ある休日


 雲一つなく晴れ上がった空を、壱哉は眩しそうに見上げた。
 今日は土曜日。
 本当は昼間、仕事の予定が入っていたが、向こうの都合でキャンセルになったから、予定より早くこの街に来る事が出来たのだ。
 土曜は夜にならないと行けないと言ってあったから、樋口は驚くだろう。
「ん‥‥?」
 そう言えば、その時、樋口も土曜は用事があると言っていた気がする。
「‥‥‥まあ、いい」
 何だったか思い出せないが、樋口の事だ、大した用ではないだろう。
 勝手にそう決めた壱哉は、樋口花壇へとBMWを走らせた。
 ―――――――――
 店に行ってみると、『休業』の札が下がっていた。
 多分こちらだろうと、壱哉は薔薇園の方に足を向ける。
 すると、樋口が何やら忙しそうにワゴンに薔薇の鉢やら苗やらを積み込んでいる。
「あ、あれ?壱哉、今日は夜まで忙しかったんじゃ‥‥」
 壱哉の姿を認め、樋口が驚いた顔をする。
「急に、予定が空いたんだ」
 壱哉の言葉に、樋口は済まなそうな顔になる。
「そっか‥‥ごめん、俺、今日は夕方までダメなんだ。どうしても今日は外せなくて‥‥‥」
「何の用なんだ?」
 少しだけ面白くないものを感じながら、壱哉は聞いた。
「あ、えっと‥‥‥」
 樋口のかいつまんだ説明によると、地元の地方テレビ局や新聞社などが共催で園芸関係のイベントがあるのだと言う。
 ガーデニングや盆栽のコンテストや、花苗などの即売会があるらしい。
「で、売りにでも行くのか?」
 『樋口花壇』として出店する程度なら、空いている捜査員でも呼び付けて店番をさせれば樋口が行かなくても済むはずだ。
「んー、それだけだと手がないから断ったんだけど」
 樋口は、頭をかいた。
「会場で、ガーデニング教室があってさ。その、講師しなきゃならないんだ」
「お前が、講師?!」
 およそ、これ程樋口にそぐわない言葉もないのではないか。
 あんぐりと口を開け、目を丸くして驚く壱哉は実に珍しいものだったけれど。
「なんだよ、そんなに驚くことないだろ?」
 いたく傷付いた顔で、樋口は口を尖らせた。
「いや、すまん。‥‥しかし‥‥‥」
 一応樋口も『園芸家』なのだから、こんな依頼があってもおかしくはないのかも知れない。
 しかし、いつものんびりと薔薇の世話をして、売れなくても気にしない花屋をしている樋口からは、『講師』と言うのがどうしても想像出来なかったのだ。
「それにお前、ガーデニングと言っても、薔薇以外の事がわかるのか?」
 壱哉の言葉に、樋口は本当に傷付いた顔になって、肩を落とした。
「‥‥‥お前、俺のこと、馬鹿だと思ってるだろ」
 そこまで言うつもりはないが、とっさに否定の言葉も出て来なくて、壱哉は口ごもる。
「‥‥‥そりゃ確かに、いろんな会社の社長やってるお前に比べたら俺なんか何もわかんないけどさ」
 樋口は、半ば諦めの表情で深いため息をついた。
「でもさ、一応は店に、鉢物とか少しは置いてるんだぜ?育て方きかれてわからないようなものは置けないし」
 そう言えば、店の片隅に、観葉植物などを中心とした鉢物が置かれていた気がする。
「あぁ‥‥」
 合点した顔の壱哉に苦笑して、樋口は作業を再開する。
「一応、会場で薔薇の苗も販売してほしいって言われたんだ。他に販売する店があるから、数は持って行かないけど」
 目的の物は全て積み込んだのか、樋口はワゴンの後部ドアを閉めた。
「だから、今日は夕方までダメなんだ。せっかく来てくれたのは嬉しいんだけど‥‥」
 樋口は困ったように壱哉を見た。
「家で待ってるのは暇だよな。けど、観光、って言う程の街じゃないし‥‥」
 そもそも、壱哉も高校に入る頃まではこの街にいたのだから、今更珍しいものがあろうはずはない。
 樋口は、思わず考え込んでしまった。
「そのイベント、どこでやるんだ?」
「え‥‥隣り町の体育館だけど」
「わかった」
 頷いて、壱哉は車の方に戻ろうとする。
「ちょっ、壱哉、わかったって、なにが?!」
 慌てて追いすがる樋口に、壱哉は足を止めて振り返る。
「お前、早く行かなきゃならないんじゃないのか?」
「そ、それはそうだけど‥‥」
「その会場に、俺も行く。そう言う場所を見ておくのも悪くないからな」
「へ‥‥‥」
 あまりにも意外な言葉が返って来て、樋口は妙な声を上げてしまった。
 しかし壱哉は、そんな樋口の反応を尻目にさっさと自分の車に乗り込んでしまう。
「早くしないと、先に行くぞ」
「‥‥‥‥‥」
 会場までこの高級車で乗り付けるつもりらしい壱哉に抗議とか文句とかは無駄なのだろう。
 ひとつ、ため息をついた樋口は、諦めてワゴン車の方へ戻って行った。


 樋口について車を飛ばし、着いたのは結構大きな体育館だった。
 かなり広い緑地公園が隣接しているから、こんなイベントが行われたのだろう。
 コンテストや、講演などを体育館の中でやって、即売会などは屋外で行われるようだった。
 用意があると言って、樋口は忙しそうに体育館へ入って行ってしまう。
 手伝う気は毛頭ないから、壱哉はぶらぶらと会場を見て歩く。
 いつも通りのスーツにネクタイ姿ははっきり言って浮いていたが、そんな事を気にする壱哉ではない。
 近隣の業者などが集まっているらしく、あちこちに即売の店が開いている。
 辺りを歩いている客層は様々で、親子連れや中年女性の集団、退職後らしい老夫婦など、年齢もばらばらだ。
 現在、傘下にある業種では縁のない顧客層に、壱哉は少し仕事の顔に戻って辺りを眺めた。
 樋口と知り合ったおかげで、こんな風に、全く縁のない世界を覗く事が出来るようになったのは、壱哉にとって新鮮な経験だった。
「ふむ‥‥‥」
 会場を見回して、壱哉は顎に指を当てた。
 ガーデニングのアイディアコンテストで入賞したものが、実際に小さな庭として再現されているコーナーがあった。
 建設会社として重機はあるし、ビル建設に緑地は付き物だから最低限のノウハウはある。
 大型ビル中心の営業から個人住宅へも手を広げようと思っていたが、ガーデニングをメインに据えたリフォームも方向性としてはいいかも知れない。
 そんな事を考えた壱哉は、小さく舌打ちした。
 せっかく休日に、仕事を忘れようとこの街に来たのに、結局仕事の事を考えているのだ。
「まったく‥‥あいつが仕事なんか入れるのが悪いんだ」
 壱哉は、半ば八つ当たり気味に呟いた。
 樋口の事を考えたら、急に顔が見たくなる。
 時計を見ると、もうガーデニング教室が始まっている時間だった。
 壱哉は、会場になっている体育館にゆっくりと歩き出した。
 ―――――――――
 かなり広い体育館の中は、いくつかのエリアに分けられていた。
 コンテストの作品らしい鉢物が並んでいる前を通り過ぎ、壱哉は人が集まっている方に向かう。
 まず目に付いたのは、アレンジメントの講習会らしい一団だった。
 実習形式らしく、切り花の置かれた折り畳みのテーブルに教室形式で並んでいるのは女性ばかりだった。
 講師も女性で、ミニブーケの作り方を教えているようだ。
 遠目に眺めた壱哉は、不機嫌に鼻を鳴らした。
 アレンジメントの事は良く判らないが、講師の女性が作っている花束より、樋口が店に置いているミニブーケの方が余程見栄えが良く、暖かみがあった気がする。
「崇文の方が、余程いい講師だと思うんだがな‥‥」
 樋口がそこまで講師を引き受けていたら、今日一日どころではなく忙しくなっていたはずなのだが、勿論壱哉はそこまで考えていない。
 アレンジメント教室の向こうに人が集まっている、そこがガーデニング講座のようだった。
 ゆっくりと近付いてみると、数十脚並べられたパイプ椅子はほぼ塞がっていた。
 女性が大半ではあったが、年齢層は様々で、初老の夫婦らしい二人組みもいた。
 壱哉は、一番後ろの客から更に少し離れた場所から、横に長いテーブルの向こうにいる樋口を眺めた。
「庭に新しく株を植え付けたり、鉢植えを置いたりする時、どんな場所を選べばいいのかと良くきかれます。簡単に言えば、その植物の自生地の気候に近づけること。例えば、熱帯原産の植物なら暑い夏は元気ですが、冬は暖かくしてやらないと枯れてしまいます。逆に山野草は、外でも冬越しできますが、山は夏でも涼しいですから、平地の夏は半日陰の涼しい場所でないと耐えられません。同じように、地中海の植物は、日本の湿度の高い夏は苦手です。ですから、最近手軽になってきたハーブ類などは、梅雨前に刈り込んでおいて、少しでも風通しの良い状態で夏を迎えることが害虫を防ぐ有効な方法です」
 樋口の説明は実に堂々としたもので、一々頷きながら聞いている初老の女性などもいた。
 学生時代とあまり変わらないような子どもっぽい口調や、店で接客をしている時の様子しか知らなかった壱哉は、内心、かなり驚いていた。
 ゆっくりと聴衆を見回す樋口の視線が、壱哉にぶつかる。
 ほんの一瞬、その瞳に笑みのようなものが浮かんだ気がした。
 しかしすぐに樋口は、何事もなかったような表情で聴衆へと視線を戻す。
 真面目な、しかし優しく柔らかな笑みを湛えた樋口の表情は、薔薇を前にしている時に少し似ているようだった。
「‥‥最近は、ミニバラなども沢山の種類が出回るようになったので、広い庭がなくても鉢植えで楽しめるようになりました。‥‥同じ薔薇でも、こんな風に、寄せ植えや盆栽仕立てにすると違った雰囲気になります」
 と、樋口はテーブルの上にいくつかの鉢を並べる。
 小花と背の低い緑の観葉植物が添えられた可愛い寄せ植えや、本当に盆栽のように仕立てられた和風の鉢など、同じ薔薇とは思えない程違って見えた。
「ただ、薔薇の根の生育は旺盛なので、できれば毎年、少なくとも二年に一度は植え替えてください。薔薇ばかりでなく、ほとんどの鉢植えにも言えることですが、鉢と言う限られた空間の中では、次第に根が伸びる隙間がなくなってきます。また、水遣りを繰り返すうちに土が固くなってくるので、根が呼吸できなくなって枯れてしまうのです。植え替えの時期は、一般的には根の生育が旺盛でない時。春早くか、秋、涼しくなってから。植え替えの時に古い土を落とすので、生育が旺盛な時に植え替えると株が弱ってしまうからです。勿論、植物の種類によって状況は違いますから、それぞれ調べていただくのが確実ですが‥‥‥」
 主催者側からそう言われているのか、樋口は薔薇ばかりでなく、一般的な手入れの知識を説明している。
 それからしばらく、庭や鉢植えの手入れの一般的な説明が続いた。
 それが終わると、聴衆からの質問の時間になる。
 中には、園芸は素人の壱哉ですら呆れるような初歩的な質問もあったが、樋口は丁寧に、それらの質問に答えて行く。
 何番目かの中年女性は、自分の家から鉢を持って来ていた。
 その鉢は、細い葉が茂っていたが、遠目にも、葉先が黒く枯れて元気がなく、株も萎れているように見えた。
 毎年買っているのに次の年は花も咲かず、悪くすると枯れてしまう‥‥回りくどい女性の説明を聞きながら、鉢を見ていた樋口は口を開いた。
「これは、水と肥料のやりすぎですね」
 事も無げに言った樋口は、無造作にも見える手つきで株に手を掛けた。
 さして力を入れた様子もないのに、株はあっさりと鉢から抜ける。
 木の樹皮のような植え込み材料は水が垂れる程濡れていた。
「ほら、ここを見てください。根が黒く腐っています」
 樋口は、株を高く上げて聴衆に見せる。
「洋蘭は高級なイメージのせいか、毎日のように水や肥料をやる方も多いと思います。しかし、殆どの蘭は木や石の上に着生して、水も肥料も満足にない環境でも花を咲かせています。洋蘭を駄目にしてしまう理由の殆どは世話の焼きすぎです」
 樋口は、手にした株の土の部分を、慣れた手際で崩して行く。
「洋蘭に限らず、大半の植物の水遣りは『乾いてからたっぷり』が基本です。いつも少しずつ水をやっていると、土がいつも湿っていて、根が空気を満足に吸えません。植物も、人間と同じように空気を呼吸しなければ生きられないのです。肥料も、多すぎると根が腐って株を枯らしてしまいます。人間が、栄養の取りすぎで病気になってしまうのと同じです。洋蘭に関して言えば、肥料を遅くまで与えていると花は咲きません」
 樋口は植え込み材料を殆ど取ってしまい、黒く腐ってしまった根を、鋏で遠慮なく切ってしまう。
「水苔ありましたね?‥‥ありがとうございます」
 樋口は、イベントのスタッフらしい青年から茶色っぽいものの入った平たい入れ物を受け取った。
「幸い、この株は根元はしっかりしていますから、植え替えればまた元気になります。暑い夏以降は肥料はいりません。水だけは、乾いたらたっぷり与えてください。それから、真夏以外は良く陽に当ててください。そうすれば、冬には花が咲くと思いますよ」
 樋口は、手際良く水苔を根に巻き、最初の鉢に植え付ける。
 その後も、色々な植物の質問に、樋口は丁寧に答えて行った。
 素人の壱哉でも理解出来るような説明に、聴衆が次々と手を上げる。
 規定の時間を超過してしまっていたのか、スタッフの青年が無理に打ち切るまで、質問は延々と続いた。
 イベントのスタッフが樋口に一言、二言小声で話し掛けると、樋口は頷いて、会場の体育館から出て行った。
 代わりに、若いスタッフが薔薇苗の販売を始め、客が殺到するのを眺めてから、壱哉はまた、外へと足を運んだ。
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 樋口がワゴンを停めた駐車場に戻って来たのは、もう陽が傾きかけた頃だった。
「ごめん!遅くなっちゃって‥‥‥」
 ワゴンの傍らで人並みを眺めている壱哉の姿を認め、樋口は慌てたような顔になった。
「もっと早く終わる予定だったんだけどさ、思ったより長引いちゃって‥‥随分、待っただろ?ごめんな」
 樋口は、本当に申し訳なさそうだった。
「いや‥‥別に、いい」
 思いの外穏やかな答えに、樋口は戸惑ったようだ。
「あれ‥‥?壱哉、車は?」
 関係者だ、と言い張って樋口のワゴンに横付けしてあったはずの高級車が消えていた。
「あぁ、先に返した。お前の車に乗って行く」
 ちょっと驚いた顔をした樋口だが、壱哉の気紛れはいつもの事だと思い直したのだろうか。
「別に、壱哉がそれでいいならいいけど。‥‥ちょっと、待っててくれよな」
 樋口は車の後部ドアを開け、すぐに完売してしまった苗箱や、説明に使った鉢物などを積み込む。
 作業をしている樋口を、壱哉は黙って眺めている。
「ほんとに、ごめんな。せっかく休み取って来てくれたのに、一日無駄に過ごさせちゃって‥‥‥」
 気になっていたのだろう、作業しながらも樋口は本当に申し訳なさそうだった。
「無駄、でもなかったぞ。中々、いいものが見られた」
「へ‥‥?」
 樋口は、意味が判らなかったのか妙な顔をした。
 そんな樋口を見て、壱哉は楽しげな顔になる。
 少なくとも、壱哉が怒っているのではないと知って、樋口は安堵していた。
 壱哉を助手席に乗せ、樋口はやっと家路につく。
 が、壱哉が自分をじっと見ている視線を感じて、樋口は首を傾げた。
「あの‥‥俺の顔、なんかした?」
 不思議そうな樋口に、壱哉は笑った。
「いや。ただ、今まで俺は、随分と損をしていたものだと思ってな」
「はぁ?」
 呆気に取られているような樋口の顔を見て、壱哉はまた、笑う。
「‥‥‥‥‥」
 ちょっとだけ傷付いた顔をして、樋口は前に視線を戻した。
 そんな樋口の横顔を、壱哉はじっと見詰めた。
 こうしていると、いつも通り、何も変わらない樋口だ。
 しかし、今日、見る事が出来た樋口の顔は、壱哉にとって初めてのものだった。
 初めて見た、『プロの仕事をしている』樋口は、結構‥‥いや、とても格好良かったと思う。
 そして、壱哉は、柄にもなく、ときめいたりしてしまった。
 勿論、今までも樋口は好きだったけれど、自分がこんな気持ちになる事があるとは予想もしていなかった。
───今日は、本当に格好良かった。惚れ直したぞ?崇文‥‥‥。
 心の中だけで、そっと呟く。
 大体、まともにそんな事を言うのは照れくさいではないか。
 だから壱哉は、その代わりに口を開いた。
「当然今夜は、じっくり埋め合わせをしてくれるんだろう?」
「う‥‥」
 意味ありげな壱哉の言葉に、樋口は絶句した。
 嫌な訳ではないが、こんな口調の時の壱哉はちょっと怖い。
「たまには、こんな休日も悪くはないな」
「‥‥‥えーと」
 壱哉の独り言をどう解釈すればいいのか、困っているらしい樋口がとてもおかしい。
 やっぱり、こんな所は学生時代と何も変わらない樋口だと実感する。
 今日は樋口と一緒にいられた訳ではなかったが、軽く埋め合わせが出来るくらい、いいものが見られた一日だと、壱哉は思った。


END

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ここまで真面目に読んでいただいた方、本当にありがとうございます。こんな話で13.6KBってどーよ?とか自分で突っ込みつつ、どーにもこれ以上短くなりませんでした。
こんなに更新を引っ張った割にはろくなものが出来ませんでした。樋口に専門的な事を言わせようと必死になっている作者を笑っていただければ本望です。
でも、自分で書きながら、樋口って本当は薔薇以外わかんないんじゃないか?などと思ってみたり(苦笑)。