優しい手
それは、いつもと変わらない週末。 相変わらず忙しい壱哉は、短い休暇を惜しむように樋口とベッドの中にいた。 「大変だよな、壱哉。いろいろ忙しいんだろうし」 中々休みの取れなかった壱哉を気遣ってか、樋口が心配そうな顔をする。 「確かに忙しいが。お前の顔を見れば疲れも吹き飛ぶさ」 壱哉は、樋口の背に腕を回し、引き寄せる。 滑らかで、張りのある肌と、ほんのりとしたぬくもりがとても心地良かった。 「うん‥‥俺も、ひさしぶりに会えて嬉しい」 やや照れたような顔で、樋口がそっと口付けてくる。 そのまま、耳元や首筋に、おずおずとした様子で落とされる口付けに、壱哉は苦笑した。 こんな事はもう数え切れないくらいなのに、樋口は、いつまで経ってもおそるおそる壱哉に触れてくるのだ。 だから、樋口の愛撫は一向に上手くならなかったりする。 しかし実際には、樋口に触れられているだけで心地良くて身体が熱くなって来るのだから、惚れた弱みと言うのは呆れたものだ、と壱哉は思う。 しかし、今日は少し違っていた。 いつもほど、樋口が触れて来ないのだ。 勿論、口付けてくれるし、優しく抱きしめてくれるのは変わらないのだけれど。 それなのに、身体に触れるのは本当に最低限、と言った感じで、壱哉は不審を覚える。 元々、愛撫と言う程のものではなかったものの、それでも、樋口があまり触れてくれないのはつまらない。 そのせいか、壱哉は、何となく距離のようなものを感じてしまった。 樋口の様子はいつもと何も変わらず、壱哉と会えた事を素直に喜んでくれているのだが。 何となく違和感を感じつつ、それでも壱哉は、甘い時間に身を任せた。 ――――――――― 身体を合わせる時以外は、樋口の様子は普段と何も変わらなかった。 いつものように一方的に他愛ない話をしているし、壱哉が少し相槌を打っただけでとても喜んで、更に話を続ける。 誘うような言葉でからかうと、耳まで真っ赤になって過剰反応してくれるのも何も変わらない。 しかし。 帰り際、壱哉は、樋口の顔を見詰めながら口を開いた。 「崇文。お前、何か俺に隠してる事があるだろう」 そう言った時の樋口の反応は、実に正直だった。 「へっ?!か、隠してるなんて、そんなの、全然、どこにも、何もないって!」 あらぬ方向に視線を泳がせながら、樋口はあからさまにうろたえた口調で答える。 「‥‥‥‥‥」 黙って睨み付けてやると、樋口は、視線を逸らしたまま、そわそわと髪をいじってみたり、顔に手をやったりして落ち着かない様子になる。 「‥‥‥そうか」 壱哉が引き下がると、樋口は、ほっと肩を落として安堵した表情になる。 本当に嘘のつけない奴だ、と思いつつ、一体何を隠しているのか、壱哉はとても‥‥いや、非常に気になっていた。 いや、気になるというより、気に入らない。 そもそも、樋口が自分に隠し事をする事自体が気に入らなかった。 少し誤魔化し笑いの混じった樋口の笑顔に送られて車に乗った壱哉は、家からは見えない場所で車を停め、携帯を取り出す。 「俺だ。手空きの調査員を数人、ここに向かわせろ。しばらく、崇文から目を離すな」 吉岡に指示を出し、壱哉は、仏頂面で再びハンドルを握った。 一週間後。 壱哉は、吉岡に無理矢理スケジュール調整をさせて、樋口の張り込みをしていた。 調査員からもたらされる報告は、どれも樋口が普段と何も変わらない生活をしている事を裏付けていた。 しかし、樋口が隠し事をしているのは確かなはずで。 何も出て来ないと言う報告は、かえって壱哉の疑惑を大きくしていた。 結局、調査員だけには任せておけず、自分で監視する事にしたと言う訳だった。 サングラスに黒スーツの青年を従え、暗色のスーツで物陰から向こうを伺う様子は、まるで犯罪者のようであった。 と、壱哉の表情が強張る。 視線の向こうでは、ある小さな店から樋口が出て来る所だった。 見送りに出て来た店員らしい若い女性と、樋口は楽しそうに話している。‥‥‥ように、壱哉には見えた。 「あぁ、ターゲットが時々行っている薬屋の店員ですね。ターゲットと同じ年齢ですが、既婚者で、夫婦生活は町内の噂になる程、熱々のようです。少し調べてみましたが、まず関係はないかと‥‥」 調査員の言葉の後半は、壱哉の耳には入らなかった。 店員の女性が、そっと樋口の手をとったのだ。 少し赤くなった樋口は、それでも、嬉しそうに女性を見詰めている。‥‥‥ように、壱哉には見えた。 「‥‥‥あの女か‥‥‥」 壱哉が、地を這うような声で呟いた。 樋口がおかしかったのは、彼女のせいなのだ。 きっと、彼女が色恋事に疎い樋口を誘惑して、ろくでもない事を吹き込んだ違いない。 壱哉の頭の中で、一瞬にして安っぽいドラマのようなシナリオが組み上がる。 一人で怒りに燃えながら見ていた壱哉の忍耐が切れる直前。 笑顔の女性に見送られ、樋口はこちらへと歩き出した。 「あ、社長?!」 慌てる調査員を尻目に、壱哉は樋口の前に立ち塞がった。 「い、壱哉?な、なんでここに?!」 全く予想していなかった相手に、樋口は目を丸くして固まってしまう。 「今、何をしていた?」 「は?え、み、見てたのか?!」 目に見えてうろたえる樋口に、壱哉は一層、疑惑と怒りを募らせる。 「あ‥う、ぁ、えっと‥‥‥」 ひとしきり、言い訳の言葉を考えていたらしい樋口は、諦めたのか、大きくため息をついて肩を落とした。 「‥‥‥ちゃんと説明するから、家に行こう」 そう壱哉を促して、樋口は家へと向かう。 その、がっくりとした様子が、壱哉の疑惑を更に裏付けてしまっているのも気付いていない。 後に残されたのは、引き続き樋口を監視すべきかどうなのか、深く悩んでいる調査員であった。 「‥‥‥で?言い訳はあるのか」 部屋で向かい合い、壱哉は樋口を睨み付けた。 怒りと不機嫌を露わにしている壱哉に、樋口はため息をついた。 「そりゃ、さ、変に隠してたりしたのは悪かったけど‥‥‥」 でも、そこまで怒られるような問題でもないのに、と口の中で呟く樋口に、壱哉の眉が吊り上がる。 「だったらお前、あの女と一体何をしていたと言うんだ?」 誤魔化しなど許すものか、と壱哉は樋口を睨み付けながら言った。 しかし。 「‥‥‥は?」 樋口の目が点になる。 「女、って‥‥‥」 壱哉の言わんとする事に思い至った樋口は、深いため息をついて額に手を当てた。 「壱哉‥‥まさか、俺が彼女と浮気してたとか、そんな事思ってたのか?」 呆れたような樋口の口調に、壱哉は戸惑う。 「あの人は薬のことに詳しいから、ちょっと相談に乗ってもらってただけだよ!」 以前、同級生と飲みに行ったとうっかり口走ってしまった為に、壱哉が変な勘繰りをした事を思い出す。 「大体、あの人は結婚もしてるし、俺とは何の関係もないんだ。店でしか話したことないし」 まだうさんくさそうな顔をしている壱哉に、樋口はさすがにむっとする。 「俺って、そんなに信用されてないのか?壱哉がいなくなったら、すぐ誰とでも浮気するとか、そんな風に思われてるのか?」 「そ‥それは‥‥‥」 怒ったような樋口の表情に、壱哉は口籠もる。 「‥‥別に、お前を信用していない訳じゃない。だが‥‥離れているから、すぐ心配になるんだ。大体お前、そんなに可愛い顔をしている上に、男好きのするいい身体をしているくせにに、自覚がないだろう?いつも無防備にしてるから、変な男にでも言い寄られていないか、心配なんだ」 大の男が、『可愛い』だの言われても全然嬉しくない。 と言うか、今までの人生で、男に言い寄られたのは壱哉が初めてなのだが。 「そんなこと言ったら、俺だって心配なんだぞ?お前こそ、格好いいから女の子とか黙ってないだろうし。若いのに社長だから、いろんな話とかあるのかなとか思うし。それに‥‥お前、吉岡さんといつも一緒じゃないか」 少し恨みがましそうな樋口の言葉に、壱哉はきょとんとした顔になる。 「女なんか、俺が気にするはずはないだろう。それに、どうしてそこに、吉岡が出てくるんだ?」 相変わらず鈍い壱哉に、思わず吉岡が気の毒になってしまった樋口である。 呆れた顔で深いため息をつく樋口に、全く意味が判っていない壱哉は面白くない。 「‥‥そもそも、お前が変に隠し事なんかするのが悪いだろう!だから余計、変な事を考えてしまうんだ!」 本当は壱哉が思い込みで突っ走ってしまったのが一番悪いのだが、負い目のある樋口は途端にシュンとなった。 「ごめん‥‥‥」 下を向いてしまった樋口に、壱哉はため息をついた。 「一体、何をやっていたんだ?俺には、言えない事だったのか」 樋口と喋ったおかげで、大分気持ちも落ち着いた壱哉は、極力、穏やかな口調で訊く。 「うん‥‥‥」 樋口は、上目遣いに壱哉を見上げた。 さっきの言葉ではないが、自覚していない可愛さに壱哉は目眩すら覚える。 「壱哉、呆れないか?」 「なに?」 樋口は、下を向いたまま、ぼそぼそと言葉を繋ぐ。 「俺‥‥土いじりとかして、手、すごく荒れてるだろ?だからさ‥‥こんな手で壱哉の身体にさわったりしたら、なんか、傷つけちゃいそうな気がして‥‥‥」 「なんだと?」 今度は、壱哉の目が点になる番だった。 その反応に、真っ赤になりながらも、樋口は続けた。 「だって、壱哉って結構、肌とか女の人みたいに白くてきれいだから、こんな手でさわっちゃダメだよなとか思って。俺、そう言う手入れとかは良くわかんなくて、薬屋でいろいろ聞いてたんだ。‥‥そんな細かいこと、やっぱり苦手で、結局、続かなかったけど」 そう言えば、少し前だが、樋口のガサついた手が肌を擦る感覚が少しこそばゆいと感じた事を思い出す。 特に嫌がるような反応をした覚えはないのだが、もしかすると樋口はそれを誤解したのか。 「‥‥本当に、お前は馬鹿だな」 「‥‥‥‥やっぱり、呆れてるだろ」 下を向いてしまった樋口の手を、壱哉はそっと握った。 「え‥‥い、壱哉?」 樋口が、戸惑ったように赤くなる。 握ってみると、壱哉のそれより大きく感じられる樋口の手は、薔薇の刺などで傷だらけだし、土や草の汁などの汚れがあちこち染みついてしまっている。 皮膚だって固くなっていて、ささくれ立っている所があるし、爪も割れたり欠けたりしている場所がある。 お世辞にも、『綺麗な手』とは言えない、けれど。 「俺は、お前の手は好きだぞ」 壱哉は、そっと、樋口の手を撫でた。 「お前の手は、生命を生み出し、育てている手だろう。机の上で、金のやりとりばかりしている俺には到底、できない事だ。そんなに素晴らしい手を、負い目に感じる必要なんかないだろう?」 壱哉は、愛しげに樋口の指に口付けた。 「なっ、な、なに‥‥‥」 壱哉の仕草がとても恥ずかしくて、樋口は耳まで真っ赤になる。 「馬鹿な事を気にするな。俺は、お前の何もかも、全部が好きなんだからな」 何となく、とても恥ずかしい事を言われている気がする。 どう答えればいいのか判らなくなっている樋口に、壱哉は苦笑した。 「そもそも、女でもあるまいし、肌なんかどうでもいいだろう」 「ぅ‥‥だって、壱哉の身体、傷とかなくてきれいだし。女の人みたいに色も白いだろ」 好きになってしまった欲目かも知れないが、今まで知り合った女性などよりも余程綺麗に思える。 「女などと一緒にするな」 壱哉は眉を寄せるが、大の男をつかまえて『可愛い』などと言うのと同じだと思う。 「だから、気にするなと言っているだろう?女と違って、しっかりした男の方が俺は好きなんだ。お前のガサガサした手も、少しくすぐったくて悪くないぞ。ほら、犬の舌とかガサついていて気持ちいいだろう?」 「‥‥‥‥‥‥」 壱哉は慰めているつもりなのかも知れないが、何故そこに犬が出てくるのか。 もしかして、壱哉にとって自分は犬と同レベルなのか? さっきはちょっぴり幸せだったのに、素直に喜べなくなってしまった樋口である。 複雑な顔をしている樋口をどう取ったのか、壱哉は少し苛立った顔になった。 「とにかく、お前が妙な隠し事をしたせいで、俺は仕事も放り出して来たんだ。その埋め合わせはしてもらうからな」 それは、自分が悪いのか? 確かに隠し事をしていた事は良くないと思うが、そもそも壱哉が信用してくれなかったのが悪いのではないか。 頭の片隅でそう思いつつも、壱哉のきつい視線に、口に出す事も出来ずに終わってしまう。 と言うより、座っていたベッドに押し倒されてしまって、考える余裕がなくなってしまったと言う方が正しい。 「あ、あの、埋め合わせって‥‥?」 「決まってるだろう。ベッドの上で他にやる事があるのか」 「だ、だってまだ昼間‥‥‥」 「うるさい。俺は忙しいんだ」 実は明日、力仕事になりそうな依頼が入っていて、あまり体力を消耗したくなかったりするのだが。 壱哉はいつになく積極的で、もう上着を脱ぎ捨てて、樋口のシャツを脱がせにかかっている。 そんな壱哉を前にしたら、自分も理性を飛ばしてしまいそうなのは見えていた。 またしばらくは会えないと覚悟していただけに、思いもよらず、間近で触れ合う事が出来たのだ。 「壱哉‥‥‥」 樋口は、壱哉の身体を抱きしめた。 「っ、おい‥‥!」 不意を突かれ、壱哉は樋口の胸に縋り付くような格好になる。 壱哉は気にするなと言ったけれど、働き過ぎなのかどうか、抱き締めた身体がとても華奢に感じられる時がある。 「‥‥気にするなって言われたけどさ。やっぱり、俺、壱哉のこと、大切だから‥‥‥できる限り、大事にしたいんだ」 そう言うと、何故か壱哉が赤くなった。 何か変な事でも言っただろうか、と樋口は首を捻る。 「‥‥まったくお前は‥‥‥」 少し赤くなりながら、壱哉は、樋口にそっと口付けた。 「吉岡に無理矢理時間を作らせたんだ。きっちり、つきあってもらうからな」 いつものように、偉そうに宣言して、壱哉は樋口を見下ろした。 しかし、少し赤くなっている壱哉の表情は、照れ隠しのように見えなくもなかった。 珍しいそんな壱哉の表情に、愛しさと、熱い欲情が突き上げる。 「‥‥うん。わかってる」 樋口は、壱哉を抱き締めた状態で身体を入れ替える。 「がんばる、から‥‥」 壱哉の首筋にそっと口付けながら、白いワイシャツの前を開いて行く。 樋口の愛撫は、相変わらず、全然上手くはなかったし、ザラついた手はやっぱりこそばゆかったけれど。 それでも、今日は樋口がちゃんと触れてくれる。 たったそれだけの事がとても嬉しいのだと、壱哉は思った。 |
END |
ヲトメです。樋口も壱哉様も。んでもってある意味、ベタ甘です(あくまでも、ウチのサイト基準)。
以前、ひぐちゃっとで樋口の手ってザラザラしてそう、とか言う話題が出た記憶があります。で、いい加減時効だよね?(←何が?)、と自分に呟いて書いてしまいました。
でもねー‥‥実際、樋口が(てか、一般的に男が)果たしてハンドクリームなんぞ買う気になるのかどーか。まぁ、「壱哉を守りたい!」って思うであろう攻め樋口なら、有り得ない事ないかなぁとは思いますが。
壱哉様が勝手に嫉妬するシチュエーションが同じなせいか、前回upしたものと部分的にかぶってたりしますが。つーか、何故最近はこんな話ばっか思いつくんだろう(実は嫉妬ネタがもう何本もあったり)。