この街を訪れていた財界の大物との軽い会食の帰り道、事故でもあったのか真っ昼間なのに道路がやけに混んでいた。
 さっきの相手が壱哉の気に入らないタイプであった事もあり、殆ど動かない車の列に今日は酷く苛立ちを覚えた。
「‥‥‥少し、街をぶらついてから帰る。お前はこのまま車で帰れ」
「壱哉様?!」
 車が停止しているのを幸い、さっさと後部座席のドアを開ける壱哉に吉岡は慌てた。
 しかし現に車は動けないし、ここに放置して行く訳にも行かない。
「‥‥わかりました。お気をつけて」
 気遣わしげな吉岡の視線を背に受けつつ、壱哉は歩道のフェンスを身軽に跳び越えた。
 今日はもう大した予定は入っていない。入っていても、今の気分ではキャンセルだ。
 面白くない気持ちを抱えたまま、壱哉は当てもなく道を歩いて行った。
 ふと、辺りの景色が意識の奥底に引っ掛かる。
 かつてこの街にいた頃、何度も通っていた道。
 殆どの建物は変わってしまっているが、所々に覚えのある場所が残っている。
 それは、時には友人――樋口と一緒に歩いた、学校から家に帰る道だった。
 今は苦い思い出でしかない学校を見たくなくて、壱哉は別の道に逸れようとしたのだが。
 視界の端を、見覚えのある人影がよぎった気がして、壱哉は脇道に目を向けた。
 住宅街の真ん中に、かなりの樹齢になる桜の巨木があった。
 周辺の開発が進んでも、以前から親しまれていたこの桜だけは手つかずで残されていたらしい。
 学生時代の記憶よりも大きく枝を広げた巨木は、今正に満開に花を咲かせていた。
 そして、その枝振りを見上げるようにして、樋口が立っていた。
 その光景が、忘れかけていた記憶に重なる。
 あれは中学生の頃。
 学校が終わってから、本屋で参考書を買った帰り道、壱哉は同じこの場所から、同じような姿勢で桜を見ている樋口を見かけたのだ。
 思わず足を止め、樋口の横顔を見詰めてしまったのもあの時と同じだった。
 じっと、満開の桜を見上げている樋口の姿は、中学の頃のそれに重なって見えた。
 あの時より身体は勿論大きくなった。顔立ちも、幼さを残していた少年の頃とは違う。
 けれど、黙って舞い散る桜を見上げている樋口を見ていると、まるであの時に戻ってしまったかのような錯覚を覚える。
 樋口はあの時も、花を愛でると言うよりはどこか悲しげな表情で桜を見上げていた。
 何故か声を掛ける気になれず、壱哉はぼんやりと樋口を見詰めていた。
 どれだけの時間、そうしていただろう。
 気配に気付いたのか、樋口が何気なくこちらを向いた。
「黒崎?!」
 彼がいたのは意外だったのか、樋口は驚いた顔をした。
 壱哉は、ゆっくりと樋口の傍らに歩み寄った。
「どうしたんだ、こんな所に?」
 樋口は壱哉がここに現れたのが不思議な様子だった。
「たまたま、通りかかっただけだ」
 あながち嘘ではないのだが、樋口は納得行かないような顔をする。
 そんな様子には構わず、壱哉は樋口の隣で桜の木を見上げた。
 樹齢は一体どれぐらいなのか、一抱え以上ある幹から、何本もの太い枝が頭上を覆うように伸びている。
 見上げると、まるで空が桜色に染められてしまったかのように錯覚する。
「‥‥まだあったのか」
 独り言のような呟きに、樋口は一瞬目を見張った。
 しかしすぐ、壱哉の言いたい事に思い当たる。
「あぁ。ここらはまだ、昔の街並みが残ってるからな」
 樋口は、壱哉と同じように桜を見上げた。
「この桜を見てるとさ、いろいろ考えたりするんだ。この木は俺が生まれるずうっと前からここにあるんだよな。もし、俺が年をとって死んでも、この木は変わらずにここに生えてる。‥‥それって、なんか凄いよな」
「‥‥‥‥‥」
 壱哉は、黒崎建設がこの町で請け負っている事業計画の中に、この辺りの再開発も入っていた事を思い出した。
 大規模な再開発が入れば、こんな木などすぐ切り倒されてしまうだろう。
 しかし、それを樋口に告げてどうなるものでもない。
 壱哉は、喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。‥‥何故か、胸の奥がちくりと痛んだ。
 そんな壱哉の内心など知るはずもない樋口は、桜を見上げたまま口を開いた。
「『さくら』って名前は、もともと『神のいる場所』って言う意味なんだって。こうやって見てると、確かにそうなのかもしれないと思うよ。まるで‥‥春の神様を迎えるために精一杯花を咲かせて、その役割を終えたらすぐに花を散らすみたいにも思える」
 まるで、夢見がちな女学生が言うような言葉だ、と壱哉は苦笑した。
 もっとも、こんな言葉は確かに樋口らしいものにも思えた。
 壱哉の表情には気付かなかったのだろうか、樋口は桜を見詰めたまま言葉を継いだ。
「こんなに見事に咲いてるのを見ると、なんか、あんまり綺麗すぎて悲しくなる気がするんだ。‥‥どうしてかはわからないけど。一年ぶりにやっと花を咲かせたのに、ほんの何日かで散っちゃうのが悲しいのかもしれない」 
 その言葉は、壱哉の中の忘れかけていた記憶を刺激した。
 学生の頃、今日と同じようにここで足を止め、同じように樋口の隣りで桜を見た時に聞いた覚えのある言葉だった。
「あ‥‥黒崎、もしかして馬鹿にしてるか?」
 壱哉の口元に浮かんでいた苦笑を目に留めたのか、樋口は不満そうな顔になる。
「‥‥‥いや。お前は昔から全然変わらんと思ってな」
「そ、そうか?」
 喜んでいいのか落ち込んでいいのか図りかねているらしい樋口の顔に、壱哉は低く笑った。
「この前、俺の寝顔は昔と変わってないと言ったろう。だがお前こそ、あの頃と全然変わってないな」
 こうまで断言されては、樋口としても複雑だ。
「俺だって、あの頃よりは背が伸びたし、肩幅だって広くなったし、あれほど童顔じゃなくなったし‥‥‥」
「大して変わってない」
「あ、あのなあ‥‥‥」
 中学時代から十年も経っていると言うのに、このセリフはないだろうと思う。
「少々図体が大きくなったのは認めるがな。どっちにせよ俺より小さいのは変わらん」
「うっ‥‥‥」
 痛いところを突かれ、樋口は黙る。
 でも、牛乳とか飲んで頑張れば、数センチくらいなら、もしかして‥‥‥。
「学生じゃあるまいし、成長期をとうに過ぎた奴が何をやっても無駄だ」
 まるでこちらの内心を読んだかのような壱哉の追い討ちに、樋口はもう何を言う気力もなくなってしまう。
 深いため息をつく樋口の様子があまりにもおかしくて、壱哉は声を上げて笑った。
 落ち込んだ顔をしていた樋口も、壱哉につられて笑った。
 ひとしきり、笑い合う二人の上に、風に吹かれて桜色の花びらが舞い落ちる。
「‥‥‥それじゃ、邪魔したな」
 壱哉は、樋口に別れを告げた。
「あぁ。‥‥‥またな」
 少しだけ躊躇いがちに付け加えられた言葉を、壱哉は承知の上で黙殺した。
 それと気付いた樋口の表情が僅かに曇る。‥‥何故か、さっきと同じように胸の奥が小さく痛んだような気がした。
 しかし壱哉はそれ以上何も言わず、樋口に背を向けた。
 学生時代と同じように、自分の背中を樋口がずっと見送っている視線を感じつつ、壱哉は歩き始めた。
 あんなに苛立っていた気持ちが、嘘のように静まっている事に壱哉は今になって気付いた。

END

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えーと。なんで今頃この頃の話かと言うと、桜の下で話す二人が書きたかったからです。それだけです。実はこの話、去年の秋頃出来ていたんですが、これから冬になるのに桜の話もどーよ?と思ったもので、しばらく温めてました。MAYの生息する辺りではまだまだ花は先なのですが、東京で咲いたので、平均的には問題ないかな、とupしました。
いちゃらぶも鬼畜も好きなんですが、この頃の切ない系の樋口も好きだなぁ。‥‥‥つまり、全編に亘って好き、って事?(笑)