会いたい…


 咲き乱れる薔薇達の間を吹き抜ける風が、柔らかい香りを運んでくる。
 気持ちを穏やかに落ち着かせてくれるその優しい香りは、しかし、今の樋口の心を癒してはくれなかった。
「壱哉‥‥どうしてるのかな‥‥‥」
 樋口は、もう何度目か判らないため息をついた。
 壱哉は、仕事の方が忙しいらしくて、もうひと月近く顔を合わせていない。
 電話で話したのも一週間以上前だった。
 どうしても時間が取れないと詫びる壱哉に、無理はしなくていいと笑って言ったけれど。
 でも本当は、今すぐにでも会いたかった。
 思いが通じ合ってから、こんなに長く会わないでいるのは初めてで。
 ふと気が付くと壱哉の事を考えていて、ぼんやりしている事が多くなった。
 考えていたからと言って、壱哉に会える訳ではないのに。
 どんなに壱哉の事を思い描いても、この寂しい気持ちが消える訳ではないのに。
 壱哉の電話が最後にあった日から十日目の夜。
 とうとう我慢出来なくなって、樋口は携帯電話に手を伸ばした。
 せめて、一言だけでも壱哉の声が聞ければ、この寂しさは軽くなるのではないか。
 そう思った。
 電話が呼び出し音を伝えてくると、樋口の頭は徐々に冷えて行った。
 壱哉から連絡をして来ないと言う事は、相当忙しいのだろう。
 まだそう遅くはない時間だけれど、もしかすると壱哉は疲れて早くから眠っているかも知れない。
 それを、この電話が起こしてしまったとしたら?
 或いは、壱哉はまだ仕事をしている最中かもしれない。
 必死に頑張っている壱哉を、何の用事もない自分の電話が邪魔してしまったら?
 今頃それに思い当たって、電話を切ろうとした時。
《崇文か?》
 電話が繋がると、ずっと聞きたくて仕方がなかった声が流れてきた。
 しかし。
「‥‥‥‥‥」
 自分はバカだ。
 壱哉の声を、こんな耳元で聞いてしまったら、もっと我慢出来なくなってしまうではないか。
《崇文‥‥?》
 着信で相手が誰かは判っているのだろうが、黙ったままの樋口に、壱哉が怪訝そうに声を掛けてきた。
「あ‥‥の‥‥‥」
 今すぐ会いたい。その言葉を、樋口は必死に飲み込んだ。
「‥‥仕事‥忙しいんだろ?ちゃんと‥‥寝てるか?」
 何とか取り繕う言葉を探しながら、樋口は必死に、何もなかったような声を作る。
《あぁ‥‥俺が倒れる訳には行かないからな。気をつけている。大丈夫だ》
「そ‥か‥‥」
 少なくとも、壱哉の口調からは無理をしている様子は感じられず、樋口は胸を撫で下ろした。
《ずっと行けなくてすまない。だが‥‥》
「あ、もう、夜、遅いもんな。ごめん、壱哉のことが心配で電話したんだ。邪魔してごめん。もう、切るよ」
《おい、崇文‥‥》
 壱哉の言葉を最後まで聞かず、樋口は電話を切った。
 耳元で、気遣う言葉など聞かされたら、我慢できなくなってしまう。
 すぐに会いたいと言って、壱哉を困らせてしまいそうだった。
「‥‥‥‥‥」
 樋口は、大きなため息をついた。
 のろのろと携帯を置くと、樋口は布団に身体を投げ出した。
『崇文‥‥?』
 本当に久しぶりに聞く事が出来た壱哉の声を思い出す。
「壱哉‥‥‥」
 会いたい。
 声を聞いてしまった事が、寂しさをこんなに募らせてしまうなんて思わなかった。
 樋口は、半ば無意識に、下に手を伸ばしていた。
 スラックスと下着を押し下げて、まだうなだれたものを手で包み込む。
 半ば乱暴に扱き上げると、快楽に慣れたものは簡単に勃ち上がってくる。
「いち、や‥‥‥」
 樋口は、両肘を突いて獣のように這った。
 もどかしげに、自分の中へ指を差し込む。
「んっ、く‥‥‥」
 壱哉がいつもするように、自分の中をかき回す。
 爛れた快楽が全身を包み込み、樋口はどこか切なげな顔で呻いた。
 イけないのだ。
 どんなに刺激しても、達する事が出来ない。
 自分を犯す指を壱哉のものなのだと思い込もうとしても、結局、頭のどこかで、ここにいるのは自分一人なのだと冷たい声が囁く。
 どんなに自分を煽り立てても、胸の内の空しさと寂しさだけが大きくなって、昂ぶりはすぐに消えてしまう。
 苦しくて、切なくて、毎晩のように自分のものに手を伸ばすのだが、結局、達する事も出来ず、空しさだけが残るのだ。
 そして、今夜も結局、樋口は達する事が出来なかった。
「壱哉‥‥‥」
 会いたい、と、その言葉は口の中で呟く。
 声にしてしまったら、きっと、もう我慢出来なくなってしまうと思うから。
「壱哉‥‥‥」
 目を閉じると、愛しい、しかし今は酷く遠い面影が甦る。
 今夜も、長い夜になりそうだった。


 翌日。
 今は薔薇もあまり手が掛からない時期で、軽く見回って水でもやれば、朝の仕事は終わってしまう。
 樋口は、薔薇園の一角、まだ花も持たない小さな苗木達の前にしゃがみこんだ。
 壱哉をイメージした薔薇。
 交配を始めたばかりだから、まだ、頭の中にあるイメージには到底届かないだろうけれど。
 でも樋口は、寂しい時には、ついここに来てしまっていた。
 ここのところ、値段や釣銭を間違ったり、ちょっとしたミスが増えている気がする。
 近所のおばさんにも、ぼんやりしていると言われてしまった。
 壱哉にしばらく会えなかっただけで、まるで、心の中にぽっかりと穴が空いてしまったようだ。
 どんなに離れていたとしても、壱哉とは、いつかは会える。
 父やサンダーと別れた時とは違う。
 それは判っているけれど、どうしても寂しくてたまらなくなる時がある。
 壱哉と再会する前には、こんな気持ちを感じた事はなかったのに。
 自分自身、自覚すらしていなかった恋。
 叶うはずはなかったそれが、思いも寄らず手に入った。
 だからこそ‥‥自分は、それにしがみついてしまっているのかもしれない。
「はぁ‥‥‥」
 無意識に、ため息が漏れる。
 自分は、本当に我が儘だと思う。
 父から受け継いだこの場所で、たくさんの人に愛されるような薔薇を育てて行く、その道を選び取ったのは樋口自身だ。
 そんな樋口を、壱哉は黙って好きにさせてくれている。
 社長業で忙しいのに、何とか時間を作ってここまで会いに来てくれる。
 自分が選んだ道を後悔してはいないけれど、壱哉に負担をかけている事にだけは、胸が痛む。
 せっかく壱哉の時間が取れたのに、樋口の予定が入っていて会えなかった事だって一度や二度ではないのだ。
 だから‥‥‥いくら寂しくても、自分は我慢しなければならないと思う。
「壱哉‥‥‥」
 その名を呼ぶだけで、胸の中に熱い想いと切なさが広がる。
 でも多分、自分が壱哉に依存している程には、壱哉の中で樋口が占めている割合は大きくないのだろう。
 ならば、せめて、壱哉の足を引っ張らない事。それが唯一、樋口に出来る事だった。
「壱哉‥‥‥」
 会いたくて、仕事も手につかないなどと知ったら、壱哉は呆れるだろうか。
 壱哉は、仕事には、とても真面目で厳しいから。
 もう一度、ため息をついて樋口は立ち上がった。
 店の方に行こうと振り返った時。
「崇文‥‥‥」
 そこに立っている長身の影に、樋口は目を疑った。
 今の今まで考えていた相手が目の前にいる、それがとっさに信じられなかった。
 思わず目を擦っている樋口に、壱哉は苦笑した。
「夢や幻じゃないぞ」
 笑いを含んだ、耳に心地よい声。
 これは現実なのだと、樋口はようやく認識した。
 しかし、嬉しさと困惑とで、とっさにどうしたらいいのか判らない。
 固まっている樋口に、少し呆れた顔をした壱哉は、大股で歩み寄った。
 強く抱き締められ、樋口の頭の中は真っ白になる。
 現金な事に、それだけで、今までの不安や迷いが跡形もなく消えてしまったのが自覚出来る。
 黙って肩に頭を預けてくる樋口を、壱哉は愛しげに見詰めた。
 何も考えず、ずっとこうしていたい‥‥そんな気持ちを堪えて、樋口は壱哉から身を離した。
「壱哉‥‥今日は平日だろ?なんで‥‥‥」
 樋口の言葉に、壱哉は苦笑した。
「あんな、泣きそうな声で電話をかけて来たくせに、何を言っている」
「え‥‥‥?」
 覚えがなくて、樋口は目を見開いた。
「ゆうべ。電話をしてきたろう」
「う、うん。でも‥‥‥」
 別に、泣きそうになった事はなかったはずだ。
 不思議そうな樋口に、壱哉は僅かに唇の端を上げた。
 昨夜の電話、実際に泣きそうな声だった訳ではない。
 しかし、言葉を選んで話しているような樋口の声が、何故か辛そうに聞こえた。
 何の変哲もない言葉が、寂しい、会いたい、そう言っているように聞こえたのは、決して、壱哉の自惚れではなかったはずだ。
 今すぐにでも飛んでいって抱き締めたい。
 そんな衝動を堪えるのが大変だった。
「ごめん‥‥俺が、変な電話かけちゃったから、来てくれたのか?‥‥‥仕事の邪魔しちゃってごめん‥‥‥」
 うなだれる樋口に、壱哉はため息をついた。
「お前のためだけじゃない。俺だって‥‥お前に会いたくてたまらなかったんだ」
 もう一度、樋口を強く抱き締める。
「ずっと、連絡もしなくて悪かった。だが‥‥電話なんかしたら、すぐにでも会いたくなって、仕事を放り出してしまいそうだったから、できなかった」
「壱哉‥‥‥」
「会いたかった‥‥崇文」
 吐息のような声が耳をくすぐり、樋口の心臓が跳ね上がる。
 甘い熱が背筋を駆け下りて、全身に広がって行くようだ。
 と、樋口は、自分の体の変化に気付く。
「っ、ごめん、壱哉、ちょっと離れて‥‥‥」
 樋口は、反射的に壱哉の体を押し返してしまった。
 その態度にちょっとむっとした壱哉だが、樋口が耳まで真っ赤にして、何やらもじもじしているのを見て、その理由に気付く。
「せっかく会えたのに、それはないだろう?」
 壱哉の口調に、ほんの少し、意地の悪い響きが加わる。
「そ、そういう意味じゃなくて‥‥っ、ん‥‥‥」
 再び、強引に抱き寄せられ、唇を奪われる。
 壱哉に会えた嬉しさが、もうずっと満たされなかった体をどうしようもなく熱くさせていた。
 それを知っているはずなのに、甘いキスなどしてくる壱哉は本当に意地悪だと思う。
「っ、は、だ、ダメだってば‥‥‥!」
 樋口は、やっとの思いで壱哉から唇を離した。
 たったこれだけの事なのに、全身が熱くなって、膝に力が入らなくなっている。
 そして、とても恥ずかしいけれど、ジーンズの前が窮屈になってしまっていた。
「どうした、樋口?」
 こっちの状態などわかっているくせに、わざと訊いてくる壱哉に、樋口は思わず、恨めしげな視線を向けてしまう。
 学生の頃を思い出させるようなその表情に、壱哉は苦笑した。
「‥‥悪かった。とにかく、それじゃ仕事にならんだろう?」
 壱哉は、樋口の腕を掴むと、強引に母屋の方へと引っ張って行く。
「あ、あの、店‥‥‥」
「仕入れは終わってるだろう。店番は置いてある」
 相変わらず手回しのいい壱哉に、樋口は脱力した。
 前にも、時間が取れた壱哉が昼間訪ねて来た時、その間の店番をしっかり連れて来ていた。
 壱哉の『命令』には絶対服従らしいその男は、社員には見えなかったけれど、何となく気の毒に思えてしまったものだ。
 まるで自分の家のように、壱哉は樋口を真っ直ぐ寝室に連れて行く。
「崇文‥‥‥」
 壱哉は、寝室に入ると、もどかしげに唇を求めて来た。
 甘い唇に答えていると、頭の中に霞がかかり、全身を熱が覆って行くようだった。
 壱哉の手が肌に触れる、そんな刺激すら愛撫に感じてしまって、樋口の体が震える。
 過剰な程に反応してくる樋口に、壱哉は少し驚いて顔を離した。
「崇文‥‥お前、俺と会えなかった間、自分でしてなかったのか?」
 あまりにもストレートな言葉に、樋口は真っ赤になって目を伏せた。
「‥‥‥しようと‥‥したけど、ダメだったんだ。自分じゃ‥‥何をしても、イけなかった」
 恥ずかしくて、消え入りそうな声で呟いた樋口は、壱哉の肩口に顔を埋めた。
「俺‥‥壱哉じゃないと、ダメみたいだ。壱哉がいてくれないと‥‥‥」
 言いかけて、樋口は我に返って言葉を切った。
 こんな風に頼ったりしたら、ますます壱哉に負担をかけてしまうではないか。
「えっ‥‥と、あの‥‥‥」
 慌てて体を離し、言い訳を探す表情に、壱哉は、樋口が考えている事が何となく判ってしまった。
 そんなにも自分を想ってくれる気持ちが嬉しくて、それなのにこんなに長く放って置いてしまったのが改めて悔やまれる。
「崇文‥‥‥」
 壱哉は、そのまま樋口の体をベッドに押し倒した。
「ちょっ、壱哉?!」
 いきなりな展開に慌てた樋口だが、真っ直ぐ見詰めて来る壱哉の瞳に、動きを止めた。
「このところずっと、気がつくと、お前の事を考えていた。会いたくて、お前を無理にさらって来てしまいたいとさえ思った‥‥‥」
 この手に捕らえて閉じ込めてしまえば、いつでも会える。
 寂しさのあまり、そんな衝動すら覚えた。
 しかし、体だけを手に入れても何の意味もない。心は、気持ちは、かえって遠く離れてしまう。
 薔薇を奪ってしまったら、樋口は樋口でなくなってしまうから。
 危うく道を誤りかけた、あの時の繰り返しだけはするまいと、壱哉はそう思っていた。
「俺のわがままで、お前を縛り付ける事だけはしたくない。もう二度と‥‥俺は、間違いたくないんだ」
 どこか懺悔にも似た言葉に、樋口は一瞬、目を見開いた。
 その表情が、泣き笑いにも見えるものへ変わる。
「壱哉‥‥‥」
 樋口は、壱哉の背中に腕を回して、そっと力を籠めた。
「ごめんな、壱哉‥‥俺が、薔薇を作り続けたいってわがまま通してるから‥‥‥」
 樋口の言葉に、壱哉は驚いて口を開いた。
「お前が悪いんじゃない、俺が‥‥‥」
「うん、わかってる」
 樋口は、柔らかな笑みを浮かべた。
 見た覚えのある表情に、壱哉は目を見開いた。
 あの日。
 嫌がるのを無理矢理陵辱した壱哉を責めもせず、何もかも許してくれた、あの笑顔と同じだった。
「離れてても‥‥俺は、お前のものだから。俺は、全部、壱哉のものだから‥‥‥」
 まるで、愛の告白のようだ、と壱哉は思う。
 樋口はいつも、壱哉が一番欲しいものをくれるのだ。―――中学時代の、あの頃から。
「崇文‥‥‥」
 答える代わりに、深く口付ける。
 何度口付けても、慣れないようなたどたどしい様子で答えてくる樋口の反応が愛しい。
「ん‥‥‥」
 一度は落ち着いた熱も、甘い口付けで簡単に燃え上がる。
 苦しげに身じろぐ樋口から、壱哉は簡単に衣服を剥ぎ取った。
 あまりにも手際がいい壱哉に抗議する間もなく、下肢が割られた。
 壱哉にしては性急に、細い指が入り込んで来る。
 やや乱暴な、痛みすら伴う刺激だったが、壱哉が直接触れてくれていると言う事だけで、樋口は感じてしまう。
「ぁ‥‥ん‥‥っ!」
 樋口が、切なげに眉を寄せ、全身を強張らせた。
 軽い痙攣のように体を震わせると、白濁した欲望があっけなく吐き出される。
「本当に、ずいぶん溜まっていたんだな?」
 少しだけ意地悪に言うと、樋口は恥ずかしいのか、真っ赤になった。
 一度達した後の、僅かに潤んだような目で見上げられ、壱哉の背筋にも熱いものが走る。
 実際、壱哉もそれ程余裕がある訳ではなかった。
 衣服を脱ぎ捨てると、壱哉は樋口の脚を抱えた。
 本当はもっと慣らした方がいいのは判っていたが、壱哉も我慢出来なくなっていた。
「ぅっ、く‥‥‥」
 痛みの為か、樋口が表情を歪める。
「つらいか‥‥?」
 でも、壱哉の方も強引に突き上げたい衝動を堪えるのが精一杯だった。
「‥‥だい‥じょう、ぶ‥‥‥」
 樋口が、むしろ気遣う表情で壱哉の背に回した腕に力を籠めた。
「崇文‥‥‥」
 ゆっくりと腰を進めながら、壱哉は熱く呼んだ。
 久しぶりの行為に、強烈に締め付けて来る体内の感触は、気が遠くなりそうな程の快感をもたらす。
 壱哉自身にも信じられないが、根元まで収めただけで、もう限界だった。
「すまん‥‥‥」
 珍しくも切羽詰った壱哉の表情を新鮮に思いながらも、樋口も限界だった。
「うん‥‥俺も、もう‥‥‥!」
 しっかりと抱き合うようにして、二人は同時に達した。
 しかし、余韻を楽しむ間も置かず、どちらからともなく口付けを交わす。
 今まで離れていた時間を埋めるように、二人は、激しく求め合った‥‥‥。
 ―――――――――
「‥‥‥?」
 軽い振動に、樋口は目を覚ました。
 まだ重い目蓋を開くと、目の前には流れる景色があった。
 途端に眠気が吹き飛んで、樋口は慌てて辺りを見回す。
「あぁ、起きたか」
 冷静な声の方に顔を向けると、そこにはハンドルを握る壱哉がいた。
 どうやら樋口は、壱哉の車の助手席に乗せられているらしい。
「起きたか、って‥‥‥」
 樋口は、呆然と呟いた。
 確か、店を開く前に壱哉が訪ねて来て。
 久しぶりの嬉しさに、そのまま『して』しまったのだ。
 その後、食事に行ったりはしたものの、会えなかった期間を埋めるように、暇を惜しんで体を重ねた。
 夕方にはさすがに疲れ切ってしまって、失神同然に眠り込んでしまった事までは覚えている。
 しかし、それが何故、壱哉の車に乗せられているのだろう?
 身動きした樋口は、上半身が素肌に毛布一枚が掛けられているだけである事に気付いてぎょっとする。
 慌てて下半身を確かめると、幸い、ジーンズで覆われている。
 ‥‥‥のはいいのだが、確か、裸で眠り込んでしまわなかったか?
「こ、これ、壱哉が着せてくれたのか?」
「あぁ。俺は別にいいと思ったんだが、止められた」
 それは、いつもこんな時に店を引き受けてくれるあの青年だろうか?
 止めてくれたのは嬉しいのだが、服を着せられても起きない自分を見られたのは複雑だ。しかも、その理由が壱哉とやりすぎたせいとなれば‥‥。
 深く考えると落ち込んでしまいそうなので、樋口は慌てて頭を切り替えた。
「えっと‥‥それはそうと‥‥‥どこ行くんだ?」
 樋口の問いに、壱哉はちらりと視線を向けて来た。
「いい温泉宿を見つけておいた。二人で外泊した事はなかったからな」
「は‥‥?」
「プロジェクトがやっと一段落したから、まとまった休みが取れたんだ。‥‥と言っても三泊ほどだがな」
 どうやら、樋口はこれから壱哉と、温泉で三泊する事になるらしい。
 ‥‥‥そんな事は、一言も聞いてない。
 別に予定が入っている訳ではなかったが、樋口に外せない用事があったらどうするのだろう?
 しかし、良く考えてみれば、ディーラーとの交渉などは壱哉が紹介してくれたビジネスマネージャーが間に立っているから、重要な予定は壱哉に筒抜けなのだ。
 ずっと会えなくて寂しかったから、壱哉とずっと一緒にいられるのは嬉しいのだけれど。
「‥‥って、俺、上は裸なんだけど?!」
 今更気付いて、樋口は慌てた。
 こんな格好で宿に入るのは、まるで変質者のような気がする。
「別に構わんだろう。問題があるのか?」
「‥‥‥‥‥‥」
 黒崎壱哉と言う人間は、時々、とてつもなく常識外れな所がある。
 そう、改めて痛感してしまった樋口である。
 宿に入るのに、どうやって誤魔化せばいいのだろう?
 壱哉はきっと気にしないだろうが、きっちりスーツを着込んでいる壱哉と一緒に、ジーンズ一丁の自分と言うのはちょっと‥‥いや、凄く恥ずかしい。
 毛布なんかかぶっていたらもっとアヤシい人間になってしまう。
 車の中ででも着替えたい所だが、はっきり言って日常全般に疎い壱哉は、ちゃんと樋口の着替えまで持って来てくれたのだろうか。
 いや、それともどこかに寄って安い服でも買おうか。
 しかし、買い物に行こうにもこの格好では‥‥‥。
 これからの時間を想像してか、とても上機嫌な壱哉の隣で、眉を寄せて考え込む樋口であった。


END

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キリリク頂いた『欲求不満なわんこ』を書いている時、「受け樋口だったらどうかなぁ?」と思って前半、同時進行で書いてました。いや、丁度、今までupした話を見回して「受け樋口にハマってサイト開いたはずなのに、受け樋口が当人思ってるより少ない!!」とショックを受けていた頃でもあったので。
攻め樋口は、何かあったら多少アクションを起こすタイプ、受け樋口は下を向いてぐるぐるするタイプ、と言うイメージ分けをしています(あくまで、ウチのサイト基準ですよ?)。まぁ、基本的に現状で我慢しちゃうのはどっちも同じですが。
一気に書き上げた分、キリリクの方が話としてはまとまってると自分でも思います(でも書きたかったんだよぅ)。