NO.075 赤神 ひとでなしの恋
空が赤く燃えている。
砂塵と熱風が時折舞い込み、真冬とは思えない暑さと、寒気が入り混じった奇妙な感触を
肌に感じる。
辺り一面焼け野原になり果て、豪奢で荘厳だった旧館の姿の跡形も、そこには存在しなかった。
かろうじてベランダであっただろう、部分の一部や、広い居間のシャデリアの残骸などが、
そこに何が存在していたのかをうかがわせる。
「晴子お嬢様」
心配げに声をかけてくる、藤井の声。
晴子はこの優しく気丈な女中頭が大好きだった。
晴子が生まれた時から藤井の優しい眼差しはそこに存在し、晴子がどんな人間でも、
晴子がきっかけで、どんなに奇妙なことが起きても、恐れず接してくれる。
もしかしたら藤井は、父さまや母さまのことよりも、自分のことを一番大事に想って
くれているかもしれない。
晴子にとっても、藤井は一番大切な人間だった。
父さまと母さまのことは、勿論大好きで二人の為だったらどんなことでも出来る。
けれど、父さまと母さまは、二人で一つで、どんなに母さまが自分のことを愛してくれても、
自分はあくまでも傍観者に過ぎないのだと、幼い晴子はよく分かっていた。
「藤井、晴子のこと、好き?」
「晴子さま?」
「晴子、父さまや母さまが大好き。でも、もうずっと二人に会えなくても平気。
でも、でもね、藤井が晴子の側からいなくなったら、晴子、きっと気が変になる」
「…それは、これからも晴子さまのお側に仕えさせて頂いてもよいと、いうことでしょうか」
「うん。ずっとずっと一緒にいて」
「…藤井は何処へも参りません。晴子さま。晴子さまのいらっしゃらない所に、藤井の
居場所はございません。一生、晴子さまをお守りすることが、藤井の幸せです」
「藤井、大好き」
「藤井もです。晴子さま」
晴子は小さな手を広げて、藤井の顔を見上げながら、その腰元に顔をうずめた。
女中頭の藤井は優しく微笑んで、晴子を抱きしめる。
修羅の光景の中、二人は抱きしめ合い、今までで一番幸せな時をかみしめる。
藤井は誰よりも愛しい晴子の、父親ゆずりの細く癖の無い、漆黒の髪をゆっくりとなでおろし、
今のこの奇跡を与えてくれた数々の偶然に感謝し、身震いした。
この人外の愛しい存在を守る為なら、自分は何でも出来るだろう。
この愛しい子供の側にいる為なら、どんな卑怯なことでもするかもしれない。
もし、晴子が自分を拒んだとしたら、果たして自分はこの手を離す事が出来るだろうか。
既にこの世にはいない漆黒の髪の当主が、この子の母親を強引に連れてきて、何処にも行かせない様に閉じ込めて、無理矢理愛した気持ちが、今ならよく分かる。
「藤井、このまま晴子を何処かへ連れていって。お金なら、この瓦礫の下を探せば何かあると思うし、当分暮らせるわ」
「お二人は次期に戻ってこられますよ。晴子さまがいらっしゃらなければ、心配なさいます」
「いいの。もう父さまと母さまには会わない。二人は出会えたし、わたしはもう親離れしたいから」
「あなたはまだ幼すぎます。きっとお父様やお母様と離れて、お寂しいと思いますよ」
「大丈夫、藤井がいるもの。藤井がいてくれれば、誰もいなくていい。それに、母さまの側にいたら、いつか晴子、父さまに殺されるわ」
一見おっとりした幼子に見え、その実かなり現実的で聡明な晴子は、的確に自分の父親の人となりを理解していた。
「何をおっしゃいます。その様なことは絶対にございません」
「嘘をついてもダメよ。父さまのことは、藤井もよく知っているでしょう」
「晴子さま…」
「父さまはあれでいいの。父さまは、母さまの為だけに生きているんだから。晴子は二人の子供よ。それがとても嬉しいし、母さま以外の存在を気にかける父さまほど、無様で醜いものはないわ」
漆黒の髪の幼い少女は、母親譲りの赤く、時折強い眼光を放つ瞳で、藤井を見つめた。
「晴子も父さまの様に、藤井の為だけに生きるの」
「藤井だけの側に、いてくださるのですか」
「うん。だから藤井、このまま何処かへ連れて行って」
「晴子さまがお望みなら」
藤井は晴子を抱き上げ、頬にくちづけをして、額をこすり合わせた。
「行きましょう、晴子さま」
「うん」
22年前 初夏
T県きっての名門、花形家の若当主、花形は、大学の夏期休暇を利用して親友の藤真と共に、S県の山奥に来ていた。
「おい、まだ着かないのか」
「もうすぐだろう」
「しかし、お前も物好きだな。たまたま古本屋で見つけた明治時代のおかしな日記をたどってこんな山奥まで来ようとは」
それを聞いて、花形は苦笑した。
「オレは、その物好きに付いてくる、お前の方がもっと物好きだと思うが」
「違いないな」
藤真はくっくと笑って、華奢な見かけによらず、疲れも見えない様子で花形の後をついて来る。
二人は大学のテニス部で知り合い、不思議な程ウマがあった。
二人とも目立った容姿で、その上文武両道の二人が並んで歩いていると、女子学生が必ず振りかえる。
そんなことは日常茶飯事で、二人自身にとっては興味を引く出来事ではなかった。
ある日、大学図書館でめぼしい本を読み尽くした花形が、東京の神保町の古書店まで出向き、何か面白い本はないかと物色していた所、古いがしっかりした装丁の、茶色の表紙の日記らしきものを見つけた。
その日記は鍵がかかっていて、店主に中を見られないか訊ねたが、残念ながら、鍵はないとのことだった。
花形は、惹かれる様にして、その鍵のかかった日記の中を確めることなく、買うことにした。
思えば花形は、この時から呼ばれていたのかもしれない。
さて、日記を買ったはいいものの、中を見ることは適わない。
家に戻ってから、自室で針金などを使い、鍵穴に指し込んで、奮闘すること30分、ふいにカチッという音がして、鍵が開いた。
花形はいささか緊張しつつ、その日記を開いた。
始めのページには、
『忠、大楠、高宮へ 贈る。 これが今の俺の全てだ。 みんな元気でいてくれ。
明治25年4月1日 S県赤神村より』
と達者な文字で書かれていた。
「赤神村……? 聞いたことがないな」
不思議なメッセージだと思い、一体どんな人物が書いたのかと、日記の一番後ろのページを見ると、『水戸洋平』という名前が記されていた。
つづく
2003.5.04