アッシジの聖フランシスコ寺院を出たとき、にわかに夕立が来て、どしやぶりになった。
通り雨のようなので、私は近くの回廊の軒下で雨のあがるのを待っていた。
私の後から、そこにかけこんで来た若い修道女が、少しうつむいて、立っていた。石だたみを打つ雨あしをじっと見ていた。この世の人と思われないほど、美しい人だった。
私は、その横顔を記憶しておこうと思った。
そのとき見た修道女の横顔がいつしか私の中で、聖クララになっている。
マルチーニの描いた聖クララは、少し怖い顔なので、私はアッシジの雨の中でみた、その人を、聖クララと思うことにしている。
私がそのことを話したら、妻は「あのとき、そんな人はいなかった」という。
だが私は、はっきりとその修道女の横顔を見た記憶をもっている。
雲間から陽がさして来て、その横顔の輪郭の線が光ったのを見ている。その光りを見て、やがて雨があがると解ったのだから。
黄土色の明るい地面は、鹿沼土のようで、たちまち雨を吸い込んで、その人は、すぐに立ち去ったらしく、もう見えなかった。
雨のふっているあいだ、その人は、ほとんど動かなかった。私は正面の顔を見たいと思ったが、その人はついに、こっちを向かなかった。なにげないふりをして前にまわって見ることが私にはできなかった。
あまりに美しく、静かなので、私は金しばりになったようで、動くことができなかったのだろうか。
その人が立ち去ったとわかったのは、私の視野から、消えたからで、私はその人の立ち去る姿を見ていない。
私のすぐそばに立っていたその人の、ヴェールの下の額から、鼻すじ、口から顎の線を私の瞼に刻みこもうと、瞬時にせよ、眼をこらして、見つめた。
妻は、私の幻想だというが、そんなはずはない。
ただ、なぜ私は、その人の去っていく後姿を見ていないのだろうか。小砂利を踏んで去っていく足音も、聞いていない。
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