「夏の庭ーThe Friendsー」
                   (新潮文庫)
        湯本 香樹実  著
主人公の木山、親友の山下・河辺という小学6年生の少年が夏休みに経験した心温まる物語です。
ある日山下は、おばあちゃんが死んでしまい葬式に行き、死んだおばあちゃんの顔を見る。その話を木山や河辺に話をする。その中で、木山や河辺は「死んだ人を見たことがない」と。その中で3人は近くに住むおじいさんがもうじき死ぬようなウワサがあるから、見張っていればおじいさんが死んだところを見ることができるのではないかと尾行することになる。少年達の中にあるのは、死んだ後やお化けの世界怖さという子供っぽいものである。
この出だし部分を読んだとき、人の痛みや死を何とも思わない少年・少女達の犯罪を思い出し、怖さを感じました。死んだ人を見たことがない、見てみたい、という衝動から単純に死にそうなおじいさんを尾行するという単純な行動。このような衝動は、動物を虐待して殺すとか、人までも殺してそれを見るというようなものにもつながる発想ではと思い怖さを感じたのだと思います。
一方、おじいさんは、ゴミも庭にためっぱなしで、いつもテレビばかりを見て、食事もコンビニのものばかりという生活で、生きている張りもないような生活をしています。
そんなおじいさんを少年達は尾行をします。ある時その尾行を気づかれてしまう。
おじいさんは不思議さからも怒る。少年達は開き直り、河辺は「お前の死んだところを見てやる!」という。しかしそんな中にも少しづつおじいさんと少年達の中が変に親しくなる。少年達からすれば、死にそうなおじいさんという興味があるし、おじいさんからすれば、動機はどうであれ孫のような子供達とのふれあいの楽しさも出てくる。はじめは、尾行をしていたことをクラスの友人にばれてしまい言いつけてやるといわれ、その言い訳でおじいさんの手伝いをしているんだといいながら、ゴミ出しをしたり、庭の草むしりをしたりする。おじいさんはそんな子供達にすいかを食べさせたりする。
そんな関係はいつの間にか少年達の内面も変えていきおじいさんとのふれあいになっていく。おじいさんも張りのない生活をやめて洗濯や食事も作ったりするようになる。
きれいになった庭におじいさんと子供達はコスモスの種をまく。そんな中でおじいさんの昔の話を聞く。戦争で自分が生きるために村の人たちを皆殺しにし、妊婦までも殺したと。そんな経験から復員しても新妻のもとに帰れず、ずっと一人暮らしをしたと。
少年達も幸福ではなかった。木山の母親はアルコール依存症、河辺のお父さんは女をつくり離婚、山下は魚屋の家業を継ぎたいが許してもらえない。
こんな暗いおじいさんの過去や少年達の現在。この中でのふれあいが深まる。
しかし、コスモスの花が咲くころ、夏休みが終わるころ、おじいさんは死んでしまう。
このように主題は死であり、それをどのように受け止めてどう生きるかにあるかと思う。
おじいさんにとっては、死は目の前に迫っている。でもその中で少年達とのふれあいから今を生きることを学び、背負っていた過去を気持ちのうえで清算していく。子供達の手を借りて庭や家をきれいにし、身辺をきれいにしていく過程は、死出の旅立ちを準備することでもあったのか。その中で安らかに死ぬ。悪態をつく少年達ではあったが、おじいさんにとっては死ぬ寸前にありがたい友人ができたのではないかと思う。
少年達は、おじいさんの死を希望どおり見ることができた。でも、それはお化けの世界の怖さや死への恐怖恐怖だけを知りたいと思っていた少年達に、死について考えさせ、今生きていること、これからも生き続けることを考えさせ、死というものを考えることによって大人になっていく。夏休みが終わり、コスモスが咲くころ、少年達は青年に近づいていく。一回り大きくなった少年達。
木山はアルコール依存症の母親を暖かく見ることができるようになる。再婚をするという母親を河辺は暖かく受け入れる。精神面で大人になることは、人の弱さを知り、人を許し暖かく受け止めてやるということ。
おじいさんとは、こんな面で少年達のよき友人であった。
普通の人間が経験した夏休みの1ヶ月の心温まる事件。
こういう経験は僕にもあります。死というものをまじめに考えたとき、人は大人になります。体は大人でもこのような経験をしたことのない(考えたことのない)人たちは精神面で大人に成りきれず、社会の表面だけで生きていくことになると思います。

             2003年9月  記
                          夕螺