『今日』と言う日
〜another side〜
「明日一日、休暇をやる。たまに家にでも帰ってこい」 壱哉の言葉に、忠実な秘書は驚いた顔をした。 「しかし‥‥‥」 「一日ぐらい、俺一人でも何とかなる。‥‥‥少し、一人になりたい気分なんだ」 「‥‥‥わかりました」 吉岡は、彼にしては珍しく、不満げな表情を見せながらも一礼した。 「何かありましたら、ご連絡いただければ、すぐに戻りますので」 「あぁ。わかってる」 そして、今日の朝、吉岡は心残りな様子で、実家へと帰って行った。 六月六日。 関わる者を次々と不幸にして行くような、こんな人間の生まれた日。 幼い頃から、この日にはろくな思い出がなかった。 息子の誕生日を祝いながら、その向こうに愛する男の面影を見ていた母。 その母は、偶然、男が来る日と重なった時、息子の誕生日の事を綺麗さっぱり忘れてしまっていた。 長ずるに従って、壱哉に取り入るつもりなのか、不快な追従だの下心しか感じられない品を贈られるようになって、更にこの日の印象は悪くなった。 だが、壱哉に人生を狂わされた一番の人間であるはずの吉岡は、こんな日でも、毎年控えめに祝ってくれた。 何かを贈ってくるような事はなかったが、その周辺は何とかスケジュールを都合して、あまり仕事が集中しないようにしてくれた。 そして、心尽くしの手料理を振舞ってくれたり、雰囲気のいい店に連れて行ってくれたりしたのだ。 しかし、今年。 吉岡が同じようにしてくれるつもりである事を承知で、壱哉は休暇を与えた。 そして、壱哉は、一人で残された。 いや‥‥違う。 地下室に、樋口が残っていた。 壱哉に全てを奪われ、金で買われた『モノ』に成り下がった人間が。 あんなに嫌がっていた園芸家と言う道を自分の意思で選び取り、『夢』だとさえ言っていた樋口。 夢だの、友情だのと言うものは、金と言う絶対的な力の前では何の意味も持たない。 信じていた相手に裏切られ、人間以下の、獣か物のように扱われ。 どんなに辱められ、貶められても、莫大な借金を背負った身では、逃げる事すら出来ない。 樋口は、勝ち目のない賭けに敗れた、愚かな敗北者でしかないはずだった。 時には怒りを籠めて、或いは縋るように自分を見る視線が愉快で、しかし時折苛立ちを覚えた。 そして、その時の気分の赴くままに嬲り、苛むのが常だった。 「‥‥‥‥‥‥」 何故だろう。 昨夜抱いたばかりだと言うのに、樋口の事が頭から離れない。 「ふん‥‥‥」 向けられる信頼を平然と裏切り、周りに不幸を撒き散らす自分。 こんな人間の生まれた日なのだから、それにふさわしく、哀れな獲物との時間を過ごすのは悪くない考えだった。 好意などではなく、敵意や、憎しみ。 それを向けられる方が、自分の誕生日には似合いのような気がした。 地下室に下り、扉を開けると、気怠げに体を起こした樋口が驚いた顔をするのが判った。 そう言えば、買ったばかりの頃とは違い、最近は数日、時には一週間に一度程度しかここには来なかった。 仕事が忙しいのは勿論だが、行為に慣らされた身体を持て余し、憎いはずの壱哉にも縋るのが滑稽で、わざと間を空ける事もあったのだ。 呆然と見上げる樋口の腕を掴んで引き寄せ、口付ける。 何故か、いつものように苛む気にはならなかった。 昨夜も抱いた体を組み敷いて、何度も貫いた場所を指で弄る。 慣らされた場所は柔らかく、しかし強く指を喰い締めてくる。 壱哉の指に合わせて不規則に締め付けて来る体内を更に刺激すると、樋口の身体がどんどん熱くなって行くのが判る。 「っ、あ、黒崎‥‥っ!」 樋口が、掠れた声を上げた。 既にその股間のものは限界まで張り詰め、夥しい先走りを溢れさせている。 いつもなら、泣いて許しを乞うまで焦らし、その様子を嘲笑うのに。 そんな気にもならず、壱哉はそのまま、欲望を遂げさせてやった。 いつものように嗜虐的な気持ちにならない自分を自分で不思議に思いながらも、壱哉は樋口を抱いた。 既に知り尽くしている、弱い場所に指を這わせるだけで、樋口は甘い声を上げて身悶えた。 愛しい、とさえ形容出来るような感情が湧き上がってきて、壱哉は戸惑った。 今日と言う、意味のない――しかし、一年に一度しかない日が、自分の感情を不安定にさせているのだろうか。 けれど、樋口にとってみれば、壱哉はただ自分を陵辱する存在でしかない。 甘い吐息も、熱に潤んだ瞳も、快楽による身体的なものであって、『壱哉』に向けられているものではない。 金で縛られ、飼い慣らされて従順になっているが、樋口は心の中でずっと壱哉を憎んでいるはずだ。 今更考えるまでもないその事実が、何故か今日は胸に突き刺さる。 何度も煽り立てられ、半ば力の抜けた樋口を仰向かせると、朦朧とした瞳が見上げてきた。 「くろ‥さき‥‥」 掠れた吐息のような言葉は、普段なら扇情的に感じて嗜虐心を煽られるはずだった。 しかし今日は、同じ言葉が酷く壱哉の胸を締め付けた。 「くろ‥‥‥」 もう一度、その声を聞くのが耐えられなくて、壱哉は唇を奪って黙らせた。 軽く突き上げると、綴られるはずだった言葉は熱い喘ぎの中へ消える。 向けられていた瞳が逸らされて、寂しいような気持ちを感じてしまった自分に戸惑う。 ふと‥‥‥樋口の瞳が見上げてきた。 いつものような怒りも、やりきれない切なさも、快楽に負けて縋る色もない。 ただ、深い、深い色をした瞳が、真っ直ぐに向けられている。 そして。 「黒崎‥‥‥」 「!!」 ゆっくりと、背中に回された腕に、壱哉は息を呑んだ。 そのまま引き寄せられ、そっと唇が合わせられる。 僅かに触れるだけのそれは、初めての、強いられた訳ではない樋口からの口付けだった。 ――――――――― 何度も煽り立てられ、欲望を吐き出した樋口は、意識を失い、俯伏せに眠っている。 ここに来る前は、こんなに苛む気はなかった。 ほんの気紛れに、僅かの時間、ここで過ごすだけのつもりだったのに、気付けば樋口が気絶するまで貪ってしまったのだ。 汗で額に張り付いた前髪を、壱哉はそっとかき上げてやった。 今日なら――今なら、少しは穏やかに、触れる事が出来そうな気がした。 前髪をかき分けると、疲れ切り、僅かに眉を寄せた横顔が露わになって、理由もなく胸苦しくなる。 「‥‥‥‥‥」 壱哉は、さっきまでの行為を思い出す。 今まで、樋口の手は、抗うように、或いは縋るように壱哉の肩を掴んでいただけだった。 それなのに、今日は一度だけ、樋口の腕が壱哉の背中に回された。 あの時の感触が、まだ背中に残っているような気がする。 そして、初めての、樋口からの口付け。 全てを包み込むような深い色をした瞳を思い出すと、訳も判らず息苦しくなった。 何故、樋口はあんな事をしたのだろう。 樋口にとっては、今までと何も変わらない、ただ陵辱されるだけの時間でしかないはずなのに。 「まさか‥‥な。そんな事‥‥‥」 有り得るはずはない。 樋口は、壱哉の誕生日など知らない。 学生時代に話したかも知れないが、そんな事を覚えてはいないだろう。 いや、万が一覚えていたとしても、それは樋口にとって何の意味もない日だ。 むしろ、もしこの日がなかったら、樋口がこんな境遇に陥る事もなかったのだ。 だが、それなのに。 「樋口‥‥‥」 壱哉は、樋口の柔らかな髪をそっと撫でた。 自分は、一体何を期待してこの部屋に来たのだろう。 吉岡を遠ざけてまで樋口と共に過ごそうとした自分の求めたものが、自分でも判らなかった。 けれど。 自分は、今日の事を決して忘れないだろう。 六月六日。 今日は―――特別な日なのだから。 |
END |
本当は、メインの話の中でここまで書ききらなきゃならないのは判ってるんですが。
しかし、メインよりこっちの方がエラく時間かかりました。てか、本編より時間が掛かってる時点で『おまけ』の趣旨から外れてる気が‥‥‥。