでも出かけたと同じような旅で、今回の「へなちょこ2」もこれといった大きな出来事もなく、どんよりとそうは豪華ではない?ホテルの食事をして、テレビの旅番組のような特別な観光も経験もない。普通の人の普通の旅。。。。 なぜこれを探検というのか?日常の延長のような旅、その日常がある意味探検なのです。ある漫画の面白さからの言葉ですが、「日常の中の奇妙な異空間」(菊池さん)これでしょう。。。 夏生さんは、人生をゲームだとも、この世に遊びに来ているんだとも他の作品で書いています。先日発売になった新潮文庫版「月夜にひろった氷」に収められている書下ろしの「人生の山」にも人生観として現れています。夏生さんもふざけて毎日を過ごしているわけではなく、その意味でのゲームだとか遊びではない。ある意味楽天的というのか、毎日過ぎ去っていく時間の中に現れるさまざまな出来事を受け止めながらも自分の中で整理していくというのか、いろいろあって面白いというような独特な受け止め方ではないでしょうか? 自分の周りの世界は、自分とはかかわりのないところでも動いています。奇妙な異空間は面白い。 このような毎日の生活。。。旅もその延長線上にあるのでしょうか? 「へなちょこ」シリーズ2冊は、先に書いたように特別な旅ではなくてだれでもが家族旅行や友達との旅行で経験する旅です。旅行先でいろいろなものを見たり体験したり、食べたり温泉につかったり。小さな思わぬハプニングに笑ったり怒ったり。チラッと袖ふれあう出会いがあったり。この意味では平凡で、場所は違ってもそうは日常とは変わりのない生活があります。その意味では「作家の旅」と言うような読者が特別に思い描くような先入観やテレビ番組での旅行記のような感動もないのでさらっとした旅行記になっています。詩人の旅だから感動した景色にひとつの詩を。。。といったものもない(笑) クールです。 もちろん、何も感じないで旅をしているわけではなく、写真や思いは後の作品に表れてくるというのが夏生さんの特徴かな? 作家と編集者の旅、そして日常とそうは変わらない平凡な旅。。。 読者が何を見るのか? たぶん読者一人ひとりの中にある平凡な旅の思い出でと重なり合うのではないでしょうか?あそこの飯はまずかった。テレビで見たような感動のあるような所ではなかった。隣のおばちゃんたちがうるさかった。同伴した友人と喧嘩した。見たい場所が冬は閉鎖されていた。歩いていたらすれ違うときに見知らぬ人から「こんにちは」と声をかけられたとか。。。。それぞれに読者もこのような思い出があるかと思います。 そんな僕たちが経験をしたような旅行記です。 そういえば。。。あのときの旅行はたいして感動したわけではないが、いろいろあったようなぁ。などとそんな読者の思い出とシンクロするような旅行記。読者と同じ目の高さで視線での旅行記。でも、心の中には残っている。旅行の中にいる自分の心はあった。 このような旅行記はいかがですか? 2007年8月9日 記 夕螺 |
| アサッテの人 |
| 文藝春秋2007年9月号 |
| 諏訪 哲史 著 |
| 「アサッテの人」は、甥である小説家が叔父である男を小説にしようとして書き始める。 その叔父は日記を残す。幼い頃から吃音に悩み自分の吃音を分析をし、言葉というものに異常な関心を持っていく。吃音になりやすいタ行の言葉の分析や、あらゆる外国語の単語を勉強する。そもそも言葉というものは、心に浮かんだものをひとつの形、定型という形により外界に発信するものである。言葉は定型でなければならないはずである。定型でなければ言葉の意義をなくす。しかし吃音は、意思にかかわらずに言葉をひとつの定型とすることをある意味困難にする。ある日そんな叔父は突然吃音がなくなる。しかしそれと同時に手に入れたのが「アサッテ」であり、叔父は「アサッテの人」となる。それは「ポンパ」などというたぶん発音しやすい言葉であろうが、意味不明な言葉を手に入れる。しかし叔父にとっては心の中を外界に発信するのに自然な言葉であったはずである。しかし「ポンパ」も言葉の定型さにおいては叔父本人だけの定型さとなる。それは、吃音というものと同じ意味合いのものとなり、だからこそ吃音も消えたのかもしれない。 話をわかりやすくするために、仮に「ポンパ」を「たわいない」という意味合いとすると、「それはたわいのないものだよ」が「それはポンパだよ」となる。叔父の周りの人間はびっくりするだろう。まぁ。。。昔大橋巨泉さんが、今でいえば流行語大賞にもなるような「ハッパフミフミ」というような意味不明の言葉を流行らしたが、どことなく感覚的にわかるようなわからないような言葉に笑ってしまうものがあった。これと同じように、「たわいのないもの」だから、「ポン」と現れては「パ」っと消えるという意味合いにおいて「ポンパ」だといえば聞くほうも「ハハハ・・・」で済むが、言葉の定型という意味では突然言われればびっくりをしてしまう。実際、叔父の意味不明なアサッテ語は語源が外国語であったりして意味はありそうであるが、それは叔父独特な感覚、心の働きによって現れる言葉である。 「アサッテ」とは「ねじれ」とも言うらしい。江戸っ子の啖呵に「このすっとこどっこいが。。。。一昨日出なおしてきやがれ」というものがあったが、今日というすなわち言葉の定型としての今日、に生きられないあるいは同じ空気の中にいられないという意味においてそこに「ねひれ」があるのだろう。「一昨日出なおしてくる」ではなくて「アサッテに生きる」のである。 言葉の自由な発信は心の自由でもある。 ねじれたあさっての人は、「ポンパ」というような言葉を発信する中に心の自由を得るだろう。叔父はエレベーター会社の技師と働き、毎日エレベーター内の監視テレビを見る。そこに一人だけで乗ってきた男がしゃがみこんで両手で幼稚園のお遊戯のようなチューリップを作る風景を見る。「チューリップ男」と密かに名付けてその男に興味を持つ。そのチューリップ男もある意味アサッテの人だった。狭いエレベーターの中での密かな行動という心の求めるままの行為。。。「ポンパ」的なものを見る。そこにはそのチューリップ男を叔父がどのように見たのか? 定型としての言葉でない「ポンパ」を発信していたら、大人はそれなりに「ハァ。。。」で終わるだろうが、子供たちはそうは行かない。 「ポンパポンパ! ヘンタイポンパ!」 チューリップ男もいつの間にか消えた。 なぜ定型でなければならないのか? 心縛られなくてはならないのか? 叔父は厭世的なアサッテの人となり、すべての日常の定型を否定し始める。すべてを「ポンパ」的なアサッテなものに切り替えていく。 しかしどうだろう。。。 たとえ叔父ひとりの中にでもすべてを「ポンパ」的アサッテに置き換えていったら、その「ポンパ」自体が叔父にとっては定型とならざるを得ないのではないか? 「アサッテを定型化する」 ことになる。 定型化されたならばそこに叔父の心の自由はなくなるだろう。 叔父は誰にも告げずにどこかへ消え去る。。。。 以上、感想終わり(笑) 小説家の甥が書き上げたものというこの作品の設定だが、その甥は書く。 「いたずらに作為に走って読者の興を冷ますよりは、」 として、このような作品にしたということである。 それならば、この作品には行間を読ませるなどという作為はないはずである。 だから僕の感想もこれで終わり。 もちろん、この作品は、甥が叔父のことを書いたという設定の作品で、書いたのは諏訪さんなので、諏訪さんがこの作品に作為を持って行間を読ませるとしたのかもしれないが、なんだかわけがわからなくなる(笑) だいぶ前に「アルジャーノンに花束を」という作品を読んだ。 知的障害を持つ男が、画期的な手術により天才のようになる。しかしその手術ではある期間が過ぎれば元に戻ってしまう。この経過を主人公の男の内面を描いていく。同時にその医者による男の変化の描写もあり、すばらしい翻訳により、男が書く医療用の日記は、はじめはひらがなばかりの文章にもなっていないような日記から天才になっていくに従いすばらしい文章になり、そしてまたひらがなばかりの文章になっていくというその変化を巧みに表現されていた。 この男の変化そのもの自体にこの作品の優れたものを感じたのだが、同時にこの作品はそれに終わらない。医者の助手である女性と男との医者と患者との関係とその恋。男の周りの人々との男とのかかわり。医者と学会という科学の世界と人の心。。。。これらを通してこの作品は単なる心理小説的なものに終わらない純文学として読者に感動を与えているのではと思う。 ある意味、「アサッテの人」も心理小説のようなものがあり、「ポンパ」や「アサッテの人」という謎めいたものが何なのかで読者を引っ張り、その文章は哲学的でもあり知的な文章として面白いかもしれない。そこに諏訪さんのこの作品での作為もあるわけである。しかし、この面白さを通して何を読者に語ろうとしたんだろうか。叔父の病的な性格や心理描写だろうか。 どうも僕にはそこがわかりにくかった。 だから同じような心理描写の多くても「アルジャーノンに花束を」のような心理描写を越える何かの感動がない。だから感想も上に書いたようなあらすじだけで終わってしまうのである。もしかしたら作為ある行間があるのかもしれないが、僕には読めない。 作品上、この作品を書いたと設定する甥が「いたずらに作為に走って読者の興を冷ますよりは、」とすることと、諏訪さんが実際に表現したこの作品。。。 どうも「ねじれ」のある作品である。 小説らしくない小説の特徴もあるのか? ただいえることは、もしかしたらこの作品には諏訪さんご自身かご家族のことがだいぶ入っているのではという直感です。少し芥川賞受賞後のニュースなどをネットで見るとこのようなものがおありのよう? よしもとばななさんの作品に「デッドエンドの思い出」という作品があります。 その中の短編「ともちゃんの幸せ」(177ページ)には 「これを書いているのはともちゃんではなくて、ともちゃんの人生をかいま見た小説家なのだが、」 と、ある。 このへんの共通性を思い出した。そしてこの短編集は、「私小説的な小説ばかりです。」とも書いています。ある意味過去のつらいものを清算する短編集であったようで、「アサッテの人」が私小説的なものであるのなら、そこにはこの作品を書かざるを得なかったデッドエンド(袋小路)の思い出の清算という面があったのかと思ったりもします。 この作品が傑作なのか?駄作なのか? でも、引き込まれる作品ではありました。 2007年9月7日 記 夕螺 |
| 戀文・戀日記(恋文・恋日記) |
| 福武書店 |
| 内田 百閨@ 著 |
| 昭和64(1989)年初版が発売になった本です。たしかベネッセからもその後出版されていると思いますが、今は絶版になっています。偶然神保町(東京の古本屋街)で見つけました。 今年(07年7月)中公文庫より「恋日記」が発売になりました。「恋文・恋日記」前半の「恋日記」だけが出版されましたが、今後「恋文」も出版されるようです?百閧フ娘さん奥野菊美さん、伊藤美野さんの百閧ノ関しての思いでも田しか集録されていたと思います。この点は文庫を買うときに確認願います。 百閧フ妻奥野清子は昭和39年に亡くなります。そのとき遺品の中から見つかったのがこの恋文と日記だったようです。百閧ヘまだ健在で、昭和46年になくなりますが、娘さんたちは百閧ノこの手紙類をどうするかを相談した様子はありません。娘さんたちの中で大切に保管をされていたようです。そして秘蔵すべきか、百閧フ資料として世に出すべきか悩んだそうです。そして清子の死後25年目に福武書店「内田百闡S集」31巻に集録という形で出版されました。(以上巻末にある奥野清美による「85年目と25年」から)その後この単行本が出版されたのか? 巻頭には、若き百閧ニ清子夫人そしてお子さんたちの貴重な写真も集録されています。 編集にたずさわった百閧フ弟子でもある中村武志による「付記」も集録されていますが、百閧フ「阿房列車」シリーズにいつも見送りに来る夢袋(むたい)君がこの中村武志だそうです。(いつもお世話になっている「百鬼園図書館案内図」というサイト内「中村武志と百閨vを参照させていただきました。百閧ヘもちろん中村武志をはじめお弟子さんたちについても詳しく解説されています。百閧フことでわからないことがあるといつもお世話になっているサイトです。)いつも百閧ニそのお供をするヒマラヤサンケイ君を東京駅や上野駅に出かけて時には差し入れをしてお見送りだけの夢袋君ですが、百閧ニはかかわりの長いお弟子さんですので、その編集ということですし、実の娘さんたちも編集にかかわり、信頼性の高い本だと思います。 さて、「恋文・恋日記」ですが、以下ブログのコメント欄に書き進めたものがベースなので、箇条書き的になります。 恋日記は、明治39年からはじまります。百閧P8歳、清子14歳。 中学生と女学校生。 淡い初恋のような百閧フ恋。 郷里岡山時代です。 清子の実家堀野家に出入りする百閨B同級生の堀野寛とは親友で、寛に会いに行くためやら清子に会いに行くためやら。。。足しげく通う百閨B 今日は洋菓子を清さんからもらったとか、茶を淹れてくれといったらすぐに淹れてくれたとか、他の友人に対する清子の態度と自分への態度を比べて、俺に気があるとか。。。 しかしそんな初恋のような恋の中にも百閧ヘ清子との将来を考え始めます。清子との結婚の許しを得るには、どうしても第六高等学校に受からねばならぬと、百閧ヘ、日記に「勉強、勉強」と自己を励ます。この頃の岡山はまだランプの生活のように見える。しかしたぶん薄暗い中で毎晩堀野家で勉強。しかし勉強をしながらも、清子が、花の絵を切り抜いてくれた!そんなことにも胸を熱くする百閧セが、こんな恋心と同時に、そのもらった花の切抜きを飾ってある漱石の写真の額に貼る。
青春という熱さに心うたれます。 百閧フ父親はすでに他界している。
以上が「恋文・恋日記」の中身なのですが、内容からすれば、若い一人の男が好きな女の心をどうつかむのかといったようなただそれだけの日記や手紙なのですが、そこは後に優れた随筆を残す百閧ナすから、日記や手紙に文学性があります。短編小説ぐらいもあるかと思われる長い長い手紙。少し重複して読者にはくどく感じる面もありますが、これはもうひとつの作品です。母そして祖母が百閧ノとっては一番大切な存在。その上に立って清子がいる。明治の男。。。の面もその結婚観にはあったようである。 上にも書いたように清子の兄寛は、百閧ニは幼馴染でもあり同級生でもあり親友でもある。 しかし、寛の金に対する態度がどうも気に食わない。拝金主義的な。。。。 こういう兄の妹だから。。。と、少し百閧フ心は揺れ動く。 しかし、いろいろと思い巡らすが、結局は「恋しい清さん」だからとその純粋性を取り戻す。 このような恋に対する純粋性は、先の拝金主義に対する嫌悪にも現れているのだろう。 金に無頓着でいる。 これは漱石の金に対する無頓着さ、拝金主義への嫌悪、それは時には実業家批判ともなるが、このことからも漱石の弟子ということがうかがわれるし、それが18歳にして漱石をしたって写真を飾るということにも現れているというのは面白い。若い人が漱石の作品を読んで思うことは今も変わらないだろう。 夫婦間あるいは恋人間の年の差は4,5歳ほどは珍しいものではありませんが、18歳と14歳ともなると、いくら昔は婚期が早いとはいえ、清子はまだ少女。百閧ヘ、その少女である清子の中にまだ女性という意識は少ないのだろうが、その分純粋な恋をしているのかもしれない。 結婚をするには、百閧熨蜉wを卒業してからと思っているが、その間に清子を失いたくないという思いから婚約だけは急ぎたい。 婚約をするには高等学校入学がまずは必要と頑張った百閨Bめでたく第六高等学校ドイツ文学科へ入学。後に百閧ヘ、作品を発表しながら軍の士官学校などでドイツ語を教えるが、文学雑誌への投稿で賞をとり、ドイツ語を勉強していくという、後の百閧ェここに芽生えたのでしょう。そして後の百閧ヘ、今の東大を出て清子と結婚をする。 努力家の百閧ニ同時に、なんと言うのか自我が強いし物事に集中する力とのめり込むといってはへんかもしれないが独特な性癖のようなものを感じる。日記というものへのこだわりは強いし、それは作品を書くときにも現れているのかもしれない。 以上恋日記の中身ですが、後半三分の二ほどは「恋文」となります。 明治という時代ですから、また、今のように携帯のメールがあるわけでもなく、手紙をやり取りするにも親の目を盗んで行わなければならない。時には奥野家へ遊びに行ったときにそっと渡すとかします。後には奥野家も東京へ出て来、百閧熬骰荘蜉wに入り上京しますが、百閧ヘ下宿先におとづれる清子に手紙を渡すようにもなります。二人の秘めた恋の恋文のやり取りです。 そしてそのうちにお互いの結婚の意志を確認していく。 百閧ヘ、清子と結婚を許してもらうためには、奥野家の家族との関係を大切にしなくてはならないとも考え、清子の弟光蔵への手紙も集録されていますが、試験をひかえた光蔵を励ましています。ユーモアを交えながら勉学の励めと。。。。 故郷の岡山弁で少し読みにくいのですが、結婚の許しを考えてのものでもあるかもしれませんが、その手紙は、百閧フ温かみのある言葉に感動する文章です。 光蔵への手紙と同じように、清子へもユーモアあふれる手紙を書いています。 このユーモアは、どことなく「猫」の文体にも似ているのでしょうか? 漱石が弟子の小宮豊隆や鈴木三重吉をつれて百閧フ下宿にやってくる。百閧ヘうれしそうです。 どこか自信を感じさせる百閧フ手紙。。。勉強に励みます。 しかし。。。。百閧ニ清子の恋愛に黒雲が。。。 お互いの心は信じられると書いている百閧ナすが、雲行きが怪しくなってきたとき、百閧ヘ清子の心を確かめざるを得なくなる。 大学の試験にも集中しなければならない百閧ナあるが、頭の中は清子への思いと不安でいっぱいなのだろう。残念ながら清子から百閧ヨの手紙は残っているのかどうかはわからないが、集録されていないのでどのような中身だったのかは百閧フ手紙にあるものから推測するしかない。 明治の時代においての普通の女性の恋とは? 清子はその時代性において弱い立場にあるが、案外デンと構えているところも?恋の雲行きが怪しくなってきたとき、あんがい慌てふためくのは男かもしれない。 女性にとって、100の男の理屈や愛の言葉以上にひとつの行動が一番うれしいことなのかも。それで愛が形になる? その形がはっきりしたときに女性は強くなる。 清子の気持ちを確かめる手紙を残して郷里岡山に帰った百閧フ下に清子からの手紙が。。。。。 百閧ヘ、祖母や母に「あの事」を相談する。そして仲人を立てる。 形は作られます。 しかしこの恋文や恋日記がなぜ後世までなぜ残ったか?経緯はまだ後を読まないとわからないのかもしれませんが、清子がこの恋文をまず大切に保管したことから始まるはずです。 形を求めるのでしょうが、心はロマンチックです。 恋は、人を詩人にします。 詩は芸術です。 しかし芸術のために詩のために恋をするのではない。 芸術が目的ではない。 この頃すでに文筆で生きようと決めていたのか? 「二人の心は既に髪一とすぢも爪一ときれも間には入れは致しませぬ」 ううう。。。。 清子の強さです。。。。 百閧烽、れしさと心強さを感じたことでしょう。 でも。。。。 結婚も家と家のこと。。。。 短編小説ほどもあろうかと思われるような長い手紙。 結婚式はいつ挙げる?僕はこう思うんだ。。。 早い話がこういう内容ですが、それがこれほどの手紙に。。。。 学生のうちに式を挙げるか、社会人になってから挙げるか?二人の愛があれば生活の苦労はない。しかし。。。 百閧ヘ哲学も含めて書いていく。 でもうれしい悩みです。。。 結婚。。。 二人の愛情が一番大切なものとはいえ、百閧ヘまだ学生。しかし年齢は24になろうとしていた。清子も20歳。明治の頃は女性の22歳はもう晩婚だそう。。。。 さて結婚はどうする。 結婚の先には二人の未来がある。 百閧ヘ、自分の将来を書く。どうも文学や哲学の学者を目指しているようだが、もしかしたらと傍点を付けて教師になるかもと。。。。 この教師と文筆が百閧フ生業となっていくのだが。。。 清子からの手紙が来たというものが見えますが、残念ながら清子婦人の手紙が集録されていません。 百閧ニいう男、男はロマンチズムな手紙。しかし、明治に世にお嫁に行く清子は現実的なことを?百閧フ母や祖母までいる「家」にお嫁に行くわけですからななぁ。。。。 でも、清子の意識も明治の女?そこは現実を見つめる女と恋する女が。。。。 百閧ヘ、結婚の時期を大学卒業後にと考えていると同時に、式だけは挙げておきたいという気持ちもある。 式だけはとなると生活は別々というわけだが、毎日会いたい気持ちは高まっていくのだろう。 24,5歳の若い男であるという百閧想定して読まなくてはならない。 若き百閧フ思いと現実の結婚生活がどうなのかを比べてみることを結果から判断をしてはいけないだろう。 若い百閧フ恋する心、それに応える清子。それは、今の時代にもある婚約をして幸せいっぱいの気持ちだけの甘い男女と同じである。明治も平成も変わりはない。 そんな甘い心を百閧ヘ書き綴る。。。。 上京をしてからは、漱石との師弟関係も始まるようで、その頃は木曜会にも出席を許されていたのか?その文学性は、漱石抜きには考えられないものがあると「恋文・恋日記」の中にも読み取れると思います。 清子への思いを書き続ける中に、幾度か漱石の作品や講演会の話が出てきます。漱石は、岡山に近い明石で講演会を行いますが、そこに百閧煬トばれます。「恋日記・恋文」ではこの講演については触れられていないようだが、後に漱石の思い出として書かれている。 百閧ヘ結婚のことで頭がいっぱいだが、学問についてはまじめである。そして漱石を尊敬をし、すでに師弟関係にも? そんな漱石が明石で講演をしたのが「道楽と職業」でした。 この年の初め、漱石宛に文学博士の学位を与えるから出て来いといったような通知が来る。漱石はこれを辞退する。今でいえば総理大臣から国民栄誉賞をやるから来いといわれたのに行かなかったと同じぐらいの「事件」であると思う。世間を騒がすこととなり、漱石もこの「博士問題の成行」を朝日新聞に発表をし、「学位問題に就いて」という声明文のようなものも書いています。(以上岩波書店漱石全集昭和47年度版11巻を参照) 漱石はへそが曲がっているから辞退をしたのではなく、明治という時代批判は「こころ」の結末にある明治の代に殉死をするというある意味での皮肉があるわけで、博士という肩書き主義や金のためというものを否定をする漱石がそこにいます。 こういう漱石が注目されている中での明石講演でした。 「道楽と職業」。。。明治に末の世も大学を出ても就職難であったようであり、文学や哲学というものは、ある意味飯の種にならない道楽のような職業と見られていたかもしれない。金のためではない本来社会のためには必要不可欠な職業を尊ぶような漱石だったろうし、そんな漱石の講演だったのでしょう。 百閧ヘその頃哲学を学んでいる。学問や文学も志していたかもしれない。そしてその未来にある百閧ヘその通りに生きていく。恋に悩む百閧セが、自分の生きる道を探している百閧ナもあったろうとおもいます。 清子への手紙にも、自分がどのような道を進もうとしているかを書いていますが、学問(学者)として生きたい。でも、文学者になるかもと。自分はこういう生き方をしたい。その中には明治の男を色濃く残しているところもあります。 百閧フ今で言えば関白宣言でしょうか? <以下ブログに書いたもの> 百閧ニ清子のお互いの気持ちを確かめ合い、互いの「家」の許しも得て婚約。 百閧フ心は高まるばかり。結婚は大学卒業後でもいいと考えてはいるが、会えない日があるといてもたってもいられなくなり清子に手紙を書く。 清子は一人で百閧フ下宿に通って来る。その甘い恋人同士の風景が手紙にも出てきます。 二人っきりの時間を持つと互いの性格も目に見えてくる。百閧ヘ書きます。 友達の前だけでいいからおしとやかにしない。。。(むフフフ)どうも清子は活発な面を持つ女性のようです。強情はよくないからその強情さを直しなさい(むフフフ。。。)どうも清子は気が強そうです。 百閧フ関白宣言!! しかし百閧ヘ清子に「うん、デレ」状態かも?「うん、うん。。。デレ〜〜」(笑) 「僕も言ってくれれば直すから。。。。」というような言葉も。 どうも「おしとやかに」とか「強情を」という話を持っていく前段に、百閧ヘ自身の雷を怖がることや洪水や火事が好きだという変なクセをまず書いていく。こういう癖をあなたが直してなどと。そこで本題に入っていっているようである。 今の世も明治の代も男は同じですなぁ。 しかし百閧フ雷嫌いは、恐怖に近く、後の作品でも雷の話が出てきます。また火事が好きというのも、後の作品で火事見物をしていたら汽車に乗り遅れたなどというものが出てきます。 清子を諭す前段の話としても、まったくの気をひく話しを書いたというだけではないと思います。 恋しい清子に会えない日は勉強も手につかない。来ると言ったのになぜ来ないと悶々とする。「八百屋お七を男にした様な」僕の心。。。とは、火事好きの百閧フ言葉としてはどきっとする(笑) ちょっとした清子に対してのユーモアですなぁ。。。 漱石からの生き方への影響と恋する心。 百閧ヘ、清子にもわかりやすく言葉を選び時にはユーむあをいれ、時には哲学的に方ります。そういう百閧フ手紙を理解できる清子です。 明治45年結婚をします。 「その、頭が変に小さく見えた事が私の心を感傷した。貧乏と世帯でやつれている町子(出版上の仮の名、清子)が急に可哀想になって来た。そっと上から覗き込んで見たら頸を少し内側にまげ込んですやすやねていた。きたない、はげちょろの着物をいつもの通り著ている。女だから結婚でどんな運命にでも合い得たろう。こんなにみすぼらしくなってそれでも少しも不平なく尽くしてくれるのをほん当にうれしく思った。」 (「百鬼園日記帳」より引用) 結婚後の生活はとなると、清子はけっして一般的な結婚生活において幸せとはいえないものがありました。うえに引用した文章のような作品上からもうかがえますが、「恋文・恋日記」には、お二人の娘さん奥野菊美さんと伊藤美野さんの父百閧語る文章が載せられています。 <ブログより> 菊野さんは、百閧フ末娘。清子の実家には子がないために末娘菊野は養女になります。清子は昭和39年に亡くなりますが、そのときに大切に保管されていたものがこの恋文と恋日記です。この百閧フ日記と手紙は、菊野さんも公表しようかどうか迷ったようです。25年間、百閧フ娘さんたちの心の中にしまわれていたそうです。この「恋文・恋日記」が刊行された年(1989年)は、百閧P7歳、清子13歳の恋が始まって(百閧ェ恋日記を始める年)から85年という年です。菊野さんは、百閧フ手紙を発見したとき、そして姉妹でこの手紙を公表すべきかを話した思い出を綴っています。 次女美野さんは、父百閧語ります。 電車の中で読んでいたのですが、涙をこらえるのみ苦労しました。百閧フ妻清子の姿がそこにあります。そして娘たちの思いがあります。 先に百閧フ百閧フ関白宣言というようなことを書きましたが、百閧フ思いにうそはないだろうけど、強情を直しなさいといわれた清子は、ある意味強情に百閧支えました。。。。 百閧ヘ、挫折したとも。。。 友人の芥川龍之介は世に出ようとしています。百閧ヘ、教師をしながら短編「冥途」を書くのに苦労をしているだけ。挫折が何だったのかはわかりませんが、このようなこともあったのかもしれません。清子は、多分身も心もずたずただったかもしれません。しかし強情に(涙)百閧ェ世に出るために支えたのでしょう。 百閧ヘ、ひどい男に見えてくるかもしれない。 しかし。。。。 百閧ェ心の中を書かざるを得ない中、5人の子供たちがやかましく騒ぐ。長男は亡くなる。 百閧ヘ書かざるを得ないがかけない。癇癪をおこし家を出たようである。しかし家を出た百閧一番に理解したのもまた清子だったようである。強情な愛。。。。 百閧フ作品やその借金生活は道楽といえば道楽だろう。。。。しかしその道楽が今の世の人々に読まれ続けているのである。 心の中に沸き起こるものを考え、それを書きたくてたまらない男。もうそこには家族のことも生活も忘れるような集中力がある。こんな男を女性たちはどう見るか? 清子に道楽な夫を持った妻の悲しみがあるのだろう。しかし支え続けて百閧生んだ。こんな清子をどう思うか。。。。。 百閧ノは「佐藤こひ」という清子が他界した後に入籍したもう一人の妻がいます。 逃げた百閧ヘ、後にこの「こひ」と暮らします。清子とは離婚をしませんし清子自身もこの「こひ」に気難しい百閧フ身の回りを頼みます。今では考えられない関係ですが、古い男女関係のひとつの形だったのかもしれません。 伊藤美野さんの語る百閧ニ清子そして「こひ」との関係を詳しく語りますが、清子は百件を憎むときもあったようですが、清子の百閧ヨの、いや、百閧フ清子への愛を忘れなかったのだろうというような温かみがあります。百閧焉uこひ」子は持ちませんでした。 文学的な才能はあるが金銭面の感覚が弱く、純粋ではあるが心の弱さを持つ一言でいえばだめ男なのだろうか?いや、やはり純粋な男なのだろう。。。 (以上ブログで書き綴ったものを貼り付けるというような感想になってしまいましたが、これ以上のものは書けそうもないのでこのような感想文で終わらせます。。。どもども) 2007年9月26日 記 夕螺 |
| 急降下するエレベーター |
| 新潮社「yom yom」2007年7月号 短編 |
| 川上 弘美 著 |
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自分は孤独に生きる女だと佐羽(さわ)はいう。 |
| 濡れたおんなの慕情 |
| 新潮社「yom yom」2007年10月号 短編 |
| 川上 弘美 著 |
| なんだかドキッとするタイトルです。。。うううう なんだか検索サイトから多くのアクセスがありそう。。。。 川上さんは、yom yomに短編を連載していますが、この連載の中の短編です。 どこか古風な女性というのか「昭和」を感じさせるような女性の物語が続いていたように感じていましたから、タイトルからして「昭和」の映画館を思い出すような(ハハハ・・・)タイトルですから、また古風な女性の物語かなと思いました。 でも主人公は30歳の男「清」でした。父親の再婚相手の衿子はたしかにどこか古風のような雰囲気がありますが。。。 タイトルは、清が友人宅で鑑賞したビデオのタイトルでした。 継母と高校生の男の。。。。。。 清は高校時代から自分の人生を思い出す。しかし清と衿子はそんな仲にはならなかった。二人で皿を洗いながら、清が一人暮らしをするというと、衿子は寂しくなるわと清の手を握る。なんだかこう言われると清は家を出にくくなりやっぱりやめると。すると衿子はよかったぁ〜と父親(夫)が焼酎を飲み寝てしまったのを見てそそくさと布団をかけに行ってしまう。 「ああ、もう」 この「ああ、もう」は期待した展開にならなかったからのものではなくて、なんていうんだろ?煩わしさのような「ああ、もう」 怒ってはいるが相手から離れられないとか愛情がるとかいう煩わしさ。 愛情といっても衿子は女ではなくて母親としてしか清には感じられないという愛情。 この「ああ、もう」は時々出てくる。 一方、清は頭がいいし何をしてもそこそこに人並み以上のことが出来てしまうタイプ。 女にはもてるが長続きはしない。何事においてもそんな長続きがしないような人生。 ここにも「ああ、もう」があるわけで、「おれは、何かを馬鹿にしているのかもしれない」と自問する。 どことなく厭世的というのか、一歩ひくような人生。 そう、なんとなく煩わしさを感じているような人生。でも友達にはやさしくするものを持つ煩わしさ。 この清という男は、川上さんが描き続けてきた「男」ですね♪ 「中野商店」の中野さんとか、「真鶴」の失踪する夫とか。。。。 出来る男だがどこか逃げてしまうような男とでもいうのかな? もしかして衿子と「濡れるおんなの慕情」のようになったかも? 清は自問する。 「馬鹿にしているものは何であろうと(中略)おれの中にある何かを、馬鹿にしているのだ」 2007年7月11日 記 夕螺 |
| ニシノユキヒコの恋と冒険 |
| 新潮文庫 |
| 川上 弘美 著 |
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この作品は、ニシノユキヒコという一人の男の生涯を描く。 ニシノユキヒコは、西野さんとか西野君とかいろいろに呼ばれながらその生涯を女性との関係で生きた。井原西鶴の「好色一代男」の世之介のような男である。14歳の思春期から付き合っている男の子のいる山片に「残念だな、僕も山片のこと、ちょっと好きだったんだよな」とキスをする。これに始まりそれぞれの年齢において女性と付き合い、死ぬ間際にも10代の女の子と付き合う。死んでからも昔の女の前に現れ、墓がないから庭に埋めてよと(笑)菓子の入った木箱を切って作った西野さんの墓と書かれた墓を建ててもらう。世之介である。。。 仕事は出来るし、その意味では大人の男として立派である。しかし、どことなく笑えるような男でもあり、どことなくダメ男でもある。そして悲しい姉との思い出を胸にどこか哀愁のある男でもあり、どこか魂が浮遊をしているような男である。 人が生まれ変わったのなら どうも僕は 肉体的着床はうまくいったが 魂の着床に失敗をしたらしい 生れ落ちたのはいいが どうも魂が落ち着かない 現実世界から 肉体から離れて浮遊をしてしまう こんな言葉が読み始めたときに浮かびました。 ニシノユキヒコは女性を愛することが出来ない。性的な関係は持つがそこに心はなく魂は浮遊をしているような男ではないかと思う。 だから結婚をしようとは言うがそこに心がなく、女性としてはまじめに受け取れない。結婚はおろか必ず女性から最後にはふられる。しかしその時は魂は浮遊をしているのだから他の女性との関係にいる。 しかし、女性たちはニシノユキヒコを嫌いになり憎んだりしたから別れていったわけではない。それどころかいつまでも心に残り、その後の生き方や自分の心の中にある「愛」というものを確かめられるようなそんなものを残すような男でもあるのである。 ダメ男で心がどこにあるのかわからないようどうしようもない男。。。 そして、どこか哀愁のある過去を持ち、膨張する宇宙の外側はどうなっているの?とか何を考えているのかわからない男、大人なのか子供なのかわからない男。なぜかこういう男はもてるのである。 この作品は、ニシノユキヒコという一人の男が主人公のようであるが、もちろん主人公なのだが、その主人公の男との関係による女性一人ひとりがまた主人公なのである。ニシノユキヒコは一枚の鏡のように女性たちの前に現れる。女性たちはその鏡を通して自分を見つめるというようなものではないか。 「物語が、始まる」(中公文庫)という川上さんの作品がある。短編集ですが、その表題作にもなっている作品です。 その感想に次のように書きました。 主人公ゆき子は、雛形を拾う。男の雛形である。人形ではなくて生きている雛形である。女性にとっては「愛する」対象としての男の雛形である。 ゆき子には「土曜日の本城さん」という恋人がいる。ゆき子は、本城との心のふれあいという面では話がかみ合わなくなっている。本城にもいろいろな面はあるにしても、ゆき子から見た本城はやはり「土曜日の」(性的な面での)男である。 ゆき子は、雛形を育てはじめ雛形の男の恋にだんだんと応えていく。何も雛形と大恋愛をするわけでもなく、日常の生活や言葉の交わりの中でゆき子も恋をする。雛形に恋をしたゆき子は山城と別れる。 なぜ雛形に恋をし山城を捨てるのか? 雛形との恋には、母性に似た(男に対する独特な母性的な)ものがあり、日常の生活を通した情のようなものが生まれる。ゆき子は加速度的に生長(老化)する雛形の「死」を見送りすぐに雛形のことは過去のことと忘れるが、「愛している」という言葉が心に残る。 性的なものという男の一面からだけではこの「愛している」という言葉は生まれない。男に対する母性にも似た感情や情から「愛している」という感情が生まれるということではないのか。 男も女も性的な対象としての男女関係以上のものを求める時期が来るものである。男の雛形というのは、女性の心に「愛する」という感情をもたらす神や時の使いか。。。。 しかし、性的なものから離れた「愛情」といっても、何も純愛を描いているわけではない。愛の美しさを描いているわけでもない。「愛する男」といっても離れてしまったなら忘れてしまう。これが女性の「生きながらえるということ」かぁ。。。。 「ニシノユキヒコの恋と冒険」では、「山城さん」が雛形になったようなものであるが、この雛形としての男という面では共通するものがある。ひとりの女性がニシノユキヒコと言う雛形を拾い関係を持ちそして捨てる。またその雛形を他の女性が広い関係を持つ。そしてニシノユキヒコという雛形は、「愛している」という心はどのようなこころなのかを読者に問いかけているのではないか?それはまた川上さんご自身の男性観というのか、女として愛する対象の男の不思議さを見ているのではないかと思います。 「物語が、始まる。」に見る日常性の中にいるある意味平凡な時間の中に生活する男として、「ニシノユキヒコの恋と冒険」に見る性の対象としての、生活を離れたような男の浮遊する心の男として。この男の二面性は、同時に女の男へ対する心の二面性でもあるのである。 読者の女性は、ニシノユキヒコをどうしようもない男として切り捨てることが出来るだろうか?目の前にいる恋人や夫の平凡な日常の「男の世話をする」という退屈さを切り捨てることができるだろうか? そこにある女子の心「愛すること」とはどのようなものなのか。 若いニシノユキヒコは、出産間もないがその子を亡くし離婚をした姉のおっぱいを吸ってあげる。子は死んでしまったのにおっぱいだけは流れるように出てきて痛いからと。。。。衝撃的なシーンです。でも、ここに女性の根本的な性がありますね。ニシノユキヒコ、というよりも男すべてといってもよいのかもしれませんが、この女性の持つ母性が絶対なのかもしれません。女性もこの母性が根本なのかもしれません。女性は先に書いた男の二面性やそれに相対する女の心の二面性は、もしかしたら女性のもつ母性というものに統一されるのかもしれません。 男も女もその相手に求めているものとして。。。 2007年10月10日 記 夕螺 |
| 銀色ナイフ |
| 角川文庫 |
| 銀色 夏生 著 |
| 「長いですよ。 しかもマジです、 覚悟してください。 真剣辛口エッセイ」 本の帯にこう書かれていました。 今、幻冬舎の各月誌Papyrusで「銀色夏生の視点」というエッセイが連載されていますが、今回の「銀色ナイフ」も夏生さんのある一面からの『銀色夏生の視点』という位置づけに見えました。 このような辛口のエッセイは、14年間出版された「つれづれノート」シリーズの中にもところどころ書かれていました。日常の中に出会った人や事柄、ニュースなどで流れてくる情報をどのようにとらえたかというものをお書きになっていましたが、このようなエッセイを集中して(2006年11月から2007年3月までに書いたもの・・・「まえがき」より引用)お書きになったもののようです。社会の中で次から次へといろいろなことに直面をしそれにどう向き合うかという「銀色夏生の視点」といえると思います。400ページと、、、ほんとに長いです。覚悟して読みました。。。。 でも、そこは夏生さん、たしかに辛口のエッセイですが、自然体の文章でどこか救われるような中身です。どんよりと今の世間を見て怒り狂うというような辛口ではなくてそれに向き合う自分を冷静にお書きになっています。 「もうひとりの自分が、そういう自分をちょっと離れたところから眺めているのを感じます。」(「あとがき」より) この自分をそして周りの世間を客観的に見るということでしょうか、そのような視点もまた「銀色夏生の視点」でしょう。 ですから「覚悟してください」も、どこかホンワカした読者への呼びかけに聞こえますし、夏生さん独特なのクールなユーモアを僕は感じます。 また、角川文庫の作品には毎回「銀色夏生の本」という作品紹介に小さな「ビラ」が挟まっています。これも僕としては夏生さんの小さな作品。。。夏生さんの手作り!というものがでているビラですから絶対に捨ててはいけませんよ(笑)今回は「近況」という短い文章が載っていました。その中に次のように書かれています。「えっ?!捨てちゃったよぅ。。。」って?ほら、絶対に捨ててはいけないといったでしょう(笑) 冗談はともかく、そこに 「この本は、(中略)たぶん推敲すればするほど格好つけそうだったので、やめました。粗削りのまま、お届けしようと思います。」 読みはじめてまず感じたことは、どことなくブログ(あるいはホームページの日記)のようだなぁということでした。毎日思ったことを書き留めておくような。。。。そして少し考えたことを聞いてほしいなぁ。。。というような。 項目はたくさんあるのですが、文章の長さも短いですし、一つひとつをあまり関連付けずに毎日思ったこと考えたことを書くというブログ的な文章です。ですからあまり長く書くこともなく気楽に、でも、本気に考えたことをつれづれに、でも、集中して書かれたものかなと思いますし、それは案外ホームページやブログをされている方の視点で読めるということではないかなと思います。夏生さんは、本文中個人のホームページやブログを批判しているようなこともお書きになっていますが、でも一方的な批判ではなくて評価をするホームページやブログの一面もお書きになっています。それは、 「人を知ることができたり。ストイックなのがいい。バイク好きとか温泉好きとか、ある特定の植物好きなど、ストイックに熱いもの。しみじみしたもの。」 (318ぺじ) ある意味本の出版とブログなどには共通したものがあると思うのですが、夏生さんの今回の作品は、もちろん出版という形をとっていますが、中身からすると読者はまるでブログを読んでいるような感覚で読めます。ブログなど、このようなものがなかった時代なら「銀色ナイフ」は短いエッセイを集めたエッセイ集として読むだけですが、今の時代はやはりブログというものを知っているならその意識で読んでしまう。また、多くの作家もブログなどを意識せざるを得ない時代ではないでしょうか?無意識的にも。ストイックなものというのは、ある特定の趣味を自分を出した独特な感覚で紹介をするという意味でしょうが、それはまさにその「人を知ることができ」るということです。その意味では、今回の作品は、ブログ的に読んでしまいますが、その中に夏生さんの世間を見る目などというストイックさを見ることであり、「銀色夏生の視点」という夏生さんという人を見るものであると思います。 以上今回の作品をどのようにとらえたかというような意味での前置きが長くなりましたが、そこで感想文はどのような形で書けるのかを考えました。(以上前置きのようですがこれも感想です。。。) それは、夏生さんがお書きになった一つ一つの項目にブログで言えば「コメント」を書くという形で夏生さんとお話をするようなこと同時に、全体を通した夏生さんの考え方や生き方それは、ブログ的に書かれたように感じる作品の中の夏生さんの生き方のストイックさを見た感想文ということにもなります。 僕は、本を読んでいると何か感じたところのページ下を折る癖がありますが、今回の作品もたくさんの三角折がたくさんありました。その意味では夏生さんに「コメント」を書くという形でも楽しく読みました。その一つひとつは、僕もそうですが読んだ方一人一人に思いがあるわけで、それはいろいろな意見として出ると思います。それらは個々の方の胸にしまっておくほうがよいのかもしれません。しかし同時に夏生さん像というものが見えると思います。それが僕にとってどのようなものなのかが感想になります。 先に書いた「もうひとりの自分が、そういう自分をちょっと離れたところから眺めているのを感じます。」というこの自分をそして周りの世間を客観的に見るということも夏生さんのひとつの視点ですから、これも大切な夏生さん像です。 同時にこの客観的に見る中身もあるわけで、どのように見るかの見方や考え方も大切になります。この点で興味深いのが、374ページの「弾丸ロケット」という項目です。 「君が今、幸福の中でもっているものを、あの人は、不幸の中でもっていた。」というミュージカル「レ・ミゼラブル」のセリフを引用し、 「これは、私が人生のテーマみたいに思っている表現と、同じ視点だ。」 と書き、続いてアンドレ・ブルトンの「相反する二つのものがそこから見るともはや矛盾したものに感じられなくなる精神の一点を突きとめる」という言葉を引用し、 「正反対の二つのものが同じに見える一点なんて、想像するだけで興奮する。怖いものなんてなくなるよね。そんなとこ。そういうところにいつも立っていたいと思う。」 とも書いています。 「何ひとつ変わらなかったけど 何もかも変わった」 (詩集「LESSON」48頁の詩表題作LESSONより) 夏生さんの詩にはこのような矛盾しているような、同じひとつのものを別の角度から見るような表現が時々でてきます。 少し違うかもしれませんが、詩集の中では、女性らしい優しい言葉で問いかければ、「僕」という主語で男の視点からも問いかけます。お互いの二人の間の同じ恋も女性の視点と男の視点ではすれ違いも出る。しかしその恋は二人にとっては同じひとつの恋なのです。 あるひとつのもの、事柄を別の視点から見たとき、まったく違った見方が出てくるということは多く在ります。また人と人との関係やその人が行動する中での相反するもあります。 「私が人生のテーマみたいに思っている表現」、また、「正反対の二つのものが同じに見える一点なんて、」というもの。これはこのように夏生さんの作品に表れてもいます。 「銀色ナイフ」では、多分じっくり読めば矛盾するようなものが見つかるかもしれませんが、それを常に繰り返し考えることが大切だと教えられるように思います。人というのは同じものでもそのときの気分や環境によって違うとらえ方をしてしまうこともありますし、それは年齢を重ねる中で違ったものとして見えるものでもあります。でも繰り返し考えることで、その同じひとつのものがひとつのものとして形として理解を深めることになるのかもしれません。 このような見方・考え方は、「こういう考え方もあるよ」という形での「辛口エッセイ」につながっているのではないでしょうか。正反対の見方もあるでしょうが、さまざまな角度からひとつの現象を見て、よりそのひとつの現象を寄り正しく理解をしていくという思考方法です。 「銀色ナイフ」は、「こういう考え方もあるよ」というものを読者に問いかけているのではないでしょうか?それは日常の中にあるすべてのものに対していえること。たとえば。。。力を持っていて威張る人間には頭を下げざるを得ない場合もありいやになるときもあるけど、別の角度から見るとその威張る人間はあんがい弱い人間で、頭を下げているのはその人自体ではなくてその人の持つ社会的な力にだということがわからないかわいそうな人ではないかというような視点。 こういうとらえ方の角度を変えれば、あるいは180度違う正反対の見方により、気持ちは違ってきて行動もまた違ってくる。 インターネットもそうですが、テレビなどのマスコミはさまざまな情報を流しています。その情報は受け取るだけならなんとなくそれが常識としてとらえてしまう場合がある。確かにこの情報には常識さをたくさん含まれているわけですが、、その常識をちょっと違った角度で見ることは必要なことです。 仮に世間ではこれが常識といわれている中で、いやその常識にはこんな見方もあるよというなら少し変わり者と見られてしまいます。この変わり者の視点が「辛口エッセイ」になるわけです。 このエッセイ集には、辛口なものだけではなくてホンワカするようなものもたくさんなります。このほんわかとしたものは、以上のような視点の切り替えによるとらえ方の中から出てくる心のゆとりではないかな? それは心の自由ですね。 もちろん心の自由はいろいろと実際の世間からは縛られるのですが、心の自由は温めておかなくてはならないと感じましたし、縛られる中にも自由な行動も少しはできるわけです。 この自由という結論がまた夏生さんが常に語ってきたものです。 「あとがき」には、人それぞれはゲームのコマのようとかいています。 「自分というコマを動かせるのは、自分だけだ。」 でも、夏生さんは、勝手気ままな空想的な自由を言うのではない。 人生の中でトンネルをくぐったり、山を登ったりと、世の中の中にはいろいろあるし、それは苦しいこと。でもその中で自由にやってみようよという自由です。結論はいろいろでてくるけど、その自由は自分でしか作れない。その結論には。。。。 「人は苦しむことでしか成長はしない。 そして成長するためにこの世に生まれたてきたのだから。」 と。。。。。 その成長は、世代によってバトンタッチされながら。。。。 2007年10月18日 記 夕螺 |
| ふたつの季節 |
| 幻冬舎文庫 |
| 藤堂 志津子 著 |
| 1996年講談社より「29歳(トゥエンティ・ナイン)」として刊行された作品です(巻末解説より)。その後2000年に文庫版発行時に「ふたつの季節」と改題されたようです。 読み終わり、読後感としては「29歳」のほうがぴんとくるかなと思いました。 女性の29歳という年齢は、そして30歳となる1年間という時間の流れは一つの区切りのように感じます。もちろん男も同じなのですが、男よりも一般的な見方としては婚期もありますし、将来子を持つことを考えればやはり30歳になってしまうというのは大きな精神面で区切りとして意識されるのではないでしょうか?この30歳までの一年という時間をたくさんの女性がそれぞれに超えて生きます。あるいは流されていきます。 主人公の29歳多希は、その30歳までの時間をアメリカカリフォリニア州の留学先の大学で過ごしていた。 アメリカという国の自由と開放感を感じるとともに、さまざまな民族が集まり大学にはさまざまな国からの留学生がおり、その自然は夏にもなれば雨が少ないカリフォルニアは砂漠のような風景となる。日本の生活と比較すれば大きな違いがある。 一方アメリカは犯罪の国でもあり、ドラッグは普通の出回っている。自由ではあるがそこにある人種差別という自由も。 多希は、そんな中でがむしゃらに勉強をする。 このがむしゃらに勉強をするというのが唯一の29歳から30歳に流れていく時間の流れの中においてのすべてである。その意味では29歳の孤独といってもいい。また、多希には暗い過去があった。父親のあまりにも厳しい育て方は虐待にも近いものがあり、多岐は子供の頃の記憶を忘れていた。というよりも心の奥底にしまいこんでいたという事だろうか。 29歳という年齢のひとりの女性がそこにいる。 しかしそんな多希にも8歳年下の一人の男「領」が現れる。同じ日本人であり、やはり父親の束縛から逃げるように留学をしていた。親からの仕送りはまったくなく、違法就労によって生きている。就労先の動物病院で働き、働けば学業がおろそかになり退学寸前である。動物病院の上の階に住み込みアメリカ人のルームメイトと暮らす。そしてアメリカ女性のガールフレンドがいる。 ここにはやはり20歳というある区切りを越えた21歳の一人も男がいるのである。 多希と領とのめぐり合いにそれぞれの年齢を生きる「ふたつの季節」という時間の流れが生まれる。 多希は、がむしゃらに勉強の中に生きる。領は必死に生きるために動物病院で働く。多希は孤独に、領はアメリカ人という人々との中に信頼を受けながら生きる。 ここに二人のそれぞれの季節という時間の流れがあるわけで、この違いから領は多希の勉強時間を奪い、後には金を借りる事にもなる。多希は、領をうっとうしいとも思いもう一つ信用できない。ガールフレンドとは別れたとはいいつついつまでも関係を持ちその優柔不断製が多希を悩ます。 しかし、多希自身もこんな領と別れる事は出来ない。孤独の中の唯一の温かみなのかもしれないし、大学という世界から出た広いアメリカという社会とのつながりを持たせてくれるのも領の友人関係あったのだろう。 大学を退学になれば本国日本に帰らざるを得ない、不法就労が発覚されれば強制送還である。そんな領に多希は苛立ちを覚えながらも支えざるを得ない。同時に領の存在が多希を支えている。 そんなふたつの季節なのである。それは肉体関係や愛情というものから離れた、何か心同士が頼りあい支えあうというような特別な関係といってもよいのかもしれない。それはアメリカという国に二人の日本人がいる中での心の動きといってもいいだろう。 作品は、こういう多希の心の動きをさらっと時間の流れの中に描いていく。 さまざまなアメリカという国が持つ矛盾や領との関係というものがさらっと書かれる中、何に焦点を向けて読んだらよいのか考えてしまうこともあったが、さらっと流れる時間がなぜこのように視点が定まらないのか?多希も勉強に一生懸命に生きている。領も生きるために一生懸命に働く。その一生懸命さは描かれるが、どこかさらっと流れてしまうというものは、二人に今を生きる目的や将来がないという事からなのかもしれない。 多希は勉強に集中する事、大学を卒業する事だけが目的で今を生きる。領は日本に戻りたくないだけに今を生きる。どちらもが日本に残してきた父親との思い出を背負っているし、ただがむしゃらに生きる事でしかアメリカで暮らす目的はない。こんな二人を描く作品だから時間の流れはさらっと描かれ、焦点が定まらない作品として表現されざるを得ないのかもしれない。 その意味では、必死に生きるが焦点の定まらない「ふたつの季節」がこの作品の主題であり焦点なのかもしれない。こう読むとラストは感動する。 「二人で必死にアメリカで生きてきたね」というような二人の関係に。。。。 2007年10月22日 記 夕螺 |
| ソリチュード |
| 新潮社 「yom yom」Vol.4 2007年10月号 |
| 山本 文緒 著 |
| 「おれは駄目な男です。」 (中略) 「財布の中身は、4780円だ。38歳の男としては如何(いかが)なものか。」 春一は、父親の死を風の噂に聞き、生まれ故郷の駅に20年ぶりに立っていた。 書き出しの「おれは駄目な男です。」にまずはぐっとひきつけられる。 「駄目な男」にもいろいろとあるでしょうが、この作品に描かれる春一は「逃げる男」でもあり、それは、「時間の流れの中で何とかなっていくという男」でもある。 たしかに春一は 「夕方、俺は期末試験の勉強を投げ出して武藤の家に遊びに行こうとしただけだったのに。」 と、高校3年生で家出をし渋谷で女に拾われ、その後も女に助けられてバーを1軒まかされている。「駄目男」は、あんがいもてるのである。そこそこの生活はできる。しかし、交通事故でランナーである「朱夏」の大切な足を台無しにしてしまい、バーのオーナーである「まり江」に借金をする。しかし朱夏も春一にデートをしてとディズニーランドでデートもする。何とかなっていく。 父親を亡くしたとはいえ母は元気に働いていた。お帰り。。。というように20年ぶりというのに何気なく迎える。お前のためにと思っていたと春一名義の貯金通帳まで渡してくれる。4780円の所持金しかない、それも朱夏に借りた金の残りという春一の懐も何とかなる。 一人で母の帰りを待っているとき春一の前に12歳の少女「一花」が現れる。従兄妹でもある「美緒」の娘である。 従兄妹同士は結婚できる。 春一と美緒は恋に落ちる。美緒はちょうど一花と同じ年齢だった。春一は高校生。 肉体的な関係に両方の親は激怒する。世間は近親相姦だと噂は流れていく。高校3年の春一の家出は逃げたのである。美緒は逃げる事も出来ない年齢でもあり逃げ場もない。しかしその後結婚をして一花を産むが今では離婚。そんな美緒も何もなかったように春一を迎え、一花も春一になついていく。それは少女から女になる過渡的な年齢の恋でもあったのかもしれない。 ここでも何とかなってしまうのである。 同級生武藤は、春一の家出後の消息を美緒に知らせ、美緒は母親にも知らせただろう。そんな事から母親も美緒も何もなかったように迎えられた。武藤のおかげで何とかなり、武藤の世話に何とかなる。 「駄目男」「逃げる男」「何とかなる男」というのは、何も春一だけではない。人間だれでもが春一と同じようなものを持っている。駄目で逃げて。。。。大なり小なりそれで生きている。そして一生が終わるとき何とかなって死んで行く。こう書くといい加減な人間を正当化するのかといわれるかもしれないが、人に理想的な生き方を求めすぎてはいけない。そして自分をそう理想的な人間に「映る」ような追い詰め方は、あまりにもヒステリックである。 たしかに悪い事や無責任な事をしたら謝罪して後始末をしなければならない。しかし、今の世の中はあまりにも人には厳しく自分には優しくというものが溢れている。それはヒステリックな弱い者いじめにもなり、弱い者いじめだけをして強いものにはおろおろするのが自分の正義を現していると勘違いする世間となっている。あまりにも潔癖な考えは精神を破壊するだろう。 こういう世の中である今、春一を取り巻く人々にほっとしたものを感じるのかもしれない。春一の弱さを今更追求する、追求しても仕方のないものを、春一を追い込んでいくようなものを求めない人々。 許せない社会的悪に落胆をしてなすすべもない人々が弱い人間をたたく。こういう冷たいものから隣人を許すという人間味を強く感じる。もちろんこの作品がこういった社会性を持つわけではまったくないのだが、平凡に暮らす中での人と人との関係の温かみや隣人愛というのか、そういったものを感じさせてくれるものでもあるのではないか?もちろんそれは、「仕方のない馬鹿な男だぁ。。。。ハァ・・・」と、ため息交じりでの愛想の尽きるようなそんな溜息の中にあるという温かみであるが。 「ハァ。。。」と、溜息をついてもう一度人を眺めれば笑ってしまう事もある。 そんな心の働きとしての人の心の温かさ。 人とは、こうして「馬鹿男」になり「ハァ。。。」と溜息をつかれながら、逆に「駄目男」に「ハァ。。。」と溜息をつきながらどうにかお互いに一生を終わっていくものなのである。 しかし、そうはいっても「ハァ。。。」と溜息をつかれながら、つきながら平穏に過ぎていくわけではない。波乱はあるものである。 どうにかなるが、そのどうにかなるには波乱がある。どうにか平穏さを保ちながらも時には白波が立ち、その白波があっという間に大きな津波にもなる。その津波が去った後には嘘のような静けさが来る。そこには津波の後の残骸が残る。そして「ハァ。。。」と。 これが人の生きるという事であり、一生である。 山本さんの作品は、これを常に強く感じさせる作品です。 読者は「ハァ。。。」と溜息をついて読み終わるでしょう。でもその「ハァ。。。」の残骸をみて静けさを感じる事と思います。眉を寄せた笑いもでるかもしれない。 そして人はこの静けさの中からまたお馬鹿な人生を繰り返す。しかしその静けさから一歩動き出す瞬間に人はまじめになる。 春一も一歩あゆみだす。しかし。。。。 「武藤が『またおまえかよ』といやな声を出した」 ラストの言葉である。。。。。。 2007年10月26日 記 夕螺 |
| 疲れすぎて眠れぬ夜のために |
| 角川文庫 |
| 内田 樹 著 |
| 2003年角川書店より単行本として発売になった本の文庫版です。 今の世の中でどのように生きるかというような啓蒙書という類は難しいです。今の世の中を肯定しているわけではないし、否定をしている事に間違いはない。しかし全体を通して読者に残るものは、今はこういう時代なのですからこういうふうに適応していかなくてはなりませんよというものに落ち着く。 これは、今の世の中を肯定はせずに否定はするが、こう生きていくしかないという現実主義的な肯定になるという変な弁証法的なものを見る事ができるのではないか? 社会科学書と啓蒙書は、どこか味噌も糞も一緒にした様に区別があいまいです。啓蒙書というのは同じように今の社会の現状を否定しながら書きますが、必ずと言ってよいほど心のもち方に結論が導かれていくものと思います。また、今の社会はこうだけどと否定をするが、まぁ、そうは言ってもその中に暮らすしかないし、心の持ち方一つで違ってきますよという形で今ある社会を消極的に肯定をしてしまうからあまりよくないのです。 社会科学書というのは、今の社会を分析しながら社会のシステムの上から否定をし、そのシステムをどのように切り替えていくかというようなものであると思います。ここでももちろん今の社会で生きざるを得ないものがあり、それを日常の中の例としてみますが、それをどう改善するか改善しなくてはいけないかを問いかけます。これが本来の啓蒙ともいえます。 さて、「疲れすぎて眠れぬ夜のために」ですが、この本のメッセージはどこにあるのかをご自身が次のように書いています。 「あんまり自分で立てた原理原則なんかに縛られないで、その場の気分に乗って、気楽に生きましょう。」 (262ページ「文庫版あとがき」) このわかりやすく簡単な文に、僕もやはりこの著書の言いたい事があるのではないかと思います。 たしかに自分の立てた原理原則にがんじがらめになってしまいますと疲れますよねぇ。ノイローゼになり眠れなくなってしまうかもしれません。自分のためと頑張っているのはいいですが、結果としてはぜんぜん自分のためになっていない。眠れぬほど疲れきってしまえば心身のためによくないし、それで病気にでもなったら将来がなくなる。 そこで「ほんらいの利己主義」になりなさいと内田さんは書きます。 自分のためという利己主義で頑張っているのですが、これは目先ばかりを見た利己主義で、体を壊してしまったら何にもなりません。これを今の競争社会という面で見れば、個々ばらばらに人が利己主義を主張して行動すれば、際限のない競争になり、その利己主義はかえってその個々の人間を不幸にする。自分が幸福になりたいからと競争という利己主義に走っているが、それがかえって不幸にするという結果を生むということでしょうか。 そこで内田さんは、ホッブスの名を上げて「ほんらいの利己主義」を書きます。 「ホッブスやロックが近代市民社会論を書いたときに近代の市民に対して『利己的にふるまう』ことを勧めたのは、人々が自分の幸福を利己的に追求すれば、結果的には必ず自分を含む共同体の福利を配慮しなければならなくなる。と考えたからです。利己的な人間は必ず家族や友人の幸福を配慮し、共同体の規範を重んじ、世界の平和を望むはずだ、と考えたのです。だから、個人が利己的に行動して己の利益を最大化するべく努力する事を共同体の基礎にしたのです。」 (20ページから21ページ) これは、人は社会的な動物なのだからほんらいの幸福は社会的なものからしか望めず、ほんらいの利己的であるということはこのような社会をつくる事にあり、その社会の規範の中において幸福にもなれるということであるということになる。 しかし、同時に、これは資本主義社会を産み出す論理でもあり、その社会の市民の役割を問うたという時代性においての論理であり、利己主義的な利潤追求が何をもたらしたかは、今のような疲れすぎて眠れない夜をも作り出したのでのです。 一つの観念的な理想の国家(共同体)を前提にすれば、ここの人間の幸福はその国家の規範のもとに成り立ち、それは本来の意味での利己主義の完成であり、同時にそれは利己主義という観念そのものがなくなります。しかし、利己主義は自由主義でもあり、ホッブスの頃は封建制から資本主義への政治的過渡期であると思いますが、封建制を否定し個人の自由(利己主義)を確立し、そしてそれは、国家の強力な規範にまで高められる中に(資本主義社会の論理の規範の中に)個人の自由(利己主義)は、高次化されなければならないということかもしれません。これはその時代性において進歩的でしたが、この理想は理想でしかなかった。新たな低次元の自由(利己主義)が優先され、「自由国家の理念」だけが言葉としてスローガンとして国家の規範となり、金の(経済の)支配を規範として一般国民に押し付けるものになってしまった。 だから「利己的な人間は必ず家族や友人の幸福を配慮し、共同体の規範を重んじ、世界の平和を望むはずだ」というのは、理想でしかなくなってしまいます。それ以上に「共同体の規範を重んじ」という個人を抜きにした国家主義が台頭する。個人と国家との逆転が生じてきた。もちろん資本主義は「福祉国家」や「国民経済」とかその理想の姿を常に追い求める勢力もあるが、獰猛な「新自由主義」をも生んでおり、それは原始的といってもよい資本主義に戻るものにもなっており、今の社会のさまざまな矛盾を生み出している。 「利己的な人間は必ず家族や友人の幸福を配慮し、共同体の規範を重んじ、世界の平和を望む」ことは、再び個人の利己主義に突きつけられる状態になってきたのです。 この今の状況から内田さんの著書ははじまるのかもしれません。 封建制から資本主義への啓蒙としてのホッブスの哲学が、資本主義から次の時代への移行するためのホッブスの再評価かもしれません。 「あんまり自分で立てた原理原則なんかに縛られないで、その場の気分に乗って、気楽に生きましょう。」 とはいえ、内田さんの中には社会科学性はあるのであり、原理原則はおありでしょう。ですから以上のことからうかがえるのは、「原理原則なんかに縛られないで、その場の気分に乗って、気楽に生きましょう」というのは、今の社会の中においての社会的規範(緩やかな意味での社会常識といってよいかもしれません)に片意地張って生きるのはやめましょうということでしょう。もっと利己的になりましょうということでしょう。 これを「個人に対して」お話しをしているのですが、この意味において社会科学ではなくて個人への啓蒙書という性格を持ちます。 「ワンランクしたの自分に」の 「簡単に『幸せ』になれる人間というのは、なんだか薄っぺらで、バカにされそうですけれで、ぼくは『すぐに幸せになれる』というのは一種の能力だと思います。」 (11ページ) 「人はどうしてオヤジになるか」の 「『不快に耐えている』という事を自分の人間的な器量の大きさを示す指標であるとか、人間的成熟のあかしであるとか、そういうふうに合理化してしまったのです」 「でも、彼は自分が『不愉快な人間関係』の原因であることを知りません。なぜ宿命的に自分の周囲には不愉快な人間しかいないのであろうか、ときどきやけ酒を呷るぐらいです」 (25から26ページ) というのは面白いですね。まさに 「その場の気分に乗って、気楽に生きましょう」という生き方の真髄であり、個人への心の持ち方の啓蒙思想であります。 でも、あハハハ。。。と、こんなオヤジを前にして笑ってもいられませんよ。 「ビジネスとレイバーの違い」では、同じ「仕事」と訳されるがその中身には違いがある。「暮らしていける最低限のレイバーだけして、お金を稼いで後は好きな事して暮らしたい。それなら、働くのは時間の空費であり、苦役でしょう」と。 女性が働く事についてはどうでしょう? 「(専業主婦志向のーー夕螺)彼女たちは、母親たちの世代が、住宅ローンなど身の丈にあわない借金を背負い込んで、低賃金のパートなどをして必死にローンを払う姿を見てきているわけです。」 ここでは、個人より上に立つ国家の規範があったはずなのです。 労働時間の短縮・休日増は、だれでもが望みました。しかし変形労働時間制でごまかされ、バブル崩壊は、「好きな事して暮らしたい」という要求を社会的に与えてくれました。団塊世代へのリストラは30歳代まで拡大され、就職浪人は巷に溢れました。 母親は自分を否定する専業主婦志向の娘に涙ながらに言うでしょう。 「そんなに私の生き方を否定するなら、何で身の丈も知らないで高校や大学に行くなんて言ったのよ。そもそも義務教育は中学までなんだから。私だってあんたが可愛いから我慢したのに。パートだって好き好んでいったわけではないのよ。私だって我慢して疲れながら生きてきたのよ。」と。 これは、上に書いたオヤジと同じく、オバサンがそこにいるのです。今の若い世代の方もオヤジ化オバサン化は今のままでは社会的に必然なのです。 「不愉快な人間関係」からも逃げられません。 もちろん心の持ち方によるささやかな幸せは否定をしないばかりか大切な子事と思います。そしてそのささやかな幸せの中にどうにか僕も社会の中で生息できます。しかし、資本主義の老衰の中でこのささやかな幸せさえ段々と先細りになってきています。この著書が発売になった2003年からの4年間を見てもわかります。 この社会に個人がどのように向かい合うか。それはもちろん本来の利己主義を発揮しなければなりません。しかしそれは、今の社会の規範や常識という範囲の中で 「その場の気分に乗って、気楽に生きましょう」からだけでは生まれません。 社会の規範は今のこの時点の通りです。個人はこの規範にのみ幸せになります。人間は社会的動物なのですからというこの狭苦しい個人への啓蒙。「その場の気分に乗って、気楽に生きましょう」という心の持ち方としての啓蒙。 日常いろいろいやな事がありますが、それは個人間の問題と見えます。しかしそれには必ず理由があってずっと手繰ると社会が見えてきます。その意味では、今の老衰した資本主義を内田さんは「賞味期限切れ」の資本主義として現しているのかもしれません。ここに内田さんの社会批判はあるのです。しかし、この今の社会を批判すると同時に、「その場の気分に乗って、気楽に生きましょう」という個人への啓蒙とがどこに結びつくのか? それは次の言葉にあります。 「国民国家、人種概念、階級制度、一夫一婦制な、この先あまり長くは持たないと思いますが、まだこの後50年ぐらいは賞味期限が残っている。残っている間はまだ『賞味』できるわけですから、『次のもの』がくるまでは、何とかこれを使い回ししてしのぐしかありません。」 「そのうちもっと合理的な制度に代わるべきものであるなら、そこにどうやってソフトランディングするかということをみんなで考えましょう」 (207ページから210ページ) そのうちに今の社会は賞味期限切れになるのですから、それまでは「その場の気分に乗って、気楽に生きましょう」という事でしょうか。 それは、「利己的な人間は必ず家族や友人の幸福を配慮し、共同体の規範を重んじ、世界の平和を望むはずだ」という楽天性にあるのかもしれませんね。 しかし楽天性もいいが、何とかこれを使い回ししてしのぐしかありませんし、どうやってソフトランディングするかは問われます。 最終章は、「資本主義VS人類学」としてまとめられています。 「ぼくたちの社会にとっての利益が最大化されるようなオプションをみんなで話し合って考えてゆきましょう。」 結局は社会と個人というものに集約されているのでしょうか? 社会というのは不思議なものです。 人間が寄り集まって社会というものを作っているという面では社会は人の自由な創造物です。しかし、この社会は逆に人の意識を変えていきます。時には人を縛り付けるようになります。人は社会のシステムにがんじがらめとなり自由をなくします。それではいかんと、人はまた新たな社会をつくろうとします。 この繰り返しですね。 利己主義は社会をつくる原動力です。それは自由でもあります。このさまざまな利己主義と自由の中に衝突も起こる。この衝突が社会のシステム上に現れます。今の資本主義のように富がある特定の利己的な自由により集中します。日本は富める国です。ですから貧乏を言う事は出来ないともいえますが、この富は世界の貧しい国々の本当の貧乏と対になっています。国内にも相対的な貧乏があります。豊富な物があるが手に入らないという貧乏です。このように富が集中することによる矛盾は、物を大量生産をして売らなければならないという資本主義に矛盾をきたします。今の日本がデフレから脱却できないというのも、貧しい国に借金をさせたり援助したりしてその商品を売りつけようというのも破綻しました。こう見るならば、個人の利己主義や自由は制限されなければならないという結論にもなりますが、そうではないのです。オプションがあるとすれば、社会のシステムをどうやって抑えるかという人の本来の利己主義と自由を駆使しなければならないのです。今の社会で甘い汁を吸っている人たちの利益を抑えるのは利己的な自由を抑える事ではありません。このままでは破綻をするということからの開放です。 もう人類の生存すら危ぶまれるような環境問題や地球の汚染。残り少なくなってきた化石エネルギー。省エネルギーを提唱するが国益によって否定をされる事。競争に勝つためには商品をより安く生産をするには国民を貧乏にするしかないという矛盾。もう国という共同体という狭い範囲においては解決できないものです。競争に勝つためにという無意識にしろ国を越えた共同体というのが考えられはじめました。社会システムはこのようなもっと優れた国を超えたものを求めているのだと思います。ですからオプションは、そのために「本来の利己主義」を発揮をし、自由に社会システムを変える自由を求めているのです。 2007年11月9日 記 夕螺 |
| 女性の品格 |
| PHP新書 |
| 坂東 眞理子 著 |
| 以下ブログの「今読んでいる本」のコメントに書いた読書中の感想と少し付け足して感想に代えたいと思います。 なんか、これ以上書きようがないです。 「品格ある国家は品格ある個人が前提」 でも個人は弱い存在でそうは強くない。 だから教育や学習、指導や矯正、信仰が必要。 。。。。。う〜ん? たしかに国家は人が作り出したものだから、品格ある個人が品格ある国家をつくるという事でしょうが、同時に、一度国家というものが出来てそのシステムで動き始めると、その国家が必要とするような人間を作り出し、そのような人間が品格ある個人ともなる。 上の人とか人間という言葉を「女性」に置き換えても同じである。以下も同じ。 ところが、個人は弱いので悪い事もすればある特定の個人の利益を優先した国家システムをつくろうとする。ここに完全なる品格ある国家はない。完全な品格ある国家でない国家がそのシステムを維持しようとして作り出す人間もまた品格ある人間とはいえない。 女性の品格というのは、普遍性の中にもあると同時に、その社会が必要とする女性でもあるのである。 ですから、このような著書を読む場合に気をつけなければならないものは、人間性一般としての女性の品格と、今の社会が求める女性の品格を区別して読まなければならないということです。人間性一般が今の社会でまともに受け止められるのではないのです。 では、著者はあえて女性の品格をどのような視点で見るかといえば、 1、現代女性の行き方、役割が大きく変わり 2、女性も男性の轍を踏んで同じように権力志向・拝金主義になってはならない 3、自分の家族の幸せだけを考えていればよい時代ではない と、いうことです。 2の品格ある女性は、男女平等論を「奪還論」と名づけた先に読んだ内田さんの「疲れすぎて眠れぬ夜のために」と同じ発想ですね。 1は、人手不足のために女性も職場に進出せよという時代から今は違ってきていますよという事でしょうか? 3は、考えようによっては正しく、考えようによっては惑わされます。 あんがい、今の社会が求める女性の品格ではないでしょうか? 女性と男性とは、肉体的な構造はもちろん違いますし、特に子を生めるのは女性だけです。脳の働き方からして違うという説もあるそうです。 ですから男女平等は難しく考えられます。 もう一つは、社会といったものの中でつくられる女性という性です。これは自然界においての男女間の差異ではなくて人工的な差異として現れます。これがまた男女平等をなおさら難しくしてしまいます。 男女平等を平等と言うなら男と同じように働けと、生理休暇が取りにくいとか母性を無視したものになります。子を産む前後の就労に対するもの、そのための男との格差。逆にまだ男が家庭の中のことがしにくい状況もあり、保育園に子を迎えに行き、個のうれしそうな笑顔を見るという親としてのうれしい権利を男も持たせてもらいにくい。 社会によっての男女間格差を男女間の闘争とするような「奪還論」てき男女平等のねじれた考え方を整理しなければなりませんね。 ですから今の社会の中での女性の品格ではなくて、未来の社会をつくるという中に女性の品格があるわけです。 僕もまだ「まえがき」しか読んでいないのですが、こういった視点で読めば面白いというものです。。。 どちらの家庭にも分厚い「家庭の医学」といったような本の横に、「家庭の便利帳」のようなやはり分厚い本(冠婚葬祭のマナーとか、日常生活に必要な事が簡単に書かれた本)があると思うのですが、「女性の品格」の中身もこんなようなものかな? ですから「家庭の便利帳」のような本をマスターしないという事かもしれない。それが女性の品格? もしかしたら、品格とは「型」「形」かも知れない。もちろんこれは必要なんだけど。。。仰々しく品格とまでいわなくても? 品格ある女性作りは難しいですよ! 自分をあまり前に出さないような内面の気品ですかねぇ。。。。 しかし、この社会に生きているうちの品格は、清貧や大和撫子でしょうか? 僕としてはこういう結論やその結論をにおわす事だけというのがどうも。。。 社会的に未来を見つめなければなりませんなぁ。。。 以上、先にも書いたように本を読みながら書いた感想ですので箇条書きのようになりましたが、この本の言おうとしているものは、著者ご自身が「あとがき」にも 「ハウツーものと、生き方や行動規範にかかわるものの両方を盛り込みました。」 とありますし、感想としては以上のものでいいと思います。 上に 「このような著書を読む場合に気をつけなければならないものは、人間性一般としての女性の品格と、今の社会が求める女性の品格を区別して読まなければならないということです。人間性一般が今の社会でまともに受け止められるのではないのです。」 と書きましたが、著者がお書きの「ハウツーもの」が「人間性一般の品格」であり、「生き方や行動規範」が「今の社会が求める女性の品格」という事であります。 ハウツーものには、なるほどという提起がたくさんありました。人と人との社会生活上での関係において大切なものですし、その中にあっての自分という立場をどのように置くかは面白いものがありました。人はいろいろな感情に支配されて生きてしまいますが、常に社会性をもって冷静に対処していかなければなりません。 ただし「ハウツーもの」として、品格ある女性像が描かれるわけですが、それは自然に出なくてはいけないこと(この著書でもこのようなことが強調されていますが)で、本を読んで「これが女の品格」と意識してしまうなら、その時点で品格はなくなるでしょう。 日常生活のうえでのハウツーにおいての品格というのは必要ですが、それは必然的に「生き方や行動規範」すなわち「今の社会が求める女性の品格」といった具合に今ある社会とこの女性との関係が大きくかかわりあいながら生き方や行動規範が出てきます。 今の社会はこうなったのだからそれに従って生きなさいという 1、現代女性の行き方、役割が大きく変わり 2、女性も男性の轍を踏んで同じように権力志向・拝金主義になってはならない 3、自分の家族の幸せだけを考えていればよい時代ではない この三点に行き着きます。 女性と社会の変化とは特殊な関係があります。 バブル期のようなときは女性も社会へ進出しなさい。管理職にもなれるかも?とおだてられます。その代わり男と同じように働きなさいと。その中で女性の行き方も「結婚をしない女」などというものも出てしまいました。今ではどうでしょう。結婚できたのが勝ち組と変な言葉さえ出ています。今の時代は専業主婦の傾向が強くなり、働くにしても女性の居場所は狭くなっているのではないでしょうか?それは、低賃金のパートや派遣などに回されます。 この著書のような女性への啓蒙書というのは、この社会の変化によって求められる女性の立場をそうは言っても・しかし・・・・・と、その中の心の持ち方という啓蒙にしかならないのです。 本当の女性の品格とは何でしょ? たしかに今の社会はこうなってしまったのだからそれに適応しながら生きなければなりません。しかし心のもち方として「だけ」満足を(もちろんこれ自体は否定をしませんし、楽しく生きるうえでは大切でもありますが、そればかりで済ま)してしまうような心を売る事が女性の品格ではありません。 社会のシステムに適応するとともに、何故今の自分(女性として)がこういう立場におかれているのかをその社会のシステム自体の変化の中に見つめる事は、自然に社会をどうにかしないとたいへんだという事が出てきます。たしかに考えても急によくなる事はありませんが、しっかりと社会システムがどうなっているのかという視線を常に持つというのが、未来を見つめるというのが本来の女性の品格の一部ではないでしょうか。今はこういう時代だからと流されるばかりの人生。これは女性ばかりにいえることではなくて、男も同じでしょう。 社会の中では、個人の努力や心の持ち方により、より楽しく生きなければなりません。しかしこの個人の力だけではどうする事も出来ない影響を社会から(品格ある社会とはいえない今の社会から)受けざるを得ません。それは、必ず社会的なシステムに矛盾があります。社会は必ず少しづつよくなっていきます。しかしこの未来に逆行する人間も必ずいます。それは個人の品格とかいうのでは片付けられないものです。 今の時代をどう生きるべきかという単なる啓蒙ではなく、社会科学的な視点が必要ではないかと思います。 2007年11月19日 記 夕螺 |
| 川上弘美読本 |
| 青土社 |
| 「ユリイカ」2003年9月臨時増刊号 |
| 川上弘美さんの書き下ろし短編集「蹠の小説」をはじめ、さまざまな方が川上さんの人柄の一面やそれぞれの作品への書評を書いていらっしゃいます。また、二つの対談も載せられ、この中にも川上さんの一面が現れています。最後には、川上さんがお好きな本を紹介されています。 以下の方々が執筆をされています。 久世光彦・田辺聖子・江國香織・高橋睦朗・薄井ゆうじ・松尾由美・川村二郎・清水良典・吉田文憲・芳川泰久・佐藤泉・永原孝道・高原英理・小谷野敦・田中和生・本間塁・東直子・小池昌代・陳野俊史・岸本佐知子・峰飼耳・堀江敏幸・東雅夫。対談のお相手として穂村弘・堀江敏幸 (僕は知らない方々が多いのですが、このような方が川上さんを評しているということで紹介しておきます。) 一人の作家をさまざまな角度から追うという本ですが、「ユリイカ」の編集がよいのか、さまざまな方が執筆されているという中でさまざまな視点が出てくるということの良さなのか、川上さんの作品の特徴を読み取る事ができると思います。もちろん、書評はその執筆された方の作品の読み方というものが出ますので、「こう読むべきだ」という意味で読むのではなく、こういう読み方もあるとかの中に自分の川上さん像や作品像を重ねて読むべきかとは思います。また、これから川上さんの本を読んでみようかなと思われる方にとっては、川上さんの作品の傾向がどこにあるのかという参考程度にお読みになるほうがよいかもしれません。 ですから「川上弘美読本」の感想は、川上さんの人柄や作品の特徴がどこにあるのかという点になります。一つ一つの作品をどのように解釈しているかへの僕の意見というのではなく、重ね合わせながら作品のそれぞれの一面を見るということになります。 ものを書く方というのはその方の世界というものがあり、その世界は醸し出す独特な文体や流れ出るような雰囲気があるもので、その世界が読者を巻き包んでいきます。この世界が個性的であればあるほど(ただ個性的であるという意味だけではなくてその個性がより多くの読者をひきつける意味においての個性)優れた作品であるといえると思います。ある作家が、その作家でしか出せない世界を持つというのは、長く読み続けられていく条件でもあります。 では、川上さんの作品の世界の最も個性的であるものがどこにあるのかといえば、「川上弘美読本」の中では、「異界・異形」という言葉で語られています。 初期の「物語が、始まる」から「おめでとう」には、まさにこの異界・異形の世界が広がります。多くの執筆者がこの川上さんの個性的な世界にどっぷりとひきこまれています。僕も同じでして、この個性的な世界は強烈です。川上弘美ワールドはここにまずあります。 それではこの個性的な世界が何故このような形で作品化されているのでしょうか? もう2年ほど前ぐらいに、NHKの早朝の読書番組に川上さんが出演されていましたが、その中で作品にどのぐらい川上さんご自身の経験が入っているのかという質問に、私は普通すぎる生活をしているというように答えていらしたと記憶しています。作品と作家の実際の生活というのは興味のあるものですが、二つの対談を読むと、そこには異界や異形の世界とは違う普通の女性(もちろん川上さんの知識の広さなどはありますが)がいます。素の川上さんが今の日常を普通いに生きているわけです。川上さんの作品の特徴は、この素のどこにでもいるというようなある意味平凡な女性に異界・異形の世界が入り込んできます。しかし、この何の変哲もない平凡な日常にこの異形・異界が入ってくるのだろうか?といえば、平凡な日常と異形・異界は隔たれた世界にあるのではなく、その意味において入ってくるものではないと思います。異形・異界は、心そのものなのではないか?心は自分に所属する。しかし心は思いもかけない世界を現し、平凡な日常を生きる人間を驚かす。思いもかけない異形・異界が心の世界から湧き出てくるのかもしれません。異形・異界は、はいってくるのではなくて自分の中からあわあわと湧き出てくるのです。 ですから上に書いた「川上さんのその素とその作品。。。 」とは、隔たれたものではないのです。 とはいえ、単にこの異界・異形がサスペンス的にあるいはホラー的に出てくるわけではなく、面白くてどんどん読み進んでしまうという世界ではありません。心を表現する中での平凡な日常の中に生きる中で心に沸き起こるものを異界・異形という形で書かれる中に文学性が出てきます。 「センセイの鞄」からは、この異界・異形という面が少なくなります。より現実の世界で揺れ動く心が描かれます。エッセイもたくさん書かれていますが、それも素の川上さんの一面として読めます。でも、「真鶴」においてはまた違った形での異界・異形が見られます。最近「東京日記2」というエッセイが出ましたが、前回の「東京日記」もそうですが、異界・異形ではありませんが「ちょっと不思議」というような日常性の面白さが描かれます。作家もその作品の特徴が変化しますが、「川上さんらしさ」という面ではそうは変わりがないのではないかと思います。 この異界・異形については、さまざまな解釈がされるわけですが、詩人小池昌代さんの「湯気のむこうに」という「龍宮」への書評は面白かったです。一番川上さんの作品の持つ世界を心の中でとらえています。 女性が台所に立ち洗物をしている。そんな時、孤独ともいえる空間の中で心はざわめく。その台所という空間、そんな空間が川上さんの作品の空間であり、論じたり分析する事を拒むような世界だと。 歌人の東直子さんの「ものすごく悲しくて、きれいな光」での「パレード」の書評にある「なんでもないこと、っていい言葉だな」というものにも川上さんの作品の核心をついている。 詩人と歌人そして女性。。。このお二人。批評家よりも鋭いものをお持ちだと思ういます。 「分析する事を拒むような」作品。「なんでもないこと、っていい言葉だな」と感じさせられる作品。川上さんが描く個性的な世界は、こんな感じでとらえるべきではないかと思います。そうしないと上の書いた「東京日記」「東京日記2」などのエッセイの面白みもわからないのではないかと思います。 はじめに川上さんの短編「蹠の小説」がありますが、短い短編なのですが、それをさらに短い短編としてかかれているようでもあります。しかし、初めと最後は「三回しか出ない幽霊の話」1,2となっていますので、短編全体で一つの世界が描かれているのかもしれません。これは、「ちかごろ、原稿用紙にして十枚前後の、短編、というには少々短い長さの小説をしばしば書くようになった、」という「ざらざら」や「ハヅキさんのこと」とも通じるものがあり、この二つの作品中の一つの短い短編をさらに短い超短編集とした様なものを感じます。短い短編を集めてはいるが、どこか全体として一つの世界が感じられる。「蹠の小説」もそのような世界がある作品だと思います。しかしこの一つの世界が何であるかが難しいのです。初めと最後の短編には、幽霊のサイカが「出てくる」。しかし何のために出てくるのかわからない。 この作品の世界は、この「何のため」なのかもしれません。何のためというものがない中にただ出てくるだけ。 人は日常何のためにとか、何故とか考えながら生きているようですが、その瞬間・瞬間は、「何のため」などとは考えていない心の動きがあるのではないでしょうか。 短編「蹠の小説」が「何のため」になどと考えることを拒むものと読めるとすれば、先の小池さんや東さんの言葉とも一致をするわけです。 「何のために」を拒む作品。「分析する事を拒むような」作品。「なんでもないこと、っていい言葉だな」と感じさせられる作品。これが川上さんの作品の核だと思います。心から沸き起こるものは自分の意思に関係なく沸き起こる。そこには「何のため」とか分析したりする事は出来ませんから。 優れた作品というのは、人の中にある心の思いとか心を表現しています。これが読者により強く感じさせる作品が優れた作品であり、それが文学ではないかと思います。 しかしこの心を表現する優れた作品に文学性があると同時に、心を表現すると同時に、「心ってなんだろ?」と常に問いかける作品が僕にとっては一番優れた作品だと思います。 漱石は、常にこの人の心を見つめてきました。内田百閧ヘ、自分の心に驚きながら見つめたのかもしれません。 心の不思議は、哲学的にも精神を扱う科学でも、そして宗教においても、その分野で追求されています。やはり文学というのもこれを追求しなければ科学とはいえない。文学を科学などというと変かもしれませんが、ある作品の分析は科学的でなければならないということです。 川上さんは、日常の平凡な中に沸き起こる心の不思議という異界・異形の中にさまよっているのかもしれません。その世界は、文字として表現されるわけですが、「先生の鞄」を「センセイの鞄」という文字にするといったようなそこにも川上さん独特な世界もあります。表現方法というものにも川上さんの世界があります。この文字で表現された川上さんの心の世界に読者も引き込まれてしまうのです。 2007年11月21日 記 夕螺 |
| 貝殻のある飾り窓 |
| 新潮社「yom yom」Vol.52007年11月号 |
| 川上 弘美 著 |
| こういうこと、感じた経験がないだろうか。 飲み友達や旅行友達など、遊びや趣味の世界でつながっていた友人が、結婚などにより急に別の世界の人のようになってしまったこと。引っ越したりして離れてしまった事や心が離れてしまったような。 自分だけが今までの世界にいるという孤独のようなさみしさと、今の自分のままでいいのかという自分に対するさみしさ。 また、友人から頼まれごとをされたとき、その頼まれごとを引き受けないとその友人が離れてしまうかもしれないが、でも、どうしても自分ではできない頼まれごとであったり、その他のまれごとを聞き入れたら自分がその友人に利用されるだけだとわかっているときのそんなさみしさ。 断っても責められやしないけど冷たい空気が流れたり、その友人の世界に入っていけないさみしさ。 津原由紀は、会社が休みのとき、雨が降ると雨の風景を写真に撮る。 皆、褒めてはくれない。 たぶん雨の世界とは違う世界に本と入るんだろうか。 さみしさ。。。。 津原由紀は、雨の日の写真を撮らなくなる。 飛躍だろうが。。。。 川上さんの作品は、初期の作品の中にある不思議な異界の世界があったが少しづつ変化をしてきたという見方がある。より現実的な世界を描いているようではあるが。。。 雨の日の写真を撮らなくなるというこのラスト。。。ううう・・・ん でも、基本的には川上さんの世界は変わりないと思う。 雨の日の風景。。。。もっと描写がほしかったな♪ 2007年12月2日 記 夕螺 |
| 東京日記2 ほかに踊りを知らない。 |
| 平凡社 |
| 川上 弘美 著 |
| 都市出版社「東京人」2004年5月号から2007年4月号までに連載された作品です。 「ついこの前『東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』が出たばかりと思っておりましたら、すぐに三年がたって、この二冊めを上梓することとなりました。」 (「あとがき」より引用) 「東京日記 卵一個ぶんのお祝い。」は、やはり平凡社から出版されましたが、その「あとがき」には、 「『東京日記』という題は、(中略)敬愛する内田百閧フ同題の作品にも。とはいえ、百關謳カと並んでしまってはおこがましい気がして、表紙には『東京日記』という字は、小さく印刷しました。」 とあります。 内田百閧フ「東京日記」は、かなり不思議な世界がありますが、川上さんの「東京日記」もどこか不思議な世界があり、でもそれは日常の中にある不思議さでありクスクス笑ってしまうようなものも多くあります。 この日常の中の不思議な事については前作の「東京日記」では、 「以前『椰子・椰子』という、嘘日記の本をだしたことがありました。本書は、本当日記です。少なくとも、五分の四くらいは、ほんとうです。普通に生活していても、けっこう妙なことがおこるものだなあと、読み返しながら、なつかしく思いだしております。」 百閧フ「東京日記」ほどの不思議さではない日常の「妙なこと」という不思議さです。ですから実際に起きた日常での出来事という点ではほんとの話で、本にして出版する点での配慮や作品として仕上げる上での「嘘」が五分の一という事だと思います。 今回の作品も、やはり五分の四はほんとで。。。。と、あとがきに書いていらっしゃいます。 春。。。竹の子が食べたいと思う川上さん。すると一箱の竹の子が届く。茹でておいしくいただいていると他の方からまた竹の子が一箱届く。また茹でる。するとまた他の方から竹の子。竹の子を茹で続ける川上さん(笑) こんな妙なこと、そして竹の子をどんよりしながら茹で続ける川上さんの姿を想像してクスクス笑ってしまいます。このようなお話しが集められている作品です。 先の「東京日記」に比べると、文章がさらに短くなりなんとなく俳句趣味がより進んだように感じます。俳句の中には趣のある滑稽が有りますが、まるでその俳句をを読むような感じで読める作品だと思います。 俳文というものがありますが、ある説によれば俳句をする方の文章一般をいうらしいのですが、俳句趣味の文章という意味で捉える事ができるのなら、まさに両「東京日記」は俳文と呼んで差支えがないのかと思います。そしてその俳文の中でも滑稽さを出した俳文。 作品中に「シュール。」という文章がありますが、俳文の中の俳句趣味の滑稽というのは、シュールなおもしろさといってもよいのかもしれません。その時は真面目なのですが、後で思い起こせばなんだか自分を自分で笑ってしまうという事もありますし、人の行動の中にはなんだかわけのわからない面白さ(笑い)があるものです。川上さんもクスクス笑いながらお書きになったのではないかな。 本の題名のネタバレになりますが、川上さんは、誰もいない部屋の中で「一人東京音頭」を踊ります(笑) それは「一人東京音頭」を踊るという誰も見ていない中の川上さんの面白さでもあり、その面白さは川上さんご自身でしか、川上さんご自身の心の中でしかクスクス笑えないものです。それを読者が読むという中の面白さ。自分を自分で笑ってしまうおもしろさ。なんとなく自分を遠くから眺めているような風景。そこにこの作品のおもしろさがあるのではないでしょうか。 人は生きていれば大きな出来事があり、その中に心が大きく揺れる喜怒哀楽があります。しかし、このような大きな喜怒哀楽というものはそうは毎日起きないものです。かと言って毎日がまったくの平凡かと言えばそうでもなく、心が小さく揺れる小さな喜怒哀楽があるわけです。それが「東京日記」で書かれているおもしろさだと思います。 あとがきは、 「どのひとのうえにも、ひとしく幸いが訪れますように。 そして、もしまんいちなにがしかの不運をこうむったひとにも、近く幸いが訪れますように。」 と、結んでいます。 「妙なこと」の中にはおもしろい事もあれば不幸な事もあります。その「妙なこと」にも大きさがあります。それを自分を遠くから眺めるように、これもすべて「妙なこと」のあった一日として眺められれば心も休まるかもしれません。また、平凡さの中にある小さな喜怒哀楽を引き起こす「妙なこと」これを滑稽な笑いにできれば幸いかと思います。 2007年12月5日 記 夕螺 |
| 現代日本の小説 |
| ちくまプリマー新書 |
| 尾崎 真理子 著 |
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朝日新聞「読書欄」の書評で知りました。 |
| テレビの中で光るもの |
| 幻冬舎 |
| 銀色 夏生 著 |
| 久しぶりの単行本です。角川からの「自選詩集 丘をバラ色に染めながら」以来でしょうか。。。 たくさんのタレントさんの似顔絵がありますから文庫版では物足りないので、このような単行本というのがうれしいです。 「とくいのテレビ評とにがお絵です!(中辛)」 と本の帯にありますが、これまで出版された日記エッセイ「つれづれノート」シリーズ14巻には、ところどころにテレビ評と似顔絵がありました。褒めるところは褒め、時には辛口の番組やタレント評がありましたし、似顔絵は似ているようで似ていないけど似ていると思えば特徴をつかんでいるといった似顔絵にもおもしろさがありました。 「つれづれノート」シリーズが終わったあと、つれづれノートによく出てきたお友達とのおしゃべり本が出たり、占いの本が出たり、世の中を見回して思う事を綴った辛口のエッセイが「銀色ナイフ」として出されたりと、「つれづれノート」別冊というものを感じさせる作品が出されていました。そのような意味でも今回の作品もテレビ評・似顔絵というつれづれノートに現れていた夏生さんの一面を表現したエッセイで、つれづれノート別冊という感じがします。 「つれづれノート」ファンにはうれしい1冊だと思いますし、テレビをよくご覧になる方やスターや歌手、お笑い芸人さん系のファンという方にも楽しめる1冊ではないかと思います。 少し批判もある「中辛」のエッセイですが、やはり帯の後ろには、 「感動を与えてくれて、ありがとう。」 と、テレビ番組やタレントさんたちへの感謝の気持ちを表しています。こんなところにほんとにテレビを楽しんでいらっしゃる夏生さんの心が見えます。それが「テレビの中で光るもの」としての番組やタレントさんたちへのお気持ちでしょう。 また、この中辛の批評という面では、10ページからの「まえがき」で次のように書いていらっしゃいます。 「あくまでも私のはテレビや映画などの画面の中のスターやタレントたちの表現や、そのタレントを見ている人々の頭の中に作りあげらてきたイメージについての感想です。だから、実際の本人についてではないですから、そういうつもりで読んでください。」 ですから、「私が大好きなタレントなの意、銀色夏生はこんなひどいことを書いてる!!」なんて怒らないで読まなければなりません(笑) でも、中辛の中にも温かみを感じさせる文章ですから、むっとした方も「あハハハ。。。。」と笑ってしまうかも? 僕は冷たい人間なのか。。。めったにテレビを見ていて感動をして涙が出そうになるということがないのです(映画も嫌いですし、もしかして映像というものに無頓着なのかもしれません)が、小説という世界ですと、頭の中に出来上がるその世界にすごく感動をします。小説のドラマ化なんて聞くと「見ない!見ない!。。。。」ときょぜる反応が。どうもドラマ化をされると、出演するタレントたちのイメージがそのまま僕の頭の世界に入り込んでしまい、せっかくの主人公があるタレントの顔となって嫌なイメージが残ってしまう事が嫌なのかもしれません。こういうもの一つ見てもテレビの映像というものにはそして出演するタレントたちからのイメージというものは強いものなのかもしれません。 この強く迫ってくるタレントたち! 時には一方的に目や耳の中に入り込んでくるタレントたち! それを個人がどういう人間かは見ないで純粋に画像の中に現れる一つの作りあげられた、自分の頭の中に作りあげられたイメージに真面目に対するという面で、この作品は、すばらしいエッセイになっています。 もちろんタレントの特徴のおもしろさを「わっハッハッハ。。。。」と心底楽しめる作品である事には変わりありませんが。 夏生さんは、人を見る視点がはっきりされている事を他のエッセイでも読むことがありますが、その目で作り上げられたタレントというある意味典型的な人間を見るという鋭さがこの作品を作っているのではないかと思います。 昔からタレント議員という方がたくさんいらっしゃいますが、それは作りあげられた一つのタレントというものを見たイメージとして投票されたのかもしれません。そこには実際の人物を見ているわけではない。そんなテレビの怖さを感じるとともに、夏生さんが書く「人々の頭の中に作りあげらてきたイメージ」という言葉は大切なのかもしれません。それはクールな冷静な方にしか出てこない言葉だと思います。 夏生さんは、作詞家をされていて多くのアイドルたちに詞を提供していました。多分そんなアイドルやテレビ関係や音楽関係のスタッフとの交流もあったのかもしれません(僕の想像です)。その意味ではテレビだけではなく、音楽にしてもアイドル自体にしても作られていく過程をご存知なのかもしれません。その意味でも、テレビ界において自分というイメージを作りあげ人気を維持していくタレントたちを見る目も違うのかもしれません。なんて。。。想像をしてしまいました。 この作品を書いたのは、銀色夏生という一人の「作家」の目で見たものです。テレビを楽しみいろいろ考えながら見ているのは事実でしょうが、そこはやはり一人の作家の眼として読まなくてはなぁと感じます。 同時に夏生さんは、ご家族を持ち母親としての顔もあります。 その意味では、所々に書かれているお子さんたち、特に中学3年生になる娘さんとのテレビを通じた母娘の会話にテレビのある家庭生活に、家庭人というのかな?一人の夏生さんがそこにもいます。 一人の人間としては、ところどころに25の「コラム」が載せられています。 このコラムが、本文中のタレント評や番組評とどのように関連あるのかはよくわからなかったのですが、多分作り上げられた世界としてのテレビの中の世界と今の現実の社会というものを重ね合わせたり、考えてみた事なのだと思います。 最後のコラムは、「人生は作品」と題されています。 「私という作品、あなたという作品。世の中はこんなおもしろい巨大な美術館だ。(中略)見よう。そして発見しよう。まだ見ていないものがいっぱいある。」 と結んでいます。 人はおもしろい。。。 誰もが生きてきた歴史がある。社会や回りからの影響はあるにしても、その中でその歴史を作ってきたのは自分。それは一つの作品。生きている目の前にある自分という作品。大切にしなければなりません。 人は人と接する。もしかしたら、その接してきている人は、テレビの中で見ているタレントという作品と同じくある一面のその人という作品を見ているのかもしれない。もっと知らない作品として見える日があるかもしれませんね。 銀色夏生の視点。。。。 エッセイとしてもすばらしい視点で書かれています。 そして何よりモアハハハ・・・・と、楽しく読める作品ですよ!! 2007年12月14日 記 夕螺 |
| こうもり |
| 新潮社「yom yom」2007年11月号 |
| 角田 光代 著 |
| 久しぶりの一番新しい作品を読みました。 槙仁は、友人でもあり仕事の手伝いもしている面川に連れられてカラオケのあるスナックに行く。そこでバイトをしている希麻子と出会う。 マキヒトとキマコ。。。マキとキマ。 どこか名前からして似かよっている。 槙仁は、バンドの仕事をしていた。一時はメジャーデビューもするが今ではバンドの仕事も無くなり夢というものを砕かれていた。希麻子も舞台の演劇の女優という夢を追い求めているが年齢からして大女優になる夢は打ち砕かれている。 槙仁は、そんな希麻子に未来を感じない女というイメージを持つ。しかし槙仁自身も自分の中に未来を見る事ができなかったのだろう。そもそも槙仁の思う未来というものも「ピンとくる」といった感覚的なもので、具体的な未来ではない。 そんな二人は恋するという気持ちも無いままに一緒に暮らし始める。 槙仁の未来は、「ピンと来る」というものだけど、これは将来の夢とは違う。 その意味においては、希麻子という女性が「未来を感じない」と見えるものとそうは違いはない。 夢を追うってなんだろ? その夢が打ち砕かれたときに人はどうすればいいんだろ? 希麻子は槙仁から去って行く。 互いに未来が見えなかったのだろう。。。。 しばらくして槙仁には新しい恋人が出来る。槙仁は考える。新しい恋人は結婚を望んでいるだろう。プロポーズの言葉を捜すが、同時に消えてしまった希麻子のことを考える。希麻子は、自分の夢を捨てたのか?どこかで夢のために生きているのか? 若いうちは夢を追い続けるが、ある年齢になると現実も見なくてはならない。というよりもある年齢になると人生のある地点に立たざるを得ない。夢をどのくらい現実に出来るかという今まで生きていた結果がでる。そこから新たにどう生きるかも問われる。 槙仁も希麻子も30代半ばだと思うが、40歳ぐらいまでにあるひとつの人生の中間結果が出てしまうと思う。 時間は流れていく。。。。 角田さんの以前の作品には、フリーターという人生を過ごす若者が出てきた。今回の作品では、夢を追い続けながら生きてきた若者が出てきた。正反対のような生き方にも見えるが、どちらもある意味自由を夢見ていたのかもしれないしそれは同じかもしれない。フリーターという生き方もいつか現実を突きつけられる。夢をかなえられるのはほんの一握りの人、多くの人は夢の挫折の中に現実を突きつけられる。 その中にこれからを見なくてはいけないが、人は常にその先にははっきりした道が見えないのかもしれない。 そんなせつなさかな。。。。 でも、夢を持てた事、自由を求めた事は大切な事で幸せな事なのかもしれない。 2008年1月10日 記 夕螺 |
| 江國香織とっておき作品集 |
| マガジンハウス |
| 「鳩よ!」特別編集(江國香織) |
| 2001年発行と、少し古い作品集ですが、本の表紙には次のようにあります。 「フェミナ賞を受賞した処女小説「409ラドクリフ」を初収録。 珠玉の中編小説とファンタジー、 そしてビートルズの訳詩集、 さらに、異色絵本『夕闇の川のざくろ』もカラーで完全収録。 父・江國滋の『香織の記録』と妹・晴子の 『夢日記』も初公開。 単行本未集録作品がたっぷり、 欲張りで ぜいたくな作品集。」 このように江國さんのさまざまな側面を見ることができる作品集だと思います。 (この作品集の中に収められた「ぬるい眠り」などの小説の多くは、今年発売になった新潮文庫「ぬるい眠り」として発売になっています。) 僕も江國さんの作品といえば、男女の恋愛を描きながらそれぞれの心の中を描き、人を愛する事の形というものを連想しますが、それとは違う世界があるのだろうと感じました。というよりも、さまざまな世界が江國さんの中にあることがただの恋愛作家という範疇に置いておかないのであり、恋愛小説の中にも人が生きる事や人を愛する事の普遍性のようなものが現されるのだと思います。 この「作品集」は、2001年発行ですから、7年以上前の作品が集められているわけで、江國さんご自身20代から30代半ばまでの作品が収められています。人は誰でもこの頃というのは若さもありいろいろな事柄に興味を持ち、勉強をし、考えます。同時にそれまでの「若いころ」を30代半ばに思い返す時期でもあると思います。それは、江國さんが作家としてご活躍されるようになった時期でもあり、作家として自分を見つめ返す時期に重なる事だと思います。 1989年発表の「409ラドクリフ」は、学生生活の中での勉強と恋というものやある意味将来を見つけることへの若い女性の姿が出ていますし、1990年発表の「放物線」は、そんな楽しかった学生生活から5年後という形で、自分が生きる方向が定まってくる時期の心の変化が表されていると思います。1989年の「九月の庭」というちょっと不思議な世界と2001年に訳詞したビートルズの「LUCY IN THE SKY WITH DIAMONDS」は、どこか重なる印象を受け、心の開放感があります。同時にその他の作品には、どこか心の寂しさがあったりもします。そしてもちろん江國さんらしい作品恋や結婚生活のことも。 若い頃の作家江國香織の精神。。。 江國さんの作品理解には欠かせない「作品集」ではないかと思います。 さて、このような作品集ですが、97ページにはこの「作品集」のために書き下ろされたプチ文学論的な「物語の復権」が載せられています。これは、30代半ばを過ぎた作家江國さんの作家として今までを振り返る事であると同時に、その後の作家としての考え方が現されているかと思います。「作品集」の最後に「夕闇の川のざくろ」が納められたというのも偶然ではないと思います。 江國さんのエッセイ集に「泣かない子ども」という作品がありますが、その感想に江國さんの書かれたものを引用して次のように書きました。(「 」内が引用文です) 小説のどこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションかという質問に、こんな質問をされるたびに「こいつ、頭悪いな」と思うという箇所がありますが、核心から外れたものにびしっと書いているところなどは手厳しいです。僕がエッセイを読もうと思ったのも、小説の中にどこまで江國さん自身が描かれているのかという疑問もありましたので、ガツンと頭をたたかれたような思いです。 どこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションか。「小説というのはまるごとフィクションである、と私は信じているし、それでいてどんな嘘八百をならべても、書くという行為自体、作家の内部通過の時点で内的ノンフィクションになることはまぬがれない」本を読むというのは、このような作家の内面と読んだものの内面の会話ですね。このエッセイ集には江國さんの書く姿勢や、読書日記からどのような小説を評価するかがちりばめられています。 「夕闇の川のざくろ」は、現実の生活の中に生きているが、心はいつも物語の中というような「しおん」という女の子を描きますが、そのしおんは、「物語の中にしか真実は存在しないのよ」と言い、「人なんてもともとほんとじゃない」とも言います。 人は日常他の人々と接するわけですが、どこまでその相手の人の真実を見ることができるでしょうか。真実というのは内面といってもよいと思いますが、その内面にこそ真実があるといってもよいと思います。江國香織という作家の内面という真実は、その作品に出てくる表面的な事柄にあるわけではない。一つの作品(物語)全体を通してにじみ出てくる空間に江國さんという真実の作家の内面があると言うことです。「しおん」は嘘つきかもしれない。しかしその嘘という物語の中にしおんはほんとの自分を語っているのかもしれない。 書き下ろしの「物語の復権」は、この物語について語られています。 「たとえば私のことを話したとするでしょ。何年にどこで生まれて、こういう両親のもとに育って、(中略)そういうことを私についての情報と呼ぶ人もいるかもしれないし、また物語りだと思う人もいるだろうし、(中略)物語っていうのは、時間がたっても形を変えてもその質は不変。」(98ページ) 江國さんの経歴を情報としてみれば、その量や質が求められるが、作品と結び付けられればそれは普遍的な物語と捉える事が出来る。江國香織という作家の内面としての真実として。これは、人というものを表現しようとする場合、人とは何かを書くことという中に物語性を通した真実を描くなら、リアリティーがどこまで必要か?現実に目に見えたり触ったりできる事が重要ではなく、そのものの目に見えない真実が重要となりその真実を物語としてどのようにリアリティーを持たすかになっていく。ノンフィクションの私小説はリアリティーである。しかしフィクションの中に自分というものが出たときにその物語はリアリティーを持つものであり、それが文学というものだろう。その力量を持ちたいと江國さんは書いていらっしゃるのだろうか。 だからそれは、不思議なお話でもいいのです。 先に読んだ「川上弘美読本」の中での書き下ろし「蹠の小説」とも関連してくるのでおもしろく読みました。 文学性とは。。。。。 30代半ば以降の江國さんの作品がどのように変化したのか、また、「物語の復権」で紹介された「夏のひかり」や「ホテルカクタス」を読んでみたいと思います。 「作品集」には、父江國滋さんの日記「香織の記録」と妹晴子さんの「夢日記」が集録されています。情報として出なく物語として記憶したいと思います。 同時に、この二つの文章は、父や妹さんの書いた江國さんの物語です。特に父滋さんの江國さんへの強い愛情と、対父親像の江國さんの内面とも関連として読みたいと思います。 2008年2月8日 記 夕螺 |
| ぐるりのこと |
| 新潮文庫 |
| 梨木 香歩 著 |
| ぐるりのこと。。。。 これは相対的なものである。 地球人という視点からの主体から見れば宇宙がぐるりのことであり、日本人あるいは日本という国家という視点からの主体から見れば世界の国々がぐるりのこととなる。人間あるいはその人間の文明という主体から見れば自然界がぐるりのこととなる。それは人間の生命という主体に対しての自然界のあらゆる生命や森羅万象がぐるりのこととなる。 同時に人間は、他の動物の持つ社会性である群れから飛躍した社会といわれる国家という形態を作った。もちろんこの日本社会や日本国家は、上に書いたように世界の国々というぐるりのことの中にあり、○○株式会社に勤めているならその○○株式会社はの日本社会というぐるりの中にあるわけである。それは社会の最小単位とも言える一族や家族は個にとってはぐるりのこととなる。また、本文中にはどいつのマルクス主義者の女性ローザ・ルクセンブルクの話しが出てくるが、マルクス主義における階級意識は社会や国家というぐるりのことの中にある。階級意識まで高められないものの今問題となっている格差社会の中でどの階層にいるかもその視点において個にとっては社会や国家はぐるりのこととして存在する。そして人間は高い精神世界を持ち、個はその精神世界に異なった宗教や哲学、自然化などなどという精神面でのぐるりのことを持つ。 人それぞれが個としてぐるりのことの中に存在せざるを得ない。それはあるときには家族がぐるりのこととしてとらえられるし、あるときは日本社会や国家がぐるりのこととして現れそれが相対的ということである。同時に個の意識は、まったくの個としてぐるりのことと相対するが、日本人という意識において世界の国々をぐるりのこととして意識する事もある。その意味においてもぐるりのことの広さと主体をどこに置くかでぐるりのことは相対性の中に表れ意識されるのである。 多くの人間は個としては戦争を否定をして平和を望む。しかしその個が国家の一員とした主体を持ったとき、時には戦争もやむなしという主体となる。だからその時々の個がどの視点の主体からどのくらい広いぐるりのことを見るかによって個という主体が変化するのである。 梨木さんは、さまざまな広がりの中にあるぐるりのことの中においての個の無力さを感じつつ177ページに次のように書いている。 「けれども、そういうとき、とりあえず身近な仕事に着手しようとのろのろ立ち上がるのは、この連載のタイトルを『ぐるりのこと』と決めたときの気持ちの後押し一つになった正木ひろしの『近きより』の発刊の言葉の中の一説を思い出したからだ。」 「近きより」という小雑誌は、世界大戦中に発行された雑誌で、「自由主義的な見方で、日々の出来事を綴った貴重な記録」(同ページ)らしいのですが、近くの事からぐるりのことを見つめてみようという梨木さんのお気持ちが笑われています。今のような社会でも梨木さんという個から自由にぐるりのことを見つめる事、これが「ぐるりのこと」というエッセイ集なのでしょう。 しかし、梨木さんご自身も個という視線から離れないで今の社会を見つめる事が出来たかといえばそうでもなさそうです。やはり日本人という長い時間の流れの中に形成された日本人という遺伝子の働きもあり、そこに途惑いもあります。そしてこの途惑いもそのままに見つめながらまた梨木さんの個からの考え方を書かれたのではないでしょうか? 個とぐるりのことそれは個と社会という事になるが、個と社会とには境界がある。 この境界は、個という意識が自分だけのものであるからその自分だけの意識から外の世界には超えられないものがある。その意味では個は孤独であるが、しかし個は社会と切り離された場所に存在することは出来ない。だからこそ絶対的な境界があるにもかかわらずぐるりのこと・社会と共に生きなければならない。ここに個と社会との関係性にさまざまな哲学や宗教・文学・政治理論などが生まれたのだろう。 漱石は「こころ」という作品の中で、明治天皇崩御と共に終わる明治の社会と共に、三角関係の中に友人「K」を自殺に追い込んだ主人公の「先生」を自殺させる。それは明治という社会に殉死をさせる事でもあり、漱石の明治という社会の批判から明治という世は終わりにして「私」という弟子である若い人の社会を託すことでもあった。漱石自身も個と社会を考え抜いた作家である。漱石という個と明治という社会・ぐるりのこととの絶対的な境界と共に評損しなければならない中の苦悩。社会というものは完璧ではない。むしろその社会自体はを形作る政治的支配層によるものでさまざまな矛盾を抱えるものである。その中においての個は、その矛盾をはっきり見つめれば見つめるほどその境界自体もはっきりと見えてしまう。 梨木さんは、今という時代に生き、今の社会の矛盾を見つめ、それをぐるりのことと表現をするのである。梨木さんという個がヘイセイという世の中に向かい合い、その個は苦悩しながら書き綴られる。 特に9.11テロには相当なショックを受けたようだ。 それは戦争とは?テロとは?を問いかけたのだろう。 それは平和とは?に結びつき、あらゆる文化や政治宗教のそれぞれにおける個とぐるりのこととの関係である。 梨木さんは、宮崎県のたぶん高千穂の方だと思われるが、そこに別荘というのか隠れ家というのかを持つ。その別荘の敷地に隣の敷地に住む人が「境界」を越えていろいろな植物を植え始める。また、「春になったら苺を摘みに」というエッセイに出て来るイギリス在住のアメリカ人ウエスト婦人の下宿の解放性をここでも描き、そんな身近な事から個とぐるりのこととの話は進んでいく。 梨木さんの目は、その日常の中にあるぐるりのことから明治という社会が生まれた時代までさかのぼり、西郷隆盛の例を出しながらある意味での日本の矛盾や新しい国づくりの中での諸外国というぐるりのことを見つめたのかもしれない。それは上に書いたマルクス主義者ローザ・ルクセンブルクの限界を個と社会との関係性において見たり、資本主義対共産主義の冷戦を見たり、正義と悪の枢軸的な形を作り出した今を見る。そしてアラブ世界と特にその中の女性を見つめる。このように今という時代をさまざまな角度から見つめているのではないでしょうか? それではその見つめている過程で梨木さんは何を考えたのか?それは今の社会という中で個はどのように個を保ちながらも社会の中にどう生きればよいのかということだと思います。 梨木さんはたくさんのことを語っていますが、その中で印象的な言葉は、「自分を開く」「しようがないなあ」「母性」でした。 「自分を開く」ということでは、 「この境界の向こうは異世界だ。こんなふうに圧倒的に迫ってきたら、自衛本能でこちら側に萎縮してしまう。私はぼんやり考えている。それを乗り越えて、意識的に自分を開く訓練について。」(34ページ) 個の力ではどうする事も出来ない異界としての社会があるわけですし、その意味においてそこには超えられない境界がある。社会がひとりでにこに近寄っては来ない。しかも個は社会から切り離しては存在できない。そうならば異界に対して個を開くしかないということではないでしょうか? これは考え方の角度を少し変えれば、今の社会をしっかりと見つめ考えて行動できるものを見つけようということではないかと思う。しかし何も目を三角にして「革命だ!」などと勇ましく叫ぶ事でだけではなく、はじめに引用した正木ひろしの『近きより』の言葉なのではないかと思う。もう一度ぐるりのことを見つめ考えできれば言葉にする事でしょう。 同時に目を三角にしないでというのは、「しようがないなぁ」という余裕というのかある種の楽天性とも見える。そうはぐるりのことは急激に変わるものではない。いつの時代も急進主義は失敗をする。感情的煽動や暴力では何も解決はしない。あるときには怒りも出るが「しようがないなぁ」と先を見つめていることも心のあり方としては大切なものである。 そしてこの心の優しさは、または怒りの表し方は、それは母性でしょう。母親がいたずらをする子どもを見て「しようがないなあ」というような。もし神がいるなら、神も人間の今をしようがないなあと見つめるかもしれない。そんな母性。。。。 梨木さんが女性だからという意味で母性をいうのではないと思う。 「母性的なものに縁遠かった人間であっても、場合によって、人はーー男性も女性もーー意識的にでも、行きずりにでも、母性を振舞う事は出来る。そして時にそれは人を救う。/たとえそれが滅亡に至る道行きの途上であっても。」(88ページ) 梨木さんの言葉には強烈さや勇ましさといったものは微塵もないが、人の心の中にある確固とした強さを以上の三つの言葉に感じられないだろうか?もちろん梨木さんは一人の個として動揺したり悩んだりを繰り返していくにしても。それは読者すべてにいえることなのだけど。 最後の章は、「物語を」と題されている。 方に力をいれずにぐるりのことを見つめ考え、そして梨木さんご自身が何が出来るのか、自分の仕事は?と自問したときに、そこには作家梨木香歩がいるわけですよね。 「ぐるりのこと」を書き終えて、作家としてぐるりのことを見つめたとき、こんな今の社会だけど見つめた梨木さんが書いた物語は、美しいファンタジーである「沼地のある森を抜けて」(読み終わっていますので近いうちに感想を書きたいと思います)でした。母性といえるような命への慈しみと、個と社会。。。。。この孤独性と孤独ながらも有性生殖という愛する違う個を求める人の心と愛。 2008年2月15日 記 夕螺 |