乾杯!
珍しくも金曜の夜から休みが取れた壱哉は、樋口と連れ立って街を歩いていた。 あの薔薇が根付き、量産の目途が立ったお祝いだ、と誘われたのだ。 「前に言ってたろ?全部終わったら、一緒に飲みに行こうって」 記憶を辿ると、それは、まだ樋口とこんな関係になる前の会話だった。 気紛れに店を訪ねたら、仕事の後の一杯、とやらに付き合わされたのだ。 安い発泡酒の缶ビールを、二人で分けて飲んだ事も思い出す。 土地の担保に自分自身を差し出せ、などと言った相手にそんな事を言う樋口に、多少なりと呆れたものだ。 「ドイツ風のビアホールみたいな所ができてさ。結構本格的らしいんだ。ほら、お前、ドイツビールが好きって言ってたろ?」 そう言えば、そんな事を言った気もする。 生まれて初めて、発泡酒を飲んだのもあの時だった。 少し薄いと言うか、飲んだ事のない味だったが、そんなに不味いとは感じなかった。――樋口と一緒に飲んだせいかも知れないが。 ドイツビールを飲むと言う話も軽い気持ちで口にしただけで、すっかり忘れていた。 それを律儀に覚えていて、行動に移すのは、やはり樋口らしいと思う。 それにしても。 確かに、壱哉が持っていた枝から薔薇は根付き、権利も壱哉が付けた弁護士のおかげで、悪徳ディーラーに持って行かれなくて済んだ。 しかし、そもそも、薔薇園が燃やされたのも、一度はあの品種がなくなりかけたのも、元はと言えば壱哉が樋口を陥れたからなのだ。 そんな事など忘れたかのように、一緒に飲みに行こうと誘う樋口は、やっぱり判らなかった。 連れて行かれた店は、小奇麗で、割と洒落た感じの店だった。 壁はレンガ模様の壁紙で、仕切りのない広い店内に洒落たデザインのテーブルと椅子、そして所々に観葉植物が置いてある。 ヨーロッパのオープンカフェを意識しているのだろうか。 既に何組か客が入っていて、煩い程ではないものの、店内はざわついていた。 夜、飲む店でこんな雰囲気の場所に入ったのは初めてで、壱哉は物珍しく辺りを見回す。 「黒崎‥‥こういう店って、初めて?」 あまりにも物珍しそうな様子に、樋口が訊いてくる。 「あぁ。普段は個室だし、レストランでももっと静かだから、こんな雰囲気は初めてだ」 「あー‥‥‥あれか。料亭とか、三つ星レストランとか言うやつ?」 「まぁ、そんな感じだ」 あっさりと認める壱哉に、樋口は肩を落とした。 「確かにお前、安い居酒屋なんか入ったことなさそうだもんなぁ‥‥‥」 何故そこで凹むのか、壱哉には今ひとつ判らない。 「と、とにかく!今日は、お祝いだからさ、目一杯、飲もうぜ!」 頭を振ると、樋口は、何となくヤケのような声を上げた。 そこに、丁度ビールが運ばれて来る。 「じゃあ、薔薇の完成と、お前の会社と‥‥改めて、再会に、乾杯!」 「‥‥乾杯」 妙にテンションの高い樋口に気圧されつつ、壱哉はジョッキを合わせた。 ビールもジョッキも程良く冷えていて、泡の口触りもいい。 飲み慣れたものとは少し違っていたが、悪くない味だった。 数口飲んでジョッキを置くと、物問いたげな樋口の視線に気がついた。 「黒崎‥‥どうだ?」 口に合うかどうか、気にしているのだろうか。 壱哉は、苦笑した。 「あぁ、悪くない」 「そっか‥‥!」 笑顔になった樋口は、改めて、自分のジョッキに口を付ける。 「ぷあー、うまい!」 瞬く間に半分になったビールに、壱哉は呆れた。 「おい。そんなに一気に飲んで、大丈夫か?」 「へ?だって、冷たいうち飲まないと不味いだろ」 それは確かにその通りなのだが。 「店でいいビール飲むなんて久しぶりだからさ。うまくって」 「‥‥普段は発泡酒、だったか」 壱哉の言葉に、樋口は苦笑いして頭を掻いた。 「まぁな。でもあれは、どっちかって言うと忙しかった後の気分転換だから。たまに、暑い時とか風呂上がりとかに飲んだりもするけど」 まぁ、そう贅沢もできないから、いつもじゃないしな、と樋口は笑った。 「飲みに行ったりしないのか」 「うーん‥‥‥一人で飲んでもつまんないし。たまに、同級生に誘われた時とか行くことはあるけど、仕事が忙しくて断ることも多かったし」 ふと、壱哉は自分の事を振り返ってみた。 壱哉の傍には、常に吉岡がいる。 食事に出掛けたり、リビングでグラスを傾ける時も、一人だけと言う時はあまりない気がした。 「‥‥‥‥‥」 例えば、あの時のように、仕事が終わった時とか。 例えば、風呂から上がって、あの茶の間でくつろぐ時とか。 樋口はずっと、一人で缶を空けて、一人で飲んでいたのだろう。 そんな事を考えると、苛立ちめいた、もやついたものが胸の中に広がる。 「あ‥‥なんか、嫌なこと、思い出させちゃったか?」 気付けば、樋口が心配そうにこっちを見ていた。 「いや。なんでもない、気にするな」 そう言ったものの、樋口はまだ心配そうな顔をしている。 「それより、お前のビールがもう空だろう。奢ってやるから、好きなだけ飲め」 「え?!そんな、今日は俺が奢るって!」 「お前の祝いなんだから俺が出す。どうせ、二十万もかからんだろう」 壱哉の言葉に、樋口は唖然とした顔になる。 そして樋口は、大きなため息をついて肩を落とした。 「‥‥‥黒崎、それ、単位が違うって‥‥‥」 「うん?百万くらいかかるのか?」 「逆だって!大きくなってどうするんだよ」 樋口は、もう一度ため息をついた。 「いや、わかってはいたけどさ‥‥‥」 やっぱり壱哉には、どうして樋口が凹んでいるのか判らない。 「あぁもう、なんでもいいや。とにかく、今日はお祝いだから、飲むぞ!」 そう言って、樋口は追加のビールを頼む。 「‥‥そう言えば、お前、酒は強いのか?」 壱哉は、話を逸らすつもりで訊いてみる。 「うーん、どうだろうな。ビールは結構飲む方だと思うけど。飲みに行くの、本当にたまにだから、つい、酔っぱらうまで飲んじゃうんだよな。次の日すっごく辛い時もあったし」 頭痛と吐き気で死にそうになりながら薔薇に水遣りをした、などと言う話には、呆れるしかない。 普段はほろ酔いで、過ごした時でも数時間すれば醒めてしまう程度の飲み方をしていた壱哉には、想像がつかない状態だ。 「黒崎って、飲んでも、多分変わんないよな。大体お前、学生時代から、いっつも冷静でさー」 と、樋口は学生時代の思い出話を始める。 自分が実は女子にとても人気が高かったとか、スポーツや成績などでライバル心を燃やしている男子も結構いたとか、初めて聞く話も多かった。 酒が進むうち、話題は学生時代の思い出から今の近所の話や薔薇の話など、様々に流れて行った。 そしていつものように、樋口がほぼ一方的に話をして、壱哉は時々口を挟む程度だったが。 初めて樋口と飲んだ酒は、今までで、一番旨いもののような気がした。 話が弾んだせいか、店にいたのは三時間近くだった。 喋りながらぐいぐい飲んでいた樋口は、案の定、店を出る頃には足下がおぼつかなくなっていた。 「まったく。そんなになるまで飲むやつがいるか」 肩を貸して何とか樋口を家まで連れて行き、ベッドに寝かせ、壱哉はため息をついた。 酒量は、ざっと眺めていただけでもかなりの量が入っていた。 いくら久しぶりでも、ここまで飲む事はないだろうと思う。 「あー‥‥なんか、夢みたいだよな。黒崎と一緒に飲めるなんて」 何が嬉しいのか、樋口はへらへらと笑っている。 「別に、俺と飲むなんて大した事じゃないだろう」 何となく気恥ずかしいようで、壱哉はつい、ぶっきらぼうに言ってしまう。 「俺さぁ。今、すっごい幸せだと思うなぁ」 だらしないほどにやけた顔で、樋口はベッドから壱哉を見上げた。 「‥‥お前、悪酔いしてるだろう」 「俺?うん、酔ってる。黒崎と一緒にいられて、あんまり幸せで、酔っぱらってる」 壱哉と一緒にいるのと、酔うのとどんな関係があるのか。 酔っぱらいにしか判らない論理の飛躍に、壱哉はため息をついた。 「今、水を持って来てやる。おとなしく寝ていろ」 そう言って、壱哉が立ち上がった時。 「‥‥‥なぁ、黒崎」 酷く真剣な口調に、壱哉は、樋口の顔を見た。 樋口の表情は、酔っているとは思えないような、真剣なものだった。 「俺、さ。本当に、こうして‥‥お前とつきあってて、いいのかな」 「なんだと?」 樋口の言葉の意味が、壱哉には判らない。 「俺が、また薔薇をつくれるの、全部、お前のおかげだろ。家も薔薇園も、お前がいなかったらこんなに早く再建できなかった。権利だって、お前がいなかったら俺の手には戻らなかった。俺‥‥お前の世話になってばっかりで、何も返せないんだ」 樋口は、どこか思い詰めたような顔をしていた。 「その上‥‥いつも、忙しいお前にわざわざここまで来させて。お前に甘えて、負担かけてばっかりなのに‥‥‥こうして、つきあってて、本当にいいのか?」 樋口の言葉を聞くうちに、壱哉の中に、怒りに似たものが湧く。 樋口は、一体何を言っているのか。 付き合っていていいか、など、本当は壱哉が問うべき言葉ではないのか。 そもそも、薔薇園を失いかけた、そのきっかけを作ったのは壱哉だ。 多額の借金を背負わせ、陥れ、追い詰めた。 全てを失い、打ちのめされた樋口を辱めた。 あれだけの事をしたのだ、憎まれても、二度と顔を見たくないと言われても、当然のはずだった。 それなのに樋口は、壱哉を責める言葉ひとつ口にせず、全てを許してくれた。 甘えていると言うなら、それは壱哉の方だ。 樋口の家や、店や、薔薇園の再建など、一度奪ったものへの償いとすれば、まだ安すぎると思う。 全てを受け入れ、その上で好意を向けてくれる樋口に、壱哉の方こそ、返すものを何も持っていないのだ。 「‥‥‥本当に、お前は馬鹿だな」 「ぅ‥‥‥」 壱哉の言葉に、樋口は小さく口を尖らせる。 そりゃあ、確かに俺は頭悪いけどさ、などとぶつぶつ言っている樋口の傍らに座る。 樋口の顔の脇に手をついて、上から覗き込むと、戸惑ったような視線が見上げて来た。 「お前は、俺にたくさんのものをくれた。薔薇園の再建とか、そんな『金』では到底、代わりにならないくらいたくさんのものをな」 何の打算もない、真っ直ぐな好意。 大切な人を想う、暖かい気持ち。 そして、心から満たされる、かけがえのない人と過ごす時間。 どれも、どんなに金を積んでも手に入らないものだ。 「俺の方こそ、訊かなければならない。お前から全てを奪おうとした、そんな俺が、傍にいて、本当にいいのか?」 「え‥‥だって、あの薔薇はちゃんと咲いたし、店だって薔薇園だって元通りになっただろ?」 あれだけの仕打ちも、樋口の中では、もう終わった事になっているのか。 そんな樋口の優しさが、とても嬉しくて、愛しかった。 「俺は、許されるなら、お前といたい。ここへ来るのだって、高速があるから大した事はない。ほんの少しの時間でも、お前といれば満たされる。だが、お前の気持ちはどうなんだ?」 真っ直ぐに見詰めると、樋口は僅かに頬を染めた。 どこか潤んだような瞳に、壱哉の顔が映っている。 「俺だって、黒崎といたいよ。黒崎と、こんな近くになれるなんて、思ってなかったから。今でも、夢じゃないかって思うことがあるぐらいだ」 「‥‥‥夢なんかじゃないだろう」 苦笑して、壱哉は樋口と唇を合わせた。 いつにも増して、甘く感じる唇を味わう。 そのまま、事に及ぼうとした壱哉だが。 「‥‥‥樋口?」 妙に反応がないので、唇を離すと、規則正しい寝息が聞こえてくる。 実に幸せそうな顔で眠ってしまった樋口に、壱哉は呆れた。 「キスだけで寝てしまうほど飲むな!」 言ってみても始まらない。 さっきの会話を思い出すと、無理矢理悪戯するのも何となく憚られる。 今日は、おとなしく寝るしかないようだ。 多少、いや、かなり、不本意だが。 壱哉は、深い、深いため息をついた。 甘く、しかしちょっとだけ物足りない夜が更け。 頭痛に顔を蹙めながらも早起きして薔薇の手入れを始めた樋口が、昨夜の会話を全く覚えていなかったとか、それに臍を曲げた壱哉が、昼間から樋口をベッドに引きずり込んだとか言う些細な出来事が起こるのは、翌日の話である。 |
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このネタ、本当はAGAKEの追加エピソードなのですが。でも、ちょっと訳あってPC版の方の話にしました(理由は長くなるので↓に)。一応、プレイしてない方にも判るようには書いたつもりです。
壱哉様に秘書、そしてターゲット達の中で、酒に飲まれるのは樋口だけだろうなぁと思います。壱哉様と秘書は過ごす事はないと思うし(壱哉様は、量じゃなくて、本当に嗜む程度で満足するんでしょうし)、山口さんも、断りきれなくて飲みすぎはあっても、翌日に響くまでは絶対飲まないと思うし。新は(大人になってからですよ?)、周りに強引に勧められて深酒はするかも知れませんが、普段は自分の適量は守る気がします。
樋口は‥‥やっぱ、機嫌がいいとけっこうやってしまう気がするんですよねぇ。まぁ、友達なくす程じゃないとは思うんですが。酒で色々失敗してる(友達なくす、に近いものもあったり)作者としてはとても他人事とは思えないと言うか(苦笑)。
んで、ここからは独り言(長いんでスルー推奨)。
AGAKEでこのエピソードを見た時、樋口の「全部終わったら一緒に飲もう」発言に萌えまくりました。
で、話に仕立てようとした時に、はたと困ってしまいました。
プレイ語りの方にも書きましたが、コンシューマ向けでファンタジーでないとネタ的にシャレにならなかった、と言うのは判るのですが。
でも、PS2版の方だと、樋口は魂がなくなっても壱哉を助けたかったし、壱哉も、自分が死ぬ事よりも樋口の魂を奪う事が耐えられなかった訳です。それだけの深い想い(まぁ、『愛の奇跡』ですし)が和解の場であったんですから、相手の想いを図りかねてグラつく、と言うのはあまりないのではないかと思うのですよ。
でも、壱哉は償いのつもりで色々と金をだしているけど、それは樋口の中では壱哉への『借り』になっていると思うのです(土地代とか、諸々の出費に対して、壱哉がもういい、とか言っても、樋口はきっちり返す、と言い張ってましたよね)。
そのあたりの、樋口や壱哉の負い目の感情と言うのは、金が絡まないPS2版よりも深いと思いますし。
PS2版だと、壱哉様が樋口に対して感じている負い目は、別の意味になってしまう気がするんですよ。金で、ただの遊びとして手に入れようとしたのではなく、自分の命を永らえる為だった訳ですから。
‥‥‥と、まぁ、ずらずらと書きましたが、やはり、お互いの複雑な感情を書きやすいのはPC版だなと思いました。んで、要は、作者が酒好きなので、このエピソードを是非とも書きたかっただけだと言う(そーゆーオチか)。