罪と罰


「黒崎‥‥好きだ‥‥‥」
 そう口に出すと、全身が熱くなる。
 それだけで、身体の芯が甘く疼く。
 頭の中が、彼の存在で満たされる。
「黒崎‥‥‥」
 愛しげに、切なげに、樋口はその名を口に乗せた。


 暗い部屋。
 自分の息遣い以外、何も聞こえない。ここにいるのは、たった一人、自分だけ。
 窓のないこの部屋では、今が昼か夜かも判らない。
 いや、外の時の流れになど意味はない。
 壱哉がこの部屋にいる時。それだけが意味のある時間なのだから。
「あ‥‥‥」
 樋口は、切なげに喘いだ。
 冷たい床、首輪に繋がれた鎖の感触、それらが酷く気になる。
 ほんの少し、身動きするだけでも痺れるような熱が走る。
 この前、壱哉が来てからどれだけの時間が経ったのだろう。
 もう樋口の躰は、長く放って置かれると熱い快楽を求めて疼くようになっていた。
 しかし、熱を鎮める為に自分で慰める事は壱哉に禁じられていた。
 自慰を見付かった時、壱哉は罰として樋口の性器に手を加えた。そして、触る事が出来ないようにして一週間も放って置いた。
 今度は、もっと酷い事をされるかも知れない。
 いや、それならまだいい。
 言う事を聞かないと、見限られて捨てられるかも知れない。
 捨てられて、壱哉に二度と会えなくなるのなら死んだ方がましだった。もう樋口は、壱哉の存在なしにはいられないのだ。
 だから樋口は、疼く身体を持て余しながら、いつ来るのかも判らない壱哉を待ち続けるしかなかった。
 身体が熱を帯びるに連れ、直接触れている冷たい床や拘束具の感触すらも刺激になる。
 もうずっと、衣服を身に付ける事は許されていない。
 獣のように鎖で繋がれる事も、いつの頃からか気にならなくなっていた。
 壱哉さえ来てくれるなら。
 彼に直接触れる事が出来るなら。
 あと少し経てば、欲望に塗り潰された頭は壱哉との行為の事以外、何も考えられなくなってしまうだろう。
 そんな事を繰り返しているせいか、こんな風に思考を保っていられる時間は次第に少なくなっている。
 いや、さっさとこんな意志など手放してしまった方が楽になれるかも知れない。
 次第に濁り始めた頭でそう思う。
 いっそ素直になればいい。
 快楽と、自分の気持ちに素直になってしまえば。
「‥‥‥‥‥」
 樋口は、切なげに顔を歪めて蹲った。
 ずっと追い続けた夢を潰され、全てを奪われ――それでも尚、壱哉を憎む事は出来なかった。
 悪びれもせずに裏切りを告げられたあの時、確かに激しい怒りを感じた。
 しかし今、樋口の胸を満たすのは全く別の感情だった。
 本当に自分は呆れた奴だと思う。
 今、樋口が後悔しているのは、信じてはならない相手を信じて全てを奪われた事ではなかった。
『お前さえいなければ』
 あの時、怒りのままに彼に酷い言葉を投げつけてしまった事。それだけが、悔やまれた。
「黒崎‥‥‥」
 口にするだけで、その名は甘い快感を樋口に与えた。
 好きだ、と。初めてそう口にしたのはいつの事だったろう。
 限界まで焦らされた末に許された行為の中で、ずっと心の奥底に仕舞い込んでいた気持ちが口を衝いて出た。
 あれから、樋口は自分の中にある気持ちにやっと気付いたのだ。
 金で買われた、そればかりではなく、樋口は確かに、壱哉との行為に満たされていた。
 壱哉をこの腕で抱き締め、己の欲望で貫く事に悦びを感じていた。
 しかし。
「好きだ‥‥‥」
 わかっている。
 この言葉が、本当の意味で壱哉に届く事は永久に、ない。
 いくら繰り返しても、それは快楽に溺れた中での譫言にしか思われないだろう。
 そう―――これはきっと、罰なのだ。
 父と、自分自身の夢を裏切ってしまった罪への。
 幼い頃の思い出を自分で汚してしまった罪への。
 好きだ、と。そう口にすればする程、きっと壱哉の気持ちは離れて行く。
 樋口は、切なげな表情で蹲った。
 快楽を求めて熱を帯びる身体とは裏腹に、心の中には冷たい諦めが広がる。
 焦らされている、その切なさではなく、胸の奥が酷く痛む。
「黒崎‥‥‥」
 樋口の目から、透明な涙が零れ落ちた。
 自分が触れる事が出来るのは、壱哉の身体だけ。
 ならばせめて、彼を抱いている間だけでも、この気持ちを囁こう。
 彼を抱き締めている間だけは、自分の言葉が届いているのだと、そう思い込む事が出来るから。

END

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大型犬EDですが、本当に何度見た事か(笑)。少なくとも樋口にとってはそれなりに恵まれた(?)EDだと思うのは私だけでしょうか。
一人称ではちょっとツラかったんでやめました。自分で書いててなんですが、この樋口って、壱哉に何されても幸せなんじゃないのか?
しかし、樋口は壱哉と同い年だってのに、泣かせても新と同じくらい違和感ない気がする‥‥‥。