| あとがきに「ごく自然な恋愛小説を書こうと思いました」とあります。 しかし中身は同性愛の夫とアルコール中毒の妻が主人公です。どこが「ごく自然」なのか?「常識的」な目で見るならば異常な世界です。なぜ江國さんがこの中に「ごく自然な恋愛」を描こうとしたのか? しかし僕が書いた「常識的」という言葉をもう一度見直さなければならないのかとも思います。睦月と笑子の両親は、この常識の中にいる。両親は、孫を産めという。そして睦月の同性愛と笑子の精神異常をお互いに知る中に苦悩する。同時に睦月や笑子もこの「常識」に苦しみ傷つく。もちろん睦月と笑子自身も世間の常識から見た自分たちの「異状」さに苦しむ。睦月は同性愛という恋愛感情からけして子供を授かるものはない。笑子はその精神状態から子供を育てることへの不安がある。 このような中に二人とその家族の中に「常識」との葛藤がある。 では、なぞ二人は見合いをして結婚という形態をとったのか、それは、睦月の恋人(男)紺の言葉「男が好きというのではなくて、睦月が好きだから」という言葉の中に答えがあるのではないかと思う。純粋にその相手が好きだから一緒にいるという気持ち。この純粋さを常識とぶつかりながらも捜し求められていくという作品だと思う。 しかしなぜこの人を純粋に好きになったから一緒にいるというものを同性愛や精神異常の二人から表現をしなければならないのか。 同性愛(世間で言う女装的なオカマといわれるものとは違う)や精神異常というのは、今の社会では世間に隠し通すか内密にするというものがあると思う。ここに極限の状態があり、その極限の状態の中に睦月や笑子の純粋な「基本的な恋愛」を描く。この中に人を好きになったからという純粋という大切さが画より強く強調されるのではないかと思う。 読者はこの純粋さに魅了されて常識として持つ同性愛という嫌悪感やいやらしさを感じないで作品の中に引き込まれるような気がします。性は人それぞれ、性だけではなくさまざまな世間の常識の中にすべての人は生きている。この世間の常識と自分らしさに苦しむことはたくさんあるだろう。純粋さを貫くのは難しい。 笑子は「銀のライオン」の話をする。睦月や紺、その友人たちを「あなたたちは銀のライオン」だという。睦月の父親も「笑子さんも銀のライオン」だという。銀のライオンは、時に発生する白いライオン。そのライオンたちは群れから離れて自分たちだけで草食で生きているという。そして短命だと。 世間の常識から離れて自らの純粋さの中に生きる睦月や笑子たちという銀のライオン。世間の肉食という常識から離れて草食というやさしさの中に生きる睦月や笑子たち銀のライオン。やさしさや純粋は、この社会の中では弱い。弱い中にもその中に身を置く覚悟、あるいはそのようにしか生きていけない人々。 睦月や笑子のような極限的な人間ではなくても、この社会の中でやさしく純粋にひっそりと生きている人々は多いだろう。しかし、このような愛すべき人々は少数である。 小説の最後は、、、、、 書きませんが、睦月や笑子、紺のつかの間かもしれない幸せに応援したくなるような結末です。 江國さんの作品は、「神さまのボート」と2冊目ですが、その作風は、二人の人間がそれぞれに主人公となり、それぞれの主語で語りかけられている。これはどちらがどちらに影響されたのかというものではありませんが、北村薫の作品に共通しますね。面白いと思います。 2003年11月 記 夕螺 |