ここにいる


 吉岡が樋口からの電話を取り次いで来たのは、壱哉が大量の仕事の山をうんざりしながら片付けている時だった。
《あ‥‥壱哉?》
 電話の向こう側の樋口の声は、躊躇いがちで何となくいつもの元気がなかった。
「なんだ」
 仕事に追われている事もあり、壱哉の口調はそっけない。
《あ‥‥あのさ。今度の二十六日、来てくれる話になってたけど‥‥》
 言いづらそうな樋口の言葉に、壱哉はパソコンのキーを叩いていた手を止めた。
 二月二十六日、樋口の誕生日。
 平日に当たったその日、壱哉は纏まった休みを取る為に、今こうして山のような仕事に追われているのだ。
《あの‥‥ごめん。俺‥‥ちょっとその日、都合できちゃってさ‥‥》
 自分の誕生日だろう、と喉まで出掛かった言葉を飲み込み、壱哉は口を開いた。
「時間が取れない、と言うのか」
《うん‥‥ごめん。えっと‥‥あ、うん、ちょっと行かなきゃならない薔薇の展示会があってさ》
「‥‥‥その日が無理として、次の日はどうなんだ?」
 壱哉は、樋口と過ごす為に、わざわざ数日の休暇を予定していたのだが。
《えっと‥‥ごめん、一週間くらい‥‥ちょっと、会えないんだ。その‥‥いろいろ、あってさ‥‥》
 自分でも悪いと思っているのか、樋口の声はどんどん小さくなって行く。
「‥‥‥‥‥‥」
《あ、あの。ごめん。今度は、必ず空けるからさ。ごめん。ほんとに、ごめんな‥‥》
 何回か詫びて、電話は向こうから切られた。
「‥‥‥‥‥‥」
 壱哉は、切れた電話をしばし睨み付けていた。
 こうやって仕事に追われていたのは、樋口の誕生日に二人で過ごしたかったからだと言うのに。
 大体、樋口だって壱哉が纏まった休みを取るのがどれだけ大変かは良く知っているはずなのだ。
 半月ほど前に、一緒にいられるように時間を取ると言った時には、とても嬉しそうな顔をしていたのだが。
「あやしい‥‥‥」
 壱哉は、低く呟いた。
 嘘の苦手な樋口の言葉は、あからさまに怪しかった。
 薔薇の展示会となれば、かなり前から予定に入っているはずで。
 嘘をついてまで、壱哉と会いたくなかった理由が何かあるはずだ。
「まさか‥‥‥」
 浮気、ではないのか?
 壱哉は、眉を寄せて考え込む。
 人好きのする可愛い顔をしているくせに、樋口は馬鹿みたいに無防備でお人好しだ。
 まさか、妙な性癖を持った男にでも引っかかっているのではないだろうか。
 そうでなくても、花屋と言う職業柄、時々、女の客にモーションをかけられる事はあるらしい。
 強引に迫られると嫌とは言えない性格をしているから、もしかするとたちの悪い女に騙されているのではないか?
 ‥‥‥人間、人を疑う時には自分の価値観の範囲の中で考えてしまうものだ。
 これまで、何人もの男を、時には同時に自分のものにして来た壱哉は、樋口が妙な男(或いは女)に引っ掛かっているのではないかと思ってしまった。
 一旦、そんな考えが浮かぶと、壱哉は居ても立ってもいられなくなっていた。
 書類の山とパソコンをそのままに、壱哉は立ち上がる。
「吉岡!ちょっとでかけてくる。後は頼むぞ!」
「は?!どちらまで‥‥‥」
 驚いた吉岡が聞き返した時には、既に壱哉の姿はそこにはなかった。


 高速を目一杯飛ばし、壱哉はあの町に駆け付けていた。
 樋口が浮気などする性格ではないとは思うが、それでもあのお人好しの事だ、相手がうまいことを言ってくれば、あっさり言いくるめられてしまうかも知れない。
 もし、そんな奴がいたら、自分の全ての力を使って報復してやる。
 樋口に手を出した事を必ず後悔させてやる。
 壱哉は、まだいると決まった訳でもない相手の男(女)に闘志を燃やしていた。
 樋口の家に辿り着くと、店は閉められていた。
「あやしい‥‥‥」
 樋口が、大事にしている店を閉めていると言うのは余程の事だ。
 その男(女)は、そこまで樋口を垂らし込んだと言うのだろうか。
 怒りを隠しもしない表情で、壱哉は一応、樋口の家の呼び鈴を鳴らす。
 ワゴンや乗用車はいつものように止まっていたが、相手の車で出掛けたかも知れないから安心は出来ない。
 数度、呼び鈴を鳴らして出て来なかったら、家捜しをしよう。
 壱哉はそう思っていたのだが。
「‥‥‥はーい‥‥‥どなた‥‥‥」
 酷く疲れたような樋口の声がして、壱哉は驚いた。
「え‥‥いちや‥‥‥?」
 外を確かめた樋口も驚いたらしく、慌ててドアが開かれる。
「なんで壱哉が、こんなとこにいるんだよ‥‥‥」
 言って、樋口は咳き込んだ。
 今起きて来たかのようなシャツ姿で、髪はぼさぼさの樋口は、とても調子が悪いようだった。
「‥‥‥風邪か?」
「うん‥‥‥」
 頷いた樋口は、怠そうに壱哉を導き入れた。
「風邪なら何をこんな所で遊んでる。おとなしく寝ていろ!」
 実に勝手な壱哉の言葉に、樋口は反論する元気もないようだった。
 誰か客が来たみたいだから出て行ったのに、などと言う呟きが聞こえたが、壱哉はすっぱりと無視する。
「妙な電話をかけてきたのは、風邪だったからか」
 ベッドに潜り込んだ樋口は、頷いた。
「‥‥せっかく、壱哉が来てくれても、これじゃどこにも行けないし。それに、壱哉に風邪うつしたら悪いから‥‥‥」
「安心しろ、馬鹿の風邪は馬鹿にしかうつらん」
「それって‥‥俺が馬鹿みたいに聞こえるんだけど」
「馬鹿以外の何物でもないだろう」
 病人に掛けるとは思えないきつい言葉に、樋口は熱が上がって来たような気がする。
「まったく、恋人が妙な電話を掛けてきたから、変な男にでも引っ掛かってるんじゃないかと慌ててきてみたら、風邪だと?仕事を放り出してまで飛んで来た俺をどうしてくれる」
「‥‥‥‥‥‥」
 それは、樋口が悪いのだろうか?
 確かに、嘘をついたのは悪かったと思うが、風邪だなどと知ったら、壱哉は看病に来るとか言いかねないと思ったし。
 いつも忙しい壱哉に、万が一にも風邪をうつしてはまずいと思ったからなのに。
 でも、壱哉がどことなく怒っているようなので、樋口は黙って布団を鼻の上まで引き上げる。
 壱哉がわざわざ休暇を取ってくれると言うのに、うっかりして風邪などひきこんでしまった自分が一番悪いのだから。
 黙り込んだ樋口に、壱哉は少しだけ心配そうな顔になる。
「大体お前は、また、無茶をしたんだろう?お前、普段丈夫だから調子に乗って無茶するんだ」
 無茶、ではないと樋口は思っているのだが。
「展示の仕事とか重なって、一週間近くあんまり寝てなくて。その後、雨に降られちゃって、ちょっと調子悪かったんだけど、仕事は済まさなきゃなんないから‥‥‥」
「それを無茶と言わないで何と言うんだ?」
「‥‥‥‥‥」
 でも、壱哉だって結構強行軍で働く事があるではないか。
 そう思ったのは、どうやら顔に出ていたらしい。
「俺は、移動の時に寝たりするし、休息だって取っている。お前の場合は、どうせ忙しさに紛れて大したものも食ってなかったろう」
 見ていたような事を言われ、樋口は黙り込むしかない。
 そう料理が得意ではない事もあって、樋口はあまりに忙しいと、一食当たりの食事がとても手抜きになってしまう事がある。
 丁度体調を崩した時は、毎食、キャベツとご飯だけで済ましていた気がする。
 今は少し前のような貧乏暮らしをしている訳ではないのだが、節約が身に付いてしまっている為に外食する気にもなれないのだ。
「で、医者には行ったのか?」
「うん‥‥早く治そうと思って。そしたら、肺炎起こしかけてるって言われちゃって‥‥‥」
 正直な樋口がうっかり口走った言葉に、壱哉の表情が険しくなる。
「で、でもだいぶ熱は下がったし。最初なんか、まともに起きていられなかったし‥‥‥」
 言い訳のつもりが、言わなくていい事まで口走ってしまう樋口である。
 体調を崩した辺りの樋口の生活が見えてしまって、壱哉は呆れた。
 丁度壱哉も忙しくて、先週は電話でしか喋れなかったのだが、壱哉が見ていないとこれである。
 肺炎まで起こしかけて、それでも仕事を何とかこなして、今度はたった一人で寝ていた樋口の事を考えると、理由の判らない怒りが込み上げて来る。
「‥‥‥まったく、お前と言う奴は。本当に、どうしようもない奴だな」
「ご‥‥ごめん‥‥‥」
 怒っているとしか思えない壱哉の表情に、樋口は思わず謝ってしまった。
「とにかく、何か食えるものでも持ってきてやる。だからおとなしく寝ていろよ」
「え‥‥まさか、壱哉がつくるのか?」
 壱哉の料理の腕を身をもって知る樋口は、思わず青ざめてしまう。
「‥‥‥買ってくればいいんだろう。コンビニにでも行く」
 ちょっと傷付いた顔で、壱哉は立ち上がった。一応これでも、自分の料理が病人にとっては致命傷になりかねない事くらいの自覚はあるのだ。
「コンビニって‥‥壱哉、大丈夫か?」
 社長業と言う、一般生活とはちょっと違う世界で生活しているせいか、壱哉は時々、とんでもない常識知らずな事をしでかしてくれるのだ。
 日常生活を秘書に頼りきっている壱哉は、コンビニなど、今まで数える程しか入った事はないはずだ。
「お前、俺を馬鹿にしてるのか?コンビニで買い物くらい、俺だってできる!」
 憤然として、壱哉は部屋を出て行った。
 ―――――――――
 しかし案の定、壱哉はレトルト粥を買おうとして半分間違えてしまった。
 コンビニで店員に聞いても良く判らず、吉岡に電話までしたのに、である。
 おかげで樋口の前に出されたのは、カレーの乗った卵粥と言う、胃に優しいのかそうでないのか良く判らない代物だった。
 それでも、久しぶりの暖かい食事である。
 しかも、料理に関しては致命的に不器用な壱哉が作ってくれた(暖めて盛り付けただけではあるが)ものなのだ。
 樋口は、ありがたさに胸を熱くしながら粥を啜った。
 ベッドの傍らに座り、黙って樋口を見ている壱哉の存在が、照れくさくも嬉しい。
 風邪をひいた時、こんな風に誰かが傍にいてくれるのは、どれくらいぶりの事だろう。
 一人でいるのが心細いと思った事はなかったけれど、こんな時は、傍にいてくれる人の存在がとても安心する気がした。
 食事を終え、着替えてから薬を飲んだ樋口は、またベッドに潜り込んだ。
「‥‥今日は、ごめんな。お前、忙しいのに時間取らせちゃって。仕事、いっぱいたまってんだろ?‥‥‥俺なら、もう大丈夫だから」
「崇文‥‥‥」
 樋口は、自覚していないのだろうか。
 何でもないように笑って見せる表情が、壱哉には無理をしていると見て取れた。
 本当は寂しいのだと‥‥誰かに傍にいて欲しいのだと、嘘のつけない瞳が言っていた。
 でも、壱哉は仕事が忙しい事を良く知っているから、無意識にも、そんな気持ちを押さえ付けてしまっているのだろう。
「‥‥‥本当に、お前は馬鹿な奴だな」
「な、なんだよ‥‥‥」
 ため息と共に言われた言葉に、樋口は頬を膨らませた。
 いくら樋口でも、こうまで馬鹿呼ばわりされるのはちょっと傷付く。
 確かに頭の出来は壱哉には到底敵わないし、グループ企業のトップとしがない園芸家では天と地ほども住む世界が違うのは判っているけれど。
 でも、もう少し言い方と言うのがあるのではないだろうか。
 布団に隠れてぶつぶつと文句を言っているのが壱哉に丸聞こえである事にも気付いていない樋口を、壱哉は呆れて眺めた。
 樋口は、壱哉が何に呆れているのか全然気付いていない。
 いつも人の事を鈍いとか言ってくれるが、樋口だって立派に鈍い奴だと思う。
「馬鹿を馬鹿と言って何が悪い」
 こつん、と壱哉の拳が、樋口の額を小突いた。
「わざわざここまで来たんだ。明日までは、ここにいてやる」
「え‥‥でも‥‥‥」
 突然の壱哉の言葉に、樋口は戸惑ったように瞬きした。
「こんな状態の奴を放って戻っても、気が散って仕事にならん」
 言葉は手厳しいが、とても優しい壱哉の声に、樋口は慌てて寝返りを打って背を向ける。
 しかし、こちらから丸見えの耳は、真っ赤になっていた。
「‥‥‥ごめん。‥‥‥ありがと」
 くぐもった声に、壱哉は苦笑した。
「さっさと寝ろ。お前が寝るまで、ずっとここにいてやるから」
「‥‥‥うん」
「俺がわざわざ来てやったんだから、風邪なんか早く治せ。風邪が治ったら、三日は仕事なんかさせんからな。ずっと俺の相手をしろよ」
 病人に掛けるものとはとても思えない我儘な言葉に、樋口は小さく笑ったようだった。
「‥‥うん。わかった」
 笑い混じりの小さな声が返って来る。
 程なくして、規則正しい寝息が聞こえて来た。
 壱哉がついていて、余程、安心したのだろうか。
 立ち上がってそっと覗き込むと、まるで中学時代の頃のような無邪気な寝顔をしていた。
「‥‥‥まったく‥‥‥」
 無防備な寝顔に悪戯する気にもなれず、壱哉はため息をついた。
 今日はすっかり、樋口に振り回されてしまったと思う。
 しかし、それを嫌だと思っていない自分が少しこそばゆい。
「惚れた弱味、と言うやつなのかもな‥‥‥」
 自分がこんな気持ちを持つなんて、以前なら考えられなかった。
 改めて、樋口と巡り合えて、そしてこんな風に心が通じ合えて良かったと思う。
 もし、ほんの少しのすれ違いがあったら、こんな幸せな時間を手に入れる事は出来なかったに違いない。
 壱哉に、たくさんのものをくれて、たくさんの事を教えてくれた樋口。
 この幸運な出会いに、壱哉は改めて感謝していた。
「‥‥‥早く、元気になれよ?崇文‥‥‥」
 壱哉は、ややくせのある樋口の髪をそっと撫でた。


END

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‥‥‥なんで急にいちゃらぶになってしまったんだろう。最初は、風邪をひいた樋口が壱哉に心配させないように嘘をつくだけの話のはずだったのに。
座薬ネタはもう秘書でやってしまったし、「熱を出すには運動が一番♪」とよからぬ振る舞いに及ぶ壱哉様はあまりにもらしすぎるので、My妄想の中だけに取って置く事にしました(笑)。きっと樋口は風邪が治ってから、高級ホテルか温泉宿かなんかに拉致されて、壱哉様に濃〜く相手させられる羽目になるんだと思います(爆)。