ポプラの秋
新潮文庫
湯本 香樹実  著
僕たちは歴史を学ぶ。しかし、これまでの歴史は、一人ひとりの人間の中に良くも悪くもはっきりとした形がつかめない霧の中に漂うごとく伝わっているのではないか。
柳里美さんの文章を読んでいると、在日韓国人であり、在日韓国人だというその歴史を学ぶまでもなく血として柳さんの人生や価値観に大きなものを残している。このような一人ひとりに受け継がれている歴史は、学問としての歴史を知ることによりより霧の中にはっきりしなかった形が明らかになるし、学問としての歴史を改ざんしようとしても、一人ひとりの人間に残されたものは改ざんできない。
これは、肉体的に人間が遺伝子として過去の人間を受け継いでいくのと同じように、精神的にも歴史という現実にあった事実をさまざまな形で遺伝子と同じように受け継いでいく。
自然法則どおりに肉体的な遺伝子を引き継ぐように、歴史という遺伝子も長い時間の単位の中に一人ひとりの人間を単位としてその人間の集まりとして社会的に自然な形として受け継がれていく。
一人ひとりの人間は、霧の中のような歴史の時間の中を家族という単位で影響を受けながら漂う。そして漂いながら歴史の流れにビビたるものだが影響を与える。しかし、その家族という単位においても、子供にとっては親という人間の歴史はやはり霧の中である。
「ポプラの秋」の主人公千秋は、母の電話によりおばあさんが亡くなったことを知り、葬式に出かける。大きなたくさんの薬袋を持って。この精神を安定させる大量の薬、これが暗示的である。
千秋の父親は、千秋が小学1年生のときに突然に死に、母親からは交通事故だと知らされる。千秋の強い父親への思い、しかしそれに冷淡な母親、ここにも暗示がある。
なぜ母親が父親の死や思い出に冷淡なのか、千秋にとってもやはり両親というものは霧の中なのであり、母親の早い再婚により千秋は反発を始める。思春期の原体験としても大きなものがあったのかもしれない。
わけもわからないままに霧の中のように動いている社会、その社会の中に人間同士の結びつきとしては一番強く結びついた家族が漂い、しかしその家族の中でも一人の人間は親のことでさえ霧の中なのである。ここに人間の孤独感の原点があるのかもしれない。千秋は、母親の父への冷淡さの中に孤独感を受ける。そして後に大量の薬が父親の血を引き継ぐものだということに思い当たる。
亡くなったおばあさんは、千秋の父親が死んだ後に引っ越した大きなポプラの木がある小さなアパートの大家である。
「ポプラの秋」は、このおばあさんの小さなアパートで暮らした3年間の思い出と、成長した千秋がそのおばあさんの葬式で知ることになることが書かれている。
おばあさんは、まだ死ねないという。まだ仕事があるからと。
その仕事とは、死ぬときに、千秋の父親への思いを綴った父への手紙を天国に届けること。たんすの引き出しがいっぱいになるほど千秋の手紙がたまったらそれを持って届けに行くのだと。
父親に対して冷淡な母親にはいえない気持ちを書いた父への手紙、それはどんなに千秋の心をほぐしてくれただろう。
孤独の中に生きる少女、しかしその少女も孤独の中に生き抜かなければならない。手紙を書くことが癒しとなる。葬式に出てみるとこの癒しを受けていたのは千秋だけではなかった。多くの参列者すべてが。その中に千秋の母親の手紙もありそれを読まされる。
ひとつの恋が終わり、その恋に傷ついて仕事である看護婦も辞めてしまった成長した千秋、母親の手紙に、そんな千秋の目に飛び込んだものは、やはり夫を亡くしたときの大きな心の孤独であった。反発をする娘への思いであった。父親の死、その死と千秋が飲んでいる薬。
おばあさんが千秋だけに手紙を預かっていたのではなかったという寂しさも残り、母親の孤独を知ったからといって千秋の孤独がなくなるわけではない。しかし、このどうすることもできない孤独を受け入れること、同じように人は孤独の中に生きていることを知ること、ここに生きていかねばという強い思いが出る。千秋は生き抜こうと決意する。
そしてたくさんの思いが書かれた手紙を預かって旅出たおばあさん、
「もしかしたら、もしかしたらですけどね、おばあさんはよほど辛い目にあって、本当の話ができなかったんじゃないかって」
先発った学者の夫に本当に手紙を書きたかったのはおばあさんだった。
孤独を受け入れるとともに、ただ孤独に生きるだけではなく、人の中で癒されること、もちろん傷つけられることのほうが多いのですが、癒されながら人は生きていきます。この癒しは、大きな社会の歴史という流れの中にも生きています。人を傷つけて歴史の流れを逆流させる人間も多いのですが、歴史の流れを自然に流れさせるのは、この人の持つ癒しなのかもしれません。

               2004年1月8日 記
                            
                                夕螺