静かな時間
「‥‥大丈夫なのか、お前」 樋口の顔を見るなり、壱哉は思わずそう言ってしまっていた。 「は?なに?」 意味が全く判っていない樋口は、きょとんとした顔になる。 苗やら鉢植えやらが並んだコンテナを抱えて走り回っている樋口は、とても忙しそうで。 元々猫っ毛気味なのが更にバサバサになっている髪や、相変わらずラフな服に葉っぱだの枯れ枝だのがくっついている。 その辺りを差し引いて見ても‥‥‥酷く、疲れているように見えた。 「ゴメン!ちょっとこれ、二時までに出しちゃわないとならないんだ。どっかで、時間つぶしててもらっていいから‥‥‥」 言いながらも、樋口は動きを止めない。 どうやら、かなり大口の出荷らしく、駐車場の入り口には、既に大量のコンテナが並べられていた。 そして、業者らしい人間が、かなり大型のトラックに、並べられたコンテナを積んで行く。 その手際はかなりいいのだが、もう花が咲きかけている薔薇を扱うのにあまり乱暴には出来ないから、結構時間がかかっているようだった。 「誰かに手伝わせるか?」 あまりにも忙しそうなのを見かねて、壱哉は声を掛けたのだが。 「あー、うん。もうすぐ終わるから、大丈夫」 やや生返事気味の答えが返って来る。 『もうすぐ』と言っていながら、実際、作業が終わったのは三十分近く経ってからの事だった。 パネルトラックを送り出し、樋口はようやく、肩の力を抜いた。 「‥‥ゴメンな、壱哉。待たせちゃって」 振り返った樋口が、すまなそうな顔で詫びてくる。 「いや。それは別に構わないが」 壱哉は、改めて、樋口を見た。 出荷を終えてホッとした様子ではあるが、その顔には疲労の色が濃い。 「とにかく、シャワーでも浴びろ。酷い格好だぞ」 「え‥‥あ、うん」 自分の身体を見回して、樋口は頷いた。 「俺はそこらで適当に待っているから、気にするな」 「うん‥‥ごめん」 樋口は俯くと、そそくさと家の中に消える。 今日は数週間ぶりに壱哉に休みが取れて、久しぶりに来る事が出来たから、無駄な時間を使わせるのは悪いと思っているのか。 勿論、会ったらすぐにでも抱き締めたいと思っていたのは確かだけれど。 それでも、ああして仕事に頑張っている樋口を見るのは嫌いではなかった。 相変わらず、綺麗に手入れされている薔薇園を一通り見て回ってから、壱哉は家に戻る。 待っている間、樋口の部屋に行こうと思ったが、ふと、気が向いて茶の間に入る。 昔ながらの雰囲気のある茶の間は、壱哉の家のリビングとはかなり趣が違う。 見回した壱哉は、そこに掛けられたカレンダーに目を留めた。 樋口は、出荷や仕事の予定は全てこのカレンダーに書き込んでいる。 壱哉が来る日も、大きく赤で囲んであったりするのだが。 昨日までの書き込みを見た壱哉は、眉を寄せた。 納品しなければならないのであろう時間と出荷本数らしき数字。 そして、イベント絡みらしい会場飾り付けの仕事時間。 ここ二週間近く、殆ど毎日、びっしりと予定が書き込まれていた。 今までの仕事のやり方が染み付いているのか、樋口は、滅多に人を使わない。 これらの仕事を全部一人でこなして、なおかつ店もそれなりに開いて、更に薔薇園の手入れもしているのだとしたら。 「‥‥‥これは、働き過ぎじゃないのか?」 働き過ぎに関しては、壱哉も人の事を言えた義理ではないのだが、その辺りはこの際、置いておく。 こんなに働き詰めで、樋口は大丈夫なのか? いや、そもそも、あの身体だけは丈夫な樋口があんなに疲れた顔をしている事自体が既に尋常ではない。 そんな事を考えていると、樋口の戻りが妙に遅いような気がしてくる。 まさか、風呂で倒れてでもいるのではないか。 急に心配になって、壱哉は風呂場へ行く。 「崇文!」 風呂場の戸を開けると、驚いたのか、裸のまま固まった樋口がいた。 「い、壱哉?な、なに?」 何となく警戒しているような樋口の態度に少し不満を覚えながらも、壱哉は肩の力を抜く。 「‥‥遅いから、風呂場で倒れてでもいるのかと思った」 真顔の壱哉に、樋口は口を尖らせた。 「そこまで酷くないぞ」 まぁ、ちょっと寝そうになったけど、と呟いて、きつい目で壱哉に睨まれ、樋口は首を竦めた。 「‥‥お前、ゆうべは何時間寝たんだ?」 樋口の部屋に落ち着いて、壱哉はまず、訊いてみる。 「え、ぁ‥‥ゆうべは、徹夜だったから‥‥‥」 あらぬ方向に視線を泳がせながら、樋口はぼそぼそと答えた。 「‥‥‥その前の日は?」 「‥‥‥‥ほとんど寝てない‥‥‥」 「‥‥‥‥‥‥」 壱哉の表情が険しくなったのを見て、樋口は慌てる。 「で、でもその前の日は三時間は寝たし!徹夜の時以外は二時間くらいは寝てたし‥‥‥」 言い訳のつもりが、更に墓穴を掘ってしまった正直な樋口である。 案の定、壱哉は眉を吊り上げた。 「お前は、どうしてそう無茶をするんだ?一人でそんな無理をして、倒れたりしたらどうするんだ!」 本気で怒られ、樋口は首を竦めた。 壱哉だって、徹夜とか長距離出張とか無理してるじゃないか‥‥などと小声で文句を言う樋口を、壱哉は睨み付けた。 「俺は移動時間には寝ているし、食事だってちゃんとしてるぞ」 どちらかと言えば、壱哉が眠っている時にも甲斐甲斐しく世話を焼いている吉岡の方が倒れるのではないかと思うのだが、それはまた別の話だ。 「大体お前、ちゃんとしたものを食ってるのか?昨日は何を食ったんだ」 痛いところを突かれ、樋口は身を縮めた。 「‥‥‥キャベツ炒めと、ごはん‥‥‥」 また怒られるのかと、樋口は首を竦めたが、壱哉はもう、怒る気力もない。 今はそんなに困っていないはずなのに、相変わらず樋口は、何かというとキャベツだの、安くて腹が膨れる野菜ばかり食べている。 元々、料理にはそんなにこだわらない為、忙しければそれにかまけて、本当に簡単な料理しかしない。 しかも樋口の場合、『キャベツ炒め』と言ったらほぼキャベツだけだ。肉など滅多に入らない。 これでどうやってこの身体を維持しているのかが不思議だった。 「大体お前は‥‥‥」 それでもやはり我慢出来なくて、説教しようとした時、壱哉の携帯が鳴った。 吉岡が休みの時に電話して来るのは余程の事だ。 仕方なく、壱哉は携帯を取り出した。 「ちょっと待っていろ」 長くなると困るので、とりあえず部屋の外に出る。 吉岡の要件は、支社のひとつで、ちょっとしたトラブルが起きてしまい、現在建設中のビルに入る予定だった大口のテナントがキャンセルを言ってきたとの話だった。 直接行く、と喉まで出掛かったが、ひとまず、飲み込む。 自分で何事もやった方が気楽だから、今まで壱哉はワンマン経営だった。 必然的に、さして重要でもない事まで壱哉に指示を求めるような傾向になっていた。 しかし、グループが大きくなるに連れて、当然それでは回らなくなる。 だから最近では、現場で出来る事はなるべく現場にやらせる事にしていた。 壱哉は、支社と、すぐ向かえそうな場所のめぼしい人材を思い浮かべる。 「いい機会だ、支社に責任を持って解決させろ。交渉は‥‥‥」 壱哉は、頭に浮かんだ者達の名を口にする。 「‥‥そいつらに任せれば問題ないだろう。それでもこじれた時には俺が直接指示する」 それだけで、吉岡は壱哉の意図を酌み取ったようだ。 「状況が変わったら連絡しろ」 そう言って壱哉は携帯を切る。 自分から仕事を取ったら何も残らないのは確かだが、それでも、少しは仕事から離れる時間を取ろうと思っていた。 樋口と過ごす時間をもっと増やしたい、そんな気持ちもあった。 ひとつ、ため息をついて、壱哉は部屋に戻った。 「すまんな、待たせて‥‥‥」 言いかけた壱哉の言葉が止まる。 樋口が、ベッドで眠っていたのだ。 少々不自然な姿勢から見ても、座っていたベッドにそのまま倒れて眠ってしまったらしい。 電話していたのはそう長い時間ではなかったはずなのだが、その時間すらもたなかったのだから、やはり相当疲れていたのだろう。 「‥‥‥まったく‥‥‥」 ため息をついて、壱哉は隣りに座った。 いたずらでもしてやろうかと覗き込んだ寝顔があまりにも無防備で、かえってその気が削がれてしまう。 せっかく、熟睡しているのを起こしてしまうのも気が引けた。 何となく、顔を間近で見たくなって、壱哉も樋口と顔を付き合わせるような形でベッドに横になる。 行為の後に樋口の寝顔を見た事は何度もあるが、こうして見ると、何となく違う気がした。 樋口は一人でいる時、こんな顔をして眠っているのか。 そう思うと、訳もなくおかしくなる。 こんな風に顔を見ているだけでも飽きないのだから、惚れた弱味と言うのは呆れたものだと思う。 しかし、こんな時間も悪くはない。 壱哉は、そう思った。 ――――――――― 樋口の顔を見ているうち、眠ってしまったのだろうか。 携帯の音で、壱哉は目を覚ました。 目を開くと、同じく、目を覚ましてしまったらしい樋口の顔が間近にあった。 寝ぼけ眼が至近距離の壱哉を認め、驚いて、過剰反応な程うろたえている様子がはっきりと見て取れた。 もっと樋口の反応を観察していたい気持ちを振り払い、壱哉は立ち上がって携帯に出る。 吉岡からの連絡は、壱哉の指示通り、すぐ先方と対応させた結果、何とか事態は収拾出来たとの事だった。 《お手数をおかけしました。短いですが、休暇をごゆっくりお楽しみください》 吉岡の言葉に苦笑しつつ、壱哉は携帯を切った。 振り返ると、すまなそうな、そして少し不安そうな樋口の瞳にぶつかる。 「仕事‥‥忙しいのか?」 「いや。大丈夫だ」 壱哉の言葉に、樋口は俯く。 「ごめん‥‥壱哉、忙しくて疲れてるのに、俺の方が寝ちゃって‥‥‥」 申し訳なさそうな言葉に、壱哉は呆れた。 大体、樋口の方こそ、起きていられない程疲れていたのではないか。 「人の心配より先に自分の心配をしろ。俺よりお前の方が疲れてるはずだろう」 「でも‥‥‥」 「今日は俺が奢ってやる。旨いものを食って、ちゃんと寝ろ」 「うん‥‥‥」 やはり申し訳なさそうな顔をする樋口を、壱哉は引き寄せて、抱き締めた。 申し訳ない気持ちが強いのか、樋口はいつものように逆らわず、素直に壱哉の腕の中に納まる。 「ちゃんと寝不足を解消して、疲れも取って、それから、じっくり可愛がってやる」 「‥‥‥うん」 後半の台詞には少し赤くなって、樋口は小さく頷いた。 その可愛さに、このまま事に及びたい衝動に駆られるが、何とか堪える。 樋口が、まだぼんやりとした顔をして目を擦っているのを見て、壱哉はため息をついた。 「夕食まではまだ時間があるな。起こしてやるから、少し寝ろ」 そう言うと、驚いたような視線が見上げて来る。 自分が気遣うようのがそんなに意外なのかと、壱哉は少し傷付いた。 「壱哉‥‥‥何もしないよな?」 更に確認され、壱哉はもっと傷付く。 「埋め合わせは、後からしてもらうと言っているだろう。心配しないでさっさと寝ろ」 そう言いながら、抱き締めた腕を離さないのだから、樋口の心配も無理はないのだが。 「ホントに‥‥ごめんな‥‥‥」 言っているうち、口調が微妙に間延びしてくる。 小さく欠伸をした樋口は、もぞもぞと身動きした。 やはり、まだ相当眠いのだろう。 いくらも経たないうち、腕に掛かる重さが増し、小さな寝息が聞こえて来る。 本当に、自分の腕の中で眠ってしまった樋口に、壱哉は呆れた。 今まで、どれだけ無理をしていたのだろう。 自分の身体の限界も考えろと思う。 しかし同時に、こんな状態で眠ってくれるくらい信用されていると思うと、こそばゆいような、照れくさいような気持ちになる。 さすがに、こんな不自然な格好では気の毒なので、起こさないようにそっとベッドに寝かせてやる。 そして壱哉は、ベッド脇の椅子に座り、熟睡している樋口を何をするでもなく眺める。 数週間ぶりに会えたから、話をしたり、抱き締めていたいと思わない訳ではなかったが。 こんな風に、ただ眺めているだけでも気持ちが落ち着くのが、自分でも不思議だった。 本当に好きな人となら、何も言葉を交わさなくても、ただ側にいるだけで満足できるのだ。 そんな、柄にもない事を考え、壱哉は苦笑した。 こんな、静かな時間も悪くはない。 壱哉は、また、そう思った。 |
END |
たまには、穏やかな話もいいよね、と思った時に、ベッドで顔付き合わせた姿勢で寝ている二人が浮かびました。‥‥‥実際、壱哉様がこんなに可愛げのある言動を取るかどうかは微妙ですが。つーか、樋口を穏やかに見守らずにイタズラしそうな気もしないでもないけど。
ちなみに樋口が目を覚ましてから、
「壱哉‥‥おごってくれるのは嬉しいんだけどさ。もうちょっと、こう、安い店でいいんだけど」
「別に金には困らんが‥‥じゃあ、隣町の料亭にでも行くか?品評会で全国一になった牛が食えるらしいぞ」
「‥‥‥だから、そう言うんじゃなくてさ‥‥‥(壱哉が連れてってくれる店って高級すぎて、何食べてるかわかんなくなるんだよ‥‥)」
「それなら、食いたいものがあれば言ってみろ。松坂牛か?フォアグラか?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
なんてゆー会話が交わされたりなぁ、などと妄想しましたが、そこまでは書ききれなかったです。