悪夢


『弱い‥‥弱いなぁ。こんなんで、偉そうなこと言ってたんだ?』
 辺りに、真っ赤な血が飛沫く。
『大した役にも立たないバカなんだからさ。せめて、俺を楽しませてくれなきゃ』
 言葉にならない悲鳴が、くぐもった音に断ち切られる。
 壁や天井はヌルついた鮮血で染められ、床は波打つ程の血溜まりに覆われている。
 鼻を突く血臭と、血の海に浮かぶ、人であったものの断片が、喩えようもなく彼を昂ぶらせる。
 想像していたより、ずっと簡単に壊れてしまう人間の身体。
 吹き出す血は暖かく彼を濡らし、幸せな気分さえ感じる。
 血飛沫を口に受けて飲み下すと、それはとても甘かった。
 もっと、溢れる血を見たい。
 もっと、断末魔の悲鳴を聞きたい。
 そう思って、彼は目に映る人間、全てを殺し尽くして行く―――。
「―――っ!!」
 ケイスケは、目を見開いて飛び起きた。
 全身が、ぐっしょりと汗に濡れている。
 まるで、今まで呼吸するのを忘れていたかのように、胸が苦しくて、肩で息をする。
「‥‥‥ケイスケ?」
 アキラの声がした。
 そちらに視線を向けると、半身を起こしたアキラが、心配そうにこちらを見ている。
 アキラは、いつもそうだった。
 しっかりした視線は、今目覚めたのではなくて、しばらく前から起きていた事を伺わせる。
 いつも、うなされるケイスケの声で起こされてしまっているのだろうが、アキラは一度もそんな事は言わない。
 ただ、静かに気遣ってくれる。
 それが‥‥嬉しくも、辛かった。
「‥‥‥ごめん。起こしちゃって‥‥‥」
 目を伏せて、呟く。
 アキラの穏やかな声が、今日は何故か、酷く胸を締め付けた。
「いや、別に構わないが‥‥‥」
 アキラは、僅かに眉を寄せた。
 うっすらと射し込む月明かりに照らされて、夜だけれどケイスケが良く見えた。
 こんな風に悪夢に飛び起きる事は何度もあったが、今回は、酷く顔色が悪いようだった。
「大丈夫か?」
 起き上がり、肩に触れようとすると、ケイスケは反射的に身を引いた。
「ケイスケ?」
 そんな反応に、アキラは面食らう。
 普段は、嫌だと言ってもべたべたとくっついて来るのに。
「ご‥‥ごめん。けど、俺‥‥‥っ!」
 済まなそうにアキラを見て、すぐに逸らされてしまった瞳にあったのは、怯え。
 それは、己の内にあるものへの怯えだった。
 いつものように、自分が成してしまった事への罪悪感とは違う感情の浮かぶ瞳に、アキラは酷く不安を感じた。
 いつもの悪夢とは、違う。
 犯した罪に向き合って、その重さを本人が受け止めるしかない、あの時間とは違う。
 このまま、何もしなければ、またあの時のように気持ちがすれ違い、遠く離れてしまう気がした。
「‥‥‥‥‥」
 アキラは、無言でケイスケを抱き締めた。
 腕の中で、ケイスケが身を強張らせるのが判る。
 反射的に背中に回されようとした手は、何故か動きを止め、そのまま下ろされてしまう。
 昼間は、恥ずかしくなるくらい近寄って来るのに、何を躊躇っているのか判らなくて、アキラは腕に力を込めた。
 そうしなければ、ケイスケがこのまま、遠くに行ってしまいそうな気がした。
「アキラ‥‥‥」
 ケイスケは、泣きそうな顔をしていた。
「夢‥‥見たんだ。人を、たくさん殺してる夢‥‥‥」
 ケイスケは、消え入りそうな声で言った。
「夢の中で‥‥俺、喜んでた。人を殺すのを、心の底から楽しんでたんだ‥‥」
 怯えに揺れる瞳が、アキラを映す。
「アキラの血で、元に戻ったように見えるけど‥‥俺の中には、まだ、アイツがいるんだ。人を殺すのを楽しむ、アイツが‥‥‥」
 ケイスケは、きつく目を閉じた。
 まるで、アキラの存在を意識の外から追い出そうとでもするかのように。
「俺‥‥もしかすると、また、戻っちゃうかもしれない。そしたら、アキラに‥‥また、酷い事するかもしれない‥‥‥」
 ラインに侵されていたとは言え、あれは確かに自分だった。
 あの歪んだ思考は、今思えば総毛立つような嫌悪を感じさせるが、それでも確かに自分の中にあったものだ。
 人を殺した感触を覚えているこの身体には、ラインの効果による能力がしっかりと残っている。
 力だけでなく、あの時の歪んだ自分が再び戻らないと、誰が言い切る事が出来るだろう?
 『亜種』である自分には、どんな事でも起こり得るのではないか?
 あの時の自分が戻って来たとしたら、今度殺してしまうのは、身近にいる人達だ。
 何も聞かずに面倒を見てくれる工場長や、優しくしてくれる人達を、自分が殺してしまうかも知れない。
 そして、アキラにまた酷い事を――いや、今度こそ、殺してしまうかも知れない。
 それが、何より怖かった。
 『死』は逃げでしかないと、そう言われればその通りだけれど、でも、自分が死ぬ事で、歪んだ自分もろとも消し去る事が出来るなら、それは良い事ではないか。
 そんな考えさえ、頭をよぎる。
 ケイスケの横顔に、アキラは息を呑んだ。
 瞳に怯えを宿し、しかし、その横顔はむしろ無表情だった。
 数え切れない人間を殺した罪の重さが一体どれだけのものなのか、それは当人にしか判らない。
 苦しめる事を承知で、ケイスケにこの道を選ばせたのはアキラだ。
 それは、何より、ケイスケを失いたくなかったからだ。
 ケイスケと、ずっと一緒にいたい。
 そう思ったからだった。
 犯した罪の重さを、アキラが肩代わりする事など出来ない。
 けれど、せめて、潰れそうな時に支える事くらいは出来る。
 いや、それこそが、アキラに出来る、唯一の事なのだ。
「ケイスケ‥‥!」
 アキラは、ケイスケを抱き締める腕に、力を籠めた。
「お前は、もう二度と、あんな風になったりはしない。絶対に、大丈夫だ」
「そんなこと‥‥!」
 わからない、そこまで言わせずに、アキラは言葉を継いだ。
「お前は、強くなった。だから、どんなものにだって負けたりしない」
 アキラの言葉に、ケイスケは首を振った。
「それは、ラインの力で、何も‥‥‥」
「ちがう」
 強い口調で遮られ、ケイスケは口を噤んだ。
「腕力を言ってるんじゃない。ラインの力とかじゃなく、お前自身の強さの話だ」
 戸惑ったような顔をしているケイスケを見詰めたまま、アキラは言葉を継いだ。
「たくさんの人を殺した、その重さに、お前は正面から向き合って、ちゃんと受け止めてる。それができるお前は、本当に強いんだ。だから、お前は負けたりしない」
「でも‥‥っ!」
「もし、お前がまた、あんな風になったら」
 ケイスケの言葉を遮るように、アキラは続けた。
「今度こそ‥‥俺が、止めてやる」
 アキラの言葉に、ケイスケは、意味がわからなかったようにぽかんとした顔をした。
「どんな事をしても、俺が必ず、止めてやる。絶対に、だ」
 変わってしまったケイスケを初めて見た時、アキラは呑まれるばかりで何も出来なかった。
 ラインで驚異的な力を得ていたケイスケに挑んだところで勝ち目はなかったのかも知れないが、でも、もしあの時、アキラが何かする事が出来れば、あれ以上の殺戮を止める事が出来たのではないか。
 その後悔は、アキラの胸にもずっとわだかまっていた。
「二度と、お前に人殺しなんかさせない。ぶん殴ってでも、止めてやる」
 ケイスケにと言うよりは、自分に言い聞かせているようにも聞こえる口調だった。
「‥‥‥アキラ‥‥‥」
 ケイスケの顔が泣き笑いのように歪んだ。
「‥‥アキラに殴られるのって、本当に痛いからな」
 ケイスケは、そのまま、アキラの肩口に顔を押し付けた。
 まるで、泣いてしまいそうな顔を隠すように。
「‥‥‥ありがとう。アキラ」
 強張っていたケイスケの身体から、ゆっくりと力が抜けて行く。
 アキラは、黙って、ケイスケを抱き締めていた。
 しばし、後。
「‥‥‥ケイスケ?」
 一向に反応のないケイスケに声を掛けるが、答えはない。
 耳を澄ますと、小さな寝息が聞こえてきた。
 どうやら、アキラに抱きついたまま、眠ってしまったらしい。
「お前な‥‥‥」
 多少なりと脱力して、アキラはため息をついた。
 余程安心したのだろうか、そのままベッドに寝かせてやっても、ケイスケは目を覚ます気配すらなかった。
 しかし。
「‥‥‥‥‥」
 ケイスケはアキラにしがみついたままで、その腕が緩む気配はない。
 無理に腕を引き離すと起こしてしまいそうで、アキラは途方に暮れた。
「‥‥‥‥‥‥」
 もう一度、小さくため息をついたアキラは、ケイスケの腕をそのままに、同じベッドに横になった。
 どうせ抱き締められているのだから、と、アキラもケイスケの身体に腕を回す。
 人肌のぬくもりと、確かな鼓動に酷く安心する。
 ケイスケは、確かに、ここにいる。
 そして‥‥‥確かに、生きている。
 それだけの事なのに、とても満たされる。
 アキラは、ケイスケの胸に頭を寄せた。
 もう夜中を過ぎていたけれど、良く眠れそうな気がした。


END

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ベタなネタです(と、突っ込まれる前に自分で突っ込んでしまおう)。このテの話は多いんじゃないかなぁとか思いつつ、ケイスケがメインのサイトは殆ど見ていないのでどっかでブッキングしているかどうかは判りません。
最後の方、普段は口より手が早いアキラが、ケイスケが変わった後はてんで意気地なしだったフォローをちょっぴり入れてみたり。
でも、強いケイスケって格好いいと思います。序盤は書いてて結構楽しかった(爆)。