愛犬


 薔薇園の片隅。
 一番日当たりが良くて、綺麗な薔薇が咲いている場所。
 今日の作業を終えた樋口は、その前に立った。
「‥‥‥サンダー‥‥‥」
 一年前の今日。
 サンダーが死んだ日。
 あれから、いろいろな事があった。
 一度は、この薔薇園を失いそうにもなった。
 けれど、今はあの新種も完成し、薔薇園の経営は順調に行っている。
「お前の‥‥おかげだよ、サンダー‥‥‥」
 サンダーには、とても助けられたと思う。
 ずっと薔薇園を守ってくれた。
 そればかりか、父を亡くした後、ずっと共にいて支えてくれた。
 その上‥‥‥。
 ふと、気配を感じて、樋口は振り返った。
 その場に立っていた相手があまりにも意外で、目を見開く。
「黒崎‥‥‥」
 思わず、目を擦ってしまう。
 そんな樋口の様子に苦笑して、壱哉はゆっくりと歩み寄って来た。
「なんで‥‥今日、平日だろ?」
「命日、だろう、今日は。この前来た時、そう言っていたろう?」
「あ‥‥‥」
 そう言えば、先月壱哉が来てくれた時、カレンダーの印の事を訊かれたのだ。
 その時に、サンダーの命日だと言った覚えがある。
 本当は一緒にいて欲しかったけれど、平日だから無理だろうと思って、特に来て欲しいとは言わなかった。
 しかし壱哉は、忙しいはずなのにわざわざ時間を取って来てくれたと言うのか。
「ごめん‥‥‥ありがとう」
 申し訳なくて、でも嬉しくて、樋口は目を伏せた。
「樋口‥‥これで、頼む」
 あの時と同じように、抜き出された紙幣。
「うん‥‥待ってて」
 それを受け取って、樋口は店に戻る。
 あの時と同じように、明るい色を散りばめた大きな花束を作る。
 サンダーを共に看取ったあの日も、金で表す事しか知らない壱哉の気持ちを感じながら、花束を作った。
 花束を持って行った時、もう帰っていると思っていたのに、壱哉はサンダーの墓の前で待っていた。
 樋口の顔を見て、慌てたように立ち去ってしまったが、壱哉の不器用な優しさに触れて胸が熱くなった事を覚えている。
 抱える程に大きな花束を手に、樋口はサンダーの墓の前に戻った。
 どこか複雑な表情で墓を見下ろしていた壱哉が、顔を上げる。
 花束を供え、樋口は壱哉と肩を並べて墓の前に立った。
 しばし、二人とも無言だった。
 淡い薔薇の香りを含んだ風が、二人の間を静かに吹き抜ける。
「サンダーは、さ‥‥」
 最初に口を開いたのは樋口の方だった。
「ずっと、この薔薇園を守ってくれたんだ。前に、台風が来た時にも、嵐の中で、ずぶ濡れになっても一緒に守ってくれた‥‥‥」
 樋口の、どこか遠くを眺めているような横顔を、壱哉は見詰めた。
「覚えてるか?あのビルを建ててた時。散歩してたら、サンダーがいきなり走り出したんだ。もう年寄りで、走る事なんてほとんどなくなってたのに。それで、慌てて追いかけたら、お前にじゃれついてた」
「‥‥‥あぁ」
 樋口を手に入れる為に『契約』を持ちかけた少し後の事だ。
 街を歩いていたら、年寄りの犬がじゃれついて来た。
 追い払おうと思ったのだが、それがあのサンダーだと聞かされて驚いた事を覚えている。
「借金の事とか言われた時、お前、本当に変わったと思った。けど、お前がサンダーの事を覚えててくれた時に、やっぱり、昔と同じ黒崎なんだ、って思ったんだ。だから‥‥昔みたいに話せた」
「‥‥‥‥‥」
 そう言えば、サンダーがじゃれついてきたあの時から、樋口は普通に話し掛けてくるようになった気がする。
「サンダーが死ぬ時も‥‥黒崎、偶然来てくれたよな。俺一人でサンダーを送ってやるつもりだったけど、でも、黒崎がいてくれて‥‥すごく、心強かった」
 樋口が、悲しそうな、寂しそうな、でも懐かしげな、そんな不思議な表情になる。
「なんかさ‥‥‥サンダーが、俺と薔薇園の事、心配して、黒崎と引き合わせてくれたような気がするんだ‥‥」
 サンダーは、死ぬ間際まで、独りぼっちで残される樋口を気遣ってくれたのではないか。
 そんな思いにさえ囚われる。
 この薔薇園を守れたのだって、壱哉と気持ちが通じ合ったからこそだ。
 あの日、サンダーが壱哉と話すきっかけを作ってくれなかったら、今、この時間はなかったかも知れない。
「そう言えば、黒崎と友達になれたのだって、黒崎が拾ったサンダーを俺が連れて帰った時からだったよな」
「‥‥‥‥‥」
 あの、雨の日。
 捨てられた子犬を見ていられずに拾ったものの、どうしたらいいか困っていた時に樋口に声を掛けられた。
 あの時、壱哉には初めて、『親しい』と呼んでもいい存在が出来たのだ。
 樋口は、僅かに潤んだ目で、しかし幸せそうな表情で壱哉を見上げた。
「サンダーと、黒崎に会えたおかげで、俺‥‥今、こうしていられるんだと思う。それに‥‥‥」
 樋口は、一旦言葉を切って、少し照れたように目を伏せた。
「会いたいと思ってた時に、また、サンダーが会わせてくれた‥‥‥」
 俯いた樋口の横顔が少しだけ赤くなっているのを認め、壱哉の胸が高鳴る。
 そう、もう一ヶ月。
 壱哉が忙しかったせいで、電話で話す事さえろくに出来なかった。
 本当は今日も忙しかったのだが、サンダーの命日だと聞いた事を思い出し、強引に時間を取ってここに来たのだ。
「樋口‥‥‥」
 気付けば、壱哉は樋口の肩を抱き寄せていた。
「く、黒崎?!こ、こんな所で‥‥‥」
 じたばたと慌てる樋口に構わず、抱き締める。
「俺だって‥‥お前達に会えたおかけで、今、こうしていられるんだ‥‥‥」
 壱哉の呟きに、樋口の動きが止まる。
 あの日、サンダーを目に留めなければ、樋口と言葉を交わす事もなかった。
 樋口と、『友達』になっていたからこそ、この街で再会して、今の時間がある。
 大切な人に出会えて、こんなにも、幸せな時間がある‥‥‥。
 壱哉は、樋口にそっと口付けた。
 いつもとは違い、触れるだけの軽いキス。
 それで抑えておかなければ、歯止めが利かなくなってしまいそうだった。
「‥‥‥すまん。今日は、もう行かなければならないんだ」
 吉岡に無理を言って作らせた時間はほんの僅かだった。
 壱哉の言葉に、樋口は頷いた。
「うん。‥‥そんなに忙しいのに、来てくれてありがとう。本当に、嬉しかった」
 樋口は、まだ照れたように頬を赤らめながらも、笑みを浮かべた。
 少なくとも、無理をしているようには見えないその表情に、壱哉は苦く笑った。
 会えなくて寂しいのは樋口だって同じはずなのに、気を遣わせてどうするのだろう。
「今のプロジェクトに目処がついたら、少しは時間が取れる。その時は、嫌だと言っても一日中離さないからな」
 壱哉の言葉の裏にあるものに気付いたのか、樋口は耳まで真っ赤になった。
 その時、焦れたかのように携帯が鳴る。
 ワンコールで切れたそれは、忠実な秘書のせめてもの心遣いなのだろう。
「‥‥じゃあな。また、来る」
 後ろ髪を引かれるのを感じつつ、壱哉は言った。
「うん。体とか、気をつけて」
 樋口は、笑顔で壱哉を送り出す。
 足早に消えた壱哉の後姿が消えると、樋口はサンダーの墓に視線を戻した。
 大きな花束の中で、サンダーソニアの花が静かに揺れる。
「ありがとうな、サンダー。これからも‥‥俺、がんばるから」
 樋口は、サンダーに誓うように言った。
 どこかで、懐かしい鳴き声が聞こえたような気がした。


END

top


「人(?)の墓の前でいちゃつくなっっ!(byサンダー)」
サンダーの命日に壱哉様が訪ねて来るだけの話だったはずなのに、何となくいちゃらぶっぽくなってしまったなぁ。更新月日とかを眺めていたら、幸せEDの樋口を書くのは久しぶりだなぁと思ってしまった。