罪と罰
〜another side〜


「黒崎‥‥好きだ‥‥‥」
 いつからか、樋口は行為の度に、そう囁いて来るようになっていた。
 甘い囁き。
 快楽に濡れた瞳。
「樋口‥‥‥」
 その名を口にすると、不思議な熱さと痛みとが胸の奥を切り裂いた。


 久しぶりに再会した同級生。
 もう忘れかけていた遠い記憶を共有している『友人』。
 かつて友人だったとは言え、今更、同情めいた気持ちなど感じるはずはない。
 樋口への感情は、獲物への興味と欲望に過ぎない。
 時折、胸に湧き上がる不可解な感情に、壱哉はそう理由を付けていた。
 しかし、そんな壱哉の内心など知らぬげに、樋口は次第に親しげな態度をとるようになった。
 何の疑いもなく向けられる信頼と、学生時代と変わらない人なつこい笑顔に戸惑い、そして何故か苛立ちを覚えた。
 父の夢を熱く語り、迷いも躊躇いもなく、真っ直ぐ先へと向けられている瞳が気に入らなかった。
 だから、この手で陽の当たる場所から引きずり落としてやった。
 罠に陥れ、金で縛り、その夢を叩きつぶしてやった。
 薔薇園を焼かせ、何もかも失った樋口をここに連れて来たあの日。
 金で買われて仕方なく従うような気取った顔をしていたから、自分から動いて壱哉を抱くように命じた。そして、結局快楽に流されるその姿を嘲った。
 薔薇園を焼いたのか、と、そう問われたから笑いながら頷いた。
 絶望に覆われた表情と、それでも壱哉に嬲られて昴って行く肉体を嗤った。
 あの時‥‥確かに、壱哉の中はこれまでにない満足感で満たされていたのだ。
 それから、壱哉は時間をかけ、樋口の身体に服従と快楽を覚え込ませた。
 抗うのを愛撫と薬で黙らせ、自分の望み通りに仕込んだ。
 徹底的に飼い慣らされた樋口はもう、壱哉なしではいられない。
 今も彼は、二度と光の射さない地下室で、いつ来るか判らない壱哉を待ち続けている。
 そう、これは壱哉が望んだ姿のはずだった。
 壱哉を苛立たせたあの笑顔は、もう何処にもない。
 迷いのない強い色をしていた瞳も、濁ったガラス玉のように光を失った。
 賢しげに、知ったような口を利く事もない。
 今はただ、快楽に蕩けた表情で壱哉を求めるだけだ。
 壱哉の事しか考えられず、壱哉の事だけを求めている。欲望を遂げる事さえ、壱哉の許しなしには叶わない。
 完全に自分の物にして、望む姿に飼い慣らした、そのはずなのに。
「くそっ‥‥‥」
 壱哉は、苛立たしげに舌打ちした。
 何故だろう。
 従順になった樋口を見ていると、満足感と同時に得体の知れない苛立ちを感じる。
 樋口が悪い事をしている訳でもないのに、怒りにも似た衝動を感じる時がある。
 その理由が、壱哉自身にも判らない。
 樋口は、壱哉が一から仕込んだ性技を全て覚え込んだ。
 今では、言葉で命じるまでもなく、壱哉は満足な快楽を得る事が出来る。
 壱哉の目を盗んで自慰していた事もあったが、しっかり思い知らせてやったおかげで、今は気が狂いそうになりながらも我慢して待っている。
 壱哉が姿を現すと、歓喜と快楽とがない交ぜになった表情を向けて来る。
 欲望を遂げたくて猛りきったものに半狂乱になりながら、それでも壱哉の許しがあるまでは必死に耐えている。
 そんな樋口を見ていると、愛玩動物に対する愛しさのような気持ちと、訳の判らない後悔にも似た苦い気持ちがこみ上げる。
 好きだ、と。初めてそう耳にしたのはいつの事だったろう。
 焦らされ抜いた末の欲望に狂い、文字通り獣のように壱哉を求めて来た樋口が口走った言葉。
 どこか甘く、濡れた囁きは壱哉の中に不可解な感情を呼び起こした。
 背筋が痺れるような甘い熱さと、頭の芯を覆って行く冷たく、苦い感情。
 もし、樋口が真っ直ぐに目を合わせて来ていたあの頃、この言葉を口にしていたら。
 自分は、もっと違う気持ちになっていたように思えた。
 けれど、もう遅い。
 全て、失われた。自分の、この手で壊した。
「樋口‥‥‥」
 わかっている。
 それは単に、快楽を与えてくれる相手に対して無意識に口にしている言葉だ。
 樋口が、全てを奪った壱哉にそんな気持ちを抱くはずがない。
 そう―――これはきっと、罰なのだ。
 真っ直ぐな好意を寄せてくれていた友人を裏切った罪への。
 この手で、思い出を、信頼を跡形もなく壊し去った罪への。
 好きだ、と。そう耳にする度、切ないような苦しさが胸を締め付ける。
 その感情が不愉快で、もう樋口の顔など二度と見たくないと、そう思ってあの部屋を後にする。
 しかししばらく経つと、樋口の声を聞き、その身体に触れたくなる。
 彼の腕に抱かれ、激しい快楽に我を忘れる時間が欲しくなる。
「‥‥‥‥‥」
 壱哉の口元に、どこか諦めたような苦い笑みが浮かんだ。
 自分が手に入れる事が出来たのは、樋口の身体だけ。
 ならばせめて、彼と身体を繋いでいる間だけでも、甘い快楽に全て委ねよう。
 熱い腕に抱かれている間だけは、彼の心までも自分の物なのだと、そう思い込む事が出来るから。

END

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ものの見事にすれ違ってます、はい。でも、こう言う絶対交わらないすれ違いって凄く好きなんですよねー(←酷い)。
きっとこのまんま、不毛な関係がず〜っと続くんでしょう(爆)。二人とも、あと一歩だったのにねぇ。
一番悪いのは壱哉の複雑骨折した性格なんでしょうが。攻めEDの時より、壱哉はちょっと弱気でぐるぐるしてる気がします。