江國さんは、あとがきに「余分なこと、無駄なこと、役に立たないこと。そういうものばかりでできている小説を書きたかった。」と書いていますが、読むものにしてみると、ページをめくるたびにといっていいほどその「余分なこと、無駄なこと」な日常や言葉中にドキッとするものがあり、けして「余分なこと、無駄なこと」ではない。
登場する二人の幼馴染の女性それぞれの恋も、不倫であり、設定としては一人の女性としてみれば人生の中での重大事である。
「きらきらひかる」では、同性愛の夫と、アルコール中毒の妻という、世間一般から見たら「異常」な恋を描いているが、「ホリー・ガーデン」の二人の女性、これも世間一般から見たら(テレビのワイドショウーで慣れているとはいえ)やはり特別な恋愛であり、不倫小説として盛り上がる小説は書けるだろうと思う。
しかし江國さんは、これらの世間一般の常識から外れた恋をごく自然に、さらりと書き、読者はこの「異常」を忘れ、まるで純愛小説でも読んでいるように感じてしまう。ここに江國さんの作品の魅力があると思う。
これは、江國さんが「異常さ」のあるものをさらりと書いてしまうという技法のうまさや「異常さ」を正当化するようないやらしさがないというだけではなく、その奥底にある人が人を好きになる、愛するという純粋なもの、それが毅然として流れていること、これこそが江國さんの作品の魅力となるのだと思う。
たとえば、子供や少年少女が、相手の社会的なものというすべての殻を見ないで純粋に好きになるというようなそんな純粋なものが江國さんの作品にはある。もちろん登場する人々は大人であり、社会という殻にがんじがらめにされている人々である。不倫という二人の女性、あるいは「きらきらひかる」の中の同性愛やアルコール中毒、これらはすべて社会の中では「異常」として見られる。これほどの社会的な殻の中でもそれぞれの登場人物は純粋でいられる。まるで子供や少年少女のように。。。。。
「ホリー・ガーデン」においては、この純粋なものは、恋愛小説でありながら二人の幼馴染という女性の中にある。
不倫相手、そのほかの二人の女性を取り囲む男たち、これらの男たちには顔がない。漠然とした顔しか見えない。二人の女性にとっては、これらの男たちは「余分なもの、無駄なこと」なのかもしれない。「余分なこと、無駄なこと」というと変だが、この「余分なこと、無駄なこと」とは、ある意味では「日常」であり、二人の女性の中に流れる日常という時間のひとコマに男がいるような気がする。
男との恋愛を含めた仕事などの雑多な日常という時間の流れのなかに、二人の女性の間にある、お互いを心配しあったり喧嘩をしたりと、二人の中には、友情というには足りない、それ以上の純粋な間柄を感じる。愛情なのか。。。。
純粋さも「余分なこと、無駄なこと」という日常を通して感じられる。
「きらきらひかる」の中で、同性愛やアルコール中毒という「異常さ」をお互いの両親から責められるが、二人にとっては、このような社会の殻の中での常識は、「余分なこと、無駄なこと」である。しかしその中でお互いの純粋な愛情を確認する。
「ホリー・ガーデン」の中の二人の女性は、お互いの不倫相手を快く思っていない。お互いに「余分なもの、無駄なもの」的な感覚で見る。しかしこれを通じて二人の女性の間に純粋なお互いを思いやるものが見える。夫婦間も同じで、いろいろな社会から受けるわずらわしさなどをお互いに対処しあったりしている中に、純粋な思いやる心や愛情が現れているのかもしれません。
江國さんは、匂いや色、手触りなど、五感をうまく使った表現が多く有りますが、日常の中で何気ないことが心を揺さぶることがあります。「余分なこと、無駄なこと」と見えるのかもしれませんが、案外この日常が必要でもあり、「余分な時間ほど美しい時間はない」のかもしれません。
2003年12月16日
夕螺