| 夕螺の読書ページへようこそっ!! 2008年8月から2009年1月までに読んだ本です。 直接こちらにお入りになった方は、検索した本を下にスクロールして探すか、「読書ページ」トップ(フレームページとなっております)へお入りください。 こちらに収められた作品は、以下の本たちです。 「光の子」 角田光代 「時が滲む朝」 楊逸 「この庭に 黒いミンクの話」 梨木香歩 「南九州温泉めぐりといろいろ体験」 銀色夏生 「俳句脳」 茂木健一郎・黛まどか 「ドバイの砂漠から」 銀色夏生 「青山」 金原ひとみ 「白い花のような月」 小池真理子 「黄昏国」 銀色夏生 「龍宮」 川上弘美 「自由と民主主義をもうやめる」 佐伯啓思 「サリサリくん」 銀色夏生 「珊瑚の島で千鳥足(続ばらとおむつ)」 銀色夏生 「春のオルガン」 湯本香樹実 「どこから行っても遠い町」 川上弘美 「かもめ食堂」 群ようこ 「ハイエク 知識社会の自由主義」 池田信夫 |
| 光の子 |
| 新潮社「yom yom」2008年7月号 |
| 角田 光代 著 |
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yom
yom前号「浮き草」の続きです。 |
| 時が滲む朝 |
| 文藝春秋2008年9月号 |
| 楊 逸 著 |
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20代のころ、ゴ-リキーの作品を何冊か読みましたが、「時が滲む朝」の前半部分はなんとなくゴーリキーの作品を思い出すように読みました。 |
| この庭に 黒いミンクの話 |
| 理論社 |
| 梨木 香歩 著 |
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大人の女になったミケル。 象徴的な難しい作品で理解するにも困難があります。 |
| 南九州温泉めぐりといろいろ体験 |
| 幻冬舎文庫 |
| 銀色 夏生 著 |
| よい意味で「詩人銀色夏生」のエッセイではないですね。 というのも、詩人として美しい風景やひなびた温泉の様子を詩に書いて入れていません。また、出版社と一緒になった「取材」的な温泉めぐりでもない。これは先に発売になった幻冬舎の「へなちょこ探検隊1・2」でも、幻冬舎の編集者菊池さんとの旅行でしたが「取材」的なにおいがしなくて編集者との普通の旅でした。もちろん編集者の菊池さんは夏生さんにいろいろ気遣いをするのですが、夏生さんは菊池さんの味を引き出して隠れてお世話をするという編集者ではなくて旅の友としての菊池さんの人間が出ています。夏生さんの旅行記や今回の温泉めぐりも、一人の普通の女性の顔が出ている作品に仕上がっています。その意味において「詩人銀色夏生」のエッセイではない。 ですから温泉を訪れてもお休みだったり、登山は天候の加減で中止とか、そして昼職も質素に時にはどんよりしたり。 ここに見るのは普通の人が普通に旅行をするような感覚、視線での文章ですね。 しかし退屈な文章ではありません。そこはやはり銀色夏生なのです。上に書いた「へなちょこ探検隊」での幻冬舎の菊池さんの個性を引き出した文章とただの影武者のような編集者として捉えるのではない視点は銀色夏生さんの特徴でしょう。同じように今回は小学校のときの同級生「くるみちゃん」が登場。特別な言葉では語らずに「くるみちゃん」の特徴や人生を描いています。ここに今回の作品も温泉めぐりに終わらないものをかもし出しています。ここが銀色夏生なのです。 銀色夏生さんのサイン会を思い出します。きついけど澄んだ目。。。。銀色夏生さんの前に立つと、誰もが心のベールを剥ぎ取ってしまうのかな。ですから「くるみちゃん」も自分の苦労を苦労として語らずに、素直に話をする中に銀色夏生さんから元気をもらう。そして銀色夏生さんも素直に受け止めて語る。たぶん温泉めぐりという題材からするとあまりにも普段着なのでもしかしたら退屈するかもしれません。度もその日常性の中に生きる人間が見えるんですよね。それは銀色夏生という人間も。 銀色夏生さんは言う。一番高級マンションに住んでいたときは家賃が100万円以上だったと。セレブですなぁ。本に対しては、読みたい人が、興味のある人が読んでくれればいいというようなことも。こういう言葉はある意味嫌味な捉え方にも受け取れるでしょうが、銀色夏生さんが語ると素直に受け取ってしまう。だから「くるみちゃん」も笑いながら「すごいねぇ。。。」と。ただそれだけ。 ある意味銀色夏生さんの文章は俳句的ですね。普通の人と同じ視線の生活の中にピカッと光る言葉が生まれ、それが読者の胸にぐさりと。日常の中のいろいろなものを見つめる視点なのです。それは日常の中に見るはっとする一瞬を言葉にする俳句なのです。時には感動を、時には滑稽を。。。。言葉にします。 先にこの本は「詩人銀色夏生」の本ではないと書きましたが、常に詩人の目で観ることは間違いないし、写真にしろ心に焼き付けた一瞬の風景は後に詩集となるかもしれません。常に詩人の目を持ちながらまた違った視線でのエッセイなのです。詩人の目で常に見ながらも言葉は日常的。 こう書いていくと、なんだか堅苦しいような気がしますが、そこをしっかりと見ながら読むことによりこの作品の楽しさや、フフフ・・・・と笑ってしまうような面白さがわかるのではないでしょうか?ですから純粋に温泉めぐりの本、いろいろな体験というもの自体を楽しめて、この温泉に行ってみたいなぁ。。。と、読者は普段着の視線で吸収の温泉の良さを見ることになります。たぶん温泉好きの方が読んでも面白い本だと思います。 「家ができました」や「庭ができました」という作品もその家や庭の専門の方が読めばその視点での銀色夏生が見えることと思います。今回の南九州のすばらしさも。家も庭も、そして日常の風景を見る目も銀色夏生の作品なのです。 九州に行くことがあったら必ず寄ってみたい温泉が。。。。。 2008年9月14日 記 夕螺 |
| 俳句脳 |
| 角川oneテーマ21新書 |
| 茂木健一郎・黛まどか 著 |
| 茂木健一郎さんは、プロフィールによればNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」という番組の司会をされている方です。何度か観たことがありますがその語り口のまじめさと話を引き出すうまさを感じる方でした。 黛まどかさんは、俳人です。プロフィールによると「B面の夏」という句集でデビュー?され女性だけの俳句結社「月刊ヘップバーン」を主宰されているようです。 お二方は1962年生まれで40代半ばです。 詩の世界では銀色夏生、小説の世界では吉本バナナ、短歌の世界では俵万智そして俳句の世界では黛まどかかな?俵万智さんも62年生まれですね。銀色夏生さんも60年だったかな。そして80年代後半から90年代はじめに注目をされる。こう見ると女性がその世界においてぱっと世界に現れたという印象を受けますね。そして40代の半ばになったその女性たちがいまや脂がのり地道に。 僕が女性作家たちの小説をはじめとした作品を集中的に読み始めたきっかけが銀色夏生さんと同世代の女性作家を知りたいということからでした。ばななさんは初期の作品を何冊か読みました。こうなると、短歌の世界や俳句の世界での俵万智さんや黛まどかさんの世界にぐっとひきつけられる思いです。その意味において今回読んだ本で黛まどかさんに出合えたのはうれしいし、俳句という僕の興味あるものもあったのでしょうが、これも一人の作家(俳人)との出会いの面白さだと思います。 出会いというものは第一印象といわれますが、銀色夏生さんをはじめて読んだときの「ただものではない」という衝撃やばななさんの初期の作品の深い暗闇のような世界の衝撃が第一印象としてあったと同じように、本書にも掲載されている「B面の夏」の句にはドキッとしまいたし、エッセイとしての面白さやなんというのか対談の中に現れる言葉にムムっとするものがありました。俳句の世界を知ると同時に俳人黛まどかを見ることができるのではないでしょうか? このようにこの本からは黛さんの個性といったものが読み取れるのですが、それは茂木さんとの対談や茂木さんの「俳句脳」という考え方との相対する形で現れています。茂木さんの「俳句脳」についての俳句論、そしてお二人の対談、最後に黛さんの俳句論という構成になっていますが、この構成自体がうまいと思います。 「俳句脳」とは何か? 茂木さんは脳科学者の立場と俳句の経験から説明を行っています。しかし俳句脳とは?というものをはっきりと「こういうことだ」というものがわかりづらい。脳科学としては俳句は脳内のドーパミンの分泌を盛んにさせるというもの自体はわかりやすいのですが、この説明を詳しくするわけではなくて俳句論的なものから俳句脳は説明されます。 まだ言葉というものを持たない赤ん坊が体に感じるあらゆる刺激を瞬間的に感じて脳が刺激される。脳は「冷たい」という言語化にあるのではなく自分の体という内に対する外の感覚をそのままに受け止めるしかないしそれは自然的な感覚の世界である。赤ん坊は少しづつ言語化するようになる。「冷たい」という言葉を覚えると、次に氷を触れば「冷たい」と脳は意識をする。俳句はこれと同じ事を行っているということだろう。たくさんの言語を持つ脳が一瞬の体や心で感じたものをその感覚を言語化する過程に俳句はある。この一瞬に感じ取れたもの自体を茂木さんは「クオリア」と呼ぶのか? 赤ん坊が外界の刺激を感じ取り後に言語化していく過程は、赤ん坊にとっては生きるすべて出るはずであり生命を維持する積極的なものである。それはそうとう大きな脳の働きがありドーパミンの分泌が激しいこととなる。同じように俳句という形で、今、一瞬感じた体の刺激や心の動き(クオリア)をどう言葉の海から探し出すかという俳句にもそうとう多くのドーパミンの分泌を促す。そしてその一瞬のものの言語化を長い言葉で説明するのではなく、17文字という短い言葉と言葉のつながりで表し、しかも説明的表現はできないので余韻(余白)という形で心に響かせるのである。ここでは一段と言語化は難しいものとさせる。脳は活発に働き出す。これらのことが「俳句脳」なのではないかと思いました。 俳句というのは、一瞬の体や心への刺激を言語という形に表現するものであるが、それを他の人に読ませるには、その言語と言語のつながりでは説明できないから余韻(余白)という形で読者の心には響きます。言語というものを媒体としますが、俳句を詠んだ人の一瞬の心の動きを俳句を読んだ人に伝えるという心と心のつながりなのでしょう。それは余韻(余白)という実体のない心そのもの伝わりなのでしょう。 こういったものは文学あるいは芸術全体にもいえることですが、俳句の特徴は、一瞬のものを17文字という少ない文字で余韻をもって相手の心に響かせるということでしょう。小説で言えば行間を読ませる的なもので、これのない小説は心に響かないでしょう。 この意味において俳句は文学なのです。 茂木さんの「俳句脳」に対して黛さんは「俳句を生きる」といいます。 これは、俳句を主に脳科学者として外から分析をした「俳句脳」という言葉に対する俳人としての俳句の内から俳句とは何かといったものを問い直したときに「俳句を生きる」ということとになるのでしょう。 「俳句脳」「俳句を生きる」。。。共に同じことを語っているのだと思います。しかし、俳人としての俳句論はもっと深いところにあります。もちろん茂木さんも俳句のあらゆる事柄に触れていますが、やはり俳人としての黛さんはそれをわかりやすく書いている。それは同時に黛さんご自身の個性においての俳句である。この個性が出る中にただの解説的な勉強の教科書的な俳句論ではない「黛さんの俳句論」があるわけです。これがこの本が教科書ではなくて面白さとして出るわけです。 とはいっても、俳句とは?俳句の決まりごとなどという基本的なことから外れたものではありません。本書もこの軸を中心に書かれています。その軸をどう解釈するかに黛さんの個性が出るということでしょう。 赤ん坊は痛ければ激しく泣くでしょう。おなかがすけばぐずるでしょう。甘えたければフガフガ言うでしょう。赤ん坊にとっては生命維持の死に物狂いですし、痛いといっても「おなかが痛い」と「おなか」という言語を必要とするでしょう。その過程の中で大人になっていくにつれて言語は豊富になっていきます。生命維持だけから離れた心の動きも豊富になっていきます。では、その心の動きの豊富さとは何でしょうか? それを黛さんは、「俳句の目を持つ」といいます。 大人は赤ん坊のように死に物狂いに感じ取り伝えようとするものがなくなっていきますから、もしかすると日常の中に通り過ぎている物事を感じ取るものが少なくなります。それは自然の移り変わりに対しても。そして人はその自然というものから切り離せないように生きるしかないのですがそれすら見過ごしてしまい日常を送る。それは現代人特有なものとしても現れます。その中において以前を感じ取る心の動きに豊かさが出るでしょう。しかしただ自然に向き合ってきれいと思うことだけが豊かさではなく、雨といってもその時々の雨には100以上の呼び名があるそうですが、雨というものの姿をより深く言語化できる中に本来の豊かさが芽生える。こういったものが「俳句の目を持つ」ということかもしれません。それは雨という自然の姿に自分の心を映す中の心の動きを捉えることがより豊富さとなるのでしょう。こういう「俳句の目を持つ」中で「俳句を生きる」という心の豊かさが芽生えるのだと思います。 その中に季語というものが重要になるでしょう。 「散る桜」と聞けば、ある共通の心の思いが広がります。その思いに説明は要りません。ただ散る桜でいいわけです。同時にその人により人生の中に思い描く風景があり出来事があるはずです。心の世界はたった一言の季語によって広がり始めます。だから俳句は17文字に落ち着くことができます。もちろんこれは季語だけではなくて多くの言葉の中にもあるでしょう。でも季語はそういう言葉を自然に写すことから必然的です。自然に自身の心を写すことは日本人のDNAのようなもの。 でも、都市においてはこの自然が少なくなり難しくなってしまいました。だから心の安らぎがなくなってしまったのかもしれません。だからこそ「俳句の目を持つ」ことは大切になっているのかもしれません。 こういうことを黛さんのいろいろなお話の中に共通して感じ取れました。この上にたっての俳句の決まりごとと言語化するという俳句の実作があるわけで、その奥の深さと難しさを黛さんは語ります。しかしこの決まりごとから大きく外れないことや季語そのものが持つものがより心の豊かさ「俳句を生きる」をも深めるのでしょう。俳句の伝統と新しい現代人が持つ感覚と言葉。常にこれを黛さんは忘れません。その中に「B面の夏」という句にある言葉たちが現代の俳句となるわけです。 この茂木さんと黛さんの俳句論は、第二章のお二人の対談を受けてそれぞれにお書きになったように見えます。ですからお二人の対談の中身の広がりのあるお話からの俳句論でしょう。 巡礼のお話が出てきました。サンチャゴ巡礼のお話から一神教の巡礼はひたすら目的地(神の許)に向かってひたすら歩くが、多神教の日本の四国巡礼はぐるぐる廻っていく。茂木さんと黛さんの性格でしょうか?茂木さんはどちらかといえば一神教の巡礼のように俳句の目的地にひたすら歩き、黛さんは多神教の巡礼のように時々ブレーキをかけたり横を向くように感じます。このやり取りがまたこの本の面白さでしょう。それは、上にも書きましたが、「俳句を主に脳科学者として外から分析をした「俳句脳」という言葉に対する俳人としての俳句の内から俳句とは何かといったものを問い直したときに「俳句を生きる」ということとになるのでしょう」という内と外の違いかもしれません。 楽しく読める本でした。 ただ気になるのが、あまりにも俳句を高い位置づけにまで祭りたてるようなイメージがぬぐえないことです。確かに俳句は日本人の心であり、俳句をなくすことは日本人の大きな損失であり社会にも大きな影響が出ます。しかし日本人の心は、俳句と同じ位置づけとしても落語にありますし、明治以降の小説にもあります。俳句はひとつの文学であり、何も俳句をやらないからといって日本の心がないというわけではありません。落語に日本人を見ることもできるでしょう。俳句がひつのの文学ならば、その文学に心のよりどころを持つ人々が集まるほかはない。このような謙虚さが見えないと。。。。 同時に俳句が文学なら、自然を通して映されるにしても人間の心が社会的であるということを忘れてはいけないでしょう。これらのことも書かれているのでしょうが、どうも俳句を高い位置づけにする中に読後感としては感じなくなりました。日常の中。。。。それがまた人の社会に生きるということです。これをはっきりさせないと感じ取らないと自然を見てもきれいで終わってしまうでしょう。日常の中に。。。。俳句は全人間的でなければならない。 2008年9月22日 記 夕螺 |
| ドバイの砂漠から |
| 角川文庫 |
| 銀色 夏生 著 |
| ドバイってアラブのどの辺にあるんだろ?ずっと前にチラッとテレビで見たことがあるのですが地理的なものがまったくわからない。少し前までは小さな漁村だったらしいのですが急激に発展したリゾート地らしいです。 日本からずっと遠い砂漠の世界。。。。そこへ銀色夏生家は11泊12日の年末年始の旅へ。夏生さん47歳・かんちゃん中2、さくちゃん小3.(2007年暮れ) まずは。。。飛行機代大人19万円、子供15万円(片道だろうか?)にびっくりして、ホテルは1室10万円(1泊2食付じゃないよなぁ)。大晦日の年越しディナーショー一人5万円。豪華な家族旅行です。妻に言ったら「あなたがたくさん本を買うからよ」と。。。。ううう(笑) まぁ、ツアーではない個人旅行ではこのぐらいするのでしょうね。「つれづれノート」に出てくる銀色夏生家は、家やこうした旅行には時々お金を使いますが、日常の暮らしとなると一般の家と変わりのないもののようですから、あんがい夏生さんは金の使い方がうまいのかもしれません。飛行機はエコノミーですし。。。。 うらやましいのですが、フライト時間が11時間。。。11時間も禁煙するなんて地獄のような密室なんかいやだなぁ・・・などと、まずはどんよりしながら読みはじめました。 本は、7-3の割合で写真がたくさんありました。旅行記の中にも楽しいイラストが。 旅行記のはじめのページをさらっと読んでからまずは写真ページをぺらぺらめくり、銀色夏生家のお写真を。 かんちゃんは、大人っぽくなりましたね。少女から大人への過渡期。「子供との暮らしと会話」の中でもいろいろと思春期独特な心の動きが出ていましたが、お顔やスタイルも少女から大人へと。。。。といった感じです。心も体もアンバランスに成長しますよね。。。。うん、18歳ぐらいになったら美人になるでしょう・・・ さくちゃんはかっこよくなりました。写真ページにはアップの写真が何枚かありましたが、夏生さん似ですなぁ。きれいな目をしている。この目は、初期の詩集に書かれたイラストの男の子の目ですね。夏生さんが好きな目のはず! このようにお子さんたちの写真がたくさん。。。もちろん夏生さんの写真もありました。ううう。。。。でもなぁ(笑)遠景ですがかんちゃんのお尻・・・・・写真的には砂漠の上の開放感あふれる姿でした。 お子さんたちの写真やある意味観光写真のようですが、そこは写真家でもある銀色夏生!写真ページの6,7ページ目のかんちゃんの写真にはドキッとしますし、最後のほうの夕焼けの砂漠の写真にも。風景だけではなくて小さな小さなお子さんや夏生さんのシルエットは、何かを語りかけてくるようです。写真はぱっと見てしまえばそれだけですが、立派な写真集でもありますよ。 さて。。。。旅行記ですが、やはりどこへ行っても日常の中の銀色家です。 リゾート地ですし、特に砂漠の中の一軒宿では観光するような場所もなく、毎日を同じように過ごす。朝飯を食べて昼食を食べ、夕食を食べる。かんちゃんがさくちゃんを泣かせる(笑)夏生さんは胃が痛くなる。。。。毎日の日課となったラクダ乗りと夕日の中の散歩。夏生さんは読書。夏生さんも書いていますがこうしたのがリゾート地なのでしょうね。豪華な食事やショーにもそうは感動しない夏生さん。。。腰を激しく振る踊りに男たちがよだれをたらすイラストがありますがそんなものを観察する夏生さん。。。 最後に帰国後に写真を見ながら家族で話しをするものがありますが、旅というのは大きな感動というよりちょっとした出来事や瞬間の風景に思い出が残るのではないでしょうか?あんがい心に刻まれるもの旅先での日常性にある一瞬の時間の風景なのかも。。。後半の旅行記のはじめには、こうした本にしては珍しく「砂漠の日没」という詩が載せられています。これもちょっとした風景の詩ですよね。 夏生さんはどこへ引越し?最後のページに「2008年8月24日宮崎にて」とありますが。。。。急遽引越しが決まったようです。 2008年9月28日 記 夕螺 |
| 青 山 |
| 新潮社「yom yom」2008年10月号 |
| 金原 ひとみ 著 |
| 新潮社「yom
yom」2008年10月号に収録 27歳の岡野は洋服店・・・ブティック?・・・これも古いか?今はなんて呼ぶんだろ?で、バイトでファッションアドバイザーをしている。 ある日、鏡に映る自分の姿を見て筋肉が落ちて痩せたように思う。筋力の衰えは、階段を何段も空けて駆け上がるようなしなやかさもなくなったと。同じ職場のひとつ下の女性山名は「お肌の曲がり角。。。」と。 なんとなく50を過ぎた僕から見ると「何を爺臭いこと言ってるんだい」と突っ込みを入れたくなるような若い岡野の姿からこの作品ははじまる。 でも、よくよく思い出せば、30に近い男ともなればたしかに運動をしなければ筋力は衰え始め、腹が出てくることを気をつける年齢である。 「体が思うように動かなくなったのは、いつからだろう。(中略)彼女と知り合った頃、と思いついて、ふとすべてを失ったような」(71ページ) 何も彼女(夫のあるカメラマン優奈)と知り合ったから筋力が落ちたというわけではないが、ひとつの比喩としてのこの表現にこの作品の優れたところが現れているのではないだろうか? 優奈は、実力が認められたカメラマンであり、体も精神も自分でコントロールできる「大人」である。岡野は筋力の低下という比喩でのもう10代や20代前半のような自分ではないという意識が出てきたということだろう。これは精神面での若い男の変化なのである。優奈がカメラマンとして社会に認められているという表面的なものと同時に、その「結婚をしている」という精神面での岡野をしのぐ「大人」なのであり、そんな優奈と知り合った岡野は、自分を見つめる。年齢的な大人ではない内面の大人を。 小品ながら岡野という若い男の変化を表現した優れた作品ではないかと思います。 金原さんは、1985年生まれ!今年23歳。。。金原さんという作家の内面の変化もあるのかな?「蛇にピアス」まだ読んでないけど。。。。 2008年10月11日 記 夕螺 |
| 白い花のような月 |
| 新潮社「yom yom」2008年10月号 |
| 小池 真理子 著 |
| 貴子の家は小さくて、狭い庭には思い出の山帽子の木が植えてある。 思い出の山帽子。。。貴子が夫と記念に植えた木。 その夫とは裏切られて離婚をした。貴子には子もないし若い女の子向けの洋服や雑貨などを売る店ははやっているので暮らしには不安はない。(山帽子は、山法師?) 高い木には星のような形の花がたくさん咲いている。月夜の明りに花は浮き立つようにゆらゆらと窓から見えるだろう。見上げれば月の青白い光が降り注いでくる。こんな夜に貴子の小さな家に毎月1度逢瀬のために来る妻子ある恒平が来ていた。 貴子は「料理」はあまり作らないが「酒のつまみ」は上手く作る。 とろけるような男女を描く作品である。 その小さな家は、貴子にとってはひとつの宇宙だろう。近所には隣近所のうわさをさみしさ逃れに楽しんでいるおばさんがいる。恒平は気をつかってタクシーで訪れる。世間の中の小さな家の中。。。。 男女の甘い二人だけの空間と同時に、貴子にとってはこの世間から自分を守るための空間?しかしそれはこの先の貴子の人生を見ればある意味女の開き直りの空間であるかもしれない。 幻想的な月と白い花。。。。そして女の開き直りの社会が。 2008年10月11日 記 夕螺 |
| 黄昏国 |
| 河出書房新社 |
| 銀色 夏生 著 |
| 「私のはじめての本」 「この本は、こういう本を作りたくて、自分でスケッチブックで本のように作っていろいろ見せているうちに、出させてもらったものです。いろいろな部分の予兆がみえます。」 (「つれづれノート」158ページより) 銀色夏生さん25歳。 この作品は、多くのイラストを挿み、詩をはじめ短い物語が書かれています。銀色夏生さんは多くの作品にイラストを挿入していますし、そのイラストの世界も読者にとっては興味深いものとなっていますし、翌年発売になる「これもすべて同じ一日」では、写真を挿入した詩やエッセイの本が発行されます。このイラストや写真を入れた詩の世界は銀色夏生さんの独特な世界で、特に「写真詩集」というものは銀色夏生さんの作品としては切っても切れないような世界となります。文中のイラストは後の日記エッセイ「つれづれノート」シリーズの作品に欠かせないものですし、写真は一時勉強されていたようでやはり独特な動きのある世界をつくっています。 短い物語は、やはり翌年発行される「サリサリ君」という絵本の世界ともつながりますし、「イサクのジョーク」という小説ともつながっていくと思います。特に「四コママンガ」や子豚シリーズに近いものがあるかもしれません。後に当時中学生だった丘紫真離さんの「黄色い卵は誰のもの」という本の帯に推薦文を書いていますが、どこかあどけなさのあるような絵本のような物語は「黄昏国」の特徴で銀色夏生さんの世界です。 このような意味において「いろいろな部分の予兆」がこの作品に出ているということでしょうか? 「無辺世界」のおはなしは、今、見ても、ふるえるほど感心します。(河出書房新社発行の「黄昏国」「無辺世界」「サリサリ君」「月夜にひろった月」-夕螺注)以上の4冊は、私のごく内面の世界をあらわしていて、私の人生の中でも、特別な空間を形づくっています。とても、ありがたい宝です。」 (「つれづれノート」160ページ) 銀色夏生さんの詩は恋の詩というイメージが強いですし実際恋の詩が多くあります。しかしこの恋の詩の中には恋にあこがれるというような単なる恋の甘さがただようような詩ではなく、日常のさまざまな雑多の中に生きる一人の女性が見えます。その心の世界です。「黄昏国」も恋の詩がありますがひとつの精神世界があり「ごく内面の世界」「特別な空間」がより色濃く出ています。この意味において銀色夏生の世界を知る貴重な作品ではないかと思います。 「黄昏国」は、 「君がそこに そしてどこかで それより君が いつかたしかにいたってことを 僕は知っている」 というプロローグの詩からはじまります。 ながいながい時間の流れの中で一瞬の時間を受け取って僕は生きている。片隅で。。。。 でも生きていることはたしかで生きていたこともたしか。。。。 こんな僕がここにいる、どこかにいたんだよねと見つめてくれて励ましてくれるような詩です。 人は孤独に生きている。そんな孤独を見つめてくれる夏生さんの詩です。 そしてエピローグともいえる言葉が 「だれでもいちどは しぬんだよ」 「ワッペンをあげるから」 「また会おうね」 というものだと思います。 「ワッペンをあげるから」という言葉のページには「SILVER SUMER BORN」(銀色夏生)と書かれた夏生さんのお顔?のワッペンのイラストがあります。その顔は、驚き・戸惑い・怒り・悲しみが入り混じり、そしてアハハハ・・・と。この複雑な顔のワッペンのイラストに「黄昏国」という作品から受け取るものがあるのではないかと思います。夏生さんは「銀色夏生の視点」で、ご自身の気持ちの中にあるものは「悲しみ」であると語っていましたが、それは孤独というものの中にあるのではないでしょうか? 「無辺世界」の中には、「私が神様です」と、なんだか情けないような貧乏神のような神様のイラストがあります。「黄昏国」にもなんとなくちんまりとした神様が描かれていますが。これもまた夏生さんの人生観を表しているのかと思います。 神は人に完全なものを与えなかった。人が互いに容姿を見ることができるような互いに互いの心を見る能力は与えなかった。ここに人の心は孤独と悲しみの中に置かれる。心が互いにすれ違いながら孤独に生きている中に社会は目に見えるものとして存在する。だからこの社会に生きている人はワッペンの顔にある驚き・戸惑い・怒り・悲しみが入り混じり、そしてアハハハ・・・と笑ってしまうような中に生きていく。「黄昏国」は、夏生さんらしい透明な孤独と悲しみとして描かれる。 「黄昏国」にも多くの恋の詩があります。 「あの時 君がボクにあたえたと思ってるものを あの時 実はボクは 受けとらなかったんだ」 ここに男女間の心のすれ違いがあります。 互いに心を確かめられない悲しみ。。。。。 しかしこれは恋ばかりではなく、日々生活をしている中での人と人との中に常にあるすれ違いでもあります。時には広い宇宙空間に一人漂うような孤独と悲しみにとらわれる。 しかし情けないような神がこんな人を創ったことに孤独や悲しみがあると同時に、その孤独と悲しみの中にいるからこそ喜びもあります。 「鳥の声 聞けば 驚いたようにさがしあい 花の色 みれば ああ それとばかり教えあう」 「えり分けなれた私の手が 水面を指さし ならべ上手なあなたが視線を添える」 孤独の中にある互いの心がふと重なり合う瞬間の喜び。 恋ばかりではなく、人の持つ喜怒哀楽は心という孤独の中に沸き立ちまっす。 「11時のかねが鳴る 青くるしい丘の上から 世界中へ それは伝わり サイロの少年は 働く手を休める」 一つのものに触れたとき、人は互いに結び付けられ平安な心を持つ。それは孤独と悲しみを一時的であっても癒してくれる。 人は孤独と悲しみの中にいるから人の心を求め合う。すれ違った心のワッペンのような顔をしながらそれを繰り返しているのでしょう。 それを夏生さんは読者に問いかけるのかもしれません。 「僕は 鈴を鳴らす ならす 僕は 鈴を鳴らす ならす その音は それを それとわかる人に どうしても聞こえてしまう」 驚き・戸惑い・怒り・悲しみが入り混じり、そしてアハハハ・・・と、常に鈴を鳴らし続ける。そしてその鈴の音が聞こえたら夏生さんからワッペンをもらえるのでしょう。すべての人が心のつながりができるとするのは空想かもしれませんが、いつかこの鈴の音を聞いてくださいと鳴らすことができるのは現実です。 夏生さんの世界は、恋の甘ったるい世界でも、人を美しいものと描くような世界ではありません。人のもつさまざまな心の奥底にあるものを見つめます。その中に「生きるって?」を鈴の音のように鳴らし続けます。 2008年11月8日 記 夕螺 |
| 龍宮 |
| 文春文庫 |
| 川上 弘美 著 |
| 表題作の「龍宮」をはじめ「北斎」「狐塚」「荒神」「鼹鼠」「轟」「島崎」「海馬」8つの短編からなる短編集です。 まず読み終わり感じたのは、この「龍宮」という短編集は、川上弘美さんのはじめの作品である短編集「物語が、始まる」の続編あるいは対をなす?ような作品ではないかということです。「物語が、始まる」の感想に次のように書きました。 「「物語が、始まる」「トカゲ」「婆」「墓を探す」の4篇を収めた短編集です。 読み終わってからまず浮かんだ言葉が「人生」でした。 女性の人生。。。。。 『「物語が、始まる」は「男」。「トカゲ」は「平凡」。「婆」は「生」。「墓を探す」は「死」。女性の人生を振り返ったとき、さまざまなものがあるでしょうが、大人の女性として性と伴侶すなわち「男」は、その動物的な本能からして大きなものです。 結婚後は生活がありますが、それは「平凡さ」としての日々でもあります。この気が遠くなるように長い年月が続く日常の生活は、女性にとってどのようなものでしょうか?これを幸福と自覚できるかできないか。』 やはりこの「龍宮」もまた女性の人生を暗示的に描いているのではないでしょうか? 短編の類似性から見ると、「トカゲ」と「荒神」では、社宅あるいは団地の中という風景に主婦の毎日が同じタッチで描かれます。 もう少し他の作品と比べると「蛇を踏む」にもつながるでしょう。 「北斎」は、浮世絵師北斎が描いた女に絡まる蛸は俺がモデルだったと語る自称蛸の男が出てきます。その蛸の男が激しい波を眺める「私」に近づいてきて「にいちゃん、むつかしい顔してるねえ」と声をかけてきます。そして「おもってくれよ」と酒をねだり、酒を飲み始めると「こころしてききないさい」と女談義を始める。飲んでは昔の話をしてその時々の女を語る。最後は「女と遊ぼう」と今で言えばナンパをする。女は逃げる。気がつくと世を嘆くようなまじめな無口な「私」も蛸男と一緒に女を追いかけていた。そして「私」は体をぐにゃぐにゃさせて帰っていく。粗野な蛸男。。。っ子にひとつの男を見るならば、「私」という男の奥底にも同じものがあるということだろうか?そういう男が女性と対を組むのである。ある意味人生で。 しかし「龍宮」では女性の立場からそんな粗野な一面の男を「いやらしい!!」という印象では描かない。「荒神」においては、主婦「あたし」の台所に荒神さまが出てくるが、「あたし」が母に話すると、母は「心がけのいい女の台所だけに荒神さまはいらっしゃる」と答える。「心がけのいい女」である「あたし」は、毎日のように万引きをする。知り合った男は自宅まで訪ねて来て「あたし」を押し倒す。荒神さまは「「おまえはしあわせか」と訊いてくる。必死に祈る「あたし」。 ここに北斎の蛸と裸体の女の絵が完成するのだろうか? 読み方によっては、男も同じなのよという川上さんの声が聞こえてくるようである。男女関係の間がらではないが、「古道具 中野商店」に出てくる少し粗野な中野さんと性的描写のある日記を書くその姉のマサヨさんに見るような男女。「龍宮」以後は不思議な世界の作品を感じないものとなるが、裸になった男女というのだろうか?もう少し深く言うなら「人間」という皮をはいだ男女というのか、その中で改めて人の心を考えさせられる作品が続く。 こう書くと、川上作品はなんだかいやらしいような作品として感じる方もいると思うし、人間のある一面を鼻ずらに突きつけられるように感じる方もいると思う。しかし突きつけられた後に何かが心の中に残り、それはけしていやらしさではないのである。 では、このただ単にいやらしいとだけ受け取れない、逆にそのままに川上作品を受け入れる底には何があるんだろうか。それは人間「動物」も他の動物たちと同じ営みにおいて脈々と命を伝えてきたのであるから。もちろんそこには人間動物だけが高度に持つ(持ってしまった)心や社会的倫理の中にあるという違いがあるだけで、根本的なものには違いはない。人間動物は生物界においては新参者である。謙虚に心の発達や社会的倫理に優越感を持たないなら、他の動物たちと同じ視点で性を見ることができるだろう。現実に人間動物はそのように命を伝えている。誤解のないように書きますが、レイプやその他の社会的倫理を否定するわけではなくて、性の根本的な意味で、他の動物たちにレイプがあるのかという面で考えれば、人間動物だけの悲しみです。 このような人間を「人間動物」としてみて、人間動物だけが持つ心の動きという悲しみを見る中に、「龍宮」や「轟」も理解できるのではないか。龍宮城に行っていた浦島太郎が現在に現れたかのようにご先祖様のイトが現代の「私」の前に現れる。 「なにさ、あんただってあたしの血筋の者のくせに」 (37ページ) 逆に「島崎」の中でご先祖様一目ぼれする「あたし」。生命のつながりは混沌として現在に現れている。過去の時間の流れとして今があるとすれば、人間の命も心も社会的倫理も混沌として現れているのである。 川上作品には人間社会に動物が出てくる。この短編集にもモグラ?や海馬が自然に人間社会に暮らす。もしこれらの動物たちが人間動物と同じ心を持ったら?ということだろうか?人間動物から心や社会的倫理を取り去ったなら他の動物と同じであるという逆の側面だろうか? モグラは、捕まえてきた人間に餌をやる。人間もあなたが捕まえる人間をあそこでみたよと。。。。メスの海馬は人間動物のオスにひどい仕打ちをされる。そして海に帰る。 こう見ると動物いや生物の中の人間動物も混沌といてくる。もう少し深読みをすれば、海馬は現代の女性そのものである。それは一番初めに書いた「北斎」での人間動物の粗野なオスとその中において幸せも感じるメスである。メスは社会的倫理(男社会の倫理といってもよいのか)から抜けて海に帰る。そこには命を伝える母性がある。 「私は海馬に戻って、海を泳いだ。沖の漁船を追い越し、(中略)子供の笑い声が、耳元に響いた。私はそのまま走り続けた。昼も夜も尽きるところを目指して、、どこまでも、走りつづけた。」 同時に母性は、いつか子供自体が命を伝える者として人間動物として生きていくようになれば、メスは一人海を走り続ける。ご先祖様になっていくんでしょう。。。混沌とした生命界の中に。 2008年11月14日 記 夕螺 |
| 自由と民主主義をもうやめる |
| 幻冬舎新書 |
| 佐伯 啓思 著 |
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本書にも書かれていたと思うのですが、左翼・右翼とはイギリスの?議会において左側に陣取ったのが左翼で、右側に陣取ったのが右翼といったらしい。これは議会制民主主義の中においてのある意味、日本的な表現をすれば保守と革新という対立の構図においての呼び名からくるものである。 人と人とが触れ合うなら |
| サリサリくん(2回目感想) |
| 河出書房新社 |
| 銀色 夏生 著 |
| 表紙は、「サリサリくん」とカタカナで、その上に小さく「さりさりくん」と。表紙を開けると表題がまたあり「さりさりくん」となっていますし、本文中も「さりさりくん」です。しかし出版社などが書かれたページには「サリサリくん」とありますから、この作品の正式な表題は「サリサリくん」ということになりますね。(ちなみに銀色夏生のカタカナや平仮名書きは、ギンイロ ナツ「ヲ」です。平仮名サインも「を」です) 銀色夏生さんのイラストと手書きの文字による絵本です。 絵本というのは銀色夏生さんの作品中でもこの1冊だけです。 さりさりくんは、気分よく散歩をしています。でも乱暴者のゴムタに意地悪をされそう。。。 さりさりくんというぐらいですから男の子?でも、夏生さんが描く多くの登場人物の中には、どことなく男の子のような女の子でもあり、女の子のような男の子でもあるような。どこか中性的なものを感じます。これも夏生さんの内面的なものかな。。。。さりさりくんは小学校1年生ぐらい。でも、子供のような青年でもあり、青年のような子供でもある。これもまた夏生さんの内面でしょうか。。。。 そんなさりさりくんは、ゴムタから逃げて丘の上に立つ。そこに同じクラスのスイムくんと会う。すぐに二人は友達に。。。。 どこかのんびりしていていろいろな物が大好きなさりさりくんと、研究をすることが大好きなスイム君。そんな二人に幼い恋というのか大好きな友達同士の素敵な雰囲気を感じますが、初期の作品の中には、単純に好きとか嫌いと考える子と難しく考える子というような二人も出てきますが、これは夏生さんの中にある恋愛感や友人関係の感じ方でもあるのでしょう。性格や考え方の道筋が違っていても心が一致できる喜びというようなものだと思います。または、夏生さんご自身の内面にある二面性といってもよいのではないでしょうか? そんな二人は落ちていた禁断の木の実を食べる。 好きなもの。。。。心の中にある好きなものが浮かぶ。 さりさりくんは、スイカとかお団子とか。。。。 スイムくんは、興味深い植物たちが。。。 心の中に浮かぶ好きなものはこんなにも違う二人ですが、二人は考えます。 「ぼくらは、やっぱり、おたがいのこころ以外のものをつかってしあわせになってもそれは、ほんとうのしあわせじゃないんだね」 と。 こうして二人で歩くのが一番好きとも。。。。 人は人同士違いはあります。違いがあるのが当たり前、でもなんで違った人を好きになるんでしょうか?一緒に歩きたいから。。。。。 一緒に歩きたいという気持ちが一緒ならば、心に浮かぶいろいろ好きな「物」は違ってもいいはずで、っそれはお互いに尊重しあえる。自由な二人の関係ですね。 でも、やっぱり日常の中を一緒に歩くんだから、時々は好きな「物」を二人で楽しまなくっちゃ。さりさりくんとスイムくんは、ピクニックに行ったりたくさんのホットケーキを二人で焼いたり。。。。。。 この人生観。。。。 今も夏生さんは語り続けています。 2008年12月19日 夕螺 |
| 珊瑚の島で千鳥足(続ばらとおむつ) |
| 角川文庫 |
| 銀色 夏生 著 |
| 2008年10月25日角川文庫より初版発行。 「ばらとおむつ」の続編です。 「ばらとおむつ」は2007年4月に発売になりましたが1年半ぶりの続編でした。「ばらとおむつ」という題名は、母親「しげちゃん」が脳梗塞で倒れ、その病状と介護の様子を兄「せっせ」がご兄弟たち(夏生さんは4人兄弟ーー「せっせ」、夏生さん、「テル」、「エミ」)にメール通信として出した通信の題名でした。今回の「珊瑚の島で千鳥足」もやはり「せっせ」の通信の題名です。珊瑚の島というのは、「せっせ」が「しげちゃん」を連れて南の島に移住すると言い出し、その計画から次の通信は「珊瑚の島で千鳥足」か!ということで名づけられたものです。さいわい?というのか、南の島への移住はまだでしたが、「せっせ」のいつか実現したい夢といった形で通信の題名としたのではないかと思います。本文中には南の島とはいわないまでも宮崎県の海の見えるような場所にとも。 ということで「せっせ」の通信「珊瑚の島で千鳥足」1号は、2007年3月12日にはじまります。(うん?夏生さんの誕生日?) 通信「ばらとおむつ」は、2007年1月3日100号で終わっていますから、約2ヶ月ぶりに通信が復活したようです。「ばらとおむつ」の夏生さんのあとがきには、「ばらとおむつ」101号が載せられています。その中で「せっせ」は次の通信の題名を「珊瑚の島で千鳥足」にと。このように「せっせ」の通信「ばらとおむつ」と「珊瑚の島で千鳥足」はほぼつながった形で、夏生さんの作品としての「珊瑚の島で千鳥足」もまさに続きなのです。そして今年7月8日の100号まで「せっせ」の通信は続きます。 「日々の出来事は ふりそそぐ雨のように あますところなく 涙と笑いを届けてくれる」 (背表紙より引用) 銀色夏生家もいろいろと。。。。。 生きていればそこに家族がいて親戚がいて周りの人に囲まれて生活をする。その中に日々いろいろな出来事が起きて一つひとつに喜怒哀楽が。 毎日が大きな出来事にあるわけではないけどその中で一喜一憂しながら過ごしていきます。平凡のようでもありあわただしくもあり。そのあわただしさも平凡に。でもこの平凡を見つめるとそこにはまさに笑いと涙があるわけで、そして怒ったりぼうっとしたり。そのような日々をつづることの面白さをこの作品は教えてくれるのかもしれません。それは通信として自分と母親との暮らしを通信として兄弟に送る「せっせ」の書くものの中にも言えることだと思います。 夏生さんのご実家は、宮崎県と鹿児島県、熊本県の県境にあるようですが、小さな温泉町のようです。多分のんびりとした時間が過ぎていく町なのでしょう。そのような町に住みながら日々起きる事々。。。それを見つめる夏生さんと「せっせ」の生活への考え方というのか生き方が出ています。もしかしたらそれ以上に「しげちゃん」の毎日の生き方が出ているのかもしれません。 「つれづれノート」という作品が発表されたときからそれ自体が詩人・作家としての銀色夏生の日記エッセイではなく、一人の女性として生きる銀色夏生の世界でした。ですから読者は詩人や作家と向き合うというよりも自立して仕事をして子育てをしていく一人の女性と向き合うわけです。もちろん作家ですから収入や時間的な自由はありますし、時々は作品の話やプロとしての作家意識も語られますが、基本的には日々の生活や人間関係の中でどんよりと過ごす銀色夏生なのです。 この日々をどんよりとしながらも見つめる視点、そこに人生の楽しさを発見したりするその生き方ですね。それも肩を張って生きるのではなくて自然に過ごし見つめられること。それが魅力でしょうし、読者も自分のことを見つめることの大切さを読後に感じるのです。 その点は、「せっせ」の通信にも現れています。たぶん介護や家の整理などは大変なことだと思うのですが、その大変さは見えつつどこかその大変さをもクスッと笑ってしまうように書いていく。それも変にニヒルではなくて心から時には楽しんでいるようにも感じられます。介護を必要な「しげちゃん」に時には癇癪を起こしながらもお誕生日のささやかなイベントを兄弟に問う。土地問題では怪しげな不動産屋にはらはらしたり。生活パターンからの「せっせ丼」(笑)などなど。なんだか人生って面白いなぁと感じます。弟の「テル」も心臓に異変が。もちろんみな心配しますがどこかユーモア的にも読めます。「しげちゃん」ももちろんなのですが、ご家族みんなが人生を楽しんでいるように。。。。視点を変えれば苦しさも後になれば笑ってしまうようなことはたくさんあります。ここには日常を文章にするということの特殊性もあるのかもしれません。特に人に読んでもらうというまったくの私的な日記ではない性格の文章に。自分を客観視できるというのか、感情をある程度抑えられたときにしか文章にはなりませんから。 夏生さんは、人生はゲームのようなものと他の作品で書いていますが、この作品をお読みになるだけでその意味の深いことが読み取れると思います。ゲームのようなものとはぜんぜん不謹慎な言葉ではないのです。漱石が作品において、人は喜劇を演じると書いていますが、客観視をすればすべて滑稽なのかもしれません。もちろん漱石は死だけが悲劇だと。日常の中に怒るいろいろなこと。。。。そのときには激しい喜怒哀楽があるけど、それを文章にする余裕が生まれたとき、人は喜劇を演じることが見え、ゲームだよなぁ。。。と許したり落ち着いたりできるわけです。でも、それは根底に日々の出来事や社会の出来事を見つめる目を持っていて考えぬける方が持てる視点ではないでしょうか。 悲劇を見つめられるから喜劇として見える。。。。 東京に出てきた銀色夏生一家。。。。 今も 「日々の出来事は ふりそそぐ雨のように あますところなく 涙と笑いを届けてくれる」 ということを感じながら日々を生きていらっしゃることでしょう。 |
| 春のオルガン |
| 新潮文庫 |
| 湯本 香樹実 著 |
| 1995年徳間書店より初版発行。2008年新潮文庫より文庫化 文庫で読みました。文庫版には湯本さんの「あとがき」がありますが、初めの作品を改稿しての文庫化だそうです。大幅に改稿されたのか? 小学校6年生ごろだったろうか? 親戚が集まり雑談の中に僕の将来について両親や親戚が話していた。何も深刻な問題ではなくて「どんな職業に就くか」「勉強しろ」といった軽い雑談だった。「硬い職業」に就かなければと大人の常識の中の話だった。その夜、寝床に入ってからその大人たちの話を思い出した。そして空想した。学校を出て「硬い職業」に就いた僕がいた。いつか結婚をするのだろうか?子供がいる家庭があるかな。そして僕も両親のように年をとるんだろうなぁ。。。。そしてその空想の先に恐ろしい未来を見た。「僕もいつか死ぬんだろうなぁ」と。 漠然とした空想は必ずやって来る現実としての死に結びついた。 その夜、僕はまったく寝付けなくなってしまった。 そのときからだったと思う。本を読み出したのは。 もちろんそれ以後は平々凡々と死などを忘れて漫然と生きてきたのだが、ある時一瞬この小学校のときの死の恐れを思い出すことがある。死は人をまじめにさせます。あせっても仕方ないが何かをしなければ。。。。かといって僕のような人間は何もできない。でも、死は必ずやって来る。 湯本さんの作品は何冊か読みましたが、湯本さんのどの作品もこの人の死が出てきます。湯本作品は、死を見つめる中にその死と生きる人の接点が描かれます。「春のオルガン」は、ジャンルとしては児童文学に入るのかもしれませんが、青年期も含めて子供や青年に死を見つめさせる中に問いかける湯本さんがいる。死は人をまじめにさせると先に書きましたが、どの作品を読んでも人の死を通した今生きる自分を考えさせてくれる作品です。 主人公の桐木トモミは、小学校の卒業式も終わり中学校入学前の春休みを過ごします。おじいちゃんと両親そして弟のテツと暮らします。おばあちゃんは病気の末に亡くなりました。 どことなく僕が子供のころのような風景を感じる時代を感じます。その風景に大人としての僕は自分を重ねてしまい、その郷愁の中に読みすすめました。それは湯本さんご自身の郷愁でもあるのかもしれません。自分が子供だった頃。。。。そして今こうして生きている自分がいる。子供の頃に空想した通りかは別にしてこうして遠い未来としての空想の中の自分がここに生きている。この感じ方を通してこの児童文学は大人にとってもいま生きる自分を見つめなおすことができる作品ではないかと思います。 どこの家庭も絵に描いたような幸せな生活の中にあることはない。そして子供にとってはその家庭を作っているのは大人の家族である。子供である自分が大人の世界を知っていく中に子供の精神的な成長があるわけです。トモミは、そんな大人の世界が見えてくる年齢です。 大人の社会は学校の教育で教えられるような社会ではない。大人といってもその社会の中に生きてその常識の中に生きる。この真の大人社会を見つめることも成長となるでしょう。 では、人の死という避けられない事実、大人の両親が作る過程、世間という社会の中に生きる現実の大人の姿。。。。これを見つめる中にいるトモミ。そのトモミ自身もその大人の社会を知りはいっていく苦しさをどう受けとめたらいいのか? これがこの作品の主題となるわけです。 トモミは、病室で危篤状態の祖母の苦しみを見て、おばあちゃんは早く死んだほうがいいよと思ってしまう。そしてその気持ちどおりに祖母がすぐに亡くなる。もちろんトモミは祖母が早く死ねばいいなどとは思っておらず、その苦しむ姿に怖さと救いを求めるの中からのやさしさである。しかしトモミはその自分の心がわからずに祖母の死を自分のせいと思い悩む。 隣家との境に塀を作ったが、隣家への遠慮から敷地の内側にそうとう余裕をあけて作った。しかしとなりの老人はそれをよいことに桐木家の境から入り込んだところに自らも塀を作る。この大人のずる賢さと損得勘定。これは大人社会を象徴しているだろう。それに対してトモミの母は怒り、その怒り方が家庭生活の中にも入ってくる。そんな妻を持つ父は嫌気を覚えてアパートを借り手で提起家にはたまにしか帰らなくなる。祖父は。。。。春の庭先に古いオルガンを出して直そうとする。そのオルガンはトモミの母親が小さい頃に使っていたもの。弟のテツは、母親の怒りを見て、隣の爺さんを懲らしめようと隣家に死んだ猫を入れる。 知美の家庭とトモミを取り巻く社会。幸せな家庭とはいえない。トモミの心の中は揺れ動く。何も解決されない中に心は不安定である。しかし変質者がトモミの胸をつかんだ。心に何の解決も見出せないが、体は大人になっていく。 作品の前半はこんなトモミの姿が描かれます。 そして中学校入学をする前の2週間ほどの春休みという時間の流れの中にトモミが見つけ出したものは。それはこの作品をぜひ読んでいただきたいと思います。 祖父は何も語らずにゴミ置き場になっているところに捨てられたバスの中でトモミやテツと一晩を過ごす。そこに集まる捨て猫が死ぬ。 その死んだ捨て猫をテツが隣家の庭にまた入れようとするが、爺さんに見つかる。怒った爺さんが倒れてしまう。それを見たトモミとテツの怖さ。猫という死を利用しようとしたこと。爺さんも生きているということ。 母親が父のアパートに寝ている。トモミが今まで見たこともないようなきれいな母親が寝ている。なぜ?父は家に帰る。なぜ? 2週間という時の流れの中に祖父が直そうとした春のオルガンは二度と鳴ることはなかった。 トモミは言う。。。。 「どうしようもないことってあるよね」(217ページ) そう。。。。大人になっていくというのは、どうしようもないことを知ることだったのかもしれません。 人の死も人の行いも。 でも、これはあるがままに受けとめると同時にそのどうしようもないことを悲しみとして受けとめることではないかと思います。悲しみを意識するとそこに人の持つ温かみを求めます。怒りや自己嫌悪、ねたみや優越感。。。。。こういう感情としてどうしようもないことを受けとめるならそこに解決はありません。悲しみと受け取ることだけが暖かさを求められます。 そして。。。。 「どうしようもないかもしれないことのために戦うのが、勇気ってもんでしょ」(217ページ) この勇気も悲しみの中にしか見出せないものかもしれません。 |
| どこから行っても遠い町 |
| 新潮社 |
| 川上 弘美 著 |
| 小説新潮とyom yomに連載された短編集です。2005年から2008年にかけて連載されたものです。yom yomの連載は読んだのですが、小説新潮のはじめの作品である「小屋のある屋上」から「蛇は穴に入る」までを今回読んでみてこの作品の全体像がわかりました。 短編集といっても連作短編で、 「連続して短編小説を織り成して一つの大きなストーリーにしたものを連作短編とも言う。」 (ウィキぺディア「短編小説」の項目からコピーさせていただきました) ある主人公の物語という形をとらずにどこかある小さな町の商店街ですれ違うだけの人々のそれぞれを描いたような物語です。人は生きて人と何かしらの形で触れ合う。小さな町の中にもこんな人と人との交わりがあり、ある人にはこの人が交わり、この人はまたあの人に交わる。。。。それぞれに個としての人生があり、その個は他の個と1本の糸でつながる。このような糸は小さな町の中に絡み合うようにつながり切れたり結びついたりしながら絡み合っていきます。そしてそれは時間の経過の中につながりも切れることも新たに作り出して生きます。 魚屋のおばさんにはその人生がある。そのおばさんに客である女性の学校の先生がいてその先生にもその人生がある。その先生には教え子がいてその子供にもその人生があ。い小さな飲み屋の男女には長い人生の交わりがあり、その店でアルバイトをしている学生にも人生があり、客もまた魚屋に働く男としてのその人生がある。 このようなそれぞれの人々の人生は時間の経過の中にまた新たなつながりのある人々をつなげていく。 yom yomで読みはじめたときの印象は「古風な女」であった。「四度目の浪花節」という短編だったこともあるが、小さな飲み屋を開いている女将と使用人の男。その恋が浪花節的である。年上の女の恋する男への思いやりが帰って男を惑わせたり、男が他の女に手をつける中にその年上の女の苦しみがある。浪花節的なのである。 しかし連載が進む中に主人公が男にもなっていくし、若い女性にもなっていく。「おや?」と思いつつ連載が終わりました。今回この作品としてまとめられたものを読むと、この「古風な女」と感じたものが実は「平凡な人生」なのだと気付きました。古風な女とはどこか片隅で生きていくようなイメージなのですが、この古風な女は同時に平凡な生活の中に生きる女性なのであり、それは若いか年配かにかかわらず、女か男にもかかわらずに平凡なのである。しかし平凡ではある中にその平凡にそれぞれの人の人生は必ずあるのである。僕たちが待ちの商店街ですれ違う人々。時にはどこかで顔を見たようなぁ?そう、スーパーのレジの人とか。そんな人々に人生があるんだと気付かされる思いですし、僕自身もその町の中で誰かからすればすれ違う人なのであり、その僕にこうして人生があります。幸せかといえばそうでもなくていろいろと悲しいものを背負っている。でも不幸かといえばそうでもなくて小さな幸せに顔を輝かせる。でもどこか不幸のほうが多いかな?だからこそその不幸の合間の小さな幸せに喜ぶ。 「平凡、は、平均よりも、なんというんだろう、輪郭が決まらない、感じがある」 (「長い夜の紅茶」111ページより引用) これが平凡というものでしょう。 平凡に生きる人々の物語。それがこの連作短編集「連続して短編小説を織り成して一つの大きなストーリーにしたものを」のすばらしさではないかと思います。平凡な人が集まって小さな町がある。その小さな町に人という人生の大きなストーリーがあるわけです。それぞれの短編に登場する人々。その人々がおりなす町の空気というのか色。そんなものを感じながらその空気や色という人生という大きなストーリーを感じるわけです。 「おれが決め、誰かが決め、女たちが決め、男たちが決め、この地球をとりまく幾数千万もの因果が決め、そうやっておれはここにいるのだった。」 (「どこから行っても遠い町」264ページより引用) 因果ですかぁ。。。。。。 一人ひとりは平凡にこの世に生を送る。さまざまな因果でその糸は結びついたり切れたりしながら。しかし。。。。「人はやがて死ぬる」(「蛇は穴に入る」100ページより引用) 魚屋の春田のおばさんは、死んでもこの町にさまよう。誰かの心に残る限り。 平凡とはいえ、そこに因果があるのなら誰かの心に残るだろう。その因果は生き続けてこの小さな町に残るのである。 すばらしい短編集でした。 2009年1月 9日 記 夕螺 |
| かもめ食堂 |
| 幻冬舎文庫 |
| 群 ようこ 著 |
| 読み終わった本をどこかにしまい忘れてしまいましたので、主人公の名前などもわからず、作品全体から受けた観想となります。 群さんの小説は久しぶりに読みました。 群さんの作品は女性同士の友人関係などを通して、女性の本音というのか女性がそのままに生きる姿をコミカルな軽いタッチで描きます。そこには女性の弱さもありますが、女性たちが集まって互いを「そうだよね」などと語り合うような中に強さを感じ、それはがんばって生きていこうよという読後感を抱きます。登場する女性たちは、美人でもないし恋も普通の恋。職業も地味だったり。。。。。 このような作品の世界に群さんの特徴がありますね。 今回読んだ「かもめ食堂」も3人の女性が登場します。 武道家の父を持つ主人公は、母親が早く死に子供の頃から家事をこなしてきた。父のしょおうかいで勤めた会社は親方日の丸関連の会社でどこかのんびりしている。楽な仕事である程度の給料。しかしその会社もなくなることに。楽な仕事は主人公にとっては何のキャリアを残さない。年齢は40代。未婚。 こうなると一人で生きていくことに苦労をする。どうすべきか。。。。 あるとき主人公は目をつぶり世界地図を開いて「えいっ」と指をさす。そこはフィンランド。フィンランドに行こう!!金は?くじ運がいいから宝くじを買おう!! ううう。。。当たります。宝くじ1等1億円。 父親は家事をやらないけど、主人公が子供の頃から遠足などではおにぎりを作ってくれた。そのおにぎりの味を持ってフィンランドのヘルシンキに向かいます。料理は得意!!店を出します。おにぎりもメニューに。 こんな突拍子もないような形で作られたヘルシンキの店を舞台にお話は進みます。 そこに主人公と境遇や年齢が近い女性2人がやってきます。けして幸福ではないがかといって不幸ということもない、そう平凡すぎる生活から抜け出してきた3人の女性。女性たちは、1億円という豊富な資金のもとに自分を捨てないで食堂を続けるというお話。 フィンランドへ行こう、金は宝くじが当たる。。。。 なんだかできすぎな幸運が主人公を自立させますが、あとの2人もなんのあてもなく同じような人生の境遇の中にフィンランドに来る。こういう3人をある意味雑なストーリー展開で作品は進みます。 だれでもが一度は1億円会ったらなぁ。。。と夢を持ちますが、それがうまい具合に現実となる。ここに、できすぎだよなぁ。。。。と読みすすめていきますが、たしかに雑な展開にもハハハ。。。。と笑ってしまう。ドラマ化された作品のようですが、楽しく見ることができるドラマを見ているようです。それで読後感も終わり、となればそれまでですが、夢のような条件で後の半生を生きることができるようになった40代、50代の女性。3人の女性たちはそれまで平凡ながらも何かに縛られてきた。平凡というのはある意味その縛られる条件の中にのんきでいられるということでもある。それがヘルシンキに来て食堂をやる中に、初めて自分の強い意志を貫けたのではないかな。日本食のおにぎりはフィンランド人にとっては変な紙(海苔)をまいたライス。。。であるわけですが、フィンランド人に迎合するような味は求めない。伝統的な梅とオカカと鮭。それは父の味であり愛情。それは必ずフィンランド人にも伝わるはずと。。。。 おにぎりとは平凡な料理である。でも平凡な中に握った人の愛情や味が出る。人はみんな平凡に生きているわけですが、その平凡と思われる中にあなたはあなたしかいませんよというメッセージが聞こえて競うです。自分はここに自分としている。。。。これがわかったときには生きがいとなりますよね。おにぎりのように平凡な特別なものがない人生でも。 群さんのこの作品は、傑作ではないかもしれない。でも、群さんがうったえかけるメッセージはこの作品の中にもはっきりと出ているのではないでしょうか。 楽しく読める作品です。 2009年1月26日 記 夕螺 |
| ハイエク 知識社会の自由主義 |
| PHP新書 |
| 池田 信夫 著 |
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この著書は、20世紀初頭からの経済学をはじめとし政治や哲学、自然科学を含めた歴史の流れにおいての自由と資本主義を振り返り、その中にいたハイエクというひとりの学者の理論を紹介をし、今という混迷した社会においてハイエクの理論がどのように生きており21世紀においてのハイエク理論の必要性を述べたものと思う。 うん。。。。 |