髪を切る
行為の後、壱哉は、樋口が前髪を少し煩そうにしているのに気が付いた。 そう言えば、明るい茶色の髪は、もうかなり伸びていた。 樋口を買い上げてから、そんなにも長い時間が過ぎたと言う事なのか。 目に入りそうだった前髪を軽くかきあげてやると、柔らかくて少し癖のある髪の房が指に絡んで来た。 そのまま、心地良い感触の髪を指に絡めたりほどいたりして玩ぶ。 「ん‥‥‥」 髪を弄られている事が刺激になるのか、樋口は僅かに眉を寄せて甘い吐息を洩らした。 散々欲望を吐き出したばかりだと言うのに、その股間のものは再び頭を擡げ、物欲しげに先走りを滲ませ始める。 「‥‥ぁ‥‥っ」 軽く髪を引っ張ったりすると、樋口は切なげな喘ぎを漏らした。 体の方が、それだけの刺激ですら感じてしまうのだろう。 そんな樋口に苦笑しながら、壱哉は手の中の髪を眺めた。 犬の毛並みを連想させる柔らかい感触は嫌いではなかったが、あまり長くしておくのもうっとおしい。 「そうだな‥‥毛並みを整えるのも飼い主の義務だからな」 薄く笑うと、樋口が、意味が判らないような顔で見上げてくる。 そんな樋口の髪を軽く引っ張って感触と反応を楽しみながら、壱哉は今度はいつ来られるかを考えていた。 数日後。 樋口は、小さな椅子に座らせられ、首に白い大きな布を巻かれていた。 散髪用のハサミを手にした壱哉が、楽しそうに樋口を眺める。 「刃物を使うんだから、おとなしくしていろよ?」 人の髪を切った事があるのだろうかとか、疑問は色々湧いて来るのだが、勿論、樋口に選択肢はない。 壱哉はまず、長くて目を傷付けそうな前髪を切って行く。 さくり、と独特の音を立て、切られた茶色い髪の房が白い布の上に広がった。 曖昧に髪に触れられている刺激を辿ると、身体が熱くなってしまいそうだった。 髪を切られながら感じてしまったりしたら、壱哉に何を言われるか判らないから、樋口は慌てて思考を別な方向に向ける。 壱哉の手に任せておとなしくしていると、奇妙な程穏やかな時間が流れて行くのが判る。 壱哉を待ち焦がれている長い時ではなく、ただ欲望を満たすだけの短い間ではなく、まるで全てが止まってしまったかのような静かな時間。 いつもの気紛れなのだろうが、壱哉が樋口に、こんな世話をしてくれるのは意外だった。 ぱさり、と、ごくかすかな音を立て、髪の房が布の上に落ちる。 こんな事は初めてだろうに、壱哉の手際は中々のものだった。 髪の房をつまみ上げ、思い付きで切っているようだが、かなり様になっている。 昔から壱哉は、どんな事でも器用にこなしていた。 勉強も、スポーツも、何をやってもトップレベルだった。 きっと、彼にできないことなんてないんだろう。 あの時樋口は、壱哉を見ながらそう思っていた。 ‥‥そんな事を考えたら、胸の奥がちくりと痛んだ。 だから樋口は、強いて何も考えないようにする。 ぼんやりと、ハサミの音を聞きながら、樋口は思考を手放してただ流れて行く時間を感じていた。 と―――。 ハサミの音が止み、喉元に感じた冷たい感触に、樋口は我に返った。 気付けば、喉にハサミの刃が当てられていた。 見上げると、無表情な壱哉の顔が見下ろしている。 「死にたいと思うか?」 感情の籠もらない壱哉の言葉に、樋口は瞬きした。 「家も、薔薇も、生き甲斐も、なにもかもなくして、バカな犬として飼われて‥‥こんな生活から逃げ出したいか?」 「‥‥‥‥‥」 何故壱哉が、いきなりこんな事を言いだしたのか判らなくて、樋口は戸惑った。 「死ねば、全てから逃げられるぞ。‥‥お前を殺すなんて簡単だ。この刃を横に引けばいい。‥‥‥殺してやろうか?」 紛れもない『本気』の口調で、壱哉が刃に力を籠める。 もし、『死にたい』と言ったなら、壱哉は殺してくれるのだろうか。 もう、こんな風に『モノ』として扱われているのが嫌だと言ったなら、『死』をもって解放してくれるのだろうか。 見上げれば、どんな感情も読み取る事の出来ない、しかし、怖くなるほど暗い瞳にぶつかる。 樋口は、真っ暗な瞳を見詰めながら、ゆっくりと首を振った。 すると、壱哉の表情が不快げに歪む。 「ふん‥‥本当にお前はバカな犬だな。こんな風にされてるのがいいのか?」 何故か怒っているような口調に、樋口はもう一度首を振った。 「‥‥黒崎が、俺を殺す必要なんかない」 樋口は、むしろ真剣な表情で壱哉を見上げた。 「黒崎は、何もしなくていいんだ。俺に『死ね』って言えばいい。‥‥‥いや、もう俺なんかいらないって言えばいい。お前がいらなくなったら‥‥‥もう、俺は生きてる意味なんかないんだから」 真っ直ぐに見上げて来る視線から、壱哉は不機嫌に目を逸らした。 「ふん‥‥‥」 樋口の喉に突き付けられていた冷たいものが引かれた。 そしてまた、何事もなかったかのように、壱哉は樋口の髪を切り始めた。 樋口も、黙っておとなしくしている。 再び、静かで穏やかな時間が、ゆっくりと流れ始める。 こんな時間が、ずっと続けばいい‥‥‥。 そんな、あり得ない願いが浮かぶ。 二度と訪れないであろう時間は、唐突に終わった。 ハサミの音が止まると、壱哉の手が乱暴に樋口の髪をかき回した。 「ふん‥‥まぁ、こんなものだろう」 面白くもなさそうに、壱哉は樋口の頭を眺めた。 やや不揃いではあるものの、元々癖のある樋口の髪には丁度良く、素人にしては上出来だった。 「多少はすっきりしたか。駄犬でも、手入れすれば少しは見られるようになるな」 壱哉は、樋口の首に結んでいた布を取った。 「おとなしくしていた褒美に、今夜は俺の部屋で寝させてやる。ただし、静かにしているんだぞ」 壱哉は、樋口の頭を軽く撫でた。 意外な言葉と優しい仕草に、樋口はドキリとする。 鼓動が早くなり、身体が勝手に熱くなる。 しかし、これはそんなに深い意味がある言葉ではなく、ただの気紛れなのだと自分に言い聞かせる。 どうせまた、冷たく突き放されるのだから。 今、壱哉の側にいさせてもらえるなら、それでいい。 樋口は、こくり、と子どものように頷いた。 「ありがとう‥‥黒崎‥‥‥」 「ふん‥‥」 素直な言葉に、壱哉は不機嫌そうに鼻を鳴らした。 壱哉は仏頂面のまま、分厚いドアを開いて樋口を振り返った。 「さっさと来い。手間をかけさせるな」 「あ、うん。ごめん‥‥‥」 不機嫌な口調に慌てて立ち上がると、長い鎖がじゃらりと鳴った。 「‥‥‥ここでおとなしくしていろ。じきに戻ってくるから、余計なものには触るんじゃないぞ」 壱哉が示したのは、大きなベッドの置かれたシンプルな部屋だった。 樋口が、ベッドの傍らにおとなしく座り込むのを認め、薄く笑った壱哉はドアを閉めて出て行った。 「‥‥‥‥‥‥」 樋口は、ぼんやりと自分がよりかかるベッドを眺める。 裏切られ、壱哉に買い上げられたあの夜を思い出させるパイプベッド。 ここに連れて来られてからも、この部屋で何度か苛まれた。 思い出したくもないような記憶が蘇って来て、胸の痛みを感じない訳ではないけれど。 でも今夜は、壱哉はここに来てくれると言った。 いつもより、少しでも長く、壱哉の側にいられるなら。 なんだって、我慢出来る気がした。 「黒崎‥‥‥」 気紛れな主人が戻って来てくれるまで、眠っていよう。 そうすれば、独りぼっちの時間はすぐ過ぎてしまうから。 樋口は、満ち足りた思いさえ感じながら、目を閉じた。 |
END |
9999HITを踏んでいただきましたナツミ様からのリクは『髪が伸びた奴隷わんこの髪を、壱哉さまが切ってあげる話』でした。とりあえず、クリアしたかな?相変わらずタイトルのセンスはないです(開き直り)。
なんか壱哉様の行動が良くわかんないですね(汗)。一応、受け攻めどっちとも決めないように書いてますが、多分雰囲気的には攻めわんこです。攻めわんこの時って、結構壱哉様。甲斐甲斐しい感じがします。逆に受けわんこだと、絶対こんな優しい事しなそう。でもって、この後、樋口の髪とか後始末するのは秘書なんでしょう(気の毒)。わー、秘書、わら人形の材料手に入れ放題ですね(呪ってもわんこの事だから気が付かないかも知れない‥‥涙)。
とりあえず、樋口は男なんだから髪伸びる前にひげが伸びるだろーとか、いくら壱哉様でも、素人がハサミで髪切ったらおかっぱになるだろーとか(それはそれで嫌がらせとしてありかもしれないんですが、そんな樋口は私が見たくない)、そーゆーリアルなツッコミは却下です。
同人小説と言うのは、ご都合主義のファンタジーなんですから。
それにしても、ナツミ様がサイト開いてる(休止中でも)間にupしたかったなぁ。あがけサイトも色々変動がありますが、皆様、色々お忙しいんでしょうね。ちょっぴり寂しいですけど。