パンフレット

水戸黄門ゆかりの里
風車の弥七の墓
水戸藩指定紙すき場跡

風車の弥七の墓

「水戸黄門の諸国漫遊」は、義公が名君であったために作られた物語であるが、その中に出てくる「風車の弥七」は、実在の人物「松之草村小八兵衛」がモデルとなっている。
義公の御世、(1661−1690年)常陸国松之草村(現茨城県常陸大宮市松之草)に、「松之草村小八兵衛」という者がおった。この者は盗賊の頭領で、一昼夜に三十里(120km)を往来し、忍びの術に於いても達人の優れた忍者であったという。後捕らえられたが、義公の尊徳をもって助命となったばかりか、一生涯二人月俸を給せられたので、その恩恵に非常に感激して、「自分の存命中は、決して御領内に盗賊は立ち入らせない」と誓ったと言うが、果たしてその言のとおり、彼の存在中は、水戸領内には夜盗の心配はなかった。
又、小八兵衛は、領内や隣国の動静変事を探り、義公に報告する間者(隠密)として活躍したので、義公は居ながらにして、領内の変事はもとより、隣国の動静も知り得たという。このことは、今から約一五〇年前に「石川久徴先生(注1)」著書の「桃蹊雑話」に書かれている。
小八兵衛の墓が、松之草公民館の近くの山の麓にある。−帰真禅山崇心墓・元禄十一年戌寅五月二日歿−と書かれている。その傍らから、小八兵衛の女房の「お新」の墓碑ではないかと思われるものが発掘された。−皈眞梅梢池春禅定尼霊位−元禄四年正月十一日歿−と書かれている。
「お新」は旧那珂郡戸田村(現那珂町)から来たと言い伝えられている。
この墓は、故会沢淳氏(元緒川中学校長・元緒川村郷土文化研究会理事)の曾祖父会沢松翁先生(注2)や郷土史家圷清次氏(故人)の調査研究によって確認された。
近年、緒川村は村内の史跡顕彰に力を注ぎ、地元松之草の協力を得て、墓地の整備を行い世に公にされた。

(注1)石川久徴先生は、藤田東湖先生・会沢泊民先生の師で、その著書「桃蹊雑話」は、水戸初代の藩主威公から、六代文公までの水戸藩のできごとが書かれている。

(注2)会沢松翁先生は、会沢正志斉先生の縁者で、傑出した門下生でもある。皇漢学者。大正十三年、八十一歳で歿す。


 
義公の遺蹟

「義公が水戸城内の奥女中たちに紙すきを見せたところ」
資料によれば、寛政二年に水戸藩が藩外に売出した農産物の総額は、九万九千両余りで、その中で和紙は三万一千両にのぼり、農産物総額の三十二%を占め、藩の財政を支える重要な産業であった。そのため光國は、常に紙を大切にしていたが、侍女たちは乱費に馴れ、改めようとしなかった。
そこで義公は、ある年の寒中に、侍女達を松之草(現常陸大宮市松之草)につかわし、紙すきの苦労を見せたのである。寒中でもこの日は特に寒い日であった。しかし、紙すきの人達は、冷たい北風に身をさらし、氷づくような寒水にはいって、手も足も真っ赤にして懸命に働いていた。このようすを侍女たちは熱心に見て帰った。そして以後、自分たちが日常使用している紙がいかに尊いものであるかを知り、たとえ一枚でも大切に使用したという。
この紙すき場跡は、松之草公民館の西100mのところにある。
このことは、水戸藩の学者、立原翠軒先生編「西山遺聞」や仙台藩の安積民斉先生著「民斉閑話」に書かれ、それらがよりどころとなり、明治三十三年(一九〇〇年)発行の尋常小学校用坪内雄蔵著「国語読本巻六」大正八年(一九一九年)発行の国定教科書「尋常小学校終身書巻三」に採用されている。
なお、奥女中たちの松之草来訪は、小八兵衛が光國公に進言して行われ、女中たちの案内・世話などは、小八兵衛たちがやったといわれている。

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同志社大学学術リポジトリに西山遺聞採餘が掲載されている
紙すきを見せた事について、P5に記載してる。 リンク先参照→ 資料の写真