ずっと、ずっと…
「‥‥こら。いい加減、やめにしろ」 気怠い口調と共に、鎖が強く後ろに引かれた。 「――っ」 首が絞まって、樋口は反射的に半身を起こして背中を逸らす。 やっと取り戻せた呼吸に小さく咳き込む。 「お前のような駄犬にはもったいないほどくれてやったはずだぞ。さっさと離れろ」 「‥‥‥ごめん」 醒めた口調で命じられ、樋口は目を伏せた。 まだ頭の中は熱にぼやけていて、全身は欲望に疼いていたけれど、『命令』だから仕方ない。 樋口は、まだまだ物足りないように猛り立ったままのものを、息を詰めるようにして引き抜いた。 入り口を擦られて、壱哉は熱い吐息を漏らす。 何度も欲望を注ぎ込まれた体内から、白濁した液体が溢れ落ちて来る。 樋口は、躊躇いもなく窄まりに口を付け、己が放ったものを啜った。素直に、壱哉を綺麗にしたかった。 「‥‥っ、こら!」 窄まりを這う舌の感触に、ぞくり、と壱哉の背筋に震えが走る。 「もう終わりだ。つけ上がるな!」 低い声で叱責され、樋口は渋々、壱哉から身を離した。 今日は壱哉があまり怒らなかったから、つい、樋口は我を忘れて、何度も何度も壱哉の中に注ぎ込んでしまった。――それでも、身体にわだかまる欲望と、この胸に一杯の想いには全然足りないけれど。 しつこくしてしまったから、壱哉は怒っているのだろうか? いつも壱哉は、自分がある程度満足すれば行為を打ち切ってしまう。まだ足りないと疼く樋口の身体になど全く構わず、どこか不機嫌な様子で出て行ってしまう。 しかし、今日は何故か、樋口を叱ったのみで動く様子もなく、怠そうにベッドに横になったままだ。 今日の壱哉はどこか気怠げで、投げやりで。 一体何があったのだろう、と樋口は壱哉の顔を覗き込んだ。 その視線に気付いたのか、壱哉がきつい瞳で睨み付けて来る。 「俺は少し寝る。お前はそこでおとなしくしていろ」 それだけ言って、壱哉は目を閉じてしまう。 程なくして聞こえて来た寝息に、樋口は困惑した。 壱哉が行為の後、こんな所でそのまま眠ってしまうなどなかった事だ。 しばらく寝息を聞いていても、その規則正しさは変わらない。 本当は、もっとしたかったけれど、終わりだと告げられれば樋口にそれ以上を望む自由など与えられていない。 仕方なくベッドを降りようとした樋口は、ふと、壱哉の身体に目を留めた。 樋口に何度も注ぎ込まれる中、壱哉もまた、何度も達した。 その欲望が、色白の肌のあちこちを汚していた。 樋口は、壱哉を起こさないように気を付けながら、そっとその身体の上に屈み込んだ。 きめの細かい肌に飛び散った欲望の残滓を、ひとつひとつ丹念に、しかし刺激にならないように静かに舌で舐め取る。 壱哉の眠りを妨げないように、息を詰めて。 冷たい鎖が壱哉に触れないように、自分の背中に回して。 白い精に汚れた壱哉の姿は、酷く背徳的で、息が詰まりそうなくらい綺麗に見えたけれど。 でも、壱哉はこんな、欲望にまみれた姿は似合わない。――自分とは違うのだから。 殆どの精を舐め取って綺麗にすると、樋口はそろそろとベッドを降りた。 ベッドを揺らさないように、壱哉の眠りを邪魔しないように、細心の注意を払って。 そして樋口は、床に座り込むと、壱哉の顔を見詰めた。 壱哉は相変わらず規則正しい呼吸を繰り返している。 目を閉じている壱哉は、いつもより子どもっぽく見えた。 中学の修学旅行の時と、薔薇園の中で樋口の作業が終わるまで待っていた時と、まるで変わらない優しい寝顔だ。 こうして見詰めていると、今までの時間も置かれている境遇も何もかも忘れて、楽しかった昔に戻ってしまったような錯覚すら覚える。 けれど、日の光の射さない薄暗い部屋も、この部屋に繋ぎ止める首輪と鎖も、行為の跡を残す裸体も‥‥全て、現実だった。 僅かに眉を寄せた寝顔は、どこか脆く、儚げに見えた。 手を伸ばして抱き締めたい衝動を、唇を噛んで堪える。 触れてしまったら、きっと壱哉は目を覚ます。 そして、いつものように不機嫌になって出て行ってしまうだろう。 だから樋口は、身じろぎもせずに壱哉を見詰めた。 物音一つしない部屋の中に、壱哉の静かな寝息だけが聞こえる。 余程、疲れていたのだろうか。 ここの所ずっと来てくれなかったから、仕事が忙しかったのかも知れない。 疲れている時の気晴らしの為にここへ来てくれていると言うなら、少しだけ嬉しい。 けれど、ただ肉体への快楽を与える役割しか持っていない自分が、少しだけ哀しい。 きっと壱哉から見れば、樋口はこの部屋に並べられている猥らな道具と同じような『モノ』なのだろう。 壱哉を起こさないように、樋口は心の中でため息をついた。 本当は、もっと壱哉に触れたい。 もっとその肌のぬくもりを感じたい。 この腕で、ずっと壱哉を抱き締めていたい。 けれど、『モノ』にそれは許されてはいないから。 せめて、こうして見ている事くらいは、許して欲しかった。 ―――黒崎‥‥少し、痩せた気がする。 頬のラインが、前に見た時より細くなっているような気がした。 何か、心を痛める事でもあるのだろうか。 けれど、樋口にはどうする事も出来ない。 壱哉に飼われている『犬』でしかない自分には。 樋口は、黙って壱哉を見詰め続けた。 行為の後で樋口も眠気を覚えていたけれど、眠りたくなかった。 瞬きする暇も惜しんで、息を潜めて、樋口はただ、壱哉を見詰め続けた。 少しでも長く、壱哉を見ていたい。 もしかすると、これっきり、壱哉に会えなくなるかも知れないから。 壱哉がこの部屋を出て行ってしまう度に、もう二度と来てくれないのではないかと思う。 もっと別の、もっと楽しめる玩具を見付けるかも知れない。 或いは、壱哉の心の渇きを本当に癒してくれる相手に気付くかも知れない。 そうしたら、この部屋を壱哉が訪れる事はなくなる。 もう二度と、壱哉を見る事は出来なくなる。 だから、せめて今だけは。 この網膜に、この脳裏に、壱哉の姿を少しでも深く刻んで置きたかった。 もう、役に立たない記憶も、胸を締め付けるだけの思い出も消えてしまって構わない。 その代わりに、壱哉の声を、壱哉の姿を、心に焼き付けて置きたかった。 そうすれば、壱哉に会えなくなってしまっても大丈夫だと思う。壱哉の夢だけを見ながら、呼吸も、鼓動も止めてしまえばいいのだから。 きっと、そんな日が――もう必要ないと捨てられる時が、いずれは来るに違いないのだから。 「あれ‥‥?」 唐突に視界がぼやけて、樋口は瞬きした。 涙が流れているのだと、やっと気が付いた。 慌てて、両手で目を拭う。 どうして涙なんか出たのだろう。悲しい訳でもないのに。今は、そんな時間すらも惜しいのに。 樋口は、大きく目を開いて壱哉を見詰める。 このまま、時間が止まってしまえばいい。 けれど、それは叶わない望み。 だからせめて、この時間が少しでも長く続きますように―――。 |
END |
‥‥‥社長は、どんな事があっても、絶対こんな所でこんなカッコで寝たりしないと思います‥‥‥(ばったり)。
「月の香檻」の深井夏純様の所の樋口があまりにも健気で切なくて、素敵なので(本当に優しくて男らしいと思います)、自分も樋口好きとしてちょっと真面目に(?)攻め樋口書いてみたんですが‥‥‥身の程知らずな望みを持っても無駄だと言う事が良く判りました。健気のけの字もない‥‥(泣)。なんでこう、ウチの樋口は諦め早いかなぁ。勝手に自己完結して現状で満足してるし。やっぱり人間、向き不向きと言うものがあるんですね。痛感しました。
こんな話ですが、深井様に捧げます(「いらんわっ(怒)」と言われそうだ)。勿論返品可です。えぇもちろん。