St. Valentine's Day


 それは、二月の始めの休日、樋口が壱哉と街を歩いていた時の事だった。
 ブティックや店のショーウインドウに、真っ赤な色彩と「St. Valentine's Day」の文字が躍っている。
「そう言えば、二月はそんな季節だなぁ‥‥‥」
 ショーウインドウを眺めながら、樋口は何となくそんな事を呟いた。
「あぁ、バレンタインか。あれも、チョコレートがそんなに好きじゃない人間にとってはありがた迷惑な話だな」
 眉を寄せる壱哉の言葉は、学生時代困る程チョコをもらっていた人間の言葉だと思う。
「それって贅沢な言葉だぞ?もらえるだけで嬉しい事だってあるんだし」
「ほー‥‥今も、欲しいとか思ってるのか?」
 壱哉の目に剣呑な光が宿っているのに気付き、樋口は慌てた。
 我が儘で自分勝手な割に、壱哉はかなりやきもち妬きなのだ。
「いや、俺はそんな事ないって!今は壱哉がいるだけでじゅうぶんだよ!」
「どうだか。こないだだって、女の客に鼻の下を伸ばしていたろう」
「何の話だよっ!」
 樋口はむきになって言った。
 この思い込みの激しい恋人は、一度へそを曲げると鬼畜モードに突入してくれるから、油断できないのだ。
 今まで何度か、そのせいでとても恥ずかしい事をされてしまったりした樋口は、その事実を嫌と言う程思い知らされていた。
 結局、樋口はそれ以降の時間を壱哉の機嫌取りに費やす羽目になってしまった。
―――あんな事、言うんじゃなかった。
 何の気なしの呟きを、樋口が心の底から後悔したのは言うまでもない。
 今夜から予定が入っていると言う忙しい壱哉を送り出した樋口は、大きくため息をついてしまった。
 何だか今日は、ものすごく疲れてしまった気がする。
 もう一度、ため息をついた樋口は、店にある真っ赤な花をなんとなく眺めた。
 輝くような苞が、さっき見た店の華やかな装飾を思い出させる。
「‥‥‥バレンタイン、かぁ‥‥」
 樋口は、自分の財布の中身を確かめてから、駅前のデパートへと出掛けた。


 バレンタイン当日。
 この日は、結構花も売れる。
 高価なものではなくて、手軽に添える事の出来る小さな花が人気だった。
 おかげで樋口は、朝から忙しく働いていた。
 女性が男性にチョコレートをあげる日だから、当然、客は殆ど女学生やうら若い女性達だ。
 午後も大分過ぎ、ようやく客足が絶えると、樋口は思わずため息をついてしまった。
 客との会話は嫌いではないが、丸一日喋り通しと言うのは結構疲れる。
 それに、樋口にモーションをかけて来る女性がいたりするから困るのだ。
 今日もチョコを持って来た女性がいて、自分には好きな人がいるから、と必死に断ったのだ。
「まったく、壱哉にこんな事がバレたら大変だよなぁ‥‥」
「何が大変だって?」
 唐突に聞こえて来た声に、樋口は飛び上がってしまった。
 見れば、鍵を持っている者の特権で裏口から入って来た壱哉が、戸口の所で腕を組んでいる。
「いっ、壱哉?!な、ななんでここに?!」
 うろたえるあまりどもってしまった樋口に、壱哉は不機嫌この上ない表情を向けて来た。
「俺がここにいるとまずいのか」
 壱哉の口調は既に凍て付くようだった。
「い、いや、悪くはないけど、こんな週の中日に、忙しいお前がこんなとこ来てる暇ないと思ったから‥‥」
「ふん。お前の事だから、たまに見に来ないと妙な女に引っかかりかねないからな」
 あまりと言えばあまりの言葉に、樋口はむっとする。
「俺のこと、信用してないのか?」
「信用も何も、お前は隙だらけすぎる!お前はかわいいくせに無防備だから、妙な趣味の男に迫られたりしたらどうするつもりだ!」
 壱哉に他人の事を言う筋合いは全くないと思う。
「まさか、客からチョコレートなどはもらっていないだろうな?」
 壱哉の目線がちょっと‥‥いや、かなり怖い。
「もらってないよっ!俺には、好きな人がいる、ってちゃんと断ったから‥‥」
 つい、言わなくていい事まで口走ってしまう正直な樋口である。
「と言う事は、渡そうとして来た女はいたと言う事だな?!‥‥くそっ、この町の全てのチョコレートを買い占めておくんだった‥‥」
 とんでもない壱哉の呟きに、樋口は慌てた。
「そっ、そんな無茶な‥‥」
 壱哉の言う事は相変わらず無茶苦茶だ。
 困った事に、そこそこの財力と権力があるから、下手をすると本当にやりかねない。
 大体、そんな事をされたら‥‥‥。
「‥‥‥俺だって、買えなくなっちゃう‥‥‥」
 小さな呟きを聞きとがめ、壱哉が眉を寄せる。
「何か言ったか?」
 まともに見詰められ、樋口は耳まで真っ赤になった。
「ちょ、ちょっと待って‥‥‥」
 樋口は、店の表に『休憩中』の札を下げ、壱哉を家の方に引っ張って行く。
 あのまま、殆どがガラス張りの店で話すのは恥ずかしかった。
 樋口は、母屋の茶の間に壱哉を通すと、台所をごそごそし始める。
 やがて戻って来た樋口の手には、赤いラッピングの小さい箱があった。
 壱哉の前に正座すると、樋口は、俯いたまま箱を差し出した。
「‥‥‥これ。今日、渡せるなんて思ってなかったから‥‥‥」
 樋口の顔は伏せられて見えなかったが、うなじも耳も真っ赤だった。
「俺に‥‥か?」
 わざわざ今日ここに来たはずなのに、壱哉は戸惑ったような顔で箱を受け取る。
「うん。もう、想いはかなったけど、壱哉にあげたかったから」
 樋口は、ますます深く俯いてしまう。
「‥‥ありがとう、崇文。嬉しいよ」
 恥ずかしくて顔を上げられない樋口は、壱哉がどんな顔をしているのか見る事は出来なかったけれど。
 でも、壱哉の口調が、とても柔らかなものになっているのが判った。
「あんまり、チョコレートとか好きじゃないかも、とも思ったけど。もしかして、嫌いだったか?」
 その辺りの好みの事は、あまり話した事がなかったような気がするのだが。
 ようやく顔を上げた樋口は、嬉しそうな壱哉の笑顔にどきりとする。
「いや‥‥嫌いじゃない。それに、お前からもらえるなら、どんなものだって大好物だ」
 臆面もない言葉に、また樋口は赤くなった。
「そ、そう言えば‥‥壱哉、今日あたりこっちに来てて、大丈夫なのか?」
 話を逸らすような樋口の言葉に、壱哉は苦笑した。
「あぁ。暇はないんだが。‥‥‥これを渡そうと思ってな」
 と、壱哉がスーツのポケットから取り出したのは、小さくて平たい箱だった。
「え‥‥‥?」
「お前、こないだ、バレンタインのチョコレートがほしいような事を言っていたろう。だから、な‥‥」
 渡された小箱に、樋口は大きく目を見開いた。
 まさか、壱哉がバレンタインのチョコレートを贈ってくれるとは。
 嬉しさと意外さのあまり、樋口は頭が真っ白になってしまった。
「崇文?」
 固まってしまった樋口に、壱哉が不審げに声をかけた。
「あ‥‥ありがとう、壱哉‥‥」
 嬉しさのあまり、涙ぐんでしまいそうだった。
 壱哉が、樋口の何気ない呟きを聞いてこれを用意してくれたのかと思うと、もったいないくらい幸せな気がする。
「俺‥‥壱哉から、チョコもらえる時が来るなんて思わなかった‥‥。すごく、嬉しい」
 小さな箱に目を落とした樋口だが、嬉しさが少し落ち着いてみると、今度はとても高価そうなこのチョコレートが心配になって来る。
 上品な包み紙と言い、手触りの良い落ち着いた色のリボンと言い、普通の店では見た事もないような品物だった。
「あ、あの、壱哉。これ‥‥高いもの‥なんだろ?」
「うん?そうでもないぞ。確か、三万くらいだったと思うが」
「さ、さんまんえん‥‥‥」
 樋口の目が点になる。
 どうやら六個入りらしいトリュフチョコレートは、単純計算しても一個五千円だ。
―――このチョコ一個で、キャベツが定価でいくつ買えるんだろう‥‥‥?
 実につまらない事を考えてしまう、庶民な樋口である。
 しかし、こんなものを贈られては、自分が壱哉にあげた安物(樋口としては結構奮発した方なのだが)のチョコがとても情けなく思える。
 別に愛情が金額の多寡で決まる訳ではないのだが、それでも、何となく自分の方が愛情で負けているような気がしてしまう。
「どうした、崇文?」
 そんな内心になど全く気付いていない壱哉は、固まったかと思うと感動して、そうかと思えば深刻な顔で考え込んでしまった樋口に不思議そうに声を掛ける。
「壱哉‥‥‥」
 ある事を決意して、樋口は顔を上げた。
「な、なんだ?」
 真剣な顔でずい、と膝を進めて来た樋口に、壱哉は戸惑う。
「あ、おい!」
 樋口は、壱哉に渡したはずのチョコレートを取ると、包み紙を破き始める。
 自分もチョコレートを持って来たのが気に入らなかったのだろうか。
 しかし、もらえて嬉しい、と言っていたはずだが?
 困惑する壱哉の前で、樋口は妙に思い詰めたような顔でチョコレートの口を開ける。
 特にデコレーションなどは施されていない、シンプルで小さなチョコレートを、樋口は自分の口に放り込む。
「崇文‥‥?」
 戸惑ったままの壱哉の首に腕を回すようにして、樋口は唇を合わせて来た。
「!!!」
 甘い塊が口に転がり込んで来て、壱哉は目を見開いた。
 壱哉に口移しでチョコレートを食べさせて、樋口は唇を離した。
「‥‥‥お、俺、そんなに高いチョコなんてあげられないから。これで‥‥我慢してくれる‥‥?」
 消え入りそうな程小さな声で呟く樋口は、また、うなじまで真っ赤になっていた。もしかすると、全身真っ赤かも知れない。
「‥‥‥まったく、お前は‥‥‥」
 とても、とても甘いチョコを飲み下し、壱哉は苦笑した。
 顎に指を添えて上向かせると、恥ずかしさの為か、樋口の目尻には涙すら浮かんでいた。
 こんなに挑発的な事をされ、こんなに可愛い顔を見せられて、それでも今日はこのまま帰らなければならないのがとても恨めしい。
 大体、今でさえ吉岡に無理矢理調整させた時間をオーバーしているのだ。
「我慢どころじゃない。世界中で、一番美味くて高級なチョコレートだ」
 笑って、壱哉は樋口に軽く口付けた。
 壱哉の唇はチョコレートの味がして、樋口はこれ以上出来ないくらい赤くなる。
「今日は、もう行かなきゃならないんだ。‥‥すまないが」
「うん。今日、来てくれただけでも嬉しかった」
 はにかんだような顔で、樋口が頷く。
 そんな樋口に後ろ髪を引かれつつ、壱哉は封を開けられたチョコレートの箱を手に取った。
「お前に会えなくて口寂しい時は、このチョコレートを食べる事にするよ。お前のキスの味がするからな」
「そっ、う‥‥‥」
 また真っ赤になった樋口が口をぱくぱくさせるが、元はと言えば自分がした事だから何も言えない。
「こんなに可愛くて気の利く恋人がいる俺は、幸せ者だな」
 相変わらず臆面もない壱哉の言葉に、樋口は恥ずかしさのあまり居たたまれなくなってしまう。
 が、そこに無粋な電子音が邪魔に入った。壱哉の携帯電話だ。
「‥‥わかってると言うのに」
 着信の相手に目を走らせた壱哉は、顔をしかめた。
「それじゃ、崇文。今週は土曜には来られるはずだから」
 時間がないのは確かだから、壱哉はそう言って立ち上がる。
「うん。壱哉、無理はしないでくれよ。すごく忙しいのはわかってるから」
 樋口も、少しだけ名残惜しそうにしながら、車を止めた所まで壱哉を送る。
「あぁ、そうだ」
 BMWに乗り込み、壱哉は運転席から樋口を見上げた。
「あんなチョコレートをもらったからには、ホワイトデーにはすごいお返しをしなきゃならんな。‥‥たっぷり、可愛がってやるぞ」
「か、かわいがって、って‥‥‥」
 にやり、と笑った壱哉がちょっと怖い。
「お前のチョコにはかなわないが、俺もそこそこ奮発したつもりだからな。お前にも、たっぷりサービスしてもらうからな?」
「さ、サービス?!」
 目を見開く樋口に、壱哉は声を上げて笑った。
「サービスって、なに‥‥‥」
 樋口が、不穏な言葉を問い質そうとする前に、壱哉はBMWを発車させた。
 スムーズな加速と見事なドリフトとで、BMWはあっと言う間に見えなくなる。
「あ‥‥‥」
 思い切りはぐらかされてしまい、樋口は唖然としたままBMWの消えた方向を眺めているのだった。


 ちなみに。
 一粒五千円のトリュフチョコレートを、貧乏性の樋口が平然と食べられる訳はなく、結局壱哉が来るまで手付かずのままで放置して置かれる事となった。
 そして、『食べる思い切りがつかない』などと口走った樋口に、壱哉は嬉々として口移しで食べさせてやるのだった‥‥‥。


ホワイトデーに続く‥‥?

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妙に積極的な樋口(笑)。実はこの話は、もーちょっと過激なお遊びが入る予定だったのですが、既にバレンタインを遠く過ぎている事と、話の持って行き方に悩んだ為に、急遽バレンタインの話を先にくっつけました。なので、ホワイトデーに樋口は過激に食われます(笑)。
しかし、書き始めた時は、まさか樋口から口移しなんてやらかすとは思わなかったのですが。何だかんだ言って、樋口は壱哉が何すると一番喜ぶか、無意識に理解してますねー。