Noir
それを、普通の人間が感じたならばこう呼んだだろう。 則ち、『嫉妬』と―――。 その男を最初に見たのは、戦場でだった。 任務は、ある部隊の殲滅。 彼程の能力はないにせよ、やはり戦闘兵器として『造られた』者達と共に、闇に紛れて襲撃を行った。 不意を突かれた部隊は反撃もままならず、しかも『ヒト』としての戦闘力しか持たない相手は、簡単に全滅させる事が出来た。 かつて人であったものの残骸が累々と転がる大地。 こんな風になってしまうと、人も、その辺りの石ころも何も変わらない存在に思える。 辺りに火をかけ、襲撃の跡も消し尽くしていた時。 唐突に、彼の意識に何かが触れた。 明らかに、こんなザコの兵士達よりも強い存在だった。 視線を向けると、闇に溶けていた気配が揺れた。 次の瞬間、黒ずくめの影が突進して来た。 その時初めて敵に気付いた『味方』達は、その影を迎え撃とうとした。 しかし、その男の戦闘力はずば抜けていた。 並みの人間など束になっても敵わないはずの兵士達が、一人、また一人と倒されて行く。 その間中、男の瞳は彼に注がれていた。 血のように赤い瞳に浮かんでいたのは、恐怖。 そして、それを無理矢理ねじ伏せようとする激しい闘争心だった。 『味方』が次々と倒されて行くのを、彼は黙って見詰めていた。 全てを奪われた彼に、仲間意識などは存在しない。 自分も、死んだらこの足下に転がる兵士達と同じ『モノ』になるのだから。 男の戦闘力は、今まで彼が見た事もない程高かった。 研究所で、シミュレーションの中で闘わされていた虚構の敵よりも強いのではないか。 男の姿を見詰めているうちに、彼の胸の中には、得体の知れない『何か』が湧き上がる。 冷たくて、熱くて、どす黒い『何か』。 それが何なのか、彼には判らなかった。 しかし、今まで感じた事もない――いや、感じた事があるのかも知れないが、覚えていない――不快感に、彼は困惑した。 そして、それをもたらしたこの男に興味を覚えた。 この男の強さは、おそらく、彼のように作り出されたものではない。 触れたもの全てを傷付ける刃のような強さは、何かを切り捨てて得られる強さだ。 この男がどんな人生を歩んで来たのかは判らないが、強さを得る為に様々なものを捨ててきたのではないか。 ―――何故。 どす黒い『何か』が胸の奥で膨れ上がる。 力の為に、彼は様々なものを奪われて来た。 彼自身が、そう望んだ事など一つもないのに。 逆に、この男は自ら望んで、力の為に様々なものを捨てて来た。 強さを得る事も、何かを捨てる事も、全てこの男自身が選び取った道だ。 これだけの戦闘力を持ちながら、何一つ『奪われていない』のであろうこの男が――気に障った。 だから。 「‥‥‥‥‥」 意識を失って倒れ伏す黒い影を、彼は無表情に見下ろした。 急所は全て外した。 腹を抉ったが、太い血管には傷を付けていない。 肋骨の辺りは痛めつけたが、戦いの支障になるような、手足の骨は無事に残した。 この男は、生きている限り、追って来るだろう。 それは、はっきりとした確信だった。 圧倒的な力への恐怖、無力感。 そしておそらくは、生まれて初めての敗北。 恐怖と敗北を乗り越える為に、この男が取るであろう行動は判っていた。 則ち、恐怖の対象を倒す事。 この男はこれから、それだけを考えながら生きるのだ。全くの、無駄に終わる事なのに。 全てを――感情すらも捨てなければ彼に匹敵する『力』を得る事は出来ない。 しかし、感情を完全に捨てると言う事は、恐怖や怒りを捨てると言う事だ。 それは、彼へ挑む理由を捨てる事と同義でもある。 力の為に全てを――目的すらも捨てるのか。 或いは、絶対に届くはずのない手を伸ばして足掻き続けるのか。 この男は、どちらの道を選ぶのだろう。 「‥‥‥追いかけて、来るがいい」 低く呟く口元に、くっきりとした笑みが浮かんでいる事に、彼自身は気付いていなかった。 「‥‥‥‥‥‥」 ふと、手にしていた本から顔を上げ、彼は空を見上げた。 いつも、重く雲が垂れ込めたトシマの空。 けれど、あの研究所から見ていた空よりは、遙かに綺麗だと思った。 この街に流れて来て、どれだけの時間が経ったのだろう。 研究所から逃げ出し、軍や政治の手が届かないこの街に潜んだ。 こうして生きていて何か目的がある訳ではない。 しかし、あれ以上、軍の『兵器』として使われたくなかった。 生きる目的も、やりたい事もなかったが、研究材料として実験に付き合わされるのはもううんざりだった。 この街に潜んで間もなく、あの男が姿を現した。 あの時より、更に強くなっていたあの男は、しかし、まだ彼には遠く及ばなかった。 当然だ。 彼を見ただけで、激しい怒りと闘気をぶつけて来るような状態で、彼を超えられるはずはない。 そこで、彼はある事を思い付いたのだ。 力を求めるあの男、そしてこの街に集う生と欲望に満ちた人間達。 その前に、人を超える力を得られる『薬』を置いた。 彼が考えた通り、ラインは力を求める者達の間に一気に広まった。 かりそめの『力』を手にして、それを自分の実力と錯覚し、破滅して行く人間達。 ラインに適合した者を斬り続け、いつかは彼に届くと思い込んでいるあの男。 愚かだ、と思った。 しかし、真っ直ぐに破滅へと突き進む様は、綺麗だとも思った。 それは、幼い子どもが無邪気に、残酷に抱く憧憬にも似ていたろうか。 真っ直ぐ死へと向かっている事にも気付かず、ひたすらに生きようと足掻き続ける、それは自分にないものだったからこそ綺麗に見えたのかも知れない。 そして。 この街に、『彼』は現れた。 被験者として同じものを与えられながら、彼とは限りなくかけ離れた存在である『彼』。 軍が、彼を捕らえる為に用意した『餌』だと言う事は判っていた。 しかし、それでも彼は、動かずにはいられなかった。 何も知らず、何ものにも染まらない真っ白な『彼』は、眩しかった。 必死に繋ぎ止めて来た、朧気な記憶と同じ、真っ直ぐで純粋な瞳。 研究対象から外された時に記憶操作も受けたらしく、『彼』は何も覚えていないようだった。 それでも。 あの日、ぬくもりを与えてくれた『彼』に触れれば。 生であろうと死であろうと、自分は変わる事が出来るのではないか。 「‥‥‥‥‥‥」 眩しい程の輝きを思い出しながら目を閉じる。 胸の内に、小さな、暖かい何かが灯る。 けれど、今の彼は、そのぬくもりを呼ぶ言葉を持ってはいなかった。 唐突に、姿を消した『彼』。 その行方を探し当てた時、胸の内がざわめいた。 何故。 『彼』があの男と一緒にいるのだろう。 今まで、知る限りではあの男が誰かを側に置いた事などなかった。 気紛れ、なのだろうか。 この、薄汚れたトシマにはふさわしくないような輝きに、興味を惹かれたとでも言うのだろうか。 『彼』の真っ直ぐな輝きは、とても目を惹くものだから。 しかし、『力』を求める為に、あの男は全てを捨てて来たのではないか。 いやそれよりも、『彼』がおとなしくあの男の元にいるのが理解出来なかった。 初めて『彼』を見た時、何ものにも囚われず、縛り付ける枷など噛み千切ってしまうように見えたのに。 誇り高く、真っ直ぐな瞳を持った『彼』は、気高い野生の獣のようだった。 純粋で、真っ白な『彼』に、闇に染まった自分が触れるのは許されるのか、ずっと自問して来た。 その躊躇いの間に、あの男は『彼』に手を伸ばしたのか。 ―――何故。 何故、あの男なのだ。 あの男を初めて見た時と同じ――いや、あの時よりもっとどす黒く、激しい『何か』が胸の内で渦を巻く。 選ぶ自由を持ちながら、自ら望んで黒く染まろうとしているあの男。 『彼』が、誰か他の人間と共に行くなら納得もしよう。 黒と定められた自分は、所詮、闇の中でしか生きられないのだと諦めもつく。 しかし、望んで闇に踏み込もうとしているあの男が、『彼』を手に入れる事だけは我慢出来なかった。 ――――――――― 少し餌を播けばすぐに食いついてくるあの男を足止めして、『彼』を連れ出した。 しきりにあの男の事を気にする『彼』に、胸にわだかまる不快感は増した。 あの男の『力』に怯えているのであれば、あの男を殺してしまえばいい。 それで、きっと『彼』を繋ぐ枷はなくなる。 そうすれば――もしかして、『彼』は自分を見てくれるかも知れない。 それは、本当に朧気な――『希望』と呼んでもいいものだったろうか。 けれど、ほんの僅かな灯火のようなそれは、すぐに『絶望』へと姿を変える。 ラインをバラ撒いて莫大な利益を得ている仮面の男と、その配下の狂犬達。 そして‥‥忘れようとしても忘れられない、一度は心を許した唯一の女性。 無粋な闖入者達をどうするべきなのかと思っていた時。 あの男が現れた。 軍の飼い犬達を一瞬で斬り捨て、『彼』をその手の内に取り戻した。 「‥‥‥何故、執着する?」 『力』を追い求めていたのではなかったか。 その為に、全てを捨てるのではなかったか。 胸の内にわだかまる『何か』は、もう彼自身にも抑えきれないくらい大きく膨れ上がっていた。 この男の存在が気に入らない。 その弱さも、何も判っていない愚かさも、激しい感情も。 全てが気に障った。 それは――ずっと彼の中で燻り続けていた『憎悪』であり、『嫉妬』であり、『憧憬』であったろう。 今まで、迷いも知らず、ろくに苦しみもせず、のうのうと生きて来たのであろうこの男。 彼が味わってきた、絶望と苦痛に満ちた時間を少しでも思い知らせてやりたい。 そう思った時、彼の口は自然に動いていた。 自分の血を――この、呪われた血を自ら受け入れる事が出来るのか、と挑発した。 自分の表情に、憎悪と嘲笑とが浮かんでいる事も、彼は気付かなかった。 何を引き換えにしてもいい。 ただ、この男の破滅が見たい、それだけを考えていた。 彼の言葉に、力を追い求め続けて来た男は、破滅に向けて走り出すかに見えた。 しかし。 「シキっ!」 『彼』の声が響く。 「弱さに取り込まれる事と乗り越える事は違う!目を覚ませよ!」 『彼』の言葉で、挑発に乗るかに思えた男から、憑かれたような表情が抜け落ちる。 怒りと共に睨み付けて来る紅い瞳を、彼は無表情に見返した。 この男は。 本当の意味で、『彼』を手に入れたのだ。 結局、初めから定められた『黒』と、望んで染まろうとする『黒』は全く違うものだったのだろう。 怒りを露わにした男が、再び刀を取るのを、彼はただ、見詰めていた。 さっきまで胸の内で荒れ狂っていたどす黒い衝動は、嘘のように消え失せていた。 奇妙な程穏やかに凪いだ気持ちは、あの時と‥‥全てに絶望し、彼を閉じ込める『研究所』と言う『檻』を破壊し尽くした時と同じだった。 「――お前の、負けだ」 半ば無意識に言葉を紡ぐ。 刀を握り締めた男の口元が、小さく歪んだ。 この男にも、判っているのだろう。 自分が、彼との戦いに永遠に敗北した事に。 同時に、彼にも判っていた。 この言葉が、負け犬の遠吠えでもある事に。 冷たい刃が自分の身体に食い込むのを、彼は瞬きもせずに見詰めていた。 この男は、結局、彼に勝つ事は出来なかった。 こんな形で彼を殺してしまえば、彼を超える強さを得る事は永遠に叶わないのだから。 しかし、この男は――彼に敗北し、同時に、ある意味では勝利した。 ずっと囚われていた彼を斬り捨てる事で、少なくとも『自分』を貫いた。 それは、彼になかった『強さ』。 おそらくは、『彼』が与えてくれた『力』。 所詮、『黒』と定められた者が、手に入れる事の出来るものなどなかったのだ。 本当は苦しんでいたのであろう彼女や、罪もない被験者の子ども達もろともに研究所を破壊したあの日から‥‥いや、この身体がNicole・Premierと言う『成功例』になったあの時から、これは、全て定められていた事だったのだろう。 その事実に気付くのが、随分と遅れてしまったものだ。 だが、やっとこれで終わる。 自分も、道に転がる石ころと同じ『モノ』になるのだ。 凍て付いたように静かな思考の中で、そう思う。 力を失った身体から、欲望と狂気に満ちた血が大地を汚して行くのが判る。 全身の感覚は既にない。 それなのに、この男の気配ははっきりと感じ取れるのが不思議だった。 超えるべき目標を自分の手で壊してしまったこの男が、今までのように走り続けられるのかどうかは判らない。 けれど、願わくば。 この男が『彼』の色を手に入れて、『彼』もこの男の色に染まる事を望むなら。 共に、在って欲しいと思う。 『彼』は黒に染まるのか。 それとも、この男の何かが変わるのか。 或いは、共に在る事で、全く違う色を生み出すのか。 彼が――Nicoleと言う狂気が消えた世界なら、それも可能かも知れない。 ふと、気付くと、酷く寒かった。 心も、身体も、凍り付いてしまいそうだ。 これが、『死』なのだろう。 胸の奥底にずっと閉じ込めていた、あの面影。 いつも、ぬくもりを与えてくれた面影は‥‥‥もう、思い出せなかった。 |
END |
代名詞ばっかでくどいです。でも、こーゆーの書いてみたかったんだよぅ。元はと言えば、ドラマCDで、nがシキを足止めしといてアキラを連れ出したシーンに萌えて思いついた話だったりします。
ビミョーに本編と辻褄合ってない所もありますが、まぁそこはそれとゆー事で(nの思考パターン、謎過ぎです。)。シキとの対決のあたりなんか、ゲームを見ないで書いてたら、場面とセリフが違ってて、確認の為にプレイしてから慌てて書き直したですよ。
自分で書いといてナンですが、n、可哀想だなぁ。いや、それにしてもシキルートでのnはアキラじゃなくてシキばっか気にしてるんですけど?最後だっていきなり表情豊か(笑)だし。二人っきりの世界作ってる感じでしたねぇ。つーか、アキラ、完全に蚊帳の外だし。