旅の夜


 夜。
 大広間には、いくつもの小さな寝息が聞こえていた。
 まるで起きているのかと思うようなはっきりした寝言が聞こえるのはご愛敬だ。
 寝返りを打つたびに別の布団に行ってしまったり、掛け布団をあさっての方へやってしまったりで、もうどれが誰の布団か判らなくなっているのも雑魚寝ならではだった。
 昼間に散々騒いだせいだろうか、皆、耳元で怒鳴られても起きなのではないかと思う程熟睡している。
「‥‥‥‥‥」
 そんな同級生達を、壱哉は醒めた視線で眺めた。
 古い寺を改装した合宿所は、大広間の廊下がそのまま中庭に出る縁側になっている。
 壱哉は、寝間着の上に制服を羽織り、廊下の太い柱によりかかっていた。
 和式の布団。
 いくら雑魚寝でも、思い出される悪夢に、眠る事など出来るはずはなかった。
 それに、何とか眠れたとしても、結局魘されて飛び起きてしまうのが判りきっている。
 そんな無様を他人にさらす事は我慢できない。
 だから壱哉は、皆が寝静まった頃に起き出してきたのだ。
 長い距離をバスに揺られたせいだろうか、頭の奥に眠気がわだかまっているのが自覚出来る。
 しかし、目を閉じれば悪夢ばかりが蘇ってきて、うたた寝すら出来なかった。
 無邪気に眠っている同級生の姿さえ、幼い頃、ただ純粋に別荘に行くのを楽しみにしていた自分と、その後の悪夢を思い出させ、居たたまれない程の自己嫌悪に陥る。
 何の悩みもなく、ただ無邪気に眠る事の出来る同級生達に、嫉妬すら感じてしまう。
「‥‥‥‥‥‥」
 小さくため息をついて、壱哉は中庭へと視線を移した。
 冴えた月の光が、皓々と辺りを照らし出している。
 昼間の暖かな光とは違い、青白い光に照らされた中庭は、どこか不気味で、うそ寒いものを感じさせた。
 まるで、心の中まで熱を失って行くような景色を、壱哉はぼんやりと眺めていた。
 元々、修学旅行になど来たくはなかったのだ。
 群れる事は好きではないし、こんな風に他人と肩を寄せ合って寝るのも嫌だった。
 別に行きたい場所がある訳でもない。
 しかし、学年行事を理由もなくサボる訳にも行かない。
 いや、何よりも。
 修学旅行の日程を聞いて、行けと強く言ったのは母だった。
 親として学校行事に参加させたい、それもない訳ではなかったろうが、丁度その辺りに、西條が来る事になっていたのだ。
 母にとっては、渡りに舟の話だったのだろう。
 自分のいない間に、またあの男が家に上がり込み、母が『女』の顔をして迎えているのであろう事を考えると、壱哉の胸の中にはどす黒い感情が湧き上がる。
 『殺意』とすら呼べる感情に唇を歪めた時。
「黒崎‥‥?」
 それは本当に小さな声だったが、考えに耽っていた壱哉は飛び上がらんばかりに驚いた。
 それでも平然を装って振り返ると、そこにはTシャツ姿の樋口が眠そうに目を擦りながら立っていた。
「なに‥してるんだ?こんなところで‥‥‥」
 微妙に呂律が回っていないのは、半分寝ぼけているせいだろうか。
「別に‥‥‥」
 不機嫌な気持ちも手伝って、壱哉はそっけなく答えて顔を背けた。
「眠れないのか?‥‥黒崎、ザコ寝とか苦手そうだもんな」
 寝ぼけているせいなのか、樋口は壱哉の答えにへこむ事もなく、その隣りに腰を下ろす。
「あ‥‥月、見てたんだ?」
 空を見上げ、樋口は少し目を細めた。
 言われ、壱哉も初めて空を見上げる。
 満月には少し欠けた月が空に浮かんでいる様子は、どこか非現実的なものを感じさせた。
「きれい‥‥だな‥‥‥」
 樋口が呟いた。
「小さい頃とかはよく空見てたけど。でも、月なんかこうやって見るの、ひさしぶりな気がする‥‥‥」
「‥‥‥‥‥」
 樋口は、何故か、とても嬉しそうに笑った。
「黒崎と、夜、一緒にいられるなんて、修学旅行だからだよな。なんか、不思議な気分だ」
 にこにこと言う樋口の横顔が眩しく見えて、壱哉は目を逸らした。
「俺、昨日の夜、楽しみで眠れなかったんだ。だって、みんなと夜も一緒にいるなんてないし。それに‥‥‥」
 何故かそこで、樋口は口籠もった。
 不審に思って、壱哉は樋口の横顔を見る。
「‥‥その、黒崎と‥‥いつもより、長くいられるから‥‥‥」
 やっと聞こえるような小さな声で言った樋口の横顔は、何故か少し赤くなっていた。
 何と答えればいいのか判らなくて、壱哉は樋口から視線を外す。
「ご、ごめん。俺、ちょっとねぼけてる」
 慌てたように言う樋口の横顔は、夜目にも判る程赤くなっている。
 居心地が悪い訳ではないが、何となく奇妙な沈黙が流れた。
 と、樋口が口を押さえて欠伸を噛み殺す。
 今にも目蓋が落ちそうな樋口に、壱哉は苦笑した。
「明日もあるんだし、眠いなら、寝た方がいいだろう」
「うん‥‥‥黒崎は‥‥?」
 余程眠いのか、樋口の口調はやや呂律が回らなくなりつつあった。
「俺は‥‥」
 言いさして、壱哉は空を見上げた。
「もう少し、月でも見ている」
「‥‥‥そっか‥‥‥」
 その答えに納得したのかどうか、樋口は立ち上がった。
 少しフラフラしていて危なっかしい足取りに、壱哉は思わず、樋口を見送ってしまう。
 幸い、ぶつかりも転びもせずに大広間に着いた樋口は、何を思ったか、毛布を二枚取ってくる。
「そのまんまだと、風邪‥‥ひくから‥‥‥」
 微妙に寝ぼけたような口調の樋口は、壱哉の隣りにまた腰を下ろすと、毛布を二枚重ねてお互いの身体に掛ける。
「俺は、別に‥‥‥」
 樋口の唐突な振る舞いに、壱哉は戸惑った。
「へへ‥‥これだと、あったかいだろ?」
 ほんの、肩が触れる程度の距離だったが、毛布のおかげなのか、とても暖かく感じた。
「おやすみ‥‥黒崎‥‥‥」
 呟くように言って、樋口は目を閉じる。
「おい!こんな所で寝るやつがあるか!」
 慌てて壱哉は声を掛けたのだが、呆れた事に、樋口はもう寝息を立てている。
 太い柱に背中を預けるようにして、それでも熟睡してしまっている樋口は器用なものだと思う。
「‥‥‥‥‥」
 壱哉は、少し呆れて樋口の寝顔を眺めた。
 もしかして樋口は、壱哉に付き合っているつもりなのだろうか。
 人の寝顔をこんなに近くで見るのは初めてで、壱哉は、何となくこそばゆい気がした。
 いつも小学生に間違われる程童顔の樋口は、眠っているともっと子どもっぽく見える。
 じっと見詰めていると、何となく気恥ずかしくなって、壱哉は中庭に視線を移した。
 何があった訳でもないのに、中庭の風景は変わって見えた。
 柔らかな月の光に照らされて、枝振りの良い松や灌木が、静かな佇まいを見せている。
 さっきまで、凍て付いたように見えていた場所が、不思議に、穏やかな表情に変わっていた。
 あんなにもささくれ立っていた気持ちが、静かに落ち着いているのを自覚する。
 樋口が‥‥ここにいるせいだろうか。
 穏やかな気持ちで見る事が出来たから、庭も穏やかな姿に見えるのだろうか。
 自分の気持ちが、どうしてそんな風に変わったのか判らなくて、壱哉は戸惑った。
 しかし。
 毛布一枚の、ほんのりとしたぬくもりなのに、とても暖かく感じられる。
 朝まで眠れないのは同じだけれど、それまでの時間を、こうして過ごすのならば嫌ではない気がした。
 思ったより、修学旅行もそう悪くはない。
 壱哉は、そんな気持ちになっていた。


 翌朝、目を覚ました樋口が、どうして廊下で、しかも壱哉の隣りで寝ているのか全く覚えていなくてパニックになったり、その一件を知った女子連中から樋口が旅行の間中、嫌味攻撃を食らっていたりした事は、また別の話である。


END

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ゲームをプレイしていた時から、ずーっと書きたかった修学旅行ネタです。いや、あの壱哉様が人前で居眠りこくと言うのは、余程眠かったんだと思うのですよ。都会からやや外れた素朴な町だと、中学の修学旅行でホテルでベッドとかはないんじゃないかと。いや、自分も大部屋でザコ寝でしたから(最近の子どもとかは違うのかな?)。旅行中ずっと和式の布団で、夜は連徹状態だったから帰りに寝ちゃったんじゃないかなぁと思います。
しかし、樋口‥‥朝、さぞかし話題をさらった事だろうなぁ。もったいない奴(苦笑)。