スイカの匂い
新潮文庫
江國 香織  著
「スイカの匂い」をはじめ11の短編からなる作品です。
江國さんの少女時代の経験がどこまで入っているのかはわかりませんが、小学生時代の少女の体験をまるで江國さん自身が語っているように描かれています。
銀色夏生さんの断片的な少女時代を語った文章、群れさん、角田さんなど、子供時代を描いたと思われる作品もありますが、絵國さんの「スイカの匂い」も含めて、子供の頃の原体験が作家のエネルギーではないかと感じます。
普通の人も、心の奥底にある暗闇にさまざまな原体験が保存されていて、あるきっかけでまるでその暗闇にフラッシュをたかれたようにパッと一枚の写真のように思い出されることがあります。それは楽しいものだけではなく、というよりも思い出したくもないもののほうが多いかと思います。多くの人たちはそれを思い出したくないと心の中に閉じ込めてしまいますが、作家はそれを見つめる勇気と純粋さがあるのかもしれません。または、その感受性からそれを描かずにはおけないものがあるのかもしれません。それがエネルギーでしょうか。
「スイカの匂い」のそれぞれの短編も、この思い出したくもないような出来事が書かれています。
子供同士のいじめをはじめ、厳格な父親、性的イタズラ。。。。このようなものが一人の少女に決定的な原体験を与えます。また、少女自身の中にある残酷性、カタツムリや亀を殺したり、愛しいばかりに大人の男の腕をナイフで切る。愛しい父親代わりの叔父の結婚相手を「たいした女ではないわね」とけなす。いじめられている自分自身が地方に住み東京にあこがれる同じ少女に嘘をついてその少女を傷つける。
傷つけられながらも傷つけてしまう。そんな子供の中に在る残酷性があります。
このようなことを江國さんは素敵な言葉をつむぎながら表現をしています。絵國さんのほかの作品もそうですが、「匂い」を通してあるものを思い出したり、心の中を表現したりする絶妙さがあります。また、小説の中身には関係ないような物にこころを表現します。さらっと流れる中に読者の心に深く作品がしみこみますが、これはこのような表現方法にあると思います。
最後の短編「影」は、他の短編とは少し違った雰囲気があります。幼なじみではあるがそうは仲のよかったわけではないMという女性が出てきます。Mは、主人公の「わたし」に近づくとも遠ざかるともなく影のように付きまとう。「わたし」は、離婚を考えている。夫事態がどうのということではないが、洗濯物を洗濯機で一緒に洗うことを嫌悪するような理由で。ここに男に対しての「わたし」が見える。
「夏は嫌だな。嫌なことばかり思い出す」
「小学生だったころのこととか?」
という二人の会話が最後にあるが、「影」以外の10の短編は、すべて小学生のころの夏の嫌な思い出を描いており、少女の原体験である。この原体験から離婚をする「わたし」を思い起こす。上に「心の奥底にある暗闇にさまざまな原体験が保存されていて、あるきっかけでまるでその暗闇にフラッシュをたかれたようにパッと一枚の写真のように思い出されることがあります」と書きましたが、Mという女性は、「わたし」のそれぞれの体験の中に現れてきてそれを見ている。その意味では10の作品にある夏の嫌な思い出を心の中に現そうとするものの擬人化のように思われる。または、Mというものを通してという形での自分自身の心の奥底との会話のようにも見える。
最後の短編「影」に絵國さんの書きたかったものが集約されているのではないか?
作品自体は複雑な思いで読みましたが、子供時代というものを包み隠さないで自然にさらっと読めるような文章に、純粋な人でなければかけないのではないかと思うものがありました。

                2004年1月20日

                       夕螺