小さな感謝


 インターホンが鳴り、壱哉は、苛立ちを覚えながらモニターを見る。
 いつもなら吉岡が出てくれるのだが、今、その吉岡がいないのだ。
 階下のオートロックと連動しているモニターに映っている姿に、壱哉は驚く。
《壱哉ー?留守なのか?》
 片手に余るような薔薇の花束を抱えているのは、樋口だったのだ。
「‥‥何の用だ?」
 驚きがまだ尾を引いていて、壱哉はぶっきらぼうな口調で言った。
「いや、吉岡さんが風邪で倒れたって聞いて。ちょうど、花を交換する頃だったから、来てみたんだ」
 樋口が、大きな薔薇の花束を机に置きながら言った。
 壱哉の会社と、この家には、樋口が定期的に薔薇を届けてくれている。
 手入れと鮮度がいいせいで長持ちする樋口の薔薇は、来客は勿論、会社内でも好評だった。
「吉岡の風邪なんて、誰に聞いたんだ」
「あ、いつも来てくれてるサングラスの人。本名を教えてくれないけど」
 今日、パテント関係の書類を届けてくれたのがその男だった。
 黒いサングラスに黒スーツの彼は、吉岡との連絡役のような事をしてくれていた。
 その上、壱哉が気紛れで樋口を(強引に)連れ出してしまう時にも店番を代わってくれたりして。
 いつも世話になっているのだが、社内規則があるとかで、ただの調査員だ、と、本名を教えてくれないのだ。
 しかし、重要な書類はいつも吉岡自ら届けてくれていたから、不思議に思って聞いたところ、風邪で寝込んでいるとの話だった。
「吉岡さん、いつも忙しそうにしてるし。俺もいろいろ世話になってるから、気になってさ」
「そうか‥‥‥」
 樋口は、話しながら、家の中の何カ所かにある花瓶を回収してくる。
 薔薇の花束を開き、持参した鋏で整えると、やや萎れかけていた花と取り替えた。
「で、吉岡さんの容態は?ただの風邪なのか?」
「あぁ。医者にも診せたが、幸い、インフルエンザではないようだ。疲れが重なったところに風邪をひきこんでしまったらしい」
 作業をしながら、さもありなん、と樋口は思う。
 巨大企業グループのトップでありながら、壱哉は身近には吉岡しか置かない。
 いくら、壱哉が直接関わるものだけとは言え、スケジュール調整やら何やら、その仕事量はかなりのものではないか。
 更に、吉岡は壱哉の私生活の世話まで一手に引き受けていて。
 壱哉が家でくつろいでいる間にも、家事にいそしんでいると聞いた時には目眩がしたのを覚えている。
「とりあえず俺、吉岡さんに挨拶してくる」
 そう言って、樋口は吉岡の部屋に向かう。
 ドアをノックすると、掠れた声で返事があった。
「あ‥‥すいません、樋口です」
 そっと部屋に入り声を掛けると、吉岡は驚いて起きあがろうとする。
「あっ、いいです、そのままで!」
 慌てて言うと、まだ驚いた表情のまま、吉岡はゆっくりとベッドに沈み込む。
「どうして‥‥‥」
 酷く掠れている吉岡の声は小さくて、顔も赤い。
 かなり酷い風邪なのだろうと見て取れる。
「今日、書類を届けてもらった時に聞いたんです。ちょうど、花を届ける頃だったから‥‥余計なことかなとは思ったんですけど、なんかやっぱり心配で」
 樋口は、困ったように頭をかいた。
 苦手な訳ではないが、礼儀正しい吉岡と喋る時は多少なりと緊張してしまうのだ。
「はぁ‥‥‥すみません」
 吉岡がため息をついた、と、すぐに咳き込んでしまう。
「あっ、俺、すぐ帰りますから!」
 これ以上長居して悪くしてしまっては申し訳ない。
 樋口が慌てて出て行こうとすると。
「待ってください!」
 大声を張り上げたせいで、また吉岡が咳き込む。
「壱哉様に‥‥何か、お食事を‥‥‥」
 切れ切れに、吉岡が言った。
 何とか呼吸を落ち着けて、言葉を継ぐ。
「おそらく、昼食を食べておられないと思いますので‥‥‥」
 自分が風邪で酷いのに、壱哉の心配をする吉岡は凄いと思う。
「は、はい‥‥わかりました」
 気圧されるものを感じつつ、樋口は頷いた。
「壱哉のことはちゃんと引き受けますから。吉岡さんも、大事にしてくださいね」
 樋口の言葉に、吉岡は弱々しく頷いた。
 早々に吉岡の部屋を出た樋口は、壱哉のいるリビングに戻る。
「吉岡さん、かなり酷そうだな」
 樋口の言葉に、壱哉の表情が曇る。
「あぁ‥‥今朝、急に酷くなったようなんだ」
 その言葉に、樋口は、ふと、気になった事を聞いてみる。
「なぁ、壱哉?」
「なんだ」
「台所‥‥きれいなんだけど。壱哉、今日、何も食べてないのか?」
 さっき、花瓶の水を替えるのにキッチンに入った時、殆ど使った気配がなかった。
 使った器は食器洗い機に入れるとしても、何となく綺麗すぎる気がしたのだ。‥‥‥壱哉がもし、キッチンを使ったのであれば。
 しかし、今はもう昼過ぎで、さっきの吉岡の様子を見れば、壱哉に朝も昼も抜かせる事は考えにくい。
 樋口の言葉に、壱哉は微妙に視線を逸らした。
「今日は休みだったから、朝、ゆっくり起きたんだ。そうしたら‥‥朝食は、できていた」
「‥‥‥‥‥」
「吉岡が調子が悪そうだったから、片付けはやると言ったら、凄い勢いで止められた」
 吉岡の内心がとてもよく判ってしまった樋口は、頭痛を覚えた。
 あの様子を見れば、身体が動くうちなら、壱哉に不自由を掛けまいと朝食を作ったのだろう。
 そして、壱哉一人に後片付けなどさせれば、半分以上の食器が壊されるのが容易に想像出来たからだろう。
「で?吉岡さんは、何か食べたのか?」
 そう訊くと、今度は壱哉は不機嫌な顔になる。
「食欲がないとは言ってたんだ。でも、いつも世話を掛けているし、こんな時くらい何か作ると言ったら、死にそうな顔で止められたんだ」
「‥‥‥‥‥‥」
 これもまた、吉岡の気持ちがとても良く判る。
 決して不器用ではないはずなのに、こと、料理に関しては壱哉は全く何も出来ない。
 いや、その失敗っぷりは、ある意味、天才的ですらあった。
 普通なら当然あるべき知識がないのは勿論だが、殆どの場合、何故か食べられるものが出来ない。
 黒焦げや生焼けはまだ可愛い方で、下手をすると形容の出来ない不気味な物体になってしまう。
 更に、殆どの場合、食器だのレンジだの、何かしらが壊れるのだ。
 以前、樋口が風邪をひいて、壱哉が見舞いに来てくれた時、コンビニで買ってきた粥を出してくれた事がある。
 あの後、何故か家の電子レンジが壊れてしまって、買い換える羽目になったのだ。
 壱哉に台所を任せたりしたら、吉岡は落ち着いて眠ってなどいられないだろう。
 樋口は、思わず深いため息をついてしまった。
「あ‥‥でも、薬飲んでるんだよな?何も食べないで大丈夫だったのか?」
 ふと、思い付いて訊いてみると。
「特に問題のある薬は出なかったぞ。解熱剤は座薬だから問題ない」
「‥‥‥は?」
 赤ん坊でもあるまいし、何故座薬なのか。
「そんなに熱が高くて危ないのか?」
「いや?あの医者が座薬が好きなだけだ」
「‥‥‥‥‥‥」
 医者が、好みで薬を処方してもいいのだろうか。
 目が点になっている樋口を尻目に、壱哉は往診に来てもらった時の事を思い出しているようだ。
「吉岡が倒れたと言ったら午前の外来をキャンセルしてこっちに飛んできたんだからな。診察だとか言って怪しいものだ。全く、油断も隙もない」
 不機嫌な壱哉の不穏な言葉から察するに、もしかして‥‥壱哉と同じ性癖の人間なのだろうか。
 あっさり『そうだ』と言われそうなのが怖くて、樋口は思わず言葉を飲み込んでしまった。
「吉岡も、診察は素直にさせたくせに、座薬を入れようとしたら暴れるんだからな。どうして俺だと嫌がるんだ‥‥」
 いたく不機嫌な様子だが、それは壱哉が嫌なのではなく、座薬が嫌だったのではないか。
―――気の毒な吉岡さん‥‥‥。
 嬉々として座薬を入れようとする壱哉が想像出来てしまって、心の底から同情してしまった樋口である。
「‥‥とにかく、食べれるなら少しは栄養とった方がいいと思うから‥‥俺、なんか買ってくるよ。壱哉も、昼だから腹、へったろ?」
「あ、あぁ‥‥‥」
 樋口が妙に甲斐甲斐しく見えて、壱哉は気圧されたように頷いた。
 出掛けて食事でもしようかと思ったが、やはり吉岡が心配で出られなかったのだ。
 そして、数十分後。
 近くのスーパーでいくつか材料を調達してきた樋口は、キッチンを借りて簡単な料理を作っていた。
 料理と言っても、吉岡用に卵粥、壱哉用にお好み焼きと焼きそばだ。
「食べられなかったら残してもらっていいからな」
 そう言って、樋口は壱哉に粥の鍋を持って行かせる。
 さすがにそのくらいなら出来るだろうと思っての事だった。
 傍から見たらとてつもなく危なっかしい手付きながら、奇跡的に何事もなく壱哉は吉岡の部屋に粥を運んで行った。
 壱哉を待つ間、樋口はお好み焼き用に野菜を切り始める。
 料理が得意な方ではないが、キャベツは切り慣れているからその手際はかなりいい。
 わざわざ壱哉の家でお好み焼きと言うのも何だったが、既に昼を過ぎて結構な時間になっていたから、すぐ食べられるものを作る事にしたのだ。
 大体、樋口が作れる料理は、そんなに種類が多くなかった。
 しばらくして、壱哉が盆を持って戻って来る。
 本当に奇跡的に、鍋をテーブルに置くまで、壱哉は手を滑らせもせず、つまずきもせずに帰って来た。
―――壱哉‥‥‥進歩したなぁ。
 本人が聞いたら本気で怒り出しそうな事をしみじみと思ってしまった樋口である。
 しかし、当の本人はどことなく不機嫌そうだった。
「吉岡のやつ‥‥どうして、俺が作ったんじゃないと知ると素直に食べるんだ?それに、また俺が薬を入れてやろうと言うのに、どうしてあんなに嫌がるんだ?身体を拭いてやると言うのに遠慮ばかりするし‥‥‥」
 壱哉としては、多分、日頃世話になっているから何かをしてやりたいのだろう。
 しかし、壱哉の『やりたいこと』は、悉く恩を仇で倍返ししているような気がする。
 もっとも、それを言ったら壱哉が益々不機嫌になるのは判っていたから、樋口は黙って視線を逸らすしかない。
「‥‥ま、まぁ。何もしなくたって、壱哉がここにいるって言うだけでも、看病になってると思うよ?何かあった時に、誰かが近くにいるだけで落ち着けるものだし」
 樋口の言葉に、壱哉は真顔になった。
「そんなもの‥‥なのか?」
 酷く真面目に聞き返され、樋口の方がうろたえる。
「う、うん。そうだと‥‥思うよ」
 吉岡の場合、壱哉を一人で放って置く事自体がストレスになりそうな気もしないではなかったが、樋口は気圧されるように頷いた。
 やはり吉岡の事となると、壱哉は真剣になるのだろうか。
 樋口は、そんな事を思った。
 とにかく手早く作れて腹が満たされるお好み焼きと焼きそばで、遅い昼食を摂る。
 豚肉を奮発したとは言え、あまり自慢出来た食事ではないが、こんなものは珍しいらしい壱哉は、旨いを連発してすぐに平らげてしまった。
 樋口が、あまりにも最新式なキッチンに戸惑いつつ、片付けを終える間、壱哉はリビングでのんびりと新聞など読んでいた。
 ようやく片付けを終えた樋口がリビングに来ると、壱哉はゆっくりと立ち上がった。
「色々、手間を掛けたな‥‥褒美だ」
 声を掛けるのと、樋口の腰を抱き寄せるのとほぼ同時だった。
「んんっ‥‥!」
 そのまま唇を合わせられ、樋口の身体が硬直する。
 いつものように、丹念に舌を絡められ、口内をまさぐられ、思わず力が抜けそうになる。
 しかし。
「‥‥っ、だ、ダメだって!」
 流されそうになる自分を叱咤して、樋口は壱哉を押しのけるようにして身体を離した。
 更にシャツをたくし上げようとする手から、慌てて距離を取る。
「嫌なのか?」
 不満そうな壱哉だが、こればかりは譲れない。
「今、吉岡さん、風邪で寝てるんだぞ?!そんな時にこんな‥‥‥」
 『こんな』内容を反射的に想像してしまい、樋口は赤くなる。
「別に、ここでの音は聞こえないんだ。それに、普段、うちでしている時にも吉岡がいるだろう」
「本当は、いつもだって吉岡さんがいる時ここでするのも抵抗あるんだけど‥‥」
 つい、本音を口にしてしまった樋口だが、壱哉に睨まれて思わず視線を逸らす。
「と、とにかく!風邪で大変な吉岡さんがいるのに、そんなことできないよ!大体、壱哉だって心配じゃないのか?!」
「それは心配だが‥‥‥」
 言いさして、壱哉は更に不機嫌な顔になる。
「お前、吉岡だと見舞いに来て、俺の心配はしないのか」
「‥‥‥お前、一体何にやきもちやいてんだよ‥‥‥」
 樋口は、思わず脱力してしまう。
「俺は、お前が風邪の時に行ったぞ?」
 何やら、子どもが駄々をこねているような様子にも見えて、樋口は頭痛を覚える。
「大体、壱哉、寝込むような風邪なんかひかないじゃないか」
「‥‥‥‥‥‥」
 言われ、壱哉は考え込む。
 確かに、風邪をひいた事など、いつだったのか思い出せない程昔だと思う。
 多少体調が優れない時はあっても、そんな時は吉岡が仕事を外してくれたから、一日寝ていれば治っていた。
「お前が風邪とかひいたんなら飛んでくるけど。今まで一度もそんなことなかったぞ」
 確かに樋口の言う通りなのだが、何となく、仲間はずれのようで悔しい。
 不満げに口を尖らせる壱哉は、どこか子どもっぽく見えた。
 一瞬、ほだされそうになった樋口は、慌てて首を振る。
「とにかく、吉岡さんの風邪が治るまでダメだって!俺も、花を届けにきただけなんだから」
 きっぱりと言われ、さすがに壱哉も黙り込む。
「吉岡さんが心配するから、また、夜も来てみるよ。吉岡さん置いて、外食とか行く気にはならないんだろ?」
 樋口の言葉に、壱哉は頷いた。
 昼も過ぎ、腹はへってきたが、吉岡を一人にして出掛ける気にはならなかった。
 一食くらい抜いても、忙しい時を思えば何と言う事はない、と思っていた矢先に樋口が来たのだ。
「じゃあ、俺、一度帰るよ。何かあったら携帯に電話くれれば、来るから」
「‥‥‥わかった」
 自分にとって大事な存在である吉岡を樋口が心配してくれるのは素直に嬉しい。
 しかしそれとは別に、胸の中に何やらもやもやとしたものがわだかまって、壱哉はつい、ぶっきらぼうな答えを返してしまった。
 そんな内心が判ったかのように、樋口は、少し呆れた顔をして帰って行った。
「‥‥‥‥‥‥」
 小さくため息をついて、壱哉はリビングのソファに沈み込む。
 もう一度新聞を手にする気にもならなくて、ベランダの外に設けられた小さな庭に視線をやった。
 最近は樋口が時々手を入れてくれるそこでは、青々とした葉がのどかな太陽の光に照らされて元気よく茂っている。
 緑を眺めていると、不思議に、自分の気持ちが穏やかになって行くのが判る。
 一応壱哉も、自分が日常生活においては不器用な人間である自覚はあった。
 だから吉岡が、風邪を押して朝食を作ってくれたのだろうし、樋口も気を遣ってくれたのだろう。
 しかし、だからこそ何か役に立ちたいとも思うのだ。
 ‥‥‥何もしない方がいいと思われているらしいのが甚だ不本意だったが。
 とにかく、吉岡の風邪が治ったら、二人には何かの形でちゃんと埋め合わせをしなければ。
 壱哉は、庭を眺めながら、その時の事を考え始めた。
 それだけで、何となく、胸が弾むような気がした。


 後日。
 風邪が治った吉岡は、彼ですら目を剥くような超高級薬膳料理の店に連れて行かれた。
 しかも、食べてから蟹殻の粉末や蟹のエキスなども入っていたと聞き、戻ってからまた体調を崩してしまった。
 樋口の方は、休日、訪ねて来た壱哉に問答無用で押し倒されてしまった。
 しかも、月曜日になってもベッドから起きられず、声が枯れるくらい延々と相手をさせられてしまった。
 やはり、壱哉には、変に気を回すよりいつも通りにしていてもらった方がいい。
 全く同じ感想を抱く樋口と吉岡だった。


END

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何気に風邪の話が多いのは、単に作者が万年風邪(一年間で風邪でない時の方が少ないです、えぇ)なせいで、どうしても題材として取り上げやすいからです。
壱哉様は下手に親切を考えない方が良いと思います。あっ、吉岡を通じて親切するのが一番かと。うまい具合に変換してくれると思うので。
夜、樋口がさすがにまたお好み焼きではまずいかとお総菜買って来て、ご飯炊いてくれて。「さすがに、お前の作ったとんかつはうまいな!」とか無邪気に言われて、「ごめん、それ、近所の肉屋さんの惣菜‥‥」なんぞと言う会話が交わされたらいいと思いました(笑)。