夕螺の読書ページへようこそっ!!
       2006年2月から7月までに読んだ本です。

直接こちらにお入りになった方は、検索した本を下にスクロールして探すか、「読書ページ」トップ(フレームページとなっております)へお入りください。
こちらに収められた作品は、以下の本たちです。


 「博士の愛した数式」              小川洋子
 「春になったら苺を摘みに」           梨木香歩
 「国家の品格」                  藤原正彦
 「世にも美しい数学入門」            藤原正彦
 「間宮兄弟」                     江國香織
 「東京日記」                     内田百
 「蕎麦屋の恋」                   姫野カオルコ
 「メール交換ー銀色夏生×HARCOー」    銀色夏生・HARCO
 「インストール」                   綿矢りさ
 「ベター・ハーフ」                  唯川恵
 「女っておもしろい(ギンイロナツヲ×トゥトゥ)」 銀色夏生・トゥトゥ
 「夜の公園」                    川上弘美
 「レクイエム」                    篠田節子









博士の愛した数式
                            新潮文庫
                 小川 洋子  著
 eπi+1=0
オイラーのeθi=cosθ+i sinθという公式で、θ=πとしたときに導かれる等式をいうらしい。(以下特別にリンクしない限りウイキペディアより参照)
数学というものに無縁な僕から見て、単純に考えるとある数字に1を足すとその解が0になるといえば、−1しか思い浮かばずにeπi=−1に?と思う。
ある正の実数の正の実数乗といえば−1から程遠い。そこでiというものがわからなくなる。iというのは√ー1だという。+1とー1をかけるとー1というぐらいはわかるけど、同じ数を掛け合わせてー1?ここで頭が混乱する。
i=−1、i=√ー1
。。。。ううう
この「ううう。。。」と、うなってしまう数を虚数というらしく、イメージするには相当大変だそうである。
円周率πは、なじみのある定数なのでなんとなくわかるが、ネイピア数eとなるとまたわからなくなる。2.78・・・・とπと同じように小数点以下が永遠に続くそうである。
このように博士の愛した数式は、数学のまったくわからない僕としてはどう解釈してよいものかまったくわからない。
しかし素人なりにいろいろ調べているうちに興味深いサイトにめぐり合った。
ハルさん?とおっしゃる方の「私的数学塾」というサイトに「自然対数eの体感」というページがあり、確率・統計の面からπとeが出てきます。大変参考にさせていただきました。
ある幅の等間隔の平行線を4本ほど書き、その幅の2分の1の長さの針を何回も落とすと、針が平行線に接する確率がπ分の1になるというのです。ビュッフォンの針の問題というらしいです
一方eは、モンモールの出会いの問題として、n人に手紙と封筒にあて先を書き、ランダムに手紙を封筒に入れたとき、手紙と封筒が一致しない確立は、すなわち出会わない確率はe分の1となるという。
ビュッフォンの針の問題を平行線と針が接する「出会い」と見れば、モンモールの出会いの問題は、「出会わない(出会えない)」というものである。
どうもこの「出会い」と「出会えない」という確率と統計に不思議にも現れるπとeがオイラーの等式に中にあること、この中にこの作品でオイラーの等式があらわれる秘密があるのかもしれない。もちろんこれは、数学の美しさと不思議さ(神秘性)というものを題材とした文学的表現である。
家政婦の「私」とその息子の「ルート」(博士がつけた愛称)は、博士との人間関係を強めるが、博士の義姉は「私」を首にする。しかしルートは博士を訪ねていく。博士の姉は怒り「私」を呼びつけて抗議をするが、「私」とルートは友人としてのお付き合いだという。この言い争いをしているときに博士がメモを書き3人に示したのがこのオイラーの公式である。
義姉は、「弟には友人はいない」という。「私」は「私とルートがその友達です」という。
オイラーの公式の中の+1が「私」とルートという友人なのかもしれない。義姉はこの公式の意味するものを理解をしてまた「私」を家政婦として雇う。
「私」が家政婦として始めて博士のもとを訪ねたとき、博士は、「君の誕生日は?」と聞く。2月二十日=220.。。博士は学長から贈られた自分の時計の番号を言う。284.。。
それぞれの数の約数を足すと、220は284になり、284は220となる友愛数だと。
数字の持つ神秘さの中に博士と「私」ルートの友情関係が暗示される。
野球は、よく数字の世界だという。打率やヒット数やホームランの数、価値率や防御率と。博士はそんな数字の世界を愛し、江夏を愛する。ルートも野球が好きで、「私」は、阪神時代の江夏の背番号28が完全数(自分以外の約数を足すと自分自身の数である28になる)此処にも数字の持つ神秘性が現れる。
この作品全体が、この数字の持つ神秘性の中に博士緒「私」そしてルートとの幸せな関係を描いていく。
博士は、交通事故の後遺症により、その交通事故後の記憶は80分しかもたない。その80分という時間の長さにおいての友人関係が継続される。博士は記憶代わりにメモを自分の体に貼り付ける。自分の書いたメモを信頼して博士は「私」とルートとの友人関係を継続させる。
繰り返し繰り返し数字の持つ神秘さを確認しながら。。。。
博士の目の前にいる「私」やルートという目に見える人ではなく、その心を見るのである。
博士はルートの頭のテッペンが平らなことを見て「ルート」という愛称をつけるが、このルートの中には、あらゆる数字を入れる事ができるとし、√−1という目に見えない虚数を示す。掛け合わせてマイナスとなる数。。。。「私」はそんな数はないのではというと、博士は、ここにあるよと、
「とても遠慮深い数字だからね、目につくところには姿を現さないけど、ちゃんと我々の心の中にあって、その小さな手で世界を支えているんだ」
と。。。。
虚数単位 i は、オイラーの公式の中に現れて正数の正数乗をー1とする。
数字の持つ神秘性もそうだが、人と人との心のつながりも、心の中にあるんだという温かなことばとなって現れる。
この温かさは、目には見えないものであり心の通い合いという目に見えないものに支配される。−1も当たり前のように習ったからそんなものだと認識しているが、たとえばりんごが1個といえば目に見えるが、−1個のりんごといわれてもそのマイナスのりんご自体は目に見えないだろう。虚数も同じで、それ自体は目に見えない数字なのである。しかし、−1とー1を掛け合わせると+1という目に見える数字となる。しかし+1からはどうやってもー1は作り出せない(「世にも美しい数学入門」より)。形あるものから人の心の温かさは作れないのであり、心の温かさは目に見える形あるものを作り出せるのである。
だから「その小さな手で世界を支えているんだ」
ルートの誕生日祝いのパーティーをすることになったが、せっかくのケーキを博士が落として壊してしまう。でも、3人に必要だったものは形あるケーキではなかったのである。
結末はここでは書かないが、3人の心の温かさは、晩年博士が首からぶら下げている「私」とルートとが送った江夏のプレニアム野球カードすなわち背番号28という完全数のうちに終わる。
そしてすべては0という数字に収束されていく。
ここに無常さを感じるが、それもまた人の宿命なのである。宿命だからこそ残された時間は大切なのである。

                      2006年3月5日 記

                       夕螺







春になったら苺を摘みに
                           新潮社
                     梨木 香歩  著
梨木さんが学生の頃に過ごしたイギリスの下宿先とそこの主人ウエスト夫人の思い出と、その後にも訪問したイギリスの風景と人情を描いたエッセイ集です。「春になったら苺を摘みに」という題名からしてイギリスという国ののどかさを感じますが、美しい自然の風景とそこにすむウエスト婦人を初めとした人々の暮らしが垣間見えるような作品です。
イギリスでは、梨木さん自身も日本人という外国人ですが、下宿する人々は、ヨーロッパの人々を初め、アメリカ人やアジアの人たち、アフリカ、アラブの人たちと多彩です。
そしてウエスト夫人自身ももともとはアメリカ人ですから、どこか風変わりなイギリスの生活というのか、イギリス風の臭いはするが下宿は人種のルツボといった感じです。イギリスの生活はその様式があると思います。下宿のある町は郊外の高級住宅地のような気がするのですが、そこには古くからのイギリスの生活様式があり、イギリス人が多く住む町だと思うのですが、その中にあってこの下宿は、特殊なものだったのだろうか?
しかしイギリスの風土と溶け込んだものも感じます。
イギリスの生活を始めた外国人たち。アフリカの部族長になったアフリカの人や、一夫多妻制の中に生きるアラブ人。中には殺人犯も。。。梨木さんは、イギリスの自然に触れ合いながらこんな下宿の人々の思い出を書きます。そしてこのようないろいろな人たちを無条件に受け入れているウエスト夫人との交友を描きます。
読みはじめると、イギリスののどかな生活や風景の中にのんびりした梨木さんを見ますが、先に書いたようないろいろな国のいろいろな性格や風習を持つ人々との交友の中に単なるイギリスに留学していたというような思い出にとどまらずに、もっと深い人間そのものを感じ出します。そして梨木さんの内面も現れてきます。
梨木さんは一人の日本人としてその内面を持ち生活様式がある。下宿に集まる人々もその内面を持ちその祖国の生活様式を持つ。ウエスト夫人もその内面を持ちアメリカという国を持つ。
このように、このエッセイ集は、イギリスでの生活といった一般的なエッセイではなく、人と人とのつながりやそれぞれの民族の人々が持つ違いをそれぞれがお互い理解はできないがそれでも理解しようとするそんな温かみのあるエッセイ集です。
「私が二十年前、英国で在籍していた学校は、(もともとが地方の有力な名士の館で、女学校になっていたのを、ベル氏という人物が戦争に徴兵された経験から、世界平和を達成するためには世界中の人々が互いに分り合わなければならない、と、一念発起して建てた語学学校だった。ウエスト夫人は女学校時代からそこで教えていて当時の私の担当教官だった)」
とあるように、ウエスト夫人の独特な下宿屋もこの「世界平和を達成するためには世界の人々が互いに分り合わなければならない」という博愛精神からくるものだろう。ウエスト夫人は、サンドイッチを作り反戦集会に出かけていく。梨木さんのイギリス滞在は、このような博愛精神にも触れるものでもあった。
いろいろな民族とその風習や生活様式、その風習や生活様式などから来る個人の性格。この違いからくる梨木さんの戸惑い。同じように戸惑いながらも受け入れていこうとするウエスト夫人との交友。その中での博愛精神とのふれあい。この中に梨木さんの内面の葛藤を見ることができる。
この梨木さんが触れ合った博愛精神は、独特なものであったようだ。
エッセイ集を読み進むと「クウェーカー」という言葉がたくさん出てくる。
このクウェーカーというのは、キリスト教の一宗派というのか独特な宗教活動を行っているようである。梨木さんが触れた博愛精神は、このクウェーカーの活動にあったようである。
教会のようなところではお祈りをせずに、ミーティーングのような形でその信仰を確認しあうような宗派で、その活動は、反戦平和といったような実践的な活動にあるようである。またホームという日本人が家庭とか連想するようなものではないもっと人と人との愛に結ばれたような暖かさをもつような活動もあるようである。
ウエスト夫人の下宿もこのホームの精神というのかそこからの博愛精神というのかを感じます。
しかしアメリカの建国の歴史を見ても、人が入植してきたとともに、先住民族への抑圧やその高度な精神活動にもキリスト教が入ってきたし、第二次世界大戦時には日系人への迫害的なものもあった。しかし、一方では、良心的徴兵拒否に対しての裁判官による配慮など、アメリカの懐の深さもある。たしか日系人への正式な謝罪がアメリカ政府によって行われたこともあったと僕の記憶にもある。
実際の世界の動きとその中にある博愛精神。。。。この葛藤は存在するのである。
日本では自分でドアをあけるのが当たり前だが、イギリスでの学校では、女の子がドアの前に行くと男の子がさっとドアをあけてくれる。
「英国に変えるとよくこの手の騎士道に由来する『甘やかし』に遭遇すし、そのたびにそれを心地よく思う自分と、『コレヲ トウゼント オモッテハ イケマセン』と訓戒をたれる自分とが葛藤するのを感じていた。
私にとっての理想的なクウェーカーの生活とは、その後者の自分が激しく求めている、無駄なものをすべて剥ぎ落とし、ただ内なる神とのコンタクトにのみ焦点を当てる生活だった。
しかしそういうことが現実生活において可能なのだろうか。だとしたらどういう形で?」

たしかにここでは、梨木さんはレディーファーストという騎士道とご自分の考えについて語っているわけだが、「ただ内なる神とのコンタクトにのみ焦点を当てる生活」と、ウエスト夫人に見るホームの活動や反戦平和というその実践との葛藤を見ることができないだろうか?
「日常を深く生き抜く、ということは、そもそもどこまで可能なのか」
たしかにウエスト夫人の活動のようなものもある一方、人は日常を生きている。その日常にも人としての葛藤はあるわけである。
宗教的な激しい実践という中に生きるウエスト夫人。そのウエスト夫人から日本にいる梨木さんに手紙が届く。ニューヨークにおいての9.11テロとその後のアメリカのイラク空爆。そのことに心を痛めるウエスト夫人は書く。こういうことがすべて治まったら。。。。。
「春になったら苺を摘みに」
ウエスト夫人は、何を求めているのか。理想的な大きな幸福な生活ではない。平和になる中での小さな日常生活の幸福なのではないか?

梨木さんの作品には、外国人が出てくる。
梨木さんがイギリスに行って外国人として生活をするのとは反対に、外国人が日本という風土と生活様式に入ってきている。
この異文化の中での外国人。。。。
ある意味では、梨木さんが客観的な目で日本というものを見つめているのかもしれない。

                        2006年3月7日 記

                        夕螺









国家の品格
                           新潮新書
                藤原 正彦  著
大昔、家族の中には男と女というその体の構造からと子孫を残すことへの男女の役割から、分業があっただろう。このような家族が集まり小さなコミュニティー(動物としての群といってもいいと思うが)もあっただろう。素朴に助け合って労働していただろう。もちろんそこにはリーダーという優れた尊敬される人がいただろう。その後、歴史の流れの中で農業やいろいろな技術の発達が在り、その専門の部門でのすぐれた人が出てきただろう。コミュニティーのリーダーや各種の専門家は、日常の労働から解放されてその能力を生かしただろうし、それが分業にもなっただろう。日々の労働をする者の生産したものを消費しながら自分の能力を生かしてそれをまたコミュニティーに還元しただろう。
しかしいつの頃からか、このリーダーを頂点とした専門職の人々が日々労働する人々を支配するようになってしまった。特別な能力がある人が社会を支配する構造。これが当たり前になり、この特別な人々自身が日々労働する人々の生産したものに依存していることを忘れ、支配するようになってしまった。
この人と人との支配関係にあるコミュニティーとしての国家。ここに国家の品格が崩れた要因がある。
というよりも、生まれたばかりの国家というものの未熟さだったのかもしれない。
もちろん人々の中にはその能力の違いが生まれることは自然であり、社会の生産力が高まれば分業が進むのも自然である。それが社会の生産力をまた高め、精神文化も発達させた。だから分業というものは不可欠なのであるが、その分業による支配被支配関係が生まれたばかりの国家の宿命だったし、国家の成長の中での生産力の発展と精神文化の発達の中でこの支配関係も薄れていくようになる。この精神文化は、宗教ではじまり哲学や文学音楽と、様々な分野で国家と人々のあり方を人間自らが考えるようになる。ここでやっと人間動物がその動物本能だけのものから開放されるものとなる。日々労働するだけの人々にも、自分が人間なのだという意識も生まれてくる。社会全体の平均した精神文化の向上が国家を成長させ、人間の作り上げた国家もその成長の中にこそ品格を得る。
このような視点で藤原さんの「国家の品格」を読むと、衝撃を受けざるを得ない。
近代社会は、欧米の合理精神によって進められてきたが、この欧米主導の社会にほころびが出始めている。そこに今の社会に現れている様々な矛盾点が露呈をしている。
ここから欧米の合理精神批判と、日本の武士道精神を対比させる。
欧米の合理精神批判としては、論理だけではだめ。自由平等民主主義はフィクション。成熟した国民は存在しないと、批判を強める。
これらは、戦後生まれの僕たちが学校や社会から学んできたものを覆されるような衝撃である。
たしかに、理想とするような今ある社会をよい方向に進める論理がないし、自由平等民主主義も無いかもしれない。国民意識も自由や平等という民主主義を進めるだけには成熟していないだろう。だからといってすべてをばっさりと切り捨てることが欧米の合理精神批判なのだろうか?
人間の数千年の歴史(先にも書いたように国家の歴史)の中においての欧米合理精神の役割と限界を見なければ、欧米合理主義精神への批判とはならないだろう。
欧米合理精神は、封建制社会を批判することに結びついていたと思うし、その中で資本主義が打ち立てられたはずである。その延長線にというのか基礎に産業革命もあっただろうし、それ以前の科学進歩や思想の進歩もあったはずである。この意味において欧州は進歩的だったのである。先に書いたように、生まれたばかりの国家は、未熟で支配関係の中に国家があり、それがずっと続いていた。この中に風穴を入れたのが、自由・平等という民主主義の発想であり、観念的であっても今までの国家に比べればその品格を高めたのである。
欧州中世の停滞というのは、昔本で読んだことがあるような気がするが、その歴史となるとわからない。しかし、突如としてイギリスに産業革命が沸き起こったのではなく、様々な文化・思想が花開いたのではないと思う。藤原さんは、この欧州中世の停滞期とくらべ日本の文学などを対比させて日本の素晴らしさを書いているようだが、日本に産業革命を起こす基礎があったのかどうか?この産業革命と一体となった封建社会から資本主義社会へと推し進めるような文化や宗教、思想が育っただろうか?
やはり欧米の影響の中に、江戸末期から明治という時代を待たなくてはならなかった。もちろん、日本も豪商というような資金を持つ商人が準備をされていた。
もちろん日本は、中国や朝鮮半島の文化を吸収しながら独自の文化を作り上げ、その文化は誇りえるものだと思うし、何よりも欧米の植民地にならなかったというのは誇りである。この点でも明治維新というものは、欧米の産業技術と思想・分化をすばやく取り入れたことの素晴らしさでもあると思う。
同時に、学校制など、国民意識の向上もあったはずで、この意味でも国家の品格は高められたのではないか?
このような歴史を見れば、産業技術の発展や自由・平等という民主主義、国民意識の向上は、国家というものの品格を高めたことになる。幼稚な国家から青年期の分別ある国家へと成長したのであり、その成長そのものが品格ではないか?
ところが社会は青年期を過ぎて熟年期に入ってしまった。
産業技術は高められて、コンピューターや産業ロボットが普及して人の労働力を極限的に必要とされなくなった。分業化はますます広がり、商品の流通量も増える。一方では、この生産量の増加と競争の激化により世界は狭くなり、生産の増加や発展途上国の台頭によってますます商品はあふれかえり、環境破壊やエネルギー問題も大きくなってきた。人自身もこの競争激化の中に巻き込まれ、所得格差なども広がってしまい、それは職につけるかどうかというような競争にもなり、人心が乱れてきてしまった。
これは何を意味するかというと、社会が成長して来て熟年期に入ったのに、そこに人間自身が対応しきれなくなってしまったということではないか?
ここに藤原さんの著書からの苦悩を見る思いがする。藤原さんの著書だけではなく、先に読んだ養老さんの「バカの壁」や「超バカの壁」にも現れているのではないかと思うし、知識人全般に言えることではないかと思う。
このような中で、短絡的に求められるのが、社会や国民を引っ張っていけるような力を持つ人やエリートである。小泉総理の人気もこの辺にあるのかと思う。アメリカで言えば、強いアメリカであったり、世界の憲兵としてのアメリカだったりもしていた。イギリスで言えばサッチャー。同時にこれは、国を引っ張るような次元の話だけではなく、競争による社会一般のエリート作りでもあったと思う。そして企業のつぶしあい。
藤原さんもエリートを求める。そしてこのエリートが国民を慈愛を持って守るというのが藤原さんのお考えではないかと思う。この慈愛といったものが武士道精神という形になっているのか?こうなると、たしかに自由や平等という民主主義は必要としなくなると思う。国民はバカであったり、精神構造は成熟しないのだから。
ところが上に書いたような社会的な矛盾は、力のあるものやエリート層が社会を治めるというやり方にこそ80年代の頃からのやり方にこそ現れてきているのではないか。慈愛などはなくなってしまった。「国民国家」「福祉社会」というのは消え去ってしまった。
社会の成熟期が老齢期になってしまうよな疲弊しきった社会になってしまった。
たしか80年代には、労働時間の短縮や休日増の高まりがあった。それはワークシェアリングという形で進められるべきだった。生産現場にコンピュータや産業ロボットが導入され、人がいらなくなった分を労働時間の短縮や休日の増加に回すべきだったが、いらなくなった人をリストラという形で切り捨ててしまった。もちろんそこには競争原理が働いた。それに輪をかけて人件費の抑制は、企業競争として派遣労働制といったものや「自由な労働」という流行からフリーターを生んでしまった。海外への企業移転も。
競争は、社会の中の無駄をなくすことでもあったが、この無駄とは競争に敗れた国民や労働からリタイヤせざるを得ない高齢化した人だった。それがまた少子化というおまけをつけてしまった。
ところが、成熟した国家・社会というものは皮肉なことに強い国家や人が生き残るだけでは成立しないのである。
金があればその国やエリート層の人は自由であるが、一方には金がないと自由は得られなく、そこには平等というものもなくなってしまう。民主主義は成立しなくなってしまうのである。生産物(商品)というものは、たとえそれが生産設備というものであっても、めぐり巡って幅広い国民の消費によって支えられなければならない。金持ちのための金持ちによるぜいたく品ばかりを作っていては社会は成立しないのだから。だからたとえゆがんだ形であっても、発展途上国に自由平等を言い、大衆消費財を生産するための経済的な働きかけをせざるを得ない。
これを裏を返してみれば、形骸化した自由や平等という民主主義と生産と消費のバランスをより発達した形に持っていくことが必要なのであり、それは、国の関係からすれば発展途上国の進歩であり、国民的には、自由と平等をより根付かせることによる民主主義の拡大しかないのではないか。
だから、自由平等という民主主義は、フィクションであるとか、国民意識の成熟はないと見るべきではなくて、形骸化したものをより実質な物にするこが重要ではないか。
たしかに観念的な理想とする自由や平等という民主主義はないし、国民意識の完全な成熟はない。しかしより発展したものにする必要性はあるわけである。1からはじまって10という完璧なものに向うとするならば、今は3とか4かもしれない。だからといって5,6にする必要性を捨て去ることはまったくないのである。
人が空を自由に飛べる自由は、飛びたいという観念だけで飛んでいるわけではなく、その観念をいろいろな人の研究や実験から人の行為として発達したから飛んでいるのであり、初めは金持ちしか乗れない飛行機も一般国民までもが乗れるという平等と同じように、成熟した社会に沿ったシステムを作り上げないと人は社会の中で自由にも平等にもなれない。
だから国を動かしたりしているエリートが慈愛を持って国民を助けるという観念だけのものではなくて、国民一人一人が自立できるシステムが必要なのである。社会の中のエリートが国民を慈愛を持って助けるというのは国家の品格ではない。国民一人一人が経済的にも精神的にも自立できるようなシステムを持つことが成熟した国家の新たな発達した形の品格である。
障害を持ったり、老化したりした人たちに手助けするというのも慈愛を持って助けるということではなく、社会的システムとしたものにしなくてはならない。
「福祉社会」という古い国家に戻ることではなく、一人一人が自立できる社会システムを作ることが、成熟した国家なのではないか。ところが、今の社旗も自立を言うが、それを支えるシステムが無視をされており、格差社会を作り出しているだけである。
一人ひとりの自立というのは、経済的な社会システムと同時に、精神的・意識的な成熟にもあるが、今のように競争に追われ、勝ち負けだけがすべてという形の中ではたしかに成熟はしない。
国民意識の成熟に向けたものは、日々の労働の軽減と時間の削減が必要である。分業という形の中での知識人や芸術家も日々の生活物の生産から開放されてこそ成り立つし、時には家事労働からも解放されてもいる。生活に欠かせない物やサービスなどを生産したり提供する人々も同じで、このような労働から解放される時間の長さが必要である。子供は就労を禁止される形で日々の労働(家事のお手伝いは別にして)から解放されているから勉学に励むことができる。
いつも仕事に追いまわされ、仕事のことが頭から離れないならば意識の成熟には程遠く、少ない時間に金を使ったいテレビを見たりと安易な娯楽にも走ってしまうだろう。
先に、今の社会はコンピューターと産業ロボットにより昔のような多くの労働力が必要とされない時代に入ったと書いたが、これを労働時間の短縮に使うことができれば、一方における過度の労働と一方における失業という矛盾が少なくなり、余暇時間は増えるだろう。余暇が増えること。。。。これは、今エリートとされる人々にも喉から手が出るほど欲しいものではないか?ここでは競争ではなくて皆が必要とされているものなのである。
ある程度の金の面での平等と余暇時間の平等。ここからくる自由。これを前提にしてはじめて民主的な競争も生まれるのではないか。
成熟期を迎えた国家。しかしこの国家の成熟さを生かさないで、今あるいろいろな悪いところを前提にして人の心の持ち方に議論を持っていくというのは、本来の意味での品格ではないだろう。新たな成熟した国家に見合ったシステムを作ること、それは自由や平等というものをもっと拡大した社会的な民主主義でもあり、そこに国家の品格が成熟期に見合ったものとして現れてくるのではないか。

                     2006年3月17日 記

                         夕螺










世にも美しい数学入門
                        ちくまプリマー新書
                藤原 正彦  著
小川洋子さんの「博士が愛した数式」の関連として読みました。藤原さんと小川さんとの対談として数学の美しさを表現しています。もちろん対談中には、「博士が愛した数式」にもお2人が触れながら小説とは関連しそうもない数学との結びつきを語られています。
「博士の愛した数式」の中には、数学の話しがたくさん出てきますので、この本は「博士の愛した数式」を読むにあたって(あるいは読み終わって)参考になるのではないでしょうか。
数学者藤原さんの純粋さを小川さんが引き出すというような形で対談が進みます。
広大な宇宙そして微細な素粒子の世界まで、自然界というのは厳然と存在をしている。人はその自然に向って五感を持って接する。接する中に自然への感謝や恐れ感じ、そして不思議さを感じる。ただ単に感謝と恐れを持って接しているだけなら、人は宗教的に自然を受け止めるだけだが、不思議さを感じてその不思議を解き明かそうとする中に人の科学的な進歩もあったのだろうと思う。自然をもっと解明しようとしたとき、人の持つ五感や思考だけでは足りなくなる。思考そのものをもっと深くするには五感だけでは足りない。
同時に人は、自然の中の限られた範囲だけに生き延びることができる。人は生き延びるだけではなく、その発展の中から自然に働きかけることをしはじめた。それは人の生きる喜びを増大するために不可欠である。
自然に対しての働きかけと、自然の持つ不思議さの探求は、車の両輪のようなものではないか。
人は星の観測をする中に農業を発展させたし、望遠鏡や顕微鏡も必要性から作り出す。自然に働きかけるものを作り、自然の不思議さを解き明かすための道具も作り出しながら発展してきたのではないか。
その中で、人が作り出したもののひとつに数学があったのだろう。
物を数えることからはじまり、計算すること、図形化することなど、数学は自然を受け止めるためにも解明するためにも役立ってきたのだろう。
今の時代のように、様々な部門において発達した社会でもやはり自然への働きかけと不思議さの解明は車の両輪となって歩み続けている。これは永遠に変わらないものであり、行き着くことはないだろう。
発達が進すみ、そしてその発達のスピードが加速度的に速まった中で、必然的に専門分野は細分化され、ますます分業制も発達をする。この分業は、ある意味人の精神活動と実際に必要なものを作り出すという理論と実践とも言うべき分業も発達しているのではないかと思う。人の精神活動においての理論的な世界観、これはあらゆる分野での精神活動により自然というものを書き表すことであり、この自然を書き表すことでの不可欠な言葉が数学でもある。
数学者藤原さんは、この自然を書き表すための数学を「神の手帳」を読み解く、あるいは新しい次のページをめくるように情熱を持って純粋に語っているのでしょう。
文学や哲学、社会科学や科学、様々な人の精神活動においての自然とのかかわりにはすべてロマンティズムがある。当然に数学にも数学のロマンティズムがあるだろう。特に純粋数学という学問は、今すぐに役立つかどうかはわからず、500年後に生かされるかもしれないという気の遠くなるような学問らしい。壮大なロマンティズムである。
数学には、純粋数学と応用数学という分類の仕方があるようだが、応用数学が、実際の科学発展に強く結びついた実践的な数学とするなら、純粋数学は、数学そのものを純化した理論的な数学といえるのかもしれない(この数学についての分類は、僕のような素人にはまったくわからない世界なのでこれは僕の感じたとらえ方です)。この点については興味深いサイトページを読ませていただきました。
     「科学と数学の間」
           (トップページは「科学と技術の諸相」です)
(この本や「博士の愛した数式」に出てくる数学者の名も出てきますので参考になると思います)
数学が科学に先んじて自然の姿を書き表すこともあれば、科学がその数学の言葉を具体化をして生きた言葉にし、新たな数学の発展を誘発することもある。ただし純粋数学は、どのように科学に生かされるかは予想はしない。面白い世界だと思います。
でも言えることは、応用数学よりも純粋数学のほうがロマンティズムであるということである。この本の中身も、現実の科学とはあまり接点を持っていないように思われる。
このロマンティズムは、文学が人の心というもつれたものを抽象化して一つの心の働きを描くものとすれば、純粋数学は、もつれた事象を抽象化して一つの公式として解き明かすものでしょう。この意味において文学と数学とが接点を持つことができたのかもしれません。
しかし、この数学の持つロマンティズムだけを引き立たせると、純粋数学を高尚化し過ぎるというものを感じてしまう。
これは藤原さんのもつ独特なものかもしれない。
それは、先に読んだ「国家の品格」に見られる西洋の合理主義を否定した日本の精神文化の高尚化としても現れるのである。
今の社会の様々な矛盾は、政治的実践の中から生まれたものである。もちろんそこには政治的な理論があったのだが、この矛盾を指摘をしてその解決を政治的な実践から提起をせず、その新たな実践の理論をあやふやな精神論的なものに置き換える。これもまたロマンティズムである。
やはり応用数学ではなく、エレガントな純粋数学の世界なのかもしれない。

                     2006年3月24日 記

                          夕螺










間宮兄弟
                          小学館
                江國 香織  著
江國さんの作品や、エッセイを読むと、そこには生活臭のしない男女を見るというのが共通した僕の感想であり、同姓の友人関係、異性間の友人関係そしてもちろん恋愛関係を描くが、そこでの人々はその生活から離れたところにその人々の関係が描かれる。もちろん生活者という部分は持っているが、素敵な友人関係や恋愛関係の背景として霧の中にあるような生活である。
友人関係や恋愛関係という美しいものが描かれ、その背景としての生活は抽象化されたような霧に包まれているような形で背景として描かれるそんな絵画のような印象を受ける。
この美しい絵画を読者は見るのだが、生活から離れたものに読者も素敵な時間を持つことができる。小説に「恋愛小説」というジャンルがあるとすれば、背景にある生活が写実的に描かれているとそれが邪魔になるのではないかと思う。もちろん、生活臭たっぷりな恋愛小説というのもあるのだが、この生活臭を背景に押しやって人の心のぶつかり合いだけを描くのもまた恋愛小説の中の一つの手法だろう。僕は江國さんという作家はこの後者の恋愛小説家だと思っている。
読者も自身の生活をすべて忘れて友人関係や恋愛関係の中に陶酔できるという世界が江國さんの世界だと思う。
もちろん、ただ読者を陶酔させるだけの甘ったるいだけという意味での「読み物」としての恋愛小説ではなく、「小説」としての優れた作品である。
人は、友人と飲み、語り、恋をし人の心に触れ合う。それが私生活や仕事から離れての関係になら喜びを感じるだろう。生活を背景に押しやって。
しかしその後にそれぞれの生活(仕事)の中に帰っていく。
時間の流れの中の心は、この生活から離れた心と、生活の中にいる心とがかけ離れたところにあり、時には葛藤をするものだろう。江國さんの作品は、恋愛小説という形を持って、前者の生活から離れた心を描くのが軸足である。やはり恋愛ならば素敵な男女が描かれ、友人関係でも素敵な男女が現れる。ここがやはり魅力なのである。ここには生活者としての心の葛藤はやはり背景に押しやられる。
江國さんの作品をこうした性格のものとしてみたならば、「間宮兄弟」は、生活者を描き、江國さんの作品としては異色ではないだろうか?
間宮兄弟は、子供の頃からもてない男であった。苦い失恋の思い出を持つ。失恋というよりもその前提である恋愛関係すらなかった。兄明信は失恋をすると黙り込み、弟徹信は、失恋をすると近くに通る新幹線を見に行く。お互いに失恋したことにすぐに感じ取れるほどにお互いを知り抜いていた。そんな兄弟は30代半ばになっても2人で生活をしている。
兄弟それぞれは、また恋をした。。。。。。この作品は、生活者である兄弟のそれぞれの恋を約1年にわたって描く。
兄弟は子供の頃から遊んだおもちゃを大切にしまってある。2人の心地よい時間の流れは、本を読むことと好きな映画ビデオを見ること。この時間の使い方や楽しむためのグッズはどことなくオタクを思い起こされる。
しかし、オタクといってもテレビなどに出てくるような鉄道オタクや人形を集めたりするようなある意味かたよった物へのオタクではなく、「生活オタク」である。
マイホーム主義などという言葉があるが、既婚者の中にも家族の生活を一番大切にした生活を営むことがある。単身者にしても自分の時間を戴せうにして趣味なども含めたものを大切にする人もいる。間宮兄弟は、独身だが、母親の誕生日を一大イベントと考えたり、死んだ父親が生きていた頃の過程の思い出を大切にする。この意味では、ごく普通に家庭や自分の時間を大切にするという生活者なのである。これはある意味オタクと名づけるならば「生活オタク」ということになる。
これまで読んだ江國さんの作品が、この生活者の部分を背景に押しやったものとすれば、この作品は、背景であった生活をはっきりと書き表した作品といえる。
作品からは、オタクっぽさを感じるのだが、オタクという言葉だけでは現せないものがある。日常の生活のあわただしさに追い回され、江國さんのほかの作品のようなこの生活から離れた時間を持ちたいとする日々を考えれば、その生活自体に喜びを感じ取れるというのは素敵なものである。これを「生活オタク」という言葉で書くこと自体が間宮兄弟への変な見方なのだろう。
兄弟は、それぞれに恋をする女性を自宅に招き、おでんパーティーをしたり花火大会をする。アットホームなおデートである。招待された女性たちは、それぞれに恋人がいたり、不倫相手が居る。まさに恋の世界に陶酔をしている。その女性たちから見れば、間宮兄弟のアットホームなおデートは異質である。女性たちは戸惑う。
しかしその戸惑いの中になんとなく落ち着きを感じていく。その落ち着きさの中に陶酔という形の恋から抜け出そうとする。それぞれに不倫から離れ、肉体関係からの恋から離れていく。それに相対するように、徹信が恋する離婚寸前の人妻とその夫、そしてその夫の不倫相手の泥沼化。
陶酔する恋と生活者としての恋の対比もあり、そこに間宮兄弟が間に入る。
この絶妙さにこの作品の面白さがある。
間宮兄弟と接することにより、間宮兄弟が恋する女性たちは変わっていく。女性たちは自分自身の恋を見直しはじめる。このことで間宮兄弟のそれぞれの恋は破れていく。
間宮兄弟自信の寂しさが残る。
周りの女性対は間宮兄弟にホンワカとした落ち着きを見るが、やはりそれは恋ではなく友情なのかもしれない。よく聞く「あの人はいい人なんだけど。。。。」といったところかもしれない。
間宮兄弟自信も、恋に破れつつも今ある2人の生活に安心感をまた持つ。
読み終わって持つ読後感は、生活オタクの恋の道化師という感じで、人に笑いやいろいろな面での影響を心に投げかけるが、その道化師には寂しさが残る。面白おかしくも読めるが寂しさをもっても読める。読者も間宮兄弟に暖かさを見るだろうが、女性の読者が「もし。。。」と考えた場合に間宮兄弟と結婚をしようとするか?
これはその女性の年齢や人生観によってちがってくるだろう。
40歳を過ぎた江國さん。この作品を書いた頃に40歳を迎えたのかもしれない。この40歳という年齢による江國さんの変化も出てくるだろう。陶酔した恋だけを描くと同時に生活者という面での恋を描く江國さんも出てきてもおかしくないのではないか?

                      2006年4月5日 記

                             夕螺










東京日記
                          岩波文庫
               内田 百閨@ 著
短編集「東京日記」をはじめ、「白猫」「長春香」「柳検校の小閑」「青炎抄」「南山寿」「サラサーテの盤」の6編が収録されています。
1934年から39年までの百閧S5歳から50歳の頃に発表されたようです。「サラサーテの盤」は戦後(48年)です。
「(前略)つまり東京の街めぐりの情景は、それらの具体的な地名を通じて、明瞭な輪郭を与える。
その輪郭があるだけに、物語の内実はいっそう奇妙な印象を際立たせる。(中略)幻視、白昼夢、どのようにもこれらの妖異は言いあらわせるだろうが、それが東京という、現実に存在する場所の枠に規制されることでもって、いわば、瓶の中の子鬼のように封じこめられているのである。」
   (文庫版「解説」より引用)
同じく、この解説にも書かれているが、「冥途」は、この「場所」がはっきりと書き表されていない。だから「冥途」は幻想的な世界に落ち込んだような感じを受け、夢の中の世界を漂うようである。しかし「東京日記」は東京の中に実在する街が出てくる。それも、昭和初期とはいえその当時の大都会である。その具体的な場所に幻想的なものが現れるのである。今で言えば、六本木や歌舞伎町といった繁華街、ビスネス街の西新宿や大手町に突然に幻想的なものが現れるといったぐあいで、「幻視、白昼夢」という表現が適当だろうと僕も思う。
皇居お堀から大鰻が出てき、よく見るとその大鰻は小さな鰻が集まったものだったとか、無人の車が中を浮いて走っていくとか、愛宕山の隋道の中に世界が存在しすべて光っていたとか、丸ビルがなくなってしまい野っぱらになってしまったとか。。。。
不思議な光景が展開されていく。
この幻視や白昼夢を思い起こすような世界が描かれている中で、百閧フ異常さを見るわけだが、「芥川が描いた内田百陬?(新潮文庫「百鬼園随筆」表紙)という漫画というのか落書きを見ると、芥川から見た百閧フ狂気あるいは風変わりさを見ます。芥川自身も晩年の「歯車」を読むと、歯車の幻視を見ます。そして芥川は百閧フ「冥途」を高く評価する。狂気といわないまでも百閧フ風変わりさが「東京日記」という作品を生み出したのだろう。
現実に百閧ェ幻視を見、白昼夢の中にいたというのは定かではないが、東京という都会の中に幻想的な世界を見るという中にその幻想さは特別な不思議さとなって伝わってくる。自然の多く残る場所において自然を写すような幻想さは理解しやすいが、大都会の中に幻想さを見るというのはまたちがった不気味さを感じる。
この意味で、「東京」あるいは東京のどこそこという具体的な「場所」を示すことにより、この作品は独特な世界を作り上げているのだと思う。そしてその「場所」は「東京」でなければならない。
同時に東京は百閧フ生活の場所でもある。
「具体的な場所の名を示す、ということは、つまり、私個人のことをはっきりと書くことなのだということを、この仕事によって教わった。そしてまた、私個人のことを書いたつもりでも、結局は何も書けていないのだ、ということも。」
               (川上弘美「此処彼処」あとがきより引用)
「以前『椰子・椰子』という、嘘日記の本をだしたことがありました。本書は、本当日記です。少なくとも、五分の四くらいは、ほんとうです。普通に生活していても、けっこう妙なことがおこるものだなあと、読み返しながら、なつかしく思いだしております。」
      (川上弘美「東京日記・卵一個分のお祝い。」あとがきより引用)
「冥途」が、具体的な場所がはっきりしないままに幻想的な世界を描いているとすれば、「東京日記」は東京のどこそこという具体性がある。ちょうど、この川上さんの具体的な場所を示さない「椰子・椰子」と、「此処彼処」「東京日記」との関係にも似たものを感じる。
百閧フ「東京日記」が東京という都会を舞台に描かれていることにその作品の良さが出ていることと同時に、東京は百閧ェ生活する場所でもある。そんな場所に、普通に生活していても、けっこう妙なことがおこるものだなあという百閧フ生活の場での妙なことでもある。
東京という大都会、そしてそれは同時に百閧フ生活の場でもあるというそういう背景に引き込まれてしまうのではないか。
この百闔ゥ身の生活を写したという点では、他の短編にも出ている。
子供の頃から習っていたという琴の話、盲目の音楽家の友人、教授職の辞任など、百閧フ実際の生活の一面が現れている。また随筆にもある近所の殺人事件も表現されているが、そのような日常の中にある妙なことが描かれ、独特な美しい文章で読者の心に突き刺すような読後感を残す。
本当の話なのかウソ話なのかはあやふやな中に、そのあやふやさに心はあるのである。簡単に喜怒哀楽などという整然と言えない心の動きではないものを読者の心に残すだろう。

                 2006年4月19日 記

                            夕螺








蕎麦屋の恋
                      角川文庫
              姫野 カオルコ  著
表題作の「蕎麦屋の恋」をはじめ、「お午後のお紅茶」「魚のスープ」の3篇の短編が収められています。
姫野さんの作品は初めて読みました。
それぞれの短編の題名を読むだけで、どのような作品かと興味がそそられます。まず題名にひきつけられて読み進むうちになぜその題名が付けられたのかが納得させられます。姫野さん独自の人生観が現れています。
初めて読む作家でしたので、ホームページはないかと探したらありました。
           姫野カオルコ公式サイト
まずはドキッとさせられます。
もうすぐ50歳とは思われないようなジムで鍛えた肉体が。。。。ううう
読む前にこの公式サイトを見たために作品は甘く官能的なのか?という先入観を持ってしまったのですが、読み終わると作品に表れる視点もはっきりしているし、作品は(この短編集だけを読んだ限りでは)純文学なのではないかと思いました。
プロフィールによると、右目と左目の視力差が大きい。ガチャ目である。
まぁ、視力はどうでも良いのですが、女性の魅力(ご自分ではブスとは言いますが)的な肉体を作り上げる一方では、キリスト教の影響も受けていらっしゃるようで、外面と内面もまたガチャ目なのではないか?
このガチャ目で見た世界に姫野さん独特の作品を生むのではないかと思う。
「蕎麦屋の恋」は、京浜急行(関東以外にお住まいの方のために補足ーーー港区の品川が始発駅で、または都営地下鉄浅草線から乗り入れてもいて、神奈川県の三浦半島三崎港駅まで走る私鉄です)の特快(特別快速)の中で出会った秋原健一43歳と波多野妙子30歳の不倫的な恋を描く。
健一は美人の妻があり、いろいろと女性にはもてる。妙子は地味に料理人になろうとしていた。そんな2人の恋。。。。
健一は、平凡なサラリーマンであり、若い頃に好きだったミュージシャンになっていたら今はどういう生活なのかと時々思い返して今の平凡を思う。妙子は、子供の頃にバレーをやっていたが、先生から顔が大きいからもう少し華奢ならといわれコンプレックスを持ち続けていた。
二人は、相反するようなものを持つ。健一は異性にモテ今の平凡さを思い煩う。妙子はコンプレックスの中に異性をはね退けて、料理教室の講師という仕事を嫌ってある意味料理人という凡さを求める。そんな二人が出会って初めてのデートをする。
その場所が蕎麦屋(けしてしゃれた店ではない蕎麦屋)だったのである。
二人はザル蕎麦をすする。いつの間にかホテル街を歩いていて二人はホテルに入る。でも二人で一緒に楽しくテレビを見るだけ。そして二人そろって特快に乗って帰っていく。
特別ではないザル蕎麦という食事、一緒に楽しく見るテレビ、そしていつも乗りなれた特快。。。
健一から出た言葉は、「暮らし」である。
お互いに相反するものを持つ二人だが、いつの間にかこの「暮らし」を意識している。
不倫という甘い恋と二人の過ごしたデートでの「暮らし」ここに姫野さんのガチャ目的なものが表現され、読後に暖かいものを残してくれます。
健一のもてる生活は変わらないかもしれないけど、そのたびに健一は家族の「暮らし」に戻るだろう。妙子は平凡な皆がうまいといってくれる食事を作る料理人になることだろう。
特快では、また二人は出会うこともあるかもしれないが、蕎麦をすすりながらまた楽しくお話しをするという関係を超えないのではないか。
こういう恋があってもいいのではないかという姫野さんのガチャ目的な恋愛小説であり、人の生き方を見せてくれる作品でもある。
「お午後のお紅茶」は、美容師の小林くんが偶然昼飯を食べるために入った「ポプリ」という店のママさんの話しである。
ポプリのママさんにはこだわりがある。
しゃれた看板文字、しゃれたジャズのBGM、こだわりの自然素材。。。。
しかしその味付けは、水を何杯も飲まなければならないような塩辛さ。。。
このギャップに今の社会を見る。何にも「お」を付けてお上品さがあるような見た目のよさはこれでもかというほど見せつけようとするが、実際の中身となると首を傾げたくなるような社会。これを皮肉るような作品です。これもガチャ目的です。小林くんは純粋に人を好きになることを喜び本物の美容師を求めていくでしょう。
「魚のスープ」は、主人公の「ぼく(圭一)」は妻の桜子とストックホルムに旅行する。突然に学生時代の恋人カズからチケットが届いたため。
二人に街を案内するカズ。昼食にカズは魚のスープをすすめる。日本では味わえない味のスープを。桜子は三ツ星レストランの食事を希望する。圭一は、こんな二人を見てその生き方の違いを見る。
読みはじめると、たぶん読者はナチュラルなカズに好感をもち、桜子の標準的な女性あるいは妻という「解説」の言葉を借りるなら凡庸さだけの女性で不足を感じるだろう。圭一の心の中も同じだろうと思う。
圭一の心は揺れる。
「お午後のお紅茶」でのポプリのママさんを外見ばかりで中身がないと見るならば、桜子はこのタイプだろう。だから作品の筋としては、圭一はカズにひきつけられていくことを予想する。
しかし結末は。。。。
「お午後のお紅茶」とはある意味逆となる。圭一は桜この純粋さを見る。
「お午後のお紅茶」と「魚のスープ」の作品からも姫野さんのガチャ目的なものの見方を感じます。
悪く言えば天邪鬼的だという人もいるかもしれませんが、姫野さんの他方面から人間を見つめる視点は面白いし共感を持てるものでもあります。
直木賞候補となった「ハルカエイティ」を読んで見たいと思います。

                     2006年4月29日 記
                        
                            夕螺








メール交換銀色夏生×HARCO
                        角川文庫
            銀色 夏生・HARCO  著
シリーズものの「つれづれノート」が去年の14巻で終わり、新たにコラボシリーズとして「メール交換」が始まりました。
その第一弾が、テレビコマーシャルの音楽として最近よく聞くようになったHARCOさんとのコラボです。
お二人の「メール交換」を本にした形になっていますが、メール交換がお二人の中で続き、ある程度貯まったのでそれを本にしようとしたのではなく、夏生さんははじめの頃にすでに本にしたいとHARCOさんに相談しています。HARCOさんも快く受け入れて本の形になっています。
このような経過からのメール交換ですから、夏生さんとHARCOさんの個人としてのメールのやり取りではなく、作家銀色夏生とミュージシャンHARCOとの公のお二人のメール交換となります。(もちろん、お二人のプライベート上のメール交換ならばこのような本という形での公開はなかったでしょうが)
夏生さんは、このメール交換を出版する目的は二つあったとして、ひとつはHARCOさん(というよりも読者にということだろうか?)に本ができるまでの過程をお見せしたかったと書きます。HARCOさんご自身も、本をだすこととメール交換という本に対して「未経験ゾーン」だと興味を示します。夏生さん自身のもう一つの目的は、
「ひとつは、一人で何かを書くのではなく、誰かに向ってかいてみたかったということ。
誰かに向って書くときに生まれる態度というか、視線や姿勢は、またひとりのときと違う感じなんだよね。(中略)
その誰かっていうのは、私たちの場合、お互いよく知らなくて、まるで架空の人物みたいで、
その人にいっているのか、遠くに向っていっているのかわからないみたいだろうし、」

                          (P.15より引用)
まるで架空の人物みたいで
夏生さんの昔の作品に、「流星の人」がありますが、それは、まさに、架空の人物である流星の人に呼びかけていますが、今回の作品でも夏生さん自身の心の中を(それは過去の自分をある意味振り返るように)語っていますし、夏生さんの作品には、第三者が時々現れて誰が主語なのかわからないときがありますが、この誰かに語りかけるという手法もまた夏生さんの特徴かと思います。
ですから、実在するHARCOさんというミュージシャンという夏生さんにとっては初対面の方に、しかし実在する方ではあるにしても語りかけるという夏生さんの心の中を表現したひとつの作品として完成しています。
もちろん「流星の人」のような私的な世界はありませんが、夏生さん自身がご自身の心の中にあるものを語りかけるように表現した「作品」であることは間違いないでしょう。
「作品」であるならば、それは読者(ファン)に投げかける言葉です。
「銀色夏生×HARCO」この「×」は、夏生さんがどれだけご自身の思いを書くか、HARCOさんもどれだけご自身の心の中を書けるかにあります。その意味では夏生さんが主導権をにぎったように思われると同時に、やはりこの作品は夏生さんの作品なんだなと、強く感じます。
この本をHARCOさんファンもお読みになると思いますが、どれだけHARCOさんの内面を感じ取れるのか?
僕のようにHARCOという方をはじめて知ったものにとってはわかりませんん。でも、HARCOさんという方に親しみを覚えたことはたしかです。そのやさしさと思いやり。。。最後にカンチにもメールを書きますね。。。。
お二人の夫、むーちゃんとイカちん。。。
このお二人と同じような「男」をHARCOさんの中にも感じます。
「カンチ」「チャコ」「しげちゃん」「せっせ」。。。。
HARCOさんが「つれづれ」を最初から読み進んでいるということもありますが、数年前までの「つれづれ」を思い起こしてぐっと来ました。
今も夏生さんは「つれづれ」の世界に生きている。。。。「つれづれ」が終わっても夏生さんは今という僕たちファンと同じ時間を生きていらっしゃる!
この今を生きる夏生さんと、作詞家時代からの一瞬の過去の時間に生きた夏生さんも出て来、その中に夏生さんの思いがあるわけですね♪その思いを「誰かに向って」それは読者・ファンに向ってということで、語りかけているのでしょう。
この意味において、この作品は「つれづれ」にも匹敵するような作品なのです。
作品中に、写真と詩の本の出版を思わせる文がありますが、たぶん近日中に出版されるのではないかと思います。またちがった一面の夏生さんが見られると思います。
「ところで、この本、だれが読むんだろ・・。
うーん、時々、秘密を告白していますね〜、私は。それとなく。
だれか、わかってくれるかな〜。」

               (P、120より引用)
この「秘密を告白」は、「このことだ!」という一つの特定されたものではないと思います。
この作品の目的のひとつである本をどのように作っているかという面では、文庫本とはいえ、表紙カバーから中に挟まっている「銀色夏生の本」というビラまで、すべて夏生さんの手作りを感じますが、その作る過程の様子は、ファンにとっては、知りたいことでもありました。
この知りたいこと。。。。は、ファン一人ひとりに違いがあると思うのですが、作詞家時代のこと、作品の作り方、自分の性格、人との交わり方、そしてご家族のその後の様子などなど。。。。
一人ひとりのファンが知りたいことがそこに少し書かれていて、そこにファンにとっての夏生さんの秘密を見つけるのではないでしょうか?
それは一ファンとしての僕も同じです。
僕が知りたいことに夏生さんが答えてくれたという錯覚をも感じるほどに秘密を知りえたというものがあります。
同時に、僕個人としてはずっと「銀色夏生ページ」を更新し続けているわけですが、その中に僕が感じ取った銀色夏生という人の内面を見ることでもあリます。その内面としての夏生さんの「秘密を告白」という部分を見ます。
「私にとって、孤独というは、自由と同じ。」
                (P、97から引用)
2005年2月に発売になった詩集「すみわたる夜空のような」の感想ページに書いた引用と感想に、
『孤独というのは、裏を返せば自由ということである。
「まわりの広さに気づいたときに感じるなんともいえない自由」
                               (本の帯より引用)
夏生さんは孤独を感じる以上に自由を見ているのでしょう。この自由を見たときに今ある孤独は、「すみわたる夜空のような孤独」というように読者の心をも澄みわたらせるような素敵な言葉になるのでしょう。
孤独というのは、どれだけ深く人を愛したか、大切にしたかにその深さが比例します。愛情が深かったからこそその愛が壊れたときには大きな孤独となる。純粋さがあるのでしょう。
この純粋さと孤独を自由に置き換える心の強さ。
これが夏生さんの詩のよさなのではないか。。。。。』

と書きましたが、この自由と孤独は、夏生さんのすべての作品のテーマでもあるように思います。一つの思いを作品に書き続けていくというような言葉を時々書いていらっしゃいますが、その一つがこの自由と孤独なのではと思います。
ですから僕にとっては、この「私にとって、孤独というは、自由と同じ。」という言葉は、銀色夏生さんの内面を見る上ですごく重要なのであり、多くの本の感想を書いてきた上で間違いはなかったかなと思うわけです。
また、もう一つ、ずっと考えていた詩の中にある「僕」という主語や子供らしさについても
「私の中には、老若男女、何人かの人がいて、その時のイメージにあわせて、誰かがでてくる。
あと、たとえば別れの場面を書くとき、男の視点から書くか、女の視点で書くか、
この詩はどっちにしようかなーって、
考えるときがある。」

おじいちゃん・おばあちゃんの夏生さんは出てきませんが、男の視点・女の視点、幼さの視点というものが、どのように詩にあらわれるかのヒントがここにはあります。
これは、作詞という世界とも関連があるのでしょうが(男の歌手が女心を歌ったり、その逆というのはよくある)、夏生さん独特な詩人の姿を見ることができます。
このほかにもいろいろな点での「秘密」を感じ取れるのですが、僕も含めてファンにとっては興味が尽きない本です。もちろん、この本で初めて銀色夏生に出合ったという方にも楽しんで読める本ではないかと思います。
近いうちに写真利の本が出そうですし、ホームページかそれに替るものをお考えのようですし、この点でもワクワクする秘密を夏生さんは語っていただけました。

                      2006年5月10日 記

                         夕螺









インストール
                             河出文庫
                 綿矢 りさ  著
綿矢さんのデビュー作。綿矢さんの作品ははじめて読みました。
文庫版では、「インストール」と「You can keep it」の二つの作品が載せられています。
「インストール」は、ネットからのぞいた大人の世界がそこにあるのだが、この大人の世界に対しての17歳の女性の心の不安定さと成長を描く。
大人たちが作り続けてきた社会。その社会は、子どもたち、もちろん17歳の少女から女性へと変わりつつある世代にとっても、歴然と存在する世界である。その社会に対しては無力である。無力なままにその社会に生きなければならないが、17歳ともなるとただ体と心を成長させるという単なる子供であるということからの脱皮を迫られる。自分自身がその大人の世界に足を踏み込まなくてはならない。
大人の世界を見る目と心は、大人の世界という現実とぶつかり合う。
ぶつかり合うが、自分自身にはどうすることもできない社会。それが17歳の女性にとっての大人の世界なのである。
このぶつかり。子供そして青年期とその個人の能力の違いはあるにしても、大人の世界とのぶつかりに対して自分の位置をどこに求めるのかでその人がどんな大人になるかがまずは決まってくる。
社会の中での自分の居場所と言ってもよいが、それを見つけることはたやすいことではない。ここに17歳の大人の女性になりつつある少女の精神的な不安定さがある。
この精神的な不安定さをどのように克服するかがこの時期の青年の成長なのではないか。この過程の中に自ずから自分の居場所が決まってくる。
主人公の朝子は受験戦争から脱落することとなった。
「野望」はあるがそれが何なのかはわからない。そこに受験勉強の疲れもたまるだろう。周りのクラスメートは上っ面なおしゃべりにわら転げている。上っ面な中に真実はない。どっと疲れが噴出してくる。しかし、人を批判しても自分自身も今の居場所も将来の居場所も判然しない。それがまた一番どっと疲れる原因なのかもしれない。
登校拒否になり、自分の部屋のすべてを粗大ゴミに出して身の回りも心も空っぽになる朝子。
しかし空っぽになったのはいいがそこに何を入れたらよいのか。。。。
空っぽな状態は自由だが、空っぽなだけでは幸せ感はない。朝子は、その空っぽな中に何を入れていくのか、それがまた自由なはずであり、幸福なはずである。何をインストールすればいいのか朝子は呆然とする。
自分の出した粗大ゴミを呆然と眺めている朝子の前に小学生の「かずよし」が来る。そして朝子の捨てた壊れたと思ったパソコンをかずよしはもらう。
ある日朝子はかずよしからアルバイトに誘われる。フウゾク関連のチャットルームで話しをするというものである。朝子とかずよしは、フウゾクチャット嬢に成りすまして大人の世界の中に入り込む。
朝子は毎日、母親が仕事に出かけると合鍵でかずよしの家へ入りいろいろな男とチャットをする。かずよしが下校すると引き継いで学校から帰ったふりをして部屋に入る。
このようなネットを通じた大人の社会や周りの大人の世界から中に何を朝子は得たのか?
朝子はチャットの中である男たちの淋しさを見る。電話線だけでつながっている相手に人間を見る。
性というのはある意味人間の本性の部分がある。その部分での大人世界の淋しさと大人のありのままの姿。そこの淋しさ。
ここに大人の世界を客観的に見る朝子がいたのではないか?
朝子は、母親が学校に行っていないのを気づいてはいないと思っていたが、母親はある日それを知り朝子の前で泣く。朝子は年をとった母親を見る。和義の母親は後妻でありかずよしとは血がつながっていない。その母親も朝子が我が家に勝手に出入りしていることを知っていた。しかし、血のつながっていない我が子がそれが楽しいのならそれでいいのだと立ち去る。
ここに朝子は大人たちの弱さを見たのではないか。
朝子は、明確な将来への居所を見つけたわけではない。しかし少女から大人になる中で、大人世界を高いところから見つめたのではないか。高いところから見つめてみることにより甘えていてはいけないのだと言う自覚のようなものを持つ。
これが朝子が得たものではないかと思う。自分の中の大人というプログラムがインストールされたのだろう。
朝子は、周りの人たちと接しようと学校に帰ろうと決意する。これはネットというウソの世界ではなくて現実の世界に生きようというメッセージではなく、大人の目で見た社会に生きようというものである。
「You can keep it」は、友達関係をうまく作れない男が、物をあげればその関係がうまく作れるという錯覚による悲喜劇である。恋愛にまでも物をあげることに頼る悲喜劇である。物を通しての人間関係。この希薄さ。。。

             2006年6月20日 記

                          夕螺







ベター・ハーフ
                            集英社文庫
                  唯川 恵  著
バブルがはじけようとする1989(平成元)年、永遠子は文彦と結婚式を挙げる。永遠子25歳。文彦28歳。
20世紀も終わる間近まで、10年間のこの夫婦を描いていく。
90年代に入りバブルははじける。大きな社会のうねりの中に、人々は木の葉のように揺れて流された。日本はアメリカを追い抜くというような幻想を初めとした人々を浮かれさせたバブル。はじける直前まで、庶民は今の繁栄を永遠なものと思い込んでいた。
永遠子は、有名商社に勤め有名ブランドの物を身に付けバブル時代を謳歌していた。女としてもその魅力を如何なく発揮をし、男を選ぶ目も高かったし、男もバブルの中で永遠この欲望に応えることができた。「女」がちやほやされた時代である。
結婚式は、有名タレントが式を挙げた教会。ウエディングドレスも豪華であり、新婚の愛の巣であるマンションを購入した。頭金は親からというものもあったが、ローンは、文彦の将来を考えれば返済は無理とは思えなかった。
この作品のサブタイトルというのか添え書きには、「今はもう遠いすべての一瞬に」とある。
永遠子にとって、優雅なOL時代から文彦という男を手に入れ、豪華な結婚式を挙げ、将来への夢が膨らんだその一瞬。10年後の永遠子は思い出しそれは遠い昔のもであったことを今の自分に見る。
このようなバブル期に生きた女性の象徴として永遠子というような女性が描かれたのだおるが、社会の動きの中には、若い労働力が足りなくなり、女性の雇用が増大する。もちろんこの中には女性の社会進出や男女平等が叫ばれていたという背景もあり、男女雇用機会均等法も制定される。女性の中にはこの社会運動としての「女」を意識した人たちもたくさんいたはずであり、仕事か結婚かと悩んだり、バブルの頃でも地味な生活をせざるを得なかった女性も多数居り、一見の派手さの中にクレジットカードの利用も増えていたはずである。バブル期の女性がすべて永遠子のような女性ばかりだけではなかったのであるが、結局は、目に見える幻想おなかに踊らされただけなのである。70年代の女性解放運動が、結局は「女の男への闘い」というものに転化されて崩壊していったと同じ現象がバブル期にも起きていたのである。
僕の生きた時間の中には、子供の頃の東京オリンピックに象徴される高度経済発展があり、その後のドルショックやオイルショックという不況があり、日本列島改造論の公共事業景気やインフレがあり大幅賃上げがあり、その後は国家財政の危機に陥り、行財政改革と民間活力の導入(民営化)がはじまり、中東の危機だったかの中から省エネルギー運動と大幅賃上げの抑制と労働力の効率化、OA化などによる無駄の排除があり、国の力を総動員した国際的な競争力の強化の中で好景気が始まった。これがバブルの始まりである。
なぜ好景気がバブルとなったのか。好景気になっても国家財政は改善されず、社会資本の整備にもつながらなかった。賃上げは僕の記憶では5%どまりであり、「過労死」という国際語を作るほどの長時間労働による時間外労働などによる収入の増加があっただけであり、一般庶民の消費は、この見かけ上の賃金上昇とカードローンなどに支えられるようになる。国際的には、貿易摩擦が生じ、国際援助は回収の見込みがなくなってくる。金は、大企業にダブつき初め、株や土地の買占めに使われ、銀行は抵当のないものにも金を貸し始める。経済は、生産と消費を基本としたものから本来何の価値もないものあるいはその価値があやふやなものの売り買いによるものになる。それはインフレ傾向とつながり、同時に国家財政の危機は深まり、国債が大企業の投資先ともなり、一般庶民の消費にかげりが出始める。
好景気は社会を発展させるためにもその競争は良い方向に作用するが、景気のかげりが見えはじめた時には、その競争は生き残りの競争となり、ソフトランディングは無理なのである。バブルは一気に破裂する。
経済は縮小しはじめる。
不動産や株価の下落、生産の縮小と倒産、銀行収入の不良債権の山。。。
個人投資家の切捨てと中小企業の切り捨て、団塊世代へのリストラという切捨てと失業。。。正社員の縮小と不安定収入の増加。。。
企業の国内投資と個人消費の冷え込み、商品価格の下落。。。
小さくなったパイを取り合うための競争。。。。勝ち組負け組み。。。
貧富の格差拡大。。。。庶民生活の犠牲と大企業・国家主義。。。
人々は、経済や社会の波に浮かぶ木の葉のようなものであり、常にその波の中で翻弄されていく。
「ベター・ハーフ」は、このようなバブル崩壊後の経済や社会の波に触れられながらそこに浮かぶ永遠子という一人の女性と、文彦との結婚生活を描いていく。しかしこの作品は、社会派の作品ではなく社会そのものを見つめる作品ではない。社会の波に浮かぶ一人の人間あるいは一組の夫婦の心の動きと時間の流れを描く。
当然に読者もこれまでの社会の波に翻弄されて生きてきたわけで、作品上に出てくるある社会の一コマは、永遠子自身や文彦との結婚生活、あるいは永遠子や文彦を取り巻く様々な人々という形においても時間の流れを共有しているわけで、読者もまた90年代にあった自分を振り返ることと思う。
この作品のよさは、このように現実にあった社会現象と時間の流れがはっきりとしていることによるその中においての人生を描いたところにある。
先にも書いたように、この作品は現実にあった社会現象を描くが社会派の作品ではない。だから一つひとつの社会現象は羅列的であり、深みがない。文彦が地下鉄サリン事件に巻き込まれるが、さらっと描かれるだけで小説としては突飛な表現である。作品としてこの表現方法が必要なのかと疑問を持ったりもする。この意味で見るなら、この作品自体をもうすっぺらなものにしてしまっているように見える。
しかし、この作品の描こうとしたものは、無意識なうちにバブルという見掛けの反映に惑わされた一人の女性の心と結婚生活自体の描写なのであり、社会に対する個を描くのであって、社会の現象は背景として描かれ、その時々の永遠子の心の動きと、永遠子の人生の移り変わりを描かれた作品であり、社会に翻弄されつつもどうにか二人の生活が続いていくという中での夫婦関係という男女の不思議なつながりを描くものである。この意味では社会現象の描き方(扱い方)に作品のうすっぺらさが目立つことは否めないが、現実にあった社会現象の中に生きる一人の女性やカップルをよりリアルさのあるものとして描くには一つの試みとしておもしろい作品であると思う。
また、人の人生は、その時々の社会の動きの中に流されて喜怒哀楽もその中に表れる場合が多々あるが、多くの社会現象は直接的に自分に対しては無関係に過ぎ去っていくものも多く、10年という時間の中においてはその時々の喜怒哀楽も一つの思い出となっていく。そのとき、これまでに過ぎ去った様々な現象は、自分自身の心に対しては単なる背景に追いやってしまうのかもしれない。こう見るならば、作品中に書かれる社会現象は、永遠子にとっても文彦との結婚生活にとっても、背景として描かれていくというのもまた不自然なことではないと思う。
「今日が過去になる瞬間」 (436ページから引用)
。。。常に、今という時間には今の自分がいるだけである。
永遠子文彦夫婦それぞれの不倫、左遷や失業、食べるための仕事、夫婦間の強姦のような中から生まれた娘、離婚ができなくなる様々なしがらみ、私利私欲の中に生きる周りの人々やその逆の温かみ、娘のお受験と母親同士の激しいいがみ合い。。。。
永遠こと文彦の中に起きたこと。。。。これが長編小説の中に描かれるが、そんな夫婦関係も今という時間はどうなのか?ラストは二人は笑いあう。
箱の中に箱が入っていてそのまた箱の中にも箱が入っている「入れ子の箱」。その時々の喜怒哀楽は、この入れ子の箱を一つづつ開いていくようなものであるという夫婦関係。サブタイトルにある「今はもう遠いすべての一瞬に」。開けた箱はこの一瞬一瞬の時間に空けた箱。どのような気持ちで思い出すのか。それは、今の自分が思い出す過去である。今の自分はその時々の過去の自分ではない。やはり、今という時間には今の自分がいるだけである。
この作品は、21世紀を迎える二人で終わるが、すでに21世紀も5年過ぎている。社会も大きく動いた。永遠こと文彦はまた入れ子の箱を開けていることだろう。それは読者も同じである。
背景として過ぎていく社会の動き。。。その中に翻弄されながら。

              2006年7月10日 記

                           夕螺









女っておもしろい
(ギンイロナツヲ×トゥトゥ)
                             角川文庫
                銀色 夏生  著
「おしゃべり本その1」
先に出版された「メール交換(銀色夏生×HARCO)」に見られるメール交換とは形のちがった「コラボシリーズ」第二弾だと思います。
トゥトゥさんは、出版会などとは関係のない一般人ですが、夏生さんとは長い友人関係にある方のようです。これは憶測ですが、夏生さんが「つれづれノート」に書いている「恋の師匠」とするツーさんかなと思うのですが。。。。
でも、誰ということは別にしても夏生さんのご主人(たち)やお子さんたちをよくご存知の方であり、シングルマザーとしてお子さんを育て、経済的には事業をして自立した女性です。ある独特な人生観をお持ちで、この人生観という面で夏生さんとは長く友人関係を続けられているのだと感じます。
「メール交換」は、ネットによるメールのやり取りをそのまま本の形にしていましたが、この作品は、トゥトゥさんとのおしゃべりを録音してそのまま文字にして出版されました。作品のはじめのページのプロフィールページには、
「私がふだん、どんなことをしゃべっているのか、興味がある人は、読んでみてください。」
と、書いていらっしゃいますが、その意味では、詩集や「つれづれノート」という日記エッセイとは違う夏生さんの顔が見えるのかもしれません。
お二人の「おしゃべり」は、恋愛、結婚、出産、性、子育て、離婚そしてお二人の共通点であるシングルマザーについてと、多岐にわたります。様々なことについてお話があるのですが、どこに集約されていくかを見ると、お二人の男性観や女性観と言ったものにつながるのではないかと思います。
女性観については、「アウトローな大人の女性に捧げます」(裏表紙より)と、あるように、お二人がシングルマザーとして生きていらっしゃるという特殊な生き方を選んでいるという中にもアウトローというものが見えますが、そこには、「男性に頼る」だけの女性の生き方ではなく、自立性が強調されていると思います。この女性の自立性、ここにアウトローな大人の女性が表現されているのではないかと思います。アウトローでない「普通の女性」という定義もお二人の中にどのような形で考えられているかは難しいのですが、お二人がご自分をアウトローな女としている自立した生き方をしていない女性化とおもうのですが、その意味においての「普通の女性」に対する見方も所々に現れています。
このようなアウトローな女性が自立した女性とすると、そこから様々なお二人のおしゃべりの中身が理解できます。
恋愛と結婚は結び付けない。結婚生活と子育ての分離、離婚についての考え方、性としての男性、仕事などなどすべてが独特な自立した女性の視線で語られてきます。
結婚しないトゥトゥさん、新しい結婚形態に2度失敗をした夏生さん。。。。
子供の所有。。。
トゥトゥさんの自由な恋愛と性。。。。
これらはたしかに自立した女性にしか意識的には(意識的にはというのは、結果としてそうなってしまったという意味ではなくて)できないものです。
これは、
「実は、彼女の男性感を読んで、男性が感じる気持ちっていうのは、ずっと、長いこと、女性が味わされていた気持ちでもあるんだよね。たぶん、」
             (88ページより引用)
たしかに今の世の中は、「男社会」と言われ、人としての経済的自立は男が握るような社会で、この経済的な自立は行動の自由さを男に与える。それに対する同じような女性の自由は、自立でありそれは今の世の中ではアウトローな生き方による女性であるということになる。
結婚とは、女性が嫁として「家」に入ること。子供はその「家」に属すること、男は妾を持つのが甲斐性。。。などなど。
アウトローな女性は、このような世の中には納まらない女性。
このような「普通な女性」やそれに対するアウトローな女性観が現れてきます。
これがこの作品の一つの言いたいことなのだろうと思います。
同時に、ここからお二人の男性像が出てきます。
結婚とは、女性が嫁として「家」に入ること。子供はその「家」に属すること、男は妾を持つのが甲斐性。。。そもそも日本男児とは女子供を養うのが。。。といった典型的な日本の男感や、その逆の女性を性の対象としてしか見ない遊び人の男とか。
男から見ると、こういう男も今の世の中ではある意味アウトローな男ではないか。
お二人のおしゃべりの中に出てくる男の雰囲気は、一つの男性像でしょう。
このような女性像男性像からの恋愛関係や結婚生活そして性などは、どことなくアウトローな男に対してのアウトロー女としての駆け引きのような気もしてくる。
そして結論としては、今の(今までの)男たちがこういうことをしているのだから女も同じことをする。その中で
「男もおもしろいだろうけど、女もおもしろい。このおもしろさを、生きようよ。」(89ページ)
という論法に聞こえてしまいます。
たしかに夏生さんは、夏生さんの結婚と離婚経験やトゥトゥさん風のシングルマザーの生き方をそのままに真似をしろと言っているわけではなくて、男も女も自分の生き方を尊重しあいながら互いに成長していけるような関係を大切にすること、お互いに自立した関係の中の自由な男女関係をお書きになりたかったのだと思います。そしてその上に立った「男もおもしろいだろうけど、女もおもしろい。このおもしろさを、生きようよ。」という結論なのだと思います。この中にアウトローな男と女という以上のアウトローな男女の関係と婚姻関係があるはずです。
しかし、どうもそのようなアウトローな男女関係が、夏生さんの2回の離婚とトゥトゥさんのシングルマザーのお話だけから結論を出すというのが難しいのではないでしょうか。どうも夏生さんの離婚経験とトゥトゥさんの男女関係の武勇伝的なものが目立ってしまう。だからこそ、夏生さんは、編集部の「スガワラくん」にフォローを頼んだり、それがだめなときはご自身で会話の外にご自身のお考えを書いたのでは?
やはり「普通の女」もいれば「普通の男」もいるわけで、この「普通な」という中身がその時代時代によって変わってくるということではないか。
この「普通な」という中身がその時代時代によって変わってくるというのが大切なわけで、江戸時代以前は別にしても、近代国家と言われはじめた明治と今とでもこの「普通な」というものが違ってきています。その時代時代によって変わるというよりも発展してきたはずです。その中に男女関係の平等さや婚姻関係の中身も変化しているはずです。
その時代時代には進歩的な女性たちがいた。
文学などによってその新しい女性を表現もしたし、現実の中にその生き方を現した女性もいたと思う。明治や大正の銀色夏生がその時代にいたのだろうと思う。一方では、このような文学の世界などのセンセーショナルな世界ではないところで地味に政治制度を変えようとした女性もいた。
このような先駆的な女性たちの後ろには無数の「普通な」女性たちがいた。その普通な女性たちは、その時代時代に働き先や家庭の中でその時代の女性像を作っていった。それがまた先駆的な女性たちをも刺激していったのである。
たしかに今の時代も女性たちは自立できない。本を出したり起業できる女性はほんの一握りの女性たちで、ほとんどの女性たちは「普通な」女性でいる。でも、そんな普通な女性も日々変化をしている。そして婚姻関係も。。。
先駆的な女性をアウトローとよんで良いのか?
アウトローはいつかアウトローではなくなる日が来なくては先駆的とはいえない。

                     2006年7月14日 記

                         夕螺











夜の公園
                                中央公論新社
                        川上 弘美  著
臓器の動きは、人が意識しなくても生命を維持するために働く。
同じように心の動きは、その人が意識するしないに関わらず働く。脳味噌の働きだと言ってしまえばそれまでだが、思わぬ心の動きに人は翻弄されながら生きている。
「この心をどうしよう。。。」と、戸惑うときが多々あるのではないか。
心が自由に働くとき、理性というやはり心の働きがその自由を抑制する。理性とは、社会的なものである。その時々の社会によってその中の「常識」というものに理性は動く。心はさまよい漂流する。人はその心をどこかにとどめなければならない。このとどめようとするものが理性であったり意思であったりする。時には諦めであったり我慢であったりもするだろう。
この心の動きの自由さと、理性や意思、諦めや我慢というものが激しく同じ心の中でぶつかり合う。
「夜の公園」は、恋愛小説のようであるが、その表面上の愛や恋というものを通り越したところの自由な心の動きと理性などとが激しくぶつかり合う葛藤する心を表現したものだろう。
川上さんの作品は、変化してきたという見方ができる。
たしかに初期の作品のような不思議な世界にさまようことがなくなり、生きている現実の中に足を踏み込んできている。しかし、その表現の舞台が変わってきただけで、不思議などうすることもできない心を表現するという基本的な流れは変わってはいないのではないか?やはり、自由な心の動きと常識という理性とか言うものとのぶつかりにそして自由な心の動きに主題はある。
「夜の公園」は、このような読み方をしたときに、その奥深さを感じ取れるのではないか。その意味で秀作なのである。単なる恋愛小説と読むなら、そこにはありふれたストーリー展開に退屈さを見ることになるだろう。
「夜の公園」を読み思い出すのが「いとしい」である。
この「いとしい」の感想には次のように書いた。
『「とりとめのない」という言葉は、まとまらないというような意味であるらしいが、つかみどころがないとか自然のままに流れるというような意味にもこの作品からの印象として受ける。
登場人物のそれぞれの恋や愛は、通常の小説のように心ときめいたような劇的な恋や愛ではない。やはりとりとめのないままに引き合う恋や愛である。恋する気持ちや愛する気持ちにはつかみどころがなく、自然な肉体関係がある。常識的な恋や愛とは違うものがそこには描かれる。だからとりとめもないのである。
この作品の題は「いとしい」であるが、登場人物それぞれの恋や愛は、単純に恋や愛とは呼べずに、このいとしいではないのか?男女間のいとしさという心の動きがとりとめがないのである。だからこの作品は、大人の恋や愛を表現したものではなく、とりとめのないいとしさを表現したものと思われる。ここではなぜ恋をしたかなぜ愛したかは問題とならない。いとしさから引き合う心の動きが自然なままに表される。いとしさという心の動きは、心そのものであるからつかみどころがないのである。』
「夜の公園」もとりとめのない物語である。リリは空を行く雲のようにその心はさまよい。春名は、海を漂うかのように心は漂流する。リリは結婚をしているが春名は独身という違いはあるにしろ、心の中には、愛とも恋ともいえないものが漂う。
リリは、夫である幸夫が夜遅く帰り、鞄とドスンと置く音を聞いて夫を好きではないと思う。「おかえり」の声を使い分けていたのに夫が気づかないことに好きでないと思う。春名は幸夫が好きだが、肉体関係以上には踏み込まない。
リリは年下の暁を好きのようにもなる。春名は暁の兄弟悟や他の男もを好きのようにもなる。
リリも春名もさまよい漂いながらその心のままに動く。このリリや春名の心の動きのとりとめのなさ。。。。ここに読者は戸惑うのではないか。そしてこの作品の難しさもここにあるのではないか。それはリリの夫の幸夫や暁、悟るという男たちにも言えることであり、リリや春名のとりとめのない心の動きに戸惑わされる。
しかし、一番戸惑っているのは、リリや春名である。自分自身の心がさまよい漂うことに対して戸惑う。夫や男たちへの気持ちが何なのか。愛でも恋でも「好き」でもない。リリはふんわりふんわりと暁と付き合う。春名は一日にふんわりふんわりと二人の男と関係を持つ。なぜなんだろ?口からは好きという言葉は出てくるけど。二人の心を二人はそれぞれに理解をできないのである。
さまよい漂う心をどうすることもできない二人。
二人の男との肉体関係は、心の働きとしての愛からではない。さまよい漂う心のが自分がここにいるというような一つの確認ほどのものではないか。だからリリにとっての暁は心の中にあっては不倫相手ではないし、春名の多くの男関係は肉体的なセックス依存症でもない。どことなくからだから心が遊離して心が漂う中に、この心を体につなぎとめておきたいというようなそんなものを感じる。
だから肉体だけが快楽を求めているのではなく、男への心の働きはある。
では、この男への心の動きが何なのかと言えば、先にも書いたように愛でも恋でも単純な「好き」でもないとすれば、それは「いとしい」だろう。
愛しいという心の動きは複雑である。
愛する恋するというような相手と一体化を求めるような感情ではなくて、離れたところから男を愛し恋するといったような、自分を愛する男を不憫と思う反面それがいじらしく可愛いと思うというような複雑な感情である。ある意味「情」という言葉に近いものがあるのかもしれない。
男女間には激しく求め合う愛があるが、その愛はいつしか愛を土台とした情に変わっていく。この情を表現したものの一つに「いとしい」があるのかもしれない。だからリリは、幸夫を嫌いになったわけではなくて好きではなくなったのである。春名は男を受け入れるのである。最も強く現れるのが年下の暁と悟る兄弟へのりりと春名の態度である。リリと春名二人の男との決別は、いとしさが故の別れである。
しかし、この「夜の公園」という作品は、男女間の間だけの「いとしい」を主題とするものではない。
いとしさは、何も男女間にだけあるものではないから。。。。
このいとしさが一番強く働いているのは、りりと春名という女性同士の友情にあるのではないか。
リリと春名は、お互いに一般的な親友ではない。リリにとって幸夫を奪った春名を許しはしないだろう。しかしこの憎む気持ち以上に春名への強いいとしさが見える。春名は言う。リリが大好きだと。しかしリリは嫌い!とも。。。。ここにリリと春名と言う女性同士の複雑な感情があり、その感情が互いへのいとしさなのである。
教師である春名のクラスの沙耶と「えりな」にもこの互いのいとしさが現れ、春名はリリとの関係をダブらせる。
リリの空に浮かぶ雲のようなさまよう心は春名を求め、海の波に漂うような春なの心はリリを求めるのである。しかし雲と波に浮かぶ船は一緒にはなれない。互いに離れながらもだがいに手を差し伸べるのであり、ここに女性同士の友情としての情があり、それはいとしさなのである。
ストーリーは、リリと春名二人の男関係として進むが、そこの裏には一番強いリリと春名との関係が常に漂うのである。
ラストもありふれたものが感じ取れるが、この単純さの裏に最後の最も強い情、いとしさが表れる。
それは母性という情であり、腹の中で動く子へのいとしさである。
春名も結婚をする。。。。未来への子というものがあるのでは?

                    2006年7月24日 記

                             夕螺









レクイエム
                           文春文庫
                篠田 節子  著
人の死をテーマにした短編集です。
辞書によれば、
レクイエム=鎮魂=死者の魂を鎮める
と、ある。
正確な引用ではないが、漱石の言葉に「人は喜劇を演じる。死だけが悲劇である」というのがある。映画や芝居の中にも笑いの中に涙があるというものがあるが、喜劇があるからこそその裏には悲劇があり、人の人生も様々なことに右往左往して生きていくのだが、その最後はやはり死という悲劇である。
「レクイエムは、こんな人の人生と死を描く。
篠田さんは、「文庫版あとがき」の中で次のように書いている。
「作品を1作ごとに気分を変えつつ読まれ、全体のテーマを感じとっていただければ、たいへんにうれしい。」
この人の死というもののとらえ方は、様々あると思うし、死に方にも様々な死に方がある。天命を成就してあの世にも行けば、病気や事故での死もある。自殺もある。そして戦争やテロ、公害や薬害などでの死もあれば、経済的な理由での死もああり、それは社会的なものからの死もあるわけである。篠田さんの「あとがき」にある「全体のテーマ」は死であると思うが、その人の死は、社会的な理由からの人の死であろう。
「鎮魂」という言葉には難しさがある。
聖徳太子一族と法隆寺、菅原道真と太宰府天満宮と、説によっては無念のうちに滅びた(死に至った)魂を鎮める行為が昔からあったようだが、鎮魂という言葉からは、安らかな死は見えてこない。何かしら誰かしらからの、または意識できない力やどうすることもできない力によっての死。。。そのような中での死者を悼み、安らかに眠ってくれというような今を生きる人々の複雑な気持ちが鎮魂なのだろう。
どろどろと流れる社会の流れ。その社会の流れの中で犠牲となった人々がいる。社会自体がその人を殺したということでなくても、経済関係の中での貧困や会社の倒産や借金などの中での死などのシステム上の間接的な死もある。そして戦争があるだろう。このような人々の死に対しての鎮魂が「レクイエム」という作品である。
その特徴的な短編が、「帰還兵の休日」と、表題作でもある「レクイエム」だろう。
「帰還兵の休日」は、住宅販売会社に務める菅本と、菅本が通勤時に通る河川敷の中州に住み着いた3人の老女の物語である。
3人の老女は、菅本の会社で建てた免震マンションの敷地に住んでいたが追い出されて河川敷に住むようになった。そして一人の老女の死。
「レクイエム」は、第二次世界大戦中にパプアニューギニアの戦地で九死に一生を得て帰還した叔父一蔵とその姪洋子との物語である。
洋子は、死の近づいた一蔵から死んだら片手をパプアニューギニアの土に埋めてくれと頼まれる。戦争中の誰にも言えないような状況。。。
そして一蔵は死んでいく。
どちらもが、社会的な状況からある意味犠牲となった人たちの死を扱う。
この他の「彼岸の風景」「ニカイカナイ」「コヨーテは月に落ちる」「コンクリートの巣」も、それぞれに古い家制度、偶然性の中にある必然に支配される経済、核?社会の中の孤独?、家庭内の虐待と、それぞれの社会的なものを背景として人の死を見る。
この意味では、この短編集は社会性のある目で見た人の死を表現したものといえるだろう。
しかし、そこで表現される人の死は、社会の影に隠れてひっそりとした死であり、やるせなさが残る死である。社会派小説のように、直接に社会の矛盾を訴え、そこで死んでいく人々の死の悲しみを単純に表現した作品ではない。この作品においては、社会の動きは厳然と存在している(していた)ものであり、個人はその社会の中に翻弄されやるせない中に死んでいく。社会的な喜劇の中にひっそりとした人の死と言う悲劇がある。死という悲劇は、死にゆくときは一人であるという意味においてまったくの個人的なものであり、今を生きる人々はやはり喜劇である社会の中に生きざるを得ない。
悲劇の中に死にゆく人の心はその人が墓場に持ち込む。だから鎮魂というのは、今の社会の中に生きる人々が持つ心であり、今の社会に生きる人々によってとらえ方も違い、そのとらえ方によって意味づけも違ってくる。ここに時にはやはり喜劇が生じるのである。
「帰還兵の休日」では、菅本は自分が勤める住宅販売会社のマンション建設によって追い出された老女の死をどのようにとらえたか?作品では、老女の河川敷の生活をどこか美しいものに表現され、その死はひっそりとした作り上げたウソの過去の中に自分をおいた安らかささえ感じる。その中において、菅本にとってはどこか自然災害で死んでしまったというような感覚を表現をし、菅本は、またバブルを夢見て何もなかったかのごとく働き出す。ここに喜劇が無いだろうか?
「彼岸の風景」での泰浩の父が、息子の死に際しても古い家制度にこだわる中に喜劇は無いだろうか?
鎮魂というのは重い心の働きである。しかしときにはここにも喜劇は生じるのである。
篠田さんは、この喜劇をまず描いたのではないか。
作品は、大見出しとして『時の迷路』『都市に棲む闇』として作品をわけ、最後の「レクイエム」を『そして、光へ』として独立した作品とする。『時の迷路』 『都市に棲む闇』は、先に書いたような意味で喜劇である。「レクイエム」において『そして、光の中へ』と、ある種の「救い」としての篠田さんの思いが表現されているのかもしれない。
最後の短編「レクイエム」においてのこの「救い」とはなんだろうか。
一蔵が戦地で九死に一生を得たのは、観音様の腕を食べたからだと。。。。
この観音様に救われたことが復員後の宗教活動として受け入れられもする。しかし死期の近づいた一蔵は、宗教団体からはなれて自分の片上出をパプアニューギニアの土に返して芋の肥料にしてくれと。ここには深い心の傷がある。
現実を直視すること。美化をしないこと。心をごまかさないこと。
死期に近づいた一蔵の心の中に去来したのではないか。
一蔵の心を知った洋子は、、、、
ラストは、形が変わったとはいえ、一蔵の思いへの「救い」となり、洋子の一蔵への鎮魂だったろう。
死んでしまった人は帰ってこないのだから様々な形としてしか鎮魂の心は表現できない。でも、この形だけで済まそうとすればどこかに自己満足的な淋しさが残る。現実を直視すること。美化をしないこと。心をごまかさないこと。残された人々が心を見つめること。ここが大切なのだろう。様々な社会現象の中での人の死。これを繰り返していく中に喜劇が生じる。

                       2006年8月9日 記

                           夕螺