夕螺の読書ページへようこそっ!!
       2007年2月から読みはじめた本です。

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こちらに収められた作品は、以下の本たちです。


 「ぢぞうはみんな知っている」           群ようこ
 「夜かかる虹」                     角田光代
 「ひとり日和」                     青山七恵
 「ウェブ進化論」                    梅田望夫
 「家守綺譚」                      梨木香歩
 「号泣する準備はできていた」           江國香織
 「やさしい春を想う」                 銀色夏生
 「ばらとおむつ」                    銀色夏生
 「ぬるい眠り」                     江國香織
 「職場はなぜ壊れるのか」             荒井千暁
 「村田エフェンディ滞土録」             梨木香歩
 「月夜にひろった氷」(文庫版)          銀色夏生









ぢぞうはみんな知っている
                           新潮文庫
                群 ようこ  著
何年か前に群さんのエッセイ「午前零時の玄米パン」を読んだ。
その感想の最後に、
「おてんば娘が50歳になりどんなおばさんになったのかという興味もありましたので。。。」
と、書いたのですがまさに今回のエッセイは群さん50歳のエッセイで、「『エロばばあ』狂乱」には度肝を抜かれました(笑)
「『大人』の掟」の書き出しに、「それなりに人というものがわかってきたような気になっていた」が、「人間とはそんなに単純ではないとあらためて感じる」と50歳になろうとしているご自分を見つめています。
「午前零時の。。。」は、4年前に読んだので中身はほとんど忘れているのですが、自分の感想文を読むと、どうも30歳代の群さんのエッセイで、女性から見た女性(時には暴露?)の生き様を描いていますし、その意味では50歳の群さんも同じような生き方をし、その女性から見た女性の表現も変わりありませんね。
人というのは、若い頃にいろいろなものに接しながら自分の生き方を意識的にも無意識にも形づくっていきますが、30歳の半ば頃からは、ある程度の生き方も定まり、人生観を変えるような大きな出来事がない限りそのままに年齢を重ねていくのだと思います。平凡に。。。。
ただ違うのは、40歳も後半にもなれば老化に気づき、50歳にもなればその老化が目に見えて現れてきます。人生のラストスパートというのか、自分を心身ともにどのように維持をしていくかに思いをめぐらしはじめます。その中での人とのかかわりの変化もあるわけで、それはやはり自分自身の老化した自分の中にあるわけです。
このエッセイ集は、この老化あるいは年齢を重ねることがどのようなものかというものを50歳になった群さんが語っているエッセイ集だと思います。
まずはじめのほうに、群さんの金をあてにしてバブリーな生活をする群さんの母親の様子が描かれます。群さんも売れっ子作家としての地位も確立してその母親の要求に応えます。どこか「金持ち群ようこ」が鼻につく点もあるのですが、そこには群さんが子供時代から見てきた母親がいて今の母娘関係もあり、50歳という初老の群さんからみた年老いた母親像が出ています。その母親のためにご自身は所得税すら滞納する状態。。。ここに「午前零時の。。。。」というエッセイの時代とそうは変わりのない群さんの姿があります。母親のいろいろな様子に自分の未来の姿もあるわけです。
また、「オスネコの『老い』」では、人間でいえば80をすぎた隣の家の飼い猫「ビーちゃん」が出てきます。そのビーちゃんのボケの様子にまた老化していくとはどういうものかをみるわけです。最後のエッセイ「まるでホラー」にビーちゃんが再び登場し、いっそう老いとは何かを見ることになります。まるでホラー。。。群さん独特な表現の中にも老いとは?をみますね。猫と一緒にするには失礼ですが、ビーちゃんにしろ母親にしろ年老いてゆく必然的な姿への思いが伝わってきます。
群さんはご結婚もしていないようですし、お子さんもいない。そこに登場するのが飼い猫の「しいちゃん」。人間でいえば青春まっさかりでしょうか?ここにどことなく母親の心情を思い起こすような群れさんがいます。50歳という年齢はこういう年齢です。年老いた母親がいて、今自分も50歳。しいちゃんは青春真っ盛り。その中で群さんは、50歳という年齢を考え実感するのでしょう。「体型崩壊」。。。ううう(笑)虫歯を治して一生自分の歯で物を食いたいと思う群さん。
50歳になって人生を悟ったようでも相変わらず人と人との摩擦やトラブルは続いていく。
老化とは何かと思うと同時に、今の50歳をどのように見つめてどのように生きるか。でも、そうは深刻でもないというのが50歳という初老の群さんの心情でしょう。
周りには相変わらず楽しい人たちがいていろいろな出来事が起きる。
「いくつになっても、人間、いろいろな経験ができるものですなあ」
と。
年齢による変化はあるものの、世の中や世間は動いているのであり、相変わらず平凡に今ある自分も生きている。
結局はこうして一生を終わっていくのでしょう。。。。
「ぢぞうはみんな知っている」という題名は、表題作名かと思ったのですが、エッセイ中には同題の作品はありませんでした。目をつぶってじっと立っているお地蔵さんですが、人の一生を静かに見守っているのでしょうね。少しにこっとしながら。。。。
いろいろと悲しいこともありますし、喜怒哀楽は仕方がないもの。群さんもお地蔵さんと同じように人の人生をにこっと楽しく見つめているのではないでしょうか?

                  2007年2月13日 記

                              夕螺









夜かかる虹
                      講談社文庫
              角田 光代  著
1998年「夜かかる虹」と「草の巣」の2編を「草の巣」として講談社から出版され、文庫化にあたって「夜かかる虹」と改題されて出版されました(文庫版最後のページより)。
角田さんの作品に「幸福な遊戯」という短編集がある。
表題作「幸福な遊戯」では、実の家族を嫌う主人公が、男二人とひとつの部屋で暮らす。それは男女関係というものを抜きにし、それぞれがお互いを束縛せずに暮らすというひとつの人のつながりの中の幸福さである。自由さといってもよいのかもしれない。主人公は家族というものを嫌うが、人のぬくもりのようなものを求めているのだろう。
家族から逃げるように人とのぬくもりを求めていくことは、成人になったときに巣立ちをしていく若者にとっては自然な成長過程にあるはずだが、角田さんの作品に表れる若者は、家族関係から逃げるようなそんな心が見えている。これが巣立ちをしていく過程の心の葛藤(家族とはいたいが自分の世界も作りたい)というもの以上の強さのある心の動きである。
角田さんの作品の主題には、この「家族とは」というものを追い求めるものがあるのではないか。
「夜かかる虹」「草の巣」もこの家族あるいは家庭というものに向き合うあるいはそこから逃げる若者を表現している。
若い人が家族から巣立ちをするときには、自分自身で食べていくという必要最低限の条件が必要で、その条件を満たしたときに巣立ちといえる。もちろん食べていけるという堅実なものを求めるのではなく、束縛もされない自由を求めることもまた巣立ちである。しかしこの巣立ちというものが、ただ家族から逃げるというだけなら、そこには経済的にも心の成長にも裏づけられないただ漂うような生活が待つばかりでありそこに不幸があるだろう。「幸福な遊戯」の中に収められている「無愁天使」という短編にみるような家族の崩壊という不幸もあるだろう。そこに逃げるというやるせないものも出てくる。角田さんの作品の根っこには何があるのかはわからないが、家庭というものに苦しいほどに向き合う作家を見ることができるのではないか。
また、巣立ちという場合には、家族関係もそのままに素直に残り意識できる。しかし逃げるという場合には、消せない家族関係の思い出や現実に残存する家族の血からも常に逃げなくてはならない。
角田さんの「夜かかる虹」「草の巣」という二つの作品に表れる主人公の姿は暗闇に落ちていく。
「夜かかる虹」には、フキコ、リカコという3歳違いの姉妹が出てくる。もちろん同じ両親を持ち、同じ家庭の中に育った。
しかしこの姉妹二人からみた家庭や家族自体は同じものなのだろうが、しまいそれぞれにおいて違うもののように写るのかもしれない。
姉と妹、兄と弟。。。。。
血がつながり幼い頃から一緒に育ったとはいえその性格は違ってくる。
親というのはどちらにも同じ愛情を注いでいるようだが、「この洋服、お姉ちゃんには小さくなったからあなたが着てね」とか、逆に喧嘩でもしようものなら「あなたはおねえちゃんでしょ!」と、その違いはあるもので、子にしてみればこの違いを複雑に受け止める。周りの大人も、同じものをお下がりとしてきていても姉が着ていたときよりも「可愛いわね♪」と妹の可愛さを言うこともあり、日常においての姉妹の心に及ぼすものは大きいのかもしれない。フキコはリカコに嫉妬したようにじめる。リカコはフキコの持つものをほしがり、それがまたフキコにとっては「取られた」という意識を生む。この確執を成人した今も持っていたとするなら。。。。
ここでは姉妹としてだが、一つの家庭というものを描いている。
リカコは小さな頃の思い出をフキコに話す。二人で小さな赤い傘を広げて立てかけて「おうち」を作ったこと。。。その狭い空間には幼い姉妹がいるわけで、結局はいろいろな確執があるにしても家族というものからは離れられないのである。
「草の巣」は、ある日、主人公の「私」が同棲する仲野のために大家に支払う家賃7万円を持ち、ビーフストロガノフを作るための買い物に出るが、バイト先の飲み屋で知り合った不気味な男村田の車に乗り付いて行ってしまうことから始まる。
村田は、家を作っているという。しかし付いていってみると、山の中にごみ同然に捨てられている壊れた家具が野原に置いてあるばかりの家だった。村田は町の中で廃屋となった家から家具を取ってきてはそこに並べる。草の巣。。。。家。
廃屋は、家具がそのまま朽ち果てるように残る。しかしその家具一つ一つにはそこに住んでいたであろう人々の生活のにおいがする。主人子も村田と一緒にその廃屋に入りその家具を見ることにより自分の家族を思い出す。村田は甥っ子の写真を大切に持つ。草の巣に持ち運ばれる家具に人のあるいは家庭のぬくもりを感じ、甥っ子のしてもその小さな子にやはり家庭のぬくもりを感じていたのか。主人公は、家庭の中にあった家具一つひとつを思い出すが、そこにはいつもテレビなどを解体して壊してしまう父親の姿があった。家自体も家具一つひとつも家族という人々を集めさせるために存在する。それを壊してしまう父親は主人公にとっては崩壊の象徴なのかもしれない。そして廃屋は何かしらの理由によるひとつの家族の崩壊を物語っている。
村田の仕事先で知り合った若い男に「あんたは男から逃げているんでしょ?」と的外れなことを言われるが、「逃げている」という言葉を引きずる。男から逃げているというのはまったくの的外れにしろ、主人公は何から逃げているのかを考える。
やはりそれは家族あるいは家庭ではないだろうか?
しかし、人は人とのかかわりの中で、家族あるいは家族のようなものを持つというのも自然であり、村田といるときでさえ、主人公はビーフストロガノフの材料のメモと家賃のための7万円を引きずるのである。村田の草の巣で、二人は缶詰の缶を開けて食べる。主人公は考える。。。。橋の下でも家具があるなら家族というものは集まるのだろう。。。。
今、このままどこへも行ける。
地図でぱっと探したところにも住めればいい。車のガソリンがなくなったときにそこに住めばいい。。。。
自由はそこにある。
しかしこの自由は、何もかも捨ててしまったときにあるのであり、物などに執着したときに自由は消えうせる。
自由な女。。。。
村田は自由だろうか?
主人公はその男に何を見るのか?
自由は孤独。自由は平凡。。。。。
草の巣にすめるようになったらそこから仕事へ行くと村田は言う。
しかし。。。
「ある日行かなくなる。だれも気づかない。おれはいなくなる。ど、どこにもいなくなる。」
と。
この言葉は、主人公にとっては怖い言葉なのだろう。
やはり人はどこに逃げても家庭にこだわらざるを得ずに、最後はその中で朽ち果てていくという怖さ。
主人公の心は揺れ動く。そこに心の解決はない。
逃げたい。。。。でも、村田に追いかけてもらいたい。。。。
主人公はどこに行こうとしているのか?それは主人公にもわからないのであり、この暗闇に落ちた主人公に読者の心も暗闇に入り込むだろう。
しかし、この個人と家族あるいは家庭というものは誰でもが背負うものであり、主人公が特別ではない。特に若い人たちが心に持つ心の成長過程にある不安のひとつであることは間違いないだろう。

                     2007年2月20日 記

                            夕螺










ひとり日和
             「文藝春秋」2007年3月特別号
               青山 七恵  著
人は、今を生きる。
もちろんこれまで生きてきた時間の蓄積の中に生きるし、残された未来に思いを馳せながら未来に向かって生きる。
しかし現実は今という時間である。
未来は今という時間に現れ、今という時間は過去となって流れ去る。
まるでネオンサインのように時間の流れの中に今という時間を見る。今という一瞬の時間。。。
吟子は、知寿より50年長く今という時間を通り過ぎて生きてきた。未来に残された時間はそうは長くない。知寿は、まだ20年という時間しか通り過ぎたに過ぎなく、吟子のようにこれから50年という未来の時間を生きる。祖母と孫という年齢の違いの二人の「女」の同居は、のほほんとした時間の流れの今という時間を共有していく。
知寿にとって吟子は遠い親戚にあたるが血のつながりはない。吟子が生きてきた時間の流れにたまたま知寿との縁が生まれる。縁は今という時間を共有させる。
知寿は、母親との二人の生活だったが、母親が仕事で中国に行くというので吟子さんのところに預けられるような形になったが、これもまた母親と吟子との過去の縁からである。この縁につながれて遠い中国で生活するとはいえやはり母親も今という時間を知寿や吟子と共有している。
吟子は、「ほうすけさん」と恋をしている。母は、中国に恋人ができたという。もちろん吟子も藤田君と恋をする。親子三代というわけでもないが、世代それぞれの恋がある。そこに世代それぞれの「女」がいるわけである。
人と人とのそれぞれの縁のつながりはあるが、それぞれは「女」としては一人である。先に読んだ川上弘美さんの「真鶴」では、ちょうど知寿の母親の世代の「女」を描くが、「ひとり日和」は、「真鶴」での「百」の世代から「女」を描く。この視点から読んでも面白いものがある。
知寿は、知寿に隠れて知寿の化粧水を使っている吟子を見る。母親が一時帰国をして知寿と会っているときには剥げかけたマニュキアをそのままにすごすが、恋人のいる中国に帰るときにはそのマニュキあがきれいに塗りなおされていることを見る。そんな吟子や母親を見て、知寿はどんよりと冷めた目で「女」を見る。知寿は、いろいろ縁あってつながってはいるがそんな吟子や母親を一人の女として見たとき、自分は一人で生きていることを思い知らされる。ここに知寿の「ひとり日和」があるのである。
知寿の恋は、どうもうまく行かない。
知寿は吟子や母の恋に嫉妬すらする。
自分は恋をしているがその恋は本当の気持ちだろうか?そもそも恋をしているのだろうかと自問すらする。
どうも成り行きに任せて時の過ぎ去ることを待っているというような日和見のような恋ではないか。。。。
ここに自分の恋の自信が揺らぎ、吟子や母の恋に嫉妬をする。
失恋をした知寿は吟子に訊く。
私は少し変わったかな?と。
吟子は答える。
たった半年だけじゃ変わるものではないよと。。。。
知寿は失恋で女を磨いたように感じたのか?20年でもその時間は知寿を子供から少女へ、少女から大人へと目に見えるように大きく変化させてきたし、その時々の思い出とともに思い出の品を小さな箱に溜め込んでいたが、しかし一旦大人になってしまえば大きな変化は短時間の中にはない。自分が本当の大人の女となるために時間の過ぎ去ることを望む。しかし現実は、成り行きに任せざるを得ないし時間が過ぎ去ることを待っているようなものである。たくさんの時間を未来に持つ知寿だが、その時間をもてあましている。
この作品は、のほほんとした風景とそのゆったりとした時間の流れの中に、その対照的な知寿のあせりのようなものを描くき、それ自体が若い女性の心の中であることを描く。これは恋だけではなく、今という瞬間の時間の中に若い人が誰でも持つアンニュイのような心定まらないものと、気の遠くなるような時間の流れとしての未来に向けての自分が定まらない焦りを良く描いているのではないか。
恋人の藤田君は、吟子の家に来ているうちに「この家にくると老け込んでしまう」というようなことを言うが、知寿は、この家を愛することに気づく。のほほんとした風景とゆったりとした時間の流れを。このとき知寿の心は藤田君という若いだけの男から離れる。このとき初めて知寿はひとつ女を磨いたのである。知寿と言う若い女性が大人として成長するということに気づきそれに向かってゆったりとした時間をすごそうと思ったときの変化が読者を感動させるのでしょう。
この変化は、自分を見つめる知寿の心にあるわけですが、そこには吟子や母親、ほうすけさんという縁があるわけで、吟子の家があるわけです。
知寿は吟子さんに自分の若さを見せ付けたり意地悪をするが、吟子は動じない。
若い頃は、社会に反発をし、それは身近な人としては親や祖父母という世代への反発だが、自分がその中で生きている現実と、いろいろ縁あって人との交わりの中に生きていることに気づいたとき、反発をしていた人々を一人の人間、「女」と見ることができる。
作品の冒頭
「あの人、もうすぐ死にそう。来週にでも。」
というショッキングな言葉が出てくる。
吟子ばあちゃんがいつか遠くない時期に死ぬだろうというのは事実である。
しかしこの知寿の言葉は、知寿が始めて吟子の家に来たときの心の中と、巣立ちをするように吟子の家を出るときの知寿の心の中とでは違うだろう。同じ事実を見つめる心に変化があり、その変化がこの作品の主題ではないだろうか?

                   2007年2月27日 記

                            夕螺


<選評を読む>2007年2月28日 記
「ひとり日和」は、「文芸春秋で読んだが、選考委員の選評が載せられている。
この選評を読み感じたこと。。。。

淡々とのほほんと流れていく時間の中に知寿の心の変化を見るという面では、その表現方法に文章として直接的に知寿の心を説明することではなく、行間を読ませるいうのか、文芸作品としてのうまさが評価されている。それは、吟子の家の庭から見える駅の風景にひとつの絵画的なイメージを読者に与え、その風景が知寿をのほほんとした時間の流れの中に置くが、外界との接点を見せている。
もっと退屈をさせない刺激的なものが必要というものもあるかと思いますが、僕としてはこういう表現方法は好きです。
多くの選考委員の意見に共通しているものの中に、20歳の若い知寿の倦怠感というようなものと外界へ巣立つ危うさというようなものを書いていると思うのですが、この倦怠的とも見えるものがどこから来ているのかということを読者は考えるでしょう。
よく、平和ボケだとか、裕福さへの慣れだとかいう言葉を聞きますが、たしかに、今の日本の平和な生活や裕福さを自然にあるものだと思い込むようなボケはあるものの、そうは裕福ではなかった時代から若者特有の倦怠感というものはあり、むしろ自分の心の中と、実際の社会という外界とのギャップの中においての倦怠感があるのかもしれない。こういうものは若者特有のいつの時代にもあるものではないか?
本来、社会が発展していけば平和な生活と豊かさが増していくはずだが、それが平和ボケだとかいう人を倦怠的にしていくというならどこに社会の発展を見るだろう?平和で豊かになっていくなら、それに見合った外界を作らなければならない。平和で豊かといわれても、ふたを開ければ奴隷のように働かなければならない現実と、その一方での失業があるわけで、このようなギャップ自体が人の心を倦怠的にする。
外界に向き合った若い人が自分を生かせるような生活全般を平和で豊かに過ごせる外界の形が必要になってくる。










ウェブ進化論
                       ちくま新書
              梅田 望夫  著
3月11日朝日新聞朝刊8面に「試されるグーグルの企業論理」と題して、7日付イギリスの新聞社説が紹介されていた。
図書館の本を「やめるよう出版社から申し出のない限り、著作権のある書籍の閲覧ができてしまう。」
「世界の情報が検索できるのは公共の利益であるとの主張は的外れだ。」

この人間の頭脳と手によって作られた物と、あらゆる物を検索できるウェブというものの摩擦というものは、「ウェブ進化論」においてもひとつの論点として書かれていたと思う。
この論点は、何も著作ができるような人たちだけとのものではなく、こうしてホームページやブログという形で日々更新している名もないような一般の人々のものでもある。
電話線でつながっている「ネット世界」と「リアル世界」は、いまや切り離せない関係を築く一方それは「ネット世界」が「リアル世界」へ目に見える形として現れる中での摩擦ともなってきているということだと思う。
では、なぜ「ネット世界」が今のように「リアル世界」への影響を大きくしてきたかといえば、梅田さんは、「三大潮流」あるいは「三大法則」として説明する。
僕がはじめてパソコンというものを持ったのは25年ぐらい前のこと。
電気店で買い家に持ってきてセットアップし、電源を入れて唖然とし呆然とした。。。。
モニタ画面に映ったのは、真っ暗な世界に左上に点滅するバーだけ。
何をしたらいいの?
僕にとってはまさに「ただの箱」だった。そんな「ただの箱」をその当時としても20数万円で買ってしまったのだ。しばらくは点滅するバーを冷や汗をたらしながら眺めていた。
そのうちにコンピューター言語というものを解説書から覚え、頭の中でやりたいことをこの言語に翻訳しなければならないことを知った。
ベーシック言語といったかな?なんとなく中学で習ったような英語が出てきた。機械語などというのはちんぷんかんぷん。
どうにかこのベーシックを使い画面に映し出せたのは、カタカナで書かれた自分の名前。。。。
漢字にしようとしたら、コード表から探せと。。。。
記念すべきカタカナの名前文字を記憶させようと思ったら、外部記憶装置などは付いていない。カセットテープに「ガーガー。。。ピーピー」とプログラムを録音。
その後、丸と線で書いた人を左から右へ歩かせたり、それを使った簡単なゲームを作ったりした。そのプログラムをプリントアウトして眺めたときは涙が出てきた。
たしかゲームソフトは、カセットテープで売られていたと思う。通信が受話器をカプラーに入れて。。。。
何もここで昔話をしたいのではなく、この25年前のパソコンと今こうして使っているパソコンの比較そのものが「三大潮流」であり、「三大法則」なのではないかと思うのである。
パソコンという箱自体、25年前と価格は同じだがその性能は格段の差がある。ウインドウズをはじめワープロ機能などさまざまな基本のソフトが入っており、いちいち自分でプログラミングする必要もない。価格が同じであるがより発達したパソコンは、相対的な価格の下落であり、さらに新たな機能を付け足さないと価格の下落を起こす。
ガーガーピーピーと、電話線に音声を乗せて行われた「通信」は、今ではインターネットとして僕たちのもっとも身近なものとなった。また、ホームページやブログといったものを無料で簡単に作れる。
ソフト開発においてのオープンソースというものはリアル世界にいる僕としてはわかりずらいが、百科事典を誰でもが書き込みできるように作り上げていくというウィキペディアになんとなく理解できる。
このようなパソコン自体の低価格化、インターネット、このインターネットを通じたオープンソースの考え方に、より多くの人々がパソコンを身近なものにし、インターネットにおいての「総表現社会」というものを作り出した。コンピューターと新たな通信(コミュニケーション手段)というものをより大衆化した形が作り出された。
この大衆化というものは必然的にビジネスの対象となる。
はじめはソフトの販売とか、ホームページや掲示板といったコミュニケーション手段の提供というサービスというものであったが、今はもうひとつのビジネスであるコマーシャルや情報収集としてのビジネスとして発展している。いまやラジオや雑誌の広告収入を上回っているとも言われる。このような意味でのビジネスを発展させるのに貢献したのがグーグルを筆頭にした検索サイトであり、今ではテレビコマーシャルの最後に検索ワードが出てくる。
また総表現社会という面では、情報と知識の集積が行われ、普通に生活している中での必要な知識や情報を同じ高さの目線で交換され、優れた個人はプロとアマチュアの線をあいまいにする。もちろんその中にもプロはいるわけだが、検索サイトはそのプロの知的財産までを共有化することを要求するようになってきている。そして総表現社会の情報はビジネスとしても無視できないものになってきている。
「三大潮流」「三大法則」というのは以上のようなものかと雑駁に理解したが、このような中でのネット社会の発展は、この本の副題にもあるように、「本当の大変化はこれから始まる」のであるのかもしれない。
この本では、これからの発展において、ネット世界とリアル世界の軋轢が大きな問題であると提起をしているのではないか?
この軋轢を見るのには、テレビコマーシャルとネット上のコマーシャルを比較するとよくわかるのではないか。テレビを見るのもネットを使うのも極小額の代金で観たり利用したりできる。なぜならコマーシャルでの利益を充当するから。しかし、同じコマーシャル料を得るにもテレビ局は多くの人の手を必要とし、設備も膨大なものとなるが、ネットではそれをある意味知的生産物から得ることができる。ネット世界とリアル世界とではコストがまったく桁外れの差があるのである。それはネット世界の莫大な利潤率として現れ、ネット世界の知的生産物が、リアル社会の人の手で作られたものを支配し始める。
生産企業は、その製品をより大量に売らなければいまや利潤を上げられなくなってきている。その意味ではネット世界への依存比率は高くなる。ネット世界の大衆化と情報発信性に依拠せざるを得なくなる。
一方では、ネット世界は知的生産物だけであり、リアル社会の人のてで作られた「物」や本屋テレビ番組映画などなどのリアル社会で生産されるものを直接には作り出せない。個人のブログやホームページにある情報をその個人が持つ「より多くの人に読んでもらいたい」という意識だけに依存せざるをえない。
ある意味ネット世界とリアル社会は、持ちつ持たれつあるいは不特定多数の大衆をひとつの勢力とすれば、IT企業と生産企業と大衆とは三竦み状態とも言える。
お互いに依存しあうまでにネット世界が発展したのであるが、その発展にリアル社会が追いついていけなくなってきているのだろう。あるいはネット世界を社会的にどのように活用してリアル世界である社会全体をどのように発展させるのかが模索され、現象面では軋轢として現れているのだろう。
しかし発展というものは、この軋轢という矛盾から生まれる。
この本の優れたところは、発展のための今現在の矛盾をはっきりさせたところにあるのである。
残念ながら、この本からはこの解決のための具体的な方策は書かれていない。その解決を次世代の若者に委ねておりその育成に関心を向けているだけである。
先に、不特定多数の大衆をひとつの勢力とすれば、IT企業と生産企業と大衆とは三竦み状態とも言えると書いたが、キーワードは、「不特定多数無限大への信頼」だろう。これがリアル社会にも求められるようになっている。リアル社会の矛盾が拡大し、格差社会や国家間の格差の拡大が進み競争社会が生む矛盾は無視ができなくなってきている。
ビジネスの拡大は、より少ない人を使ってより安い製品を作りより多くの製品を売ることを求め、ここに過労死するほどの労働があり一方には失業が生じ、生産と消費のバランスが崩れてきている。リアル社会もすでにどのように人々の生活の安定化を作るかを求められており、不特定多数の無限大の力を無視できなくなってきている。リアル社会のあり方自体にも大変化は求められている。その意味ではネット世界はリアル社会より進みリアル社会への変化を求めるように発展していくのかもしれない。
リアル社会においても不特定多数の無限の力を閉じ込めたり無駄にするのではなく解放するような大きな変化は、今ある矛盾を解決しようとする発展した形として社会を作っていくだろう。このリアル世界自身の変化とネット世界の発展はリンクせざるを得ないものかもしれない。

                2007年3月20日 記

                          夕螺









家守綺譚
                                新潮文庫
               梨木 香歩  著
美しいファンタジーの世界。。。
梨木さんの作品は何冊か読んできましたが、この美しいファンタジーの世界にぐっと吸い込まれていきます。同時にこのファンタジーの世界の中に梨木さんの思想というものが現れており、ただ美しい世界を描くというものに終わらない魅力を感じます。
女性作家を多く読んでいますが、その作品の中には不思議な世界を描くものがありますが、それらの作品とは違う梨木さんの不思議な世界は、やはりファンタジーというひとつのジャンルとしてみなくてはいけないのかと思います。ただ、ファンタジーといっても現実世界からまったくはなれたところの架空の世界を描くというのではなく、現実の世界に大きく関わりながらそこにファンタジーの世界を用いるという面では純文学にも通じる面があり、幅広い読者をひきつけるのだろうと思います。
梨木さんの作品の特徴は、日本という国の文化や自然を美しく表現され、その日本という独特な国に西洋人が溶け込んできたりかかわりを持ってきます。また西アジアという世界もひとつの特徴でしょう。
日本から見れば異文化としての西洋や西アジア、その日本と関わる西洋人や西アジアはまた異文化であるはずです。そして西洋と西アジアもまた異文化の世界です。それぞれの文化は長い歴史の中にあり、時には争い時には溶け込みあいながらそれがまた新しい文化を築いてきました。これは、人類すべての文化の歴史ではないでしょうか?そしてこれは人類が発展してきた歴史の中では避けられなかったものです。自国の文化や自然を最も愛することはもちろんですが、異文化をも吸収していかざるを得なく、それがなければ発展はありえないという拒否と受け入れるという歴史でもあります。
しかし不幸なことにこの文化の交流や融合は、戦争という形を取ってきました。それの思想的背景には宗教が介在し、根本的には経済的拡張がありました。これは国家主義的な国民意識を生み、不幸は繰り返されます。異文化の交流は、争いと和の二面性を持って進んできます。宗教・国家の二面性といってもよいでしょう。
梨木さんのエッセイに「春になったら苺を摘みに」という作品がありますが、イラク戦争の中にあるテロと戦争というテーマに対し、キリスト教国家であるアメリカやイギリスの戦争であり、イラクにとってはそのキリスト教に対する戦いという宗教的背景も持ちます。この戦争に反対をする勢力がまた同じキリスト教にあり、そのキリスト教信者の生活と梨木さんとの交流といってもよい作品です。読後感としては、そこに梨木さんは立ち尽くすように見えます。
イラク戦争が解決をしたら、苺を摘みに行きましょうという言葉が印象的です。
梨木さんのファンタジーの中にある世界というのは、以上なような意味での異文化同士の現実の中にある梨木さんご自身の葛藤ではないかと思います。
もちろんこの視点は、さまざまな知識人により考えられてきた問題です。中でも明治維新という急激な西洋文化との接点による日本人を見たのは、夏目漱石ではないかと思います。梨木さんの作品を理解するうえで、この漱石の態度というのか思想というものからみることがひとつのヒントとなるかもしれません。
漱石は、俳句を愛し、漢詩を愛し、日本画を愛する。しかし学者としての漱石は英文学を専門とする。漱石個人の中にもこの東洋と西洋の異文化が同時に存在をし、それはまた明治維新という漱石が生きる日本の社会の姿に現れているものである。「こころ」の主人公「先生」の言葉に漱石の心が表れている。20代の頃、親友正岡子規は血気盛んに日清戦争の従軍記者となるがその子規と漱石そして日露戦争など、さまざまな視点から見る漱石の思想家として優れた面がある。この辺のものは岩波文庫「漱石文明論集」が参考になると想います。
漱石は、日本の急激な西洋化に嫌悪感を持ち日本の文化を愛する。しかしそれは西洋文化の否定ではなく合理的な融和である。そして日本人であると同時に日本と中国や朝鮮半島の文化の交流を思い、イギリス留学中、「おまえは中国人か」と訊かれる日本人が反感を持つことに対して漱石は、いろいろな文化を日本に伝えた中国人と思われることになぜ反感を持つのかというように日本人自身に対して批判的である。
古代から外国の文化をあらゆる形で受け入れて来た日本、そして明治の開国には本格的に西洋文化を受け入れて来た日本。アジアで唯一と言ってもよいと思うが西洋の植民地とならなかった日本人の英知。しかし同時に日本人の思い上がりという矛盾も存在をしたであろうし、急激な変化の中にも矛盾が存在したでしょう。それは個人の中にもあり、思想的な個人の人間と言う意識からも社会との接点が問題となる。西洋思想からの影響として漱石の「個人主義」もまた一つの思想の中では重要です。
梨木さんの作品は、漱石の時代からひとつの流れとして続く日本人を見つめることの中にあり、日本人と日本の文化・自然に対しての西洋や西アジアの人々そしてその文化・自然との違いは違いと認めつつ、西洋の文化を否定をするのではなく合理的な融和を見ることにあるのではないかと思います。その中でまた日本人を見つめるのかもしれません。
前置きが長くなりましたが「家守綺譚」は、日本の自然を美しく描く。時代は明治末の頃。所は京都の北かそこに接する滋賀県あたりだろう。大学を卒業して売れない文を書いている綿貫征四郎は亡き友人高堂の実家の家守として引っ越してくる。金のない征四郎にとっては渡りに船のようなものである。庭にはきれいな花をつける百日紅があり、そのほかの木々も美しくたたずむ。池には琵琶湖からの疎水が流れ込み、鯉などを飼うまでもなく自然の魚たちが泳ぐ。釣り糸を垂れる征四郎は気楽である。隣のおかみさんは時々食事を持ってきてくれそれもまた気楽である。守る家は山々にか困れその美しい自然は写り行く。ただ厄介なのは、百日紅の精に恋をされたり、狐や狸に化かされたり、池には河童まで現れるとそうはのんびりとはしていられない。その上死んだはずの親友高堂が掛け軸から時々現れる。どこからか知らぬが迷い込んだ犬ゴローは、どうも征四郎より賢そうでなにやらわからなぬ行動をする。
こんな中、征四郎と高堂共通の後輩にあたる出版社の山内が、征四郎に「早く高堂先輩の話を書いてください」と言う。なかなか書く気になれぬ征四郎は、ううう。。。んと、懐手をして相変わらずの生活である。
しかし季節は移り変わってゆく。
いつしか夏になり、山に龍田姫(秋の女神)の気配を感じ、冬になりまた佐保姫(春の女神)の春の季節へと。。。。
自然の移り変わりは、美しさの中にもそうはのほほんと進むものではない。征四郎の心をゆすぶるような自然の不思議や心変わりはあるものである。そして自然への人のかかわりは無視できなくなってくる。
ある日いつものごとく高堂が現れる。
鈴鹿山のセツブンソウが咲く前に、高堂家のある里の桜が咲きに咲いてしまったと。琵琶湖の女神?浅井姫(琵琶湖の竹生島伝説)も心配をしていると。
征四郎はその浅井姫を人の言葉で書いてみたいという。竹生島の近くだろう琵琶湖の湖底にある浅井姫に抱かれるような永遠の移り変わりのないと思われる世界を描きたいと思うと。。。
作品の冒頭、「左は、学士綿貫征四郎の著述せしものなり。」とあるように、こうして書かれたのがこの「家守綺譚」であると思う。
作品はその季節に咲く花々の名を持った章に分かれており、征四郎が遭遇するいろいろな不思議な世界を描くとともに日本の自然の美しさが描かれます。読者はその世界に吸い込まれるように読み進むと思いますし、それがこの作品のすばらしさです。しかし、それだけで終わらないのが上に書いたように作品上の主張がある梨木さんの作品の特徴でしょう。
征四郎は、琵琶湖の湖底に自ら行ってしまった高堂に言う。
「おまえは人の世を放擲(ほうてき)したのだ。」
高堂は答える。
「おまえは人の世の行く末を信じられるのか。」
人の世は発展をしていくだろう。その発展の中に征四郎が経験した自然とのふれあいはなくなっていくだろうということです。
また、ちょっと飛躍しますが、作品中にトルコに発掘調査をしに行っている村田という友人が出てき、その宗教を語る。この村田は、「村田エフェンディ滞土録」と言う作品の主人公で、amazonサイトの本の紹介と書評を参考にさせていただくと、その時代は第一次世界大戦中であり、人の世もそうはのほほんとした時代ではなかった。この意味でも高堂の「人の世の行く末を信じられるのか。」という言葉が重なってくる。
自然と人間そして人の作るこの世界。
今の現状から逃げて暮らすのか。。。
最終章「葡萄」では、征四郎は人の世から離れた湖底の世界へ行く。その世界の葡萄を食べれば永遠の平穏があるのだろう。しかし征四郎は人の世に変えるという。人の世である高堂家を守るのだと。
川上弘美さんの「センセイの鞄」に、「干潟ー夢」では幻想的な世界が広がります。センセイはこの世界を好み時々来るといいます。そして境の世界だといいます。現実の生きている世界と死の世界や無機質な世界の境かもしれない。そこでは、ツキコさんとセンセイは永遠に湧き出るカップ酒を飲み永遠の命があるのかもしれない。しかしツキコさんは、現実の世界に帰りたいという。高堂家もある意味人と自然の接する境界であると同時に、生きている世界と死の世界の境界なのかもしれない。生きている証は人の世を見つめることにある。
いま、「美しい日本」という言葉が流行っているが、この美しい日本を守ると言う意味について考えなければならない時代になっている。それは排他的であってはならないし、いまや自然と人との関係は国を超えた人類すべての過大なのである。

                 2007年4月4日 記

                         夕螺











号泣する準備はできていた
                             新潮文庫
               江國 香織  著
表題作の「号泣する準備はできていた」他12編からなる短編集です。
初版は、2004年ですが江國さん40歳のときの作品です。人は40歳の誕生日を過ぎて今日から40歳とはいっても昨日の自分と変わるところはないのですが、20歳、30歳、40歳と、やはり気持ちの中には区切りというものが生じるし、年齢を重ねるとともにその区切りの仕方での心の変化はあると思います。やはり20歳のときと40歳のときとでは大きな違いがあると思います。
女性作家の皆さんのエッセイを含めた作品を読んでいると、この区切りを意識したものを読むことができますが、ある意味、この作品も江國さんの心情が出ているのではないかと想います。もちろん小説ですから江國さんご自身のことを書いているわけではありませんが、いろいろな短編中に出てくる女性たちを通して江國さんの心の中が出ているのではないでしょうか?作品中の主人公は架空の女性ですが、もし同じ世代の女性が読めばその心情が伝わってくるし自分を見つめることにもつながると思います。
ボールを強く投げると、そのボールは放物線を描いて飛んでいく。
ボールがその放物線の一番高いところに行ったその瞬間、たぶんボールは無重力状態になるのではないかな?
人の人生にもこの放物線があるような気がする。
人生今は70年。35歳過ぎがこの放物線の一番上かな?
そのとき、心が瞬間無重力状態になるのかもしれない。空っぽというのではないけど、なんか過去と未来に向けた狭間としての心の位置。この心の中には、いろいろなものがあり、いろいろな女性のこの無重力な心を描いているよう。。。。
40歳は、この放物線の頂上を越えて少し下降するGを感じはじめます。
もう二度とその放物線という人生の頂上には帰れないというむないさ。言葉は悪いかもしれませんが「おばさん」化。過去の恋愛の思い出にそして自身の肉体の美しさの思い出に今を生きる。その思い出といっても老人が持つような遠い過去の思い出ではない。ほんの5年ほどのつい最近の自分の思い出なのです。そこにむなしさも切実さがある。
こう書くと、「私は精神的にもそんな年ではないわ。人生これからよ!」と怒られてしまうかも知れない。僕も40歳代というのはまだ若いと思うし人生これからだと思います。でも、だからこそその気持ちと現実の生活との間でもがくのかもしれません。そのもがく女性もまたこの作品中の女性なのです。男も女も同じですが、実際40歳ころになるとこれまでの人生の中で作ってきたものがある程度の線で結論が出てそのときのさまざまな生活が出来上がります。その中で100%幸せだという人間はいない。このままでよいのか、なぜ今の自分がここにいるの?と考えることもあるでしょう。
だから作品中の女性たちはもがくのです。
その中で作品中にあるようなある面から見れば「いやな女」、「疲れる女」の心が見えてくるのだと思います。
この作品中に出てくる女性たちは幸せを感じていない。あるいは自分は幸せなのだと自分に言い聞かせてもいる。
夫婦仲もよくはない。でも、決定的には離婚もしていない。
プライド?
夫や家族のために。。。。
夫の母親のために。。。
夫の実家のために。。。。
自分がいやな女にならないために。。。。
ちょっとした心の揺れが見事に描かれています。
孤高の人という言葉があるが、プライドというのは、自分自身の心の中を見つめるままに生きれば、それは本来のプライドとなる。ここに本来の孤独はないだろう。
しかし、自分の心をごまかしているならそのプライドからは孤独が生まれる。
ごまかしているにしてもうまくこの世を渡っていれば孤独ではないような気もするが、どこか心は落ち着かない。結局は孤独とは、自分を見つめる自分の心の中にあるのである。
しかし僕のような凡人は、孤高の人のようにはいかない。
この作品の中に出てくる女性たちもそうなのだろう。。。。
そこに読者は自分を見るのではないでしょうか?。
それぞれの短編に出てくる女性たちをどう見るのかとなると、いろいろな見方が出てくるのでは?
哀れのようにも見えるが、意地でも自分を捨てないとも見ることができるし、心の動きは複雑です。
それぞれの短編に登場した女性たちがどこに向かっていくのか。。。。
登場する女性たちが幸せな状態ではないとしても、最悪の状態を背負っているわけでもない。毎日の生活において、妻であり、嫁であり、もちろん一人の女性(人間)であるわけですが、この何気ない生活の中で揺れ動く心です。夫婦間や家庭内に大きな亀裂を生むような事件が起きているわけでもない中、まさに放物線の頂上においての無重力のような心がそこにあるのではないでしょうか?そこから下降していく一人の女性の心。

               2007年4月17日 記

                            夕螺










やさしい春を想う
                         幻冬舎文庫
               銀色 夏生  著
幻冬舎文庫からは、2001年発売の「へなちょこ探検隊(屋久島に行ってきました)」以来6年ぶりの新刊です。
今回の作品は、「ミルココ物語」、イラストと詩、「私の版画の世界」と、3つの夏生さんの世界が載せられています。
「ミルココ物語」は、小学生の女の子ミルク(ミル)とココア(ココ)の日常がイラストとともに描かれた物語です。イラストも多いのでどこか絵本のようにも感じる作品です。
ミルとココは、毎日仲良く遊びます。ミルとココにはたくさんの時間がある。未来にもたくさん、今日という一日にもたくさん。いつも次は?!次は?!と。。。。ミルとココは仲良くすごします。
子供の頃って、なんだか1日が24時間以上あったのかなぁ。。。。。
その有り余るような時間はゆっくりと流れ、時にはもてあまして「人間って、ひますぎる。人生って、ゆっくりすぎる。」(18ページより引用)と、もっとそのたくさんの時間を自由に開放的に使えるのではと思う。
それでも1日という時間はすぎていきます。
ミルには「ケチママ」と弟がいます。お父さんはいない?
ミルとケチママの会話は、「つれづれノート」シリーズファンならすぐに夏生さんと長女「かんちゃん」の関係を思い起こすのではないかと思いますし、やんちゃな弟は「サクちゃん」ですね。特に27ページからの「おてつだい」という章は楽しく読めます。
全体を通してストーリー性はないのですが、小学生の女の子の心を的確に表した作品だと思います。それはこれまでの子育ての中での娘さんとの会話の中に感じたものでしょうし、同時に夏生さんご自身の子供の頃の思いでも重なっているのだと思います。「人間って、ひますぎる。人生って、ゆっくりすぎる。」これは、夏生さん独特な表現です。
児童文学作家や絵本作家は、子供たちの心へ響くように子供の心を的確につかむのだと思いますが、その意味においても「ミルココ物語」は、一つひとつの短い章自体が独立した絵本のように子供の心を描いています。今でも子供の心を持った作家だと思います。
ミルは小学生ですが、娘さんはもうそろそろ高校生?夏生さんも子育ての中で時間をすごしてきました。時間は過ぎ去っていきます。
そこに今の夏生さんはいる。この今という瞬間から時間は未来へと向かう。
常に今という瞬間を思いながら。。。
先に「いつも次は?!次は?!と。。。。」と書きましたが、そのような子供のような好奇心や夢を持ち自由を追い求めて生きてこられたのも夏生さんですし、それは詩人(作家)という表現者としてはもちろんですが、私生活の上においてもいつも何かを追い求めているような生き方。それは、気持ちの中にある「人間って、ひますぎる。人生って、ゆっくりすぎる。」というものがあったのでしょうか?
そして夏生さんの今があります。それは44ページ以降のイラストや版画とともに書き添えられていく詩や短い言葉に表れていると思います。
62ページの「クルクル回るあなたの夢は。。。」という言葉は、リンクの形となりいつまでもその夢は回り続け消えてはまた回る。夢を追い続けてもきっと次の夢を求めて生きる。クルクルと回っている中に時間は流れる。55ページの「青い花」にも同じようなことを感じます。とらわれ人はここから出してという青い花を見つけに行くからと。でも青い花を見つけたとらわれ人は青い花に吸い込まれてある意味またとらわれ人となる。自由を追い求めることもクルクルと回るのでしょうか?
57ページの「フラクタルな形」というの示唆的です。
そこでもう一度「ミルココ物語」を読んでみると、ミルもココもお母さんにしかられたり恋をしたり、ご飯を食べておいしいお菓子を食べる。カレーがおいしいから4回もお替りをし、ホットケーキに喜ぶ。毎日楽しく遊んだり時には喧嘩をしたり。そこには日常があるわけです。その日常の中に子供たちは大人よりいろいろなものを発見したり心動かされるわけです。だから一日が24時間以上にも感じられるのだと思います。
ほんとは大人だって同じだよね。。。と。(92ページ「春」)
たくさんのお金を使って旅行をしたり家を建てたりいろいろな夢も大切。人と人との関係の中に自由を追い求めるのも大切。でも、日常にそれを見つけることができたなら。。。。
そんなものが、最後の表題作でもある「やさしい春を想う」という詩に見ることができるのではないでしょうか?
心の自由。。。
それは恋の詩にもありますね。
作品中には多くの恋の詩があります。
その詩は、大人の恋というのか、若い頃のような愛してるというような恋ではなくて心のつながりでしょうか。男女間の愛という面ではかなわない恋だけど、お互いの思いはつながっているという恋(67ページ)それは80ページの「ダーリン」にも現れています。そこには「現実」があります。。。
夏生さんが誰とというのではなく、心のつながりを見ているのだと思います。
でも、心は愛を求めますねぇ。
122ページの「実験」
ぐっと来ます。。。。
「もう無理して笑わなくてもいいんだろう」(126ページ「やさしい春を想う」後半)
心のつながりがあれば。。。。。
でも、心のつながりには必ず出口はある。。。。

                      2007年4月24日 記

                              夕螺










ばらとおむつ
                          角川文庫
                銀色 夏生  著
「脳梗塞になった母、しげちゃん。兄、せっせによる介護記録と、日常のあれこれ。
周りにいる風変わりな人たちや、子どもたちとの会話を織り込み、毎日はつるつる過ぎていきます。」

                       (裏表紙より引用)
14年間続いた日記エッセイ「つれづれノート」は、2005年の14巻「川のむこう」で終わります。
それから2年。。。。
「ばらとおむつ」によってつれづれノートが復活したというような内容だと思います。
「つれづれノートM」には、「買い溜めた100冊ほどの本を読むために『おこもり』」をするというようなことを書いていますし、お子さんたちもそれぞれに小学校や保育園を卒業するという時期でもあり、夏生さんの内面に何かしらの変化が現れている印象を受けました。「つれづれノートM」への感想に次のように書きました。
「この孤独の頂点が「おこもり」とも感じます。
この孤独の中から夏生さん自身がこれからの自分を見つめたとき、将来の子離れを意識し、出来上がった家と庭を考え、お金よりも大切なものを考え、健康と死を考え、あまり読まなかったジャンルの本を読み、考えます。
その中から、今この家に住み、家族がいて自然や田畑があり、流れていく時間の中に日常があることを確認していきます。人間関係は本物と言えるようなものは稀ではあるが、学校関係においては大切にし、人前で話しを上手くできたらと考えます。
ここに『自然体』の夏生さんを見る思いがあります。
『僕らはここでいつもお仕事
 ただ生きているっていうお仕事
 いろいろあるけど楽しいよ』
           (P、329詩「川のむこう」より一部引用)
今までの夏生さんは、心に浮かぶものを追い掛け回して生きていた部分があると思います。もちろんこれがあったからこそそれまでの銀色夏生でもありました。しかしこの心に浮かぶものを追い掛け回すことをやめて、日常に(ただ生きることに)楽しさを求めたとき、そこに自由が産まれるのではないかと思います。
自由を追求してきた夏生さん。。。。
ほんとの自由って?今それを考えている夏生さんがそこにいるのではないでしょうか?」

「ばらとおむつ」は、「つれづれノート」シリーズに比べると、夏生さんの身の回りにいる方の姿がよりリアルに表現されています。母親「しげちゃん」の写真が載せられたり、その母子関係のクールさとその中での親を思う夏生さんが出てきます。また、兄「せっせ」は、独身でもあり「しげちゃん」の介護を引き受けて兄弟に「ばらとおむつ」というメール通信を書きますが、そのメールの一部が「ばらとおむつ」にも載せられ、「せっせ」という方の人柄もよりリアルになっています。その中での夏生さんの兄弟関係も「つれづれノート」シリーズより実際の生活の上での関係が見えてきます。
娘さんの「かんちゃん」や息子さんの「さくちゃん」との関係は相変わらずですが、お子さんたちも成長をして「かんちゃん」ももう中学2年生、「さくちゃん」も小学2年生。やはりお子さんたちがより成長した中での親子関係も「つれづれノート」時代からは変わってきているのでしょう。たしかに「かんちゃん」とは喧嘩が絶えませんが、子供でもあり大人になりつつある「かんちゃん」との関係は、子供を育てるという関係だけではなくていろいろなことを話し合えるような関係になってきています。
親戚の方々との関係もよりはっきりした形で書かれています。
詩人銀色夏生といえども、親がいて兄弟がいてお子さんたちがいて周りの人達もいる。日常の生活がそこにあるわけで、上の感想文の抜書きにある
『僕らはここでいつもお仕事
 ただ生きているっていうお仕事
 いろいろあるけど楽しいよ』

という詩にある日常というものが「ばらとおむつ」では「つれづれノート」よりいっそうリアルに描かれていると思います。
お母さんの脳梗塞と兄「せっせ」によるその介護という重い日常がそこにあるのですが、この現実をそのままに受け止め母「しげちゃん」に向き合っていきます。また、長男「さくちゃん」の給食費袋冤罪事件では、学校の先生への対応への不信が書かれていますし、それはまた親子関係としての自分の対応の足りなさもあることを書いています。思春期にある長女「かんちゃん」とのぶつかりをそのままに書き、二人の叔父たちや叔母たちのこと。そしてその親戚と「しげちゃん」とのこと。
「つれづれノート」ではさらっと書かれていたものが「ばらとおむつ」では、読者にもよりわかりやすく伝わってきますし、その現実にある夏生さんの心の中も読み取ることが出来ます。
これらのことは、内容の違いはあるでしょうが、すべての家庭の中に何らかの形で存在する心悩ますものです。またお二人の元夫についても語っていますが、このような夫婦関係を含めても夏生さんの心を痛める過去があるわけです。でも、このような誰でもが持つ心悩ますものをどのようにとらえて生きているのかとなると、
『僕らはここでいつもお仕事
 ただ生きているっていうお仕事
 いろいろあるけど楽しいよ』

という詩にあるわけです。今を生きているこまごました出来事をこの詩にあるように「楽しいよ」と言い切る夏生さんがいるということを「ばらとおむつ」からも伝わってきます。
216ページに、「かんちゃん」がつれづれノートについて夏生さんに感想を言いますが、その答えている言葉の中に次のような言葉があります。
「ただし、ママの視点で書いてあるから、正確ではないけどね。つまり、本当のことを書いているけど、そこで起こったことのすべてじゃないから、それ以外のことも無数にあったんだから」
また初めのページの前書きのようなものの中では
「本文中に登場する人物に関しては、プライバシーを考慮して、詳細を変えております。」
ともあります。
僕の記憶違いでなければ、どこかに、「つれづれノート」もひとつの作品であるといったような言葉もあったような?(間違いだったらごめんなさい)でも、上の夏生さんの書かれた言葉からも「つれづれノート」や今回の「ばらとおむつ」もひとつの作品であり、書かれていることは日記という形において事実であるがその事実を夏生さんがどのようにとらえたか、心に何を感じたかを表現した点で作品であるということだと思います。
このように「ばらとおむつ」をひとつの作品として読者も読まなくてはいけないということだと思いますが、この作品で、何を夏生さんは読者に伝えたかったのでしょうか?
毎日の介護は「せっせ」が行っているわけですから夏生さんはそのお手伝い程度のように受け止められます。また、毎日夕食のおかずの御裾分けを持って「夕方の語らい」に実家に行きますが、何歳まで生きるの?と「しげちゃん」に聞いたりしますし、読み方によっては、倒れた親に対する子の態度という「常識」(心痛んで全身全霊で介護)から見たら、その夏生さんのクールさに読者は「むむ?」と感じるものがあるかもしれません。「かんちゃん」とのぶつかり合う親子関係からの夏生さんの言葉のきつさや、叔父たちへの見方。。。。。書かれている内容の中にもドキッとするものがあります。
この夏生さんのクールさに「つれづれノート」時代から反発した感想が出ていましたが、今回の「ばらとおむつ」でもやはりさまざまな感想が出そうですね。
でも、親の老化や介護という点で見れば、そして通常なら先に逝くという現実をそして人の死は自然をそのままに受け止めるなら避けられるものではないと客観視するならそこにはある程度の現実を受け止めるある種のクールさはあるものと思います。また、「つれづれノート」には、「しげちゃん」とのかかわりをたくさん描いていますし、温泉や旅行にも連れて行ったり、高齢になっていく様子を見つめています。どこのページか忘れたのですが、母娘との関係は十分にしてきたというようなことも書かれています。毎日「夕方の語らい」として「しげちゃん」と話をするそんな様子が思い描かれるような文章で、「しげちゃん」や「せっせ」との家族関係もうかがわれ、夏生さんのクールさは、「しげちゃん」や「せっせ」にもあり、母娘関係としては夏生さんと「かんちゃん」にもあり、ひとつの家族が持つ独特な関係を見ることができます。
ですから夏生さんの「つれづれノート」や今回の「ばらとおむつ」に描かれているものは、表現されているものは、こうした自然な関係をお互いに気を使うこともなくさらっとしたものになり、読者の誤解を恐れずに読者に対してもさらっとした形で表現をしているのではないでしょうか?
そしてそれは、「ばらとおむつ」を母「しげちゃん」の脳梗塞と介護を主題に描くわけですが、このような重い主題であっても、読者に与えるものはさらっとしたクールさで、突き詰めてみれば『いろいろあるけど楽しいよ』という人生観を読者に問うているのではないでしょうか?そしてその人生観は、銀色夏生家の人々共通のものかもしれません。「しげちゃん」も自由な人ですね。そして夏生さんも自由な人。その娘「かんちゃん」も「野生児」カンチ(笑)
「ばらとおむつ」は、日記形式のエッセイですから当然に「つれづれノート」と共通しています。そこで少しツッコミを入れれば、「ばらとおむつ」の中で、萩本欽一の率いる野球チームがメンバーの不祥事で自ら解散すると言っておきながら、ファンのやめないでという言葉に感動してすぐに解散を撤回をし、その解散劇をどこか計算づくのように思えることに夏生さんは批判をしていました。その点では、「つれづれノートM」では「つれづれノート」はおしまいにすると書いてあり、一年置いてからまた「ばらとおむつ」という形で日記エッセイが出版されたわけですから、この点でも読者の中には「あれ?」という戸惑いもあるかもしれません。僕のようなファンとしてはうれしさばかりでしたが。。。
この点については、「せっせ」の介護記録「ばらとおむつ」がメールという形で兄弟たちに配信されたことに誘発されたのかもしれません。はじめの方は、「せっせ」の介護記録ニュースとそこへの感想程度だけでしたが、5月20日から夏生さんの日記が始まります。また「かんちゃん」の「つれづれノート」の感想から「つれづれノート」の持つ意味もお考えになったのかもしれません。もちろんファンの落胆も?
このような意味でまた日記エッセイというかたちをまたかこうとしたのかな?
また、「ばらとおむつ」は、「しげちゃん」の介護記録というひとつのテーマがあったらこそのことで、その点ではシリーズ化された「つれづれノート」とは少し違ったものがあるのかもしれません。もう「つれづれ」はおしまいと思った夏生さんの気持ちは本当だったでしょうし、また「ばらとおむつ」を書いたのも自然だったのかもしれません。あとがきを読むと「珊瑚の島〜」に続きそうですが、毎年続くというような気負いもなくて他の詩やいろいろな本のひとつとして書き進められるのではないでしょうか?自然に・・・・
占い師ミラさんの占いのようにどこか冒険に行ってしまうかもしれないし、せっせやしげちゃんと南の島にいってしまうかも知れなし、恋もあるかな?でも。。。。
「こないだ来たときにあげたアメの袋のこと、せっせに怒られたよ」
「ホホホ。そうなのよ。見つかったら、また取り上げられると思って、かくしてたら、見つかってしまって」
「あれぐらいいいのにね〜。せっせもちょっと厳しいよね・・・・・」
「そうよね〜」
空を小さな鳥が、ピーッと鳴きながら飛んでいった。

            (最終ページより引用)
少し引用が長くてすみません。でも、この最後のページにある「夕方語らい」を読んでジ〜ンとしてしまいました。たぶん言語の障害が残る言葉で「しげちゃん」は語り、そんな母を見つめながら兄せっせの悪口を言う。。。。せっせはニコニコしながら聞いていたんじゃないかなぁ〜

                   2007年5月29日 記

                          夕螺









ぬるい眠り
                       新潮文庫
                     江國 香織  著
1989年から2003年までに、雑誌などに掲載された表題作の「ぬるい眠り」をはじめ9編を文庫化した作品です。
1989年といえば、江國さん25歳前後ですし、2003年といえば39歳。こう書いては失礼かもしれませんが、女性として一番美しく女ざかりといったような15年間の中のそれぞれの年齢のときに書かれた作品を集めたという点では興味のある文庫化ではないでしょうか?
もちろん意図的に体系的にまとめられたものではないとはしても、作品としては江國さんのそれぞれの年齢の中の心が映し出されているのではないかと思います。
はじめの短編「ラブ・ミー・テンダー」は、年老いた老夫婦の愛が描かれています。もう人生も終わりに近づいているであろう老夫婦の愛。次の作品「ぬるい眠り」は一挙に21歳の女子大生の生活や恋が描かれる。そのあとは、もう30歳になろうとした未婚の女性がおり(「放物線」)、お互いの駆け引きのような結婚生活があり(「とろとろ」「夜と妻と洗剤」)、昔のお互いのそれぞれの恋の思い出を大切にした今では同じ趣味に?生きる初老の夫婦があり(清水夫妻」)、最後はおばさん化した?「モンスターじみた三人の女たち」の姿が描かれる(奇妙な場所」)。
また、「ケイトウの赤、やなぎの緑」は、江國さんの代表作「きらきらひかる」のその後を描いていますが、「睦月」もすでに40歳となっている。ある作品のその後を書くということは、たとえば、登場人物の10年後を著者が2年後に書いたとしても、そこに過ぎ去った時間があり著者の心の立つ場所が違うわけで、そこにはやはり年齢を重ねた江國さんが表れているのだと思いますし、これもまた江國さん25歳から39歳までのある時期の心を表していることなのだと思います。
このようにこの短編集を読むことが出来るなら、文庫化にあたってのある意図を感じることが出来ないでしょうか?
同時に読者はこの人の人生の流れを感じ取れるのではないかと思います。
先に読んだ江國さんの「号泣する準備はできていた」の感想に、
『ボールを強く投げると、そのボールは放物線を描いて飛んでいく。
ボールがその放物線の一番高いところに行ったその瞬間、たぶんボールは無重力状態になるのではないかな?
人の人生にもこの放物線があるような気がする。
人生今は70年。35歳過ぎがこの放物線の一番上かな?
そのとき、心が瞬間無重力状態になるのかもしれない。空っぽというのではないけど、なんか過去と未来に向けた狭間としての心の位置。この心の中には、いろいろなものがあり、いろいろな女性のこの無重力な心を描いているよう。。。。
40歳は、この放物線の頂上を越えて少し下降するGを感じはじめます。
もう二度とその放物線という人生の頂上には帰れないというむないさ。言葉は悪いかもしれませんが「おばさん」化。過去の恋愛の思い出にそして自身の肉体の美しさの思い出に今を生きる。その思い出といっても老人が持つような遠い過去の思い出ではない。ほんの5年ほどのつい最近の自分の思い出なのです。そこにむなしさも切実さがある。』

と書きましたが、上にも書いたように、一人の江國さんという作家の時間の流れに沿った中でのその時々の短編からも同じ人生の放物線を見ることができるのではないでしょうか?
『号泣する準備はできていた』の感想を書き、しばらくしてこの「ぬるい眠り」を手にして偶然にも『放物線』という作品があり驚きました。
大学を卒業して5年。大学時代から友人として付き合ってきた男2人と女1人。気持ちだけは大学時代の若さを持っているが、社会人としてはひとつの落ち着き場所ができつつある。それは消して満足のいく場所ではないが、そこに落ち着き場所を作らねばならない年齢。大学時代は、まだ人生の放物線の頂点に向かって勢いのある年齢だったが、今の落ち着き場所その放物線のちょうど一番上になりつつあり、3人の心の中はある種の無重力状態に近づきある。
結婚生活を描いた「とろとろ」「夜と妻と洗剤」の主人公の女性は、場所としては落ちくものを持っているが、心は漂う。放物線のちょうど一番上にある無重力状態であるよう。これからどこへ落ちていくのか。。。。そんな不安。「清水夫妻」は熟年夫婦となったどっぷりと自分の場所に落ち着かなくてはならない。それが何かは。。。過去を思い出として大切にした放物線の上を見上げるような、同時に落ち行く先すなわち人間の死を見つめる年齢でもある。その視の荘厳さ見つめる。そして最後は、ある女性のおばさん化と老夫婦の最後の愛の落ち着き場所。。。。。
このように、「ぬるい眠り」という短編集は、人のそれぞれの生きる世代を描き、一生を見るようであり、それは40歳を過ぎた2007年という年の江國さんの心なのかもしれない。同時にこの作品を読むそれぞれの世代の読者自身への問いかけでもあるのではないか?
しかし、このように放物線を描く人の一生だが、その中に何を心の中のたしかなものとして持てばいいんだろ。
人生いろいろとはいうし、人の人生はそれぞれによって違う。またその中で心はその時々に揺れ動きこれを繰り返す中に一生は終わる。その中で何がたしかなものだろう?今どのようなものを求めたらいいんだろ?
「きらきらひかる」は、ひとつの恋愛の形を超えて、「睦月や笑子の純粋な「基本的な恋愛」を描く。この中に人を好きになったからという純粋という大切さがより強く強調されるのではないかと思う。」と感想に書いたように、「好きだから一緒にいる」というものを問いかけていると思うが、その後を描いた「ケイトウの赤、やなぎの緑」は、放物線の無重力な一番上にいるような心がゆらゆらと揺れる「朗」と「ちなみ」夫婦から見た睦月と笑子そして紺の姿である。睦月、笑子、紺は、その今いる場所を少し変えたようだが、その3人の関係は「好きだから一緒にいる」というものに変わりはない。「朗」と「ちなみ」にとっては少し変わった場所なのであるが、「ちなみ」にとっては永遠に理解できない場所であるのかもしれない。そんな「ちなみ」は、いつまでも心が揺れ動いている間に一生を終えるのだろう。
「ケイトウの赤、やなぎの緑」は、単に「きらきらひかる」の続編として、睦月・笑子・紺がどうなったんだろ?という興味だけから読むとそうは面白くないかもしれない。やはり、世間の常識から離れた人と人との愛(男女間の愛だけではない)、「好きだから。。。」という単純な思いを「朗」と「ちなみ」夫婦の間に見る夫婦関係と相対的に見る中にこの作品のよさが見え、「きらきらひかる」のその後を見ることができると思います。そしてそれは、「ぬるい眠り」という作品の中に感じる読者の救いでもあるかもしれません。

                2007年6月7日 記

                           夕螺







職場はなぜ壊れるのか
                           ちくま新書
              荒井 千暁  著
副題は「産業医から見た人間関係の病理」となっています。
僕の産業医へのイメージでは、産業医とはもちろん医者の立場で企業から金をもらっているわけですが、どうも企業サイドの視点で従業員の心身を診ているものと思っていました。この僕の産業医への見方というものは一面としては正しいとは思っているのですが、そのような産業医が、今の社会でその立場から従業員を守らざるを得なくなっているものに興味を持ちました。
そしてそれは、競争社会における成果主義的な賃金体系や労働環境を問題とせざるを得なく、このままでは従業員自身が壊れていき、それはまた企業自体の末端職場が壊れていくことにつながるという視点からの警鐘でしょう。
そして産業医という立場にもかかわらず、今の成果主義という当たり前になっているシステムにも立ち入って検証せざるを得ないことを訴えていると思います。

「現代の労働社会で起きている過労問題や心の病の問題で倒れる労働者の像は、ややもすると日常生活の支障が出るほど心に深いキズを負ってしまいかねない」
同時に
「成果主義がうまく稼動しないという計画倒れ、それによるコストパフォーマンスの悪さや終わりのない士気低下がモラルダウンを生み、悪環境から抜け出せないでいる。」
                 (以上「まえがき」より引用)
昔から「怪我と弁当は自分持ち」といわれてきましたが、働いている中での従業員の病気や怪我は、労働基準監督署に報告せざるを得ないもの意外は「お前が悪い」というような個人の責任になりやすいですし、ましてや精神的疾病の場合やそこからの自殺などは、なおさら個人の責任となりやすいものだったと思います。
最近では、長時間労働や時間外労働による自殺などが増えており、それは労働災害認定裁判の増加にもなってきています。すでにバブル時期から「過労死」というものが問題にもなり、それは「日本人は死ぬまで働くのか?!」という先進国からの目も「KAROUSHI」としてそのままに日本語が通用したと聞いています。その中で、労働災害として認定された場合は、企業イメージが大きくダウンしますし、企業もメンタルヘルスといった精神疾患に敏感となってきています。その中で、この著書のように、産業医も問題にせざるを得ないところまで矛盾が大きくなってきているのでしょう。また、このような精神疾患からの自殺というような新聞記事にならないまでも、今の状態が企業の生産性を落とすことにつながるならそれも企業にとっても深刻な問題となってきますし、この方が企業にダメージとなるでしょう。このような今の現状を基にしてこの著書の重みがあるのかもしれません。
本書ではさまざまな事例を紹介しながら今何が起きているのかを見ています。そしてそれは、人間関係にも支障を起こし、心には深いキズを刻んでいくことがかかれます。個人の労働者は心を病み、企業職場はぎすぎすしていく。これは成果主義という一見合理的に見えるシステムの中にその矛盾が出ているのでしょうが、もっと視野を広くしてみるならば、競争社会という市場に何でも任せればよいといったような新自由主義は、社会自体をも蝕む。
最近の新聞記事を読み思う。
「昔読んだ本の記憶に、19世紀のイギリスにおいて低賃金層の労働者は、安いパンしか食えないのだがそのパンには小麦粉に石灰だったか?を混ぜてあったそうである。
ニュースを見ていたら、中国からの輸入ピーマンに、基準値の3倍の農薬が残っていたという。急激な発展をする時期には、こういう食品も出回るのかもしれない。産業革命のイギリスや、今の中国も人事ではなくて、日本も経済の発展時期にはいろいろな食品添加物が問題になった。経済発展期特有というだけではないのであり、やはり今日のニュースでは、牛肉ではない牛肉コロッケの映像が出ていた。
経済の発展時期はより多くの儲けを独り占めしようと競争をし、経済が低迷したときは、儲けを取られまいと小さくなる一方のパイを取り合う。資本主義というのは貪欲である。
今話題のグッドウィルという派遣企業が、労働者の給与から不透明な天引きをしていたという。派遣制度自体というものに矛盾が出ている今に、違法性の高い天引き、天引きといえば聞こえはいいが、早い話が「ピンはね」である。資本主義は貪欲である。
この貪欲性が競争といわれる。競争といえば聞こえはいいが、早い話が一般庶民をどこまでだましどこまで生活を低下させることができるかどうかなのである。
これが資本主義の社会的システムの根本にあるものである。
もちろん、資本主義にも社会民主主義とか国民生活を重視する考え方もあり、昔の日本にもあった「福祉社会」という形にもあった。しかし、これは、新自由主義という野放しな資本主義を認めると、必然的に弱くなるものである。日本だけではないが、先進国の勤労国民の生活を低下させることでしか成り立たない今の資本主義ならば、ひとつのシステム上の破綻が自然に出てくるのではないかな?国民のためとか消費者のためとか、働く人のためとか言うものはコストを上げるからだめとなる。
この中で、競争が激化すればするほどそれは社会の発展につながらなくなり、資本主義の社会システム自体が自壊していくということ。この自壊自体はもちろん勤労国民をさらに貧困化させ、戦争で血を流さること。
今、夕方のニュースで、今朝のJRの停電事故についてやっていた。
運転手さんの責任らしい。でも、図解で出ていたが、あのような状態で電車を止めろといっても運転手さんは難しいだろうなぁ。。。(笑)システムの自壊過程で、「お前が悪い!」という弱いものいじめが増えてくるだろう。」   (日記より)
こんなことが1日の間に新聞やテレビから見えてくる。年金問題をはじめとした国家システムのずさんさもあり、毎日、毎日庶民をないがしろにした社会が見えてくる。というよりも社会システムの崩壊過程だろう。人はシステムを作る。しかしいつの間にかその人が作ったシステムが人を支配していく。一度出来上がるとそれを修正させる力は膨大なものとなる。なぜなら誤ったシステムでも甘い汁を吸える人間は居り、その人間が政治的にも経済的にも大きな力を持つことができるからである。これは、企業の一職場においても同じであり、本書で問題点としてあげられる矛盾もまた一度出来上がってしまうと修正はたいへんなのである。
だれでもが戦争はよくないと個人的には言うが、しかし集団真理となると戦争が肯定されていくのと同じように間違ったシステムだとはわかっていてもその流れには個人はある意味無力であり、その悪いシステムはそのままに流れていく。それが組織というものである。
負のスパイラルは続く。
「戦争をしなければ平和の意味はわからず、離縁や死別をしなければ家庭の暖かさがわからないように、倒れてみなければ健康のありがたみがわからない。(中略)残念だが、それは事実かもしれない。」(まえがきより引用)
しかし著者は、その解決策とは書かないが「予防」はできる可能性はあるという。ここからが本書の主題だろう。
しかし、同時にそれは成果主義の労働環境からもたらされる労働者の健康への影響は扱うが、成果主義そのものに対しての代替案を出す立場にはないという限界性を見る。
では産業医の立場として何が言えるのか?
できることは、精神疾患に対して病名をつけること。そしてその精神疾患が就労上に起因があるのかを見ること。そしてその上に立って成果主義の職場を少しでも「改善」すること。最後にここをしっかりやらないと企業そのものが危うくなるという視点で経営方針の改善を提言する。こういったことが結論ではないか?
この限界性は今の社会の法的なものを含めて仕方のないものであり、その限界性の中において労働者を擁護するというこの視点を見ることができる。
病名がはっきりし、それが就労に伴うものと産業医が提言できれば治療にも生かされるだろう。
このような先生が増えていってくれれば将来は明るいと思う。
しかし、このような先生と労働者との連携、特に労働組合があるならそことの連携がどうしても必要になってくるものである。
たしかに労働環境を作っているのは企業であることはたしかだが、それが劣悪なものであり労働者の健康に害を及ぼすのなら、労働組合の企業への介入はその責務である。
今もなお企業はリストラ景気対策の延長線上にある。利益を増やすにはコストを下げなければならない。そのコストは労働者の賃金にある。ここの労働者の賃金格差がどうであるかは関係はなく、総額が問題である。ほんんんお少数の労働者の高賃金を与えて夢を持たせるが、その他は低賃金のままにしたり、アルバイトや派遣というさらに低賃金者を置き賃金総額においては切り下げていくというのが企業である。それを成果主義という。自由な働き方とか、自立した働き方とか言うが、結局は労働時間を長くする仕組みであることに変わりはない。このような方策は、過去のいつの時代にも賃金制度として存在し、労働者間の競争をあおってきた。そこに歯止めをかけてきて一定の成果を守ってきたのは労働組合とその支持関係にある政党だった。今はそれがなくなった分、労働環境の劣悪さは増す一方なのであり、産業医ですら、その環境を指摘せざるを得ないようになってきたということだろう。

              2007年6月29日 記

                       夕螺








村田エフェンディ滞土録
                         角川文庫
               梨木 香歩  著
エフェンディとは、日本語で言えば「先生」である。
村田先生のトルコ滞在記。。。
「先生」とは、もちろん人々からの尊敬をこめた称号のようなものである。しかし「先生」という言葉の中には、たとえば、夏目漱石の「吾輩は猫である」にある教師クシャミ「先生」といったようなどこか太平の世に生息するのんきさを感じる意味合いもある。クシャミ先生を観察する猫はどうもクシャミ先生より賢そうである。哲学的である。鸚鵡(オウム)が「友よ」「いよいよ革命だ」とわめく。。。エフェンディ村田よりどうもこのオウムのほうが賢そうでもあり哲学的である。「家守綺譚」の綿貫征四郎より賢そうな飼い犬「ゴロウ」のように。
そんなエフェンディ村田の物語。
オスマントルコ帝国といえば、世界史で広大な領土を誇った世界地図をうっすらと思います。そんなオスマントルコは徐々に崩壊をしていく。この辺の歴史については、ウィキペディア「オスマン帝国」「青年トルコ人運動」同「革命」を読ませていただきました。そして参考にさせていただきました。
そんなトルコ(土耳古)に、村田は明治政府を通じて土耳古皇帝の招きで歴史文化研究のために滞在していた。218ページに、村田が帰国後7,8年たった年に「土耳古青年党完全勝利」(1908年の青年トルコ人革命か)との記載があることから、村田がトルコに滞在したのは1900年前後のことだろう。日本は明治の代で明治33年前後ということになる。帰国後の1904(明治37)年には日露戦争が起きているはずである。そして世界は、1914年の第一次世界大戦へと向かっていく。トルコはドイツに近づき、日本は日英同盟の中で参戦する。
この作品には、このようなトルコの中に見る政治的背景があるものと思われ、「青年トルコ人運動」の地下組織が見える。しかし作品自体は、梨木さん特有なファンタジー性の強い作品であり、揺れ動くトルコ社会の中にあって村田は翻弄されながらも不思議な世界を見、日本との違いが大きい風土の中にものを考える。
今を生きる僕にとっては、トルコは遠い地であり、時代は100年も前の遠い過去の時代。村田は考古学をやりにトルコに行っていたが、今の僕にとっては、この作品自体が考古学の中で発掘されて目に見えたもののような物語である。
横道にある敷石は、昔の城壁の石だという。そこにはときよりこの城壁の前に立っていた古の衛兵の影のようなものが現れるという。
僕にとってのこの作品のファンタジー性は、影のような衛兵を見るようなものなのかもしれない。
トルコのスタンブールには体臭に似た町のにおいがあるという。日本の町にないと村田は思うが、自分の体臭はわからないものだと。。。
異文化の中のそれぞれの人々。。。。
しかしその体臭とは何か?
現実の臭いとして香辛料の香りとか独特な臭いを連想できそうだが、同時にそれは、人種の坩堝といわれるような東西の文化や民族が集まりそれぞれが個性的に生きる社会の臭いでもあるのではないか。
多くの民族が集まる中には必ず多様な宗教がある。
キリスト教徒は日曜の礼拝に行く。回教徒は礼拝の時間を持つ。村田は思う。日本人は仏教徒であるのかと。しかし仏教ととはいえ知識もそれ以上に宗教心があるのかと。今の時代の日本人を見ても、生まれてからしばらくは氏神様のお世話になり、結婚式ではキリスト教の牧師のお世話になる。そしてあの世に行くとなれば寺のお坊さんのお世話になる。そして日常は無神論者である。
トルコに生息する村田は心もとない。
この作品は、神々の物語でもあるのである。それがファンタジー性だろう。
この神々は、それぞれにおいてその民族の唯一絶対の神といってもよいだろう。一神教の世界である。
トルコに多くの民族が集まるなら、そこには多くの神々が集まる。村田はこの神々とのかかわりを持つ。そこに日本の狐の神も入ってくる。
村田は、日本人である自分を見つめて、「もっと自分というものを押し出していかねばならぬ」と気炎を吐き、そのことを日本に持ち帰ることを考えるが、「どうも私はその任に適当でないようだ」と心細くなる。(62ページ)
しかし、キリスト教信者も回教徒はもちろんだが、村田をはじめとした日本人にも心にあるものはある。
日本人のそれが何かといえば、八百万の神々というようなある種の自然信仰に近いものではないか?「家守綺譚」にある綿貫征四郎の、あの自然に溶け込むような自然信仰。それは、恐れでもあるが抱かれるような安らぎでもある。仏教もこの日本人特有の自然観に馴染んでいったのではないか。 ヨーロッパやトルコに見る一神教に対する多神教。自然の恵みをそして恐れを見る中での現世利益。日本人が持ってきた狐の神は商売の神であると思うが、そこに日本人の独特な宗教観があり、それは今の時代でいえばエコノミックアニマル的なものをも負の意味合いとして暗示するが。
一神教は、どこか積極性や猛進性を見ることができるが、多神教は、どこかのんびりしたようで自然体である。日本人の宗教観それは人生観や行動を規定するだろうが、それが村田「先生」の心に心細さや心もとないものをわき起こすのではないか?
はじめに漱石の「吾輩は猫である」を紹介しましたが、この日本人の心細さや心もとない心を見つめたのが漱石でもあり、西洋化の中で日本人らしさを見つめたのが漱石です。その日本人らしさは、イギリスで「お前は中国人か」と聞かれ多くの日本人が憤慨をするという変なプライドではなく、「昔からいろいろな文化や思想を教えてくれた中国人に間違われたのは光栄ではないか」(正確な引用ではありません)といったような冷静な目での視点です。
「春になったら苺を摘みに」というエッセイへの感想に、
「梨木さんの作品には、外国人が出てくる。
梨木さんがイギリスに行って外国人として生活をするのとは反対に、外国人が日本という風土と生活様式に入ってきている。
この異文化の中での外国人。。。。
ある意味では、梨木さんが客観的な目で日本というものを見つめているのかもしれない。」
と、書きましたが、梨木さんがどのような視点で日本人をそして日本人である自分を見つめなければならないかを常に葛藤をしている姿を今回の作品や関連する「家守綺譚」においても見ることができるのではないでしょうか?
多分、日本人はこうあるべきだといった断定的な結論はお書きでないと思います。しかし、そこにある平和主義は見ることができるのではないか?
それぞれの民族の神々は、村田の部屋で折り合いが悪いのか騒ぎ出す。しかし村田の一喝で騒ぎも収まる。神々は自分の持分を持つものなのか?神々は落ち着くが、それぞれの神を信仰する人間は第一次世界大戦へと突き進む。トルコでの村田の友人たちは戦火に倒れる。大きな歴史に残る社会の流れの中に個人はいつか忘れ去られるようの死んでいく。神そして国家とは。。。。。
「私は人間だ。およそ人間にかかわることで私に無縁なことはひとつもない」
国家は人が作ったものである。しかしその国家が名もなき者の運命を変えていく。人と人との無限にそして複雑に絡み合う糸は、人をひきつけあう。民族を超えて神を超えてつながらなくてはならない。
多神教でなくてもいい。互いの神外を尊敬しあおう。人はまだ完成されていない。その発展を見よう。民族を超えて、神を超えて。。。。

                 2007年7月4日 記

                       夕螺









月夜にひろった氷(新潮文庫版)
                       新潮文庫
              銀色 夏生  著
1987年12月10日河出書房新社より発行された作品の文庫版です。
昨年(2006年)12月には、やはり河出書房新社から発行された「無辺世界」が同じく新潮文庫より発売になりましたが、この「無辺世界」に続いての文庫化です。
夏生さんの作品は絶版になり読んでいないものが数冊あるのですが、この作品もまだ味読でした。その意味で文庫化はうれしい知らせでした。また初期の作品ということもあり、夏生さんの精神世界に触れるものがある作品としても貴重な文庫化ではないかと思います。もう20年も前の作品ですが、当時の若い方が読んだ感動をそのままに今の若い方にも伝わるような古さを感じさせない作品だと思います。
今回の文庫化にあたっては、「人生の山」という書き下ろしの詩的な文章が収録されています。河出書房新社版で読まれているファンの方にもこの書下ろしは貴重かと思います。
(「無辺世界」でも河出書房新社版と文庫版では微妙な違いがありましたが、今回の文庫化において河出書房新社版との違いがありました教えてください)
「ポケットの中で 星が揺れたので」
という言葉ではじまる詩集の前書きにあたるような詩が、1ページ1行という形で綴られています。
恋の胸騒ぎをポケットの中で星が揺れるという言葉で表現されるその言葉にまずドキッとさせられます。そんな胸騒ぎに居ても立ってもいられなくなったのでしょうか、冬の真夜中に外に出る。でもその胸騒ぎは静まらないで。。。。
「ポケットの中の 星が騒ぐので」
と、恋する心は高まるばかり。
もう、この前書きのような形の初めの詩だけで読者の心は釘付け。。。
そして詩集の最後は、「月夜にひろった氷」という詩で終わります。やはり寒い真夜中に恋の思い出を持って歩く。ポケットの中で騒いでいた星は、冷たい月夜にひろった氷のようになっていた。。。。
こう僕は解釈するわけですが、この「ポケットの中で星が騒ぐので」という星が冷たい氷のようになっていたという心の中の表現にぐっと来ます。
恋をしてしまったのだろうか、これは恋?と思うその心の揺れは、すごく温かいものですよね。心の中でも一番美しい温かさです。その心がはじめの詩から強く感じさせられますが、でも、そこには不安もある。恋は相対的です。この相対する心と心一致するとは限らないし、一致しているのかを確かめようとすればするほど苦しくなるものです。または初めから叶わぬ恋と思ってしまうこともある。そのような心の中もまた初めの詩には含まれていますし、全編の詩がそれを表現しているのかもしれません。お互いの心がわからないままに終わった恋かもしれません。
温かい恋する心は、時には少年少女のような心に戻してくれるときがあります。夏生さんの詩にはこのような少年少女あるいは性を通り越した中性的な心そのものを感じさせる恋の詩詩が多くありますが、この作品も同じものを感じさせられる詩集だと思います。
でも、恋をしているのは大人です。
ただの憧れのような恋ではない。
純粋さの中に心を見つめる冷静さがあります。
時には自虐的にもひねくれたりふざけたりも。。。
このような純粋さを持ちつつも心の揺れが表現されます。
恋を冷静に見つめると、そこにはお互いの、大げさに言えば人生観が見えてくる。人生観などと書くと硬い言葉になるが、この人生観は、二人でいるときのほんの日常の中のしぐさや言動の中に見えてくるものです。なにか、こうしたお互いの心は真に触れ合うという意味での人生観、恋と同時に自分自身の価値観、自分の道。。。。
恋をしてしまい飛び込んでいきたいと同時に、そこには一人の自分という人間が居る。
この葛藤。。。。
作品の終わりのほうは、こうした抽象的なちょっと不思議な精神世界が展開されていくます。
そして最後の「月夜にひろった氷」で終わります。
「つれづれノート」シリーズをお読みになった方はお分かりでしょうが、夏生さんの実際の生き方や価値観がそこにあるわけで、そんな夏生さんの心が初期の作品にも表れているということだと思います。
恋の詩集に終わらずに人の持つ内面の世界へと導かれていくようです。そこに夏生さんの詩集のすばらしさがあるのではないでしょうか?
たぶん、自分自身を見つめる視点が見えてくると思います。
もちろんこれには賛否両論があり、恋してしまったら、好きだったら、もう飛び込んでいくしかないという激しい感情の表れと感情の流れに身を任すべきという人生観もまたあると思います。この点では、同じような心を表現した詩もあります。まずは飛び込んでみる!!これもまた夏生さんの生き方でありますが、やはりそこでも最後は溺れずに冷静さを持って事後処理をする。。。これもまた夏生さんの生き方ではないでしょうか?
恋というものだけではありませんが、常に夏生さんのポケット(心)の中には、揺れる星や騒ぐ星がありそれを受け入れます。しかし同時に月夜にひろった氷のようになってしまった星の冷たさも感じ取っている。
そこに僕としてはぐっと来るわけです。。。。
このように見てくると、今回の文庫化にあたって載せられた「人生の山」という詩的エッセイの意味合いも理解できるのではないでしょうか?
夏生さんはファンに問いかけます。
「私はあなたじゃないから、あなたの悲しみはわからない。
それはとても、大きなもの?
それはとても、深いもの?」

と。
あなたの心はあなたのもの。。。
しかし呼びかけは「あなた」から「わたしたち」へと昇華していく。
そして夏生さんはご自身の人生観を山に登る例えでお話しをしていきます。
一人一人のファンは、もちろん僕も、その言葉に引き込まれていきます。「わたしたち」は「僕たち」ともなっていくこの夏生さんとの一体感。。。
夏生さんの心が現れたク−ルでもあり温かさを感じる独特な呼びかけ。これはまた夏生さんの詩の世界でもあります。

                2007年7月19日 記

                      夕螺