ふるさと  更科

古くは千葉郡更科村と称し昭和30年白井村と会併し新町名 泉町 となる 
その後昭和38年千葉市と合併現在に至る

慶長19年1月8日東金付近の鷹狩に向かう家康は新しく作られた御成り街道を通って
金親村の金光院で休憩した
その時出された蕎麦を家康は大変美味しそうに召し上がりながら
このそばはどこで作った蕎麦かとたずねられた
近くにいた村民が この御殿の近くで作っているものでございます
と答えると家康は
信州 さらしな にも名高いそばがあるがそれよりも風味が良いと言って気に入られ
このあたりを さらしな と呼ぶようにすると良いと言われたと言う
(更科郷土史研究会編 さらしな風土記より)


旧小間子公民館(旧更科村役場を移設)

更科中学校 自動車クラブ (千葉市の100年誌より)

富田町コスモス街道

更科中昭和35年度卒業 同窓会千葉武井本店にて  平成12年

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昭和35年頃

小間子の地名

遠く江戸時代よりさらに昔このあたりより東側を小間子牧と言った
野生の馬がかっ歩していた
この時代 馬はベンツであり戦車であり飛行機であった
ここ小間子と八街市沖の境には馬追いの土手がある 毎年この頃には
誰かがきれいに草を刈って300年の時代を守っている
さて本題の小間子だがこれを当て字と言う説がある
恐れ多くも幕府の御料牧場であるその名を   御馬郷  と
このまま御馬郷という地名として使うには恐れ多いなら当て字で小間子にしようと・??
八街の沖はかっては 沖小間子と呼ばれ千葉市側は 内小間子と呼ばれていた
これは住民側 つまり上泉 下泉の方から見ると先ほどの馬追いの土手の内側か
沖側かの違いから来た地名か?昭和30年までは千葉郡泉町内小間子と言っていた参考のためその前は 千葉郡更科村上泉下泉入会番外 が正式な住所であったここと網走と2箇所しか番外地は無かったのである
さて正確さはどのくらい かなり自説が入っている