嫌な夢
何故今更、あんな夢を見たのだろう。 もうとっくに忘れてしまったと思っていたセピア色の記憶。 中学時代の樋口との会話。 共に過ごした学生時代の、断片的な出来事。 卒業式で、顔をくしゃくしゃにして泣いていた樋口‥‥。 それらは、壱哉の胸を酷く締め付けた。 悪い夢ではないのに、居たたまれない。 嫌ではないのに、見たくない。 いつもの悪夢に叩き起こされるように、壱哉は飛び起きた。 いつものように全身が汗に濡れ‥‥そして、頬には涙がつたっていた。 『また‥‥会えるよな?』 涙で声を詰まらせながらの樋口の言葉に、自分は、二度と会えないだろうと思いながらも頷いた。 あの時の自分は、樋口の泣き顔を見ているのが辛かった。 樋口には、いつものように笑っていて欲しいと、そう思ったのだ――。 「壱哉様‥‥どこか、お加減でも悪いのですか」 吉岡が気遣わしげに覗き込んで来るのも無理はなかった。 今日の自分は、どこか上の空だったと思う。 そう重要な会議があった訳ではないから良かったものの、これでは仕事に差し支える。 「いや‥‥別に、なんでもない。気分転換に、少し街を歩いてから帰る。お前は先に帰っていろ」 「‥‥‥はい」 言いたい事はあるのだろうが、吉岡は言葉を飲み込んで頷いた。 車から降り、壱哉はぼんやりと街を歩いた。 集中出来なかった理由は判っている。 今朝見た夢が‥‥中学時代の記憶が頭から離れなくて、落ち着かなかったのだ。 嫌な気持ちではないのだが、酷く居心地が悪いような感覚だった。 ゆっくりと日が暮れて行く街を早足で歩く人々の間を、壱哉はぼんやりと歩いていた。 どこに行こうか、何をしたいのか、何も考えられない。 真っ白な頭の中に、断片的な思い出の欠片が浮かんでは消える。 確かに、かつて樋口は壱哉にとって特別な友人だった。 しかし、それがどうしたと言うのか。 今の樋口は単なる『獲物』であって、それ以上でも、それ以下の存在でもない。 後少しすれば、樋口は壱哉の『物』になる。 明るい日の当たる場所から引き摺り下ろし、身も心も徹底的に壊してやる。 そう、思うのに‥‥何故こんなに気になるのか。何故こんなに昔の記憶が甘く、苦く甦るのか。 そもそも樋口本人も、一体何を考えているのか。慰み者にしてやる、と言った人間に、あの時と変わらない笑顔を向けて来るお人好しさ加減は、全く変わっていない。 そんな樋口を馬鹿だと思いながら、気付けば壱哉もあの時のように言葉を交わしていた。 壱哉は、自分の心が判らなくなっていた。 と‥‥ポツポツと雨が降って来た。 それはすぐに土砂降りに変わり、傘を持っていない人々は慌てて走って行く。 しかし壱哉は、濡れるのを全く気に留めていない。いや、自分が濡れている事すら自覚していないように見えた。 当てもなく歩くうち、壱哉の足はいつしか、樋口花壇へと向かっていた。 ふと、気付くと、壱哉は店の前に立っていた。 何も言う言葉を思いつかないまま、壱哉は惹かれるように扉に手をかけた。 びしょ濡れになっていた壱哉を、樋口は喜んで迎えた。 タオルで頭や背中などを拭いてくれる樋口の身体は、学生時代の記憶からすれば驚く程大きくなっていた。 あの頃は肩に届くかどうかだった背が、今は壱哉より少し低い程度にまで追い付いていた。 肩幅も広く、毎日の園芸作業で鍛えられた身体は筋肉質で、がっちりしたものになっていた。 そんな事を思っていた壱哉は、樋口が、園芸家としての今の仕事を誇らしげに口にする様子が酷く気に障った。 学生の頃、花屋だけは嫌だと言っていたはずなのに、結局親と同じ道を歩いている樋口に、得体の知れない怒りが湧いた。 あの時、親の決めた道を歩かないと言った樋口が羨ましいと思っていたせいだろうか。酷く裏切られたような気がした。 そんな気持ちのままに、樋口を捕らえ、首を締め上げ、言葉で辱めながらスラックスの前から手を入れ、嬲ろうとした。 結局、親の言いなりになっているだろうと、そう言った瞬間、樋口は凄い力で暴れた。 花屋も薔薇も、今は自分の夢なのだと、必死の表情で言う樋口に、何故か壱哉は、それ以上何も出来なくなってしまった。 追われるように店を出た時、まだ雨は続いていた。 親と同じ道を歩んでいる壱哉と樋口。 壱哉は、結局親に逆らう事も出来ず、ただ言いなりに動かされているコマに過ぎない。 それに引き換え、樋口は親と同じ道を、自分の自由な意思で選び取った。 同じように見える二人の道は、全く反対方向に伸びているのだ――。 身を切るように冷たい雨に打たれながら、壱哉はまた一人、暗い街へと歩き出した。 その夜見たのは、いつもの、伊豆での夜の悪夢。 しかし今回の夢は、いつもと少し違っていた。 西條に組み敷かれ、首を絞められているのを、どこか他人事のように見ている自分がいる。 激しい憎悪を感じながら、同時に、酷くサディスティックな気持ちにもなっていた。 「殺してやる‥‥貴様を、殺してやる!!」 憎悪に歪んだ自分の顔が、目の前に広がる。 いや‥‥幼い体を欲望のままに組み敷いて、細い首を力任せに締め上げていたのは、壱哉自身だった――。 「――っ!」 急速に意識が現実に戻って来て、壱哉は目を見開いた。 呼吸が荒い。 全身にじっとりと汗をかいている。 今日は大きな声は上げなかったのか、吉岡を起こしてしまう事はなかったようだ。 半身を起こし、サイドボードの灯りをつける。 「ふ‥‥ふふ‥‥‥」 意識しないままに笑いが漏れた。 同じ、なのだ、自分は。 あの、最も憎むべき男と。 自分は昨日、樋口に何をした? 怒りと憎悪に駆られ、彼の首に手を掛けながら自分の欲望を満足させようとした。 それは、西條が幼い自分にした事と何も変わらない。 結局‥‥壱哉は、間違いなくあの男の血を引いている。 ずっと嫌悪しながら、自分はあの男と同じ事をしているのだ。 一旦、こみ上げて来た笑いは、まるで発作のように止まらなかった。 愚かしい自分を嘲るように、壱哉は声を殺して笑い続けた。 ――――――――― その日、壱哉はまた樋口を訪ねた。 昨日あんな事をされて、お人好しの樋口がどんな顔をするのか見たい。 そう思いながらも、それが単なる口実である事は壱哉自身が一番承知していた。 何故かは判らない。 樋口の顔を見たかった。 そして、あの薔薇が無性に気になったのだ。 相変わらず、薔薇園で手入れをしていた樋口は、壱哉を認めて険しい表情を浮かべた。 「今日は何しに来た」 警戒の滲んだ口調。 樋口の様子は、会って間もない、借金の契約書を持って来た時と同じものに戻っていた。 無理もない、と壱哉は思う。 あんな事をされそうになって、今まで通りに無防備に付き合える訳がない。 そう思ったのだが、何故か、樋口の様子は壱哉の胸を刺した。 悲しいとか、苦しいとか、そんな有り得ない気持ちに近い感情を自覚して、壱哉は混乱した。 しかも、何か言いたい事があるのに、喉の奥に引っかかって言葉が出て来ないのだ。 そんな壱哉に、樋口は益々警戒の表情を浮かべた。 花さえ咲けば、契約金で借金が返せる。期限には間に合う。 樋口は、固い口調でそう言った。 きつい視線に気圧されるように、壱哉は出て来なかった言葉を飲み込んだ。 「‥‥生きもの相手、何が起こるかわからんぞ」 憎まれ口だけはすんなりと出て来る自分に、壱哉は苦い自嘲の笑みを浮かべた。 数日後。 壱哉は、樋口につけていた調査員からの報告に耳を疑った。 樋口の薔薇園が何物かに火を点けられた。 慌てて消防車を呼ばせたが、ガソリンが撒かれていて薔薇園は全滅に近かった。勿論、やっと花開いたあの新種も。 『生きもの相手、何が起こるかわからんぞ』 あの言葉は、壱哉が意識せず口にしたとは言え、不吉にも的中してしまったのだ。 樋口は怪我もなく、警察で事情聴取を受けているらしい。 壱哉は、大きく息をついてソファに沈み込んだ。 口元に、自然に苦い笑みが浮かぶ。 樋口はきっと、壱哉を疑っているたろう。 花が咲いたばかりで火を点けられるなど、あまりにも出来すぎている。 借金を返させたくなかった壱哉には、動機は充分あるのだ。 実際、国内外のメーカーに圧力をかけた結果、樋口がこんな事をやらかすようなディーラーと契約する事になってしまったのだから、壱哉がやったと言えない事もない。 僅かな胸の痛みを覚えながらも、壱哉は低く笑った。 どうせこんな生き方しか出来ないのならば、あの男の息子にふさわしい生き方をするまでだ。 「吉岡‥‥契約は契約だ。樋口を連れて来い」 「は‥‥」 「幕切れとしては面白くないが、仕方あるまい。転がり込んで来たチャンスを無駄にする事もない」 「‥‥‥承知しました」 軽く頭を下げ、忠実な秘書は出て行った。 「樋口‥‥‥」 せいぜい、楽しむ事にしよう。 壱哉は、胸の奥の痛みを強いて無視して、樋口をどう嬲ろうかと頭を巡らせ始めた |
END |
‥‥‥えーと。ドラマCDの別サイドと言うにはあまりにもおこがましい話なんですが。感想のコメントを書きなぐっているうちに、むらむらと頭の中で話が形になって来てしまったのですよ。なんか、思ったよりかなり量が増えましたが。
きっと本当は、セクハラの前に見たのが伊豆の夢なんだと思うのですが、ひねくれ者の私はちょっぴり(そーかぁ?)捻ってみました。一応こんな感じだと、ラブにも鬼畜にも行けますね。セクハラでは、最後までやってほしかったなぁ(本音)。相変わらず、タイトルつけるのが下手なので‥‥(涙)。
ドラマCDの別サイドの話は、またちょっぴり書きたいです(←懲りてない)。