こうばしい日々
新潮文庫
江國 香織  著
この前、江國さんの「スイカの匂い」を読みましたが、この作品で少女たちが描かれていました。ここに描かれている少女たちがどこまで絵國さん自身の経験が入っているのか興味を持ちましたし、江國さん自身の経験ではないとしても江國さんの描く少女に江國さんの内面が入っていると思います。
もう少し江國さんの子供を題材とした作品を読みたくて「こうばしい日々」も買いました。
文庫版の「こうばしい日々」は、「こうばしい日々」「綿菓子」の二つの作品が載せられています。
この二つの作品は、少年と少女が描かれています。どちらも年齢的には12歳前後です。「スイカの匂い」が7歳前後の少女ですから、「スイカの匂い」よりももっと精神面で大人になっていく過程を見ることができます。幼い頃は、家族や友だちその他、外界から受け刺激をただ受け入れたりぶつけられたりしながら、それを受身としてしか対応できない部分があります。それはただ保護された中にしか生きられないというような条件だけではなく、精神面においてもです。しかし12才ころの思春期(反抗期)になると、外界を見る目が育ち、精神面においても自我も発達します。この自我において不合理な外界(大人社会)を批判します。
12才頃の思春期の少年を描いた作品に、湯本香樹実さんの「夏の庭」がありますが、こちらは人の死を見つめることによって幼い子供から大人へ一歩近づくという作品ですが、絵國さんの「こうばしい日々」は、絵國作品らしく恋を通じて大人にどう一歩近づいたかを描いています。ここに作家の視線がどこにあるのかがわかりますが、違いだけではなく、江國さんと湯本さんが描く少年たちは、人の死とか、日米の文化の違いやそれの受け入れ方というような感情の外にあるものに接しながら大人に近づくと描かれている中に同じものを感じます。ここに女性作家から見た少年とその少年が大人になった男への視点(少年らしい男などという言葉をよく聞きます)が現されていておもしろいと思います。「こうばしい日々」の少年は、このような外界に反発をしながら成長しますが、そこには恋もあり、恋自体も「綿菓子」の少女との違いを表しています。
少年も少女も家庭や学校友だちなどの外界に接しながら成長をするのですが、「こうばしい日々」の少年は、家族の中に母親のアメリカかぶれを見たり、姉の友だちの男に日本かぶれを見る。そして姉自体には日本文化の誇張と実際には最もアメリカ人らしいボーイフレンドの中に矛盾を見る。恋という面では、一人寂しく暮らしているおいた女性を心配する。その女性に恋人がいることを知り安心する。この中に男としての思いやりのようなものが見える。クラスメートの少女との恋には、父親の「そういうことは理屈じゃない」と聞かされ、喧嘩をしたガールフレンドに何も言わずにキスをする。
老いた女性への思いやり、ガールフレンドとのかかわり、これを通して一回り大人に近づき、どこと無く自信を持ったように見えてくる。母親や姉への反発は変わらないものの、以前とは違う接し方も出てくる暗示があり作品は終わる。
「綿菓子」の少女は、家庭というものに女を見る。おばあちゃんとその友人の仲、両親の夫婦のあり方。12歳の少女の「結婚はしない。恋に生きる」という言葉に成熟さと驚きを感じる。少年に「恋に生きる」などと語らせる小説は皆無だろう。それだけこの少女の言葉に、思春期を迎えた少女と少年の違いを見せ付けられる。
元恋人の男を振って他の男と結婚をした姉に反発を覚えるが、その中に大人の行動の不可解さを見て反発もするが、姉の元恋人にキスをされ、コーヒーを口移しに飲まされたときに、「たとえおねえちゃんの身代わりでもいい」と女となる。
少女はこれからはちゃんと勉強もしようなどと成長をする。やはり、おばあちゃんや母親の生き方を理解していくと思われる中に作品は終わる。
ここで思春期の男女の違いを強調するつもりは無い。しかし江國さんが描く二つの作品の中にそれを感じ取れるし絵國さんの作品の素晴らしさを知ることができる。
銀色夏生さんの「黄昏国」の中に詩「春の小川で」(17頁)に
「糸をえり分ける作業を終えた私が
 種をちょうどのところへならべる作業のあなたと
 休けい時間
 ・・・・(以下略)」
とありますが、これを恋人どおしの性格の違いぐらいに見ていたのですが、今回江國さんの「こうばしい日々」を読み終わり、男と女の違いと見るべきかと思いました。こう見ると、また、この詩の味わいが違ってきました。
「糸をえり分ける作業」「種をちょうどのところへならべる作業」この言葉のうまさを見ることができました。
いろいろな作家、作品を読むと、いろいろと思いが広がって生きます。楽しいです。


            2004年2月12日 記

                         夕螺