償い


 それは、罪悪感と呼ぶのが一番近い感情だろうか。
 昔。
 何も知らずに、ただ表面ばかりを眺めて知ったようなつもりになっていたあの頃。
 幼稚、だったと思う。
 体も、心も、あらゆる意味で。
 無邪気に口にしていた言葉が、彼をどれだけ苦しめていたのか、全く気付かなかった。
 いや、心の片隅にでも、想像した事さえなかった。
 頭が良くて、スポーツも万能で、きっととても幸せなのだ。
 そんな、何の根拠もない思い込み。
 それは、十年ぶりにこの街で再会した時も同じだった。
 何の気なしに口にしたいくつもの言葉は、どれだけ彼を傷付けたのだろう。
 何も知ろうとしなかった自分。
 今は、彼と自分はとても近い関係になっているけれど。
 それでも‥‥いや、だからこそ、それは胸の奥に突き刺さった棘のように、折りにつけ、強い痛みを与えていたのだ。


 グループ企業のトップと言う立場上、壱哉は常に忙しい。
 土日は休むと決めているにも関わらず、突発的な打ち合わせや視察が入ったりして仕事になってしまう事も少なくない。
 しかし、壱哉程ではないにせよ、樋口もまた、忙しい日々を過ごしていた。
 あの薔薇が話題になるに連れ、樋口花壇の評判は上がっていた。
 花屋としての仕事ばかりではなく、育種家として講義の依頼が入ったり、マスコミなどの取材が入ったりするようになった。
 薔薇の育種に集中したいから、となるべく余計な仕事は断るようにしているが、それでも、古い契約先からの依頼は断りにくい。
 結果、樋口の方も、休みの日にまで忙しく出掛ける事が続いていた。
 必然的に、忙しい者同士、時間が合う事は難しくなっていた。
 そんな、ある日。
 壱哉は午後の予定がキャンセルになったのを幸い、樋口を訪ねていた。
 夜には帰らなければならなかったが、もう一ヶ月近く、電話でしか話していなかったから、直接会いたくてたまらなかったのだ。
 ここしばらく、仕事で色々面白くない事が続き、樋口に会いたい気持ちがとても募っていた。
 薔薇園を訪ねると、樋口は、いつものように泥だらけになって、薔薇の手入れをしている所だった。
 いつもと変わらないその姿を見ただけで、壱哉は嬉しくなった。
 しかし、壱哉に気付く事もなく、薔薇だけを見詰めているその横顔に、理由の判らない苛立ちのようなものが湧き出すのも感じる。
 しばらくして、樋口はようやく、壱哉の存在に気付いたらしい。
「あれ、壱哉‥?今日、平日なのにいいのか?」
 驚いたような表情が、何故か気に障った。
「休日以外に来ては悪いのか」
 絡むような言葉に、樋口は困惑した顔になった。
「そんなつもりで言ったんじゃなくて‥‥‥」
 困ったように俯く樋口に、後悔と苛立ちが湧く。
「少し時間が取れたから寄ってみたんだが。どうやら邪魔だったか」
 こんな事を言いたいのではない。
 直接樋口を見られたのは嬉しかったし、樋口が薔薇に打ち込むのは仕方のない事だと判っているはずだった。
 しかし、口を開けば、何故か憎まれ口しか出て来なかった。
「久しぶりに会いたいと思って来たんだが、お前は、薔薇さえあれば良かったんだったな」
 壱哉の言葉に、樋口の困惑は更に深まったようだ。
「壱哉‥‥なに、怒ってるんだ?すぐ気がつかなくて悪かったけど‥‥」
「別に怒ってはいない。ただ、お前にとっては、俺より薔薇の方が大切なんだろうと思っただけだ」
 樋口の顔が、辛そうに歪んだのを見て、壱哉の中には強い後悔が湧き上がる。
 しかし、謝ろうにも、どう言えばいいのか判らない。
 口を開けば、もっと樋口を追いつめてしまいそうな気がした。
 悲しそうに、それでも真っ直ぐに見詰めて来る樋口の視線が痛くて、壱哉は顔を背けた。
 そんな壱哉の反応をどう取ったのか、樋口が息を詰める気配が感じられた。
 唇を噛んだ樋口は、俯いて、近くのガラスハウスに向かう。
 そこから樋口が持って来たのは、小さなマッチ箱だった。
 ガラスハウスには、加温用の小さなボイラーがあるから、それに使うものだろうか。
「壱哉と‥‥薔薇を、比べるなんて、できない。でも‥‥‥」
 樋口は、まるで今にも泣きそうな、辛そうな表情で呟いた。
 マッチを擦る、乾いた音が酷く大きく聞こえた。
 樋口の指先で、あの時を思い出させるような真っ赤な炎が燃え上がる。
「また、壱哉を傷つけることになるなら‥‥俺は、もう‥‥‥」
 呻くように呟いた樋口の指から、燃え上がるマッチがゆっくりと落ちて行く。
 その下にあったのは、奇しくもあの薔薇だった。
 淡く優しい色の花弁が重なり合う、美しい花の上に、残酷な炎が落ちようとした時。
「――っ!」
 壱哉は、反射的に手を出して、燃えるマッチを受け止めていた。
 まともに炎にさらされた手の平に熱い痛みが走る。
「馬鹿っ、壱哉‥‥!」
 樋口が、慌てて壱哉の手からもう消えているマッチを払い落とす。
「馬鹿はお前だろう!」
 樋口の言葉に、壱哉は反射的に怒鳴っていた。
「壱哉‥‥‥」
「大切にしていた薔薇に、どうしてこんな‥‥‥」
 いや、樋口がこんな事をした理由など判っていた。
 壱哉の、ただの八つ当たりを真に受けたのだ。
「ごめん‥‥‥」
 樋口が俯く。
 違う。
 これだって八つ当たりだ。
 樋口が謝らなければならない事など何一つないのに。
「とにかく、手、すぐ冷やさないと」
「‥‥‥いい」
 壱哉は、手を握り締めて目を逸らした。
 短い時間とは言え、炎に触れた手の平は次第に突き刺すような痛みを感じ始めていた。
 しかし、不条理な八つ当たりで樋口を傷付けてしまった、その報いだと思えばこれでも足りないくらいだと思った。
 頑なな壱哉の様子に、樋口は険しい顔になる。
「よくない!やけどをそのままにして、いいわけないだろ!」
 もしかすると、初めて聞く樋口の怒った声。
 呆気に取られている壱哉の手を引いて、樋口は水道に連れて来る。
「ほら、とにかく冷やして」
 手を開かれ、冷たい水が流される。
 突き刺すような痛みは、水で冷やされるうち、次第に引いて行った。
「痛くなくなったからって、まだダメだからな。冷やすのをやめると、すぐまた痛くなるから」
 初めて聞くような強い口調に気圧されて、壱哉はおとなしく手を冷やし続ける。
 壱哉は色が白いから、火傷した場所は鮮やかに赤く見える。
 そんな手の平を、樋口は辛そうに見詰めた。
「‥‥‥ごめん。ケガ‥‥させちゃって」
「お前が謝る必要はないだろう」
 壱哉が手を出したのが悪いのだし、樋口があんな事をしたのだって、元はと言えば壱哉の言葉がきっかけだったのだ。
「でも‥‥‥」
「それよりお前、どうしてあんな事をしたんだ?」
 樋口にとって、薔薇は命よりも大切なもののはずだ。
 壱哉の言葉に、樋口は目を伏せた。
「‥‥‥薔薇は‥‥大切だよ。でも‥‥俺が薔薇を見ていることで、お前をまた苦しめるなら‥‥‥俺は、もう、薔薇を育てるのをやめる」
 辛そうに、しかし、はっきりと言い切った樋口に、壱哉は息を詰めた。
 樋口は顔を上げ、壱哉を見詰めながら言葉を繋ぐ。
「俺‥‥‥ずっと、お前に甘えてたと思うんだ。昔からずっと、お前のこと、何も知らないで、勝手なことばっかり言ってた。家のこととか、親父のこととか、すごく‥‥無神経だったと思う。そもそも、あの薔薇を完成させるのだって、お前のおかげでここまで来れたんだ。今も、俺がわがまま言って、ここで薔薇を作ってる。‥‥絶対に完成させたかったあの薔薇はできたし、お前が‥‥本当に嫌なんだったら、俺‥‥‥薔薇を作るのをやめる」
 壱哉を見詰める瞳の中には、罪悪感と気遣いと、壱哉に対する気持ちだけが見て取れた。
「崇文‥‥‥」
 甘えているとしたら、それは壱哉の方ではないか。
 全てを奪おうとした壱哉を、樋口は、笑って許してくれた。
 そして、壱哉が一番欲しかったものを――大切な人と想い合う暖かさを教えてくれた。
 こんな関係になるまで気付かなかったけれど、学生時代のあの時から、樋口はずっと、純粋な好意を向けてくれていたのだ。
 今も、壱哉が忙しくて中々時間が取れないのに、黙って待っていてくれる。
 壱哉が一方的な我が儘をぶつけても、困った顔をしながら、いつも受け止めてくれる。
 いつも、暖かい居場所と、優しい時間を与えてくれている―――。
 そんな樋口に、壱哉はどれだけ救われている事だろう?
「‥‥‥すまん、崇文」
 呻くような壱哉の声に、樋口は戸惑った顔をする。
「あんな言葉‥‥俺の、ただの八つ当たりだ。薔薇が‥‥嫌いな訳じゃない。薔薇を見てるお前が嫌いな訳でも、ないんだ」
「壱哉‥‥‥」
 嘘などつけない樋口の表情からは、壱哉が、樋口に気を遣っているのではないかと思っているらしい事が容易に読み取れた。
 ひとつ、息を吸い込んで、壱哉は言葉を継いだ。
「馬鹿な話だ。薔薇を見るお前が‥‥いや、俺は、薔薇に嫉妬したんだ」
「え‥‥‥?」
 樋口が、驚いたように目を見開いた。
「薔薇が、お前にとって本当に大切なものだと言う事はもちろん、わかっている。しかし‥‥お前に、あんな風に見てもらえる薔薇が羨ましいと思った。薔薇ではなく、俺を見てほしいと‥‥そう、思った‥‥‥」
 まるで、我侭な子どもが駄々をこねているようだ。
 自分で言いながら、壱哉はそう思った。
 いつもいつも、子どものような我侭ばかり言う壱哉に、樋口は呆れているだろうか。
 そう思った時。
「壱哉‥‥‥」
 樋口の手がそっと頬に添えられて、壱哉は息を詰めた。
 唇に、優しく、暖かいものが触れる。
 キスされたのだと気付いたのは、樋口の顔が離れた後の事だった。
 少し、照れくさそうな顔をして、樋口が笑う。
「いろいろ、気にさせちゃってごめん。でも‥‥ちょっとだけ、嬉しいかな」
 樋口の言葉の意味が判らなくて、壱哉は戸惑う。
「壱哉って、大会社の社長だし、ちっちゃな園芸家なんかとは全然違う世界にいるだろ?俺の知らないところで、いろんな人に囲まれてて。そしたら、もっと好きな人とかできてもおかしくないよなとか、そんなこと、考えてたりしてさ。俺、壱哉にはあんまりつりあわないし。だから‥‥やきもちとか、そんなの、壱哉には関係ないと思ってたんだ」
 樋口は、何を馬鹿な事を言っているのだろうと思う。
 何十人の人間に囲まれていても、会いたいと、心の底から思うのはたった一人だと言うのに。
「‥‥俺が好きなのは、いつでも会いたいと思うのは、お前だけだ。わからないか」
「‥‥わかってる。ありがとう」
 はにかんだように笑って、樋口は、また、そっとキスをしてくれた。
「こんなこと考えてるのは馬鹿みたいなんだけど。でも‥‥吉岡さんとか、いつも一緒だろ?」
「‥‥‥どうしてそこに、吉岡が出てくるんだ」
 眉を寄せる壱哉に、樋口は、今度こそ呆れた顔をした。
「壱哉‥‥本当に気がついてないのか?」
「だから、何をだ」
「‥‥‥‥‥」
 本当に呆れたようにため息をつく樋口の反応が、何となく面白くない壱哉である。
「あ‥‥そろそろ手、いいかな」
 何か言ってやろうと思った矢先に、樋口は、跪くようにして、ずっと水で冷やしていた壱哉の手を取る。
「ケガさせちゃってこんなこと言うのは何だけど、壱哉、薔薇を守ろうとしてくれたんだよな。正直‥‥すごく、嬉しい」
「崇文‥‥‥」
 嬉しそうに笑う樋口の表情がとても眩しすぎて、壱哉は目を伏せた。
 樋口の身体を担保に借金をさせていた時、もしかすると、壱哉が薔薇園に火を点けていたかも知れないのだ。
 それに、さっきの事だって、樋口にあんな事までさせる程、追い詰めたのは壱哉だった。
 じわじわとまた痛み始めた手の平以上に、壱哉は、胸の奥が痛むのを自覚した。
 そんな壱哉の横顔をどう取ったのか、樋口は、慌てたような様子で立ち上がった。
「まだ病院開いてる時間だから。すぐ、行こう」
「別にこんなもの‥‥‥」
「ダメだって!傷が残ったら大変だろ?それに、吉岡さんにも申し訳ないよ」
 だから、どうしてそこに吉岡が出て来るのだろうか。
 未だに不思議に思う壱哉である。
「壱哉、何時までに帰らなきゃならないんだ?」
「あぁ‥‥夜には戻る予定だった」
「そっか。じゃ、すぐ俺の車で病院行こう。今、支度してくるから」
 樋口は、急いだ様子で母屋へと戻って行く。
 午後の短い時間とは言え、ずっと樋口といられそうなので、これはこれでよかったのかも知れない。
 そんな事を思う壱哉であった。


 ちなみに。
 連絡を受け、迎えに来た吉岡に、とってもきつい視線で睨まれた樋口が震え上がったとか、その後しばらく、何故か急ぎの仕事が山積みになって壱哉は樋口に会いに行けなかったとか、そんな些細な出来事があったのはまた別の話である。


END

top


壱哉様、ここまで無茶を言ったりしないと思うし、樋口は絶対にこんな事しないと思います。えぇ。
でもねぇ、ふと、薔薇に、辛そうにマッチ落とす樋口が浮かんだのですよ。あ、これって樋口が、壱哉様のやきもちにまだ被害を受けてない時って事で。